うつしよの波 ~波およぎ兼光異伝~

春疾風

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関ヶ原の章

第十一話 三成、立つ

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 慶長五年(一六〇〇年)四月二十日。宮中への参内のため上洛していた秀秋は、家康と面会する。
「おお、よく来てくれた」
 何時もの愛嬌のある顔で、家康が大仰に手を広げた。
 家康邸の一室。家康と秀秋の二人きりである。会談の場を設けて貰うよう、岡野江雪斎に仲介を依頼していたのである。
「家康殿も、御壮健で何よりです」
 秀秋が恭しく辞儀をする。家康はその様子をにまにまと見ていたが、不意に鋭利な目線で秀秋を射た。
「それで、『この時期』に儂の元へ来たからにはそれ相応の理由があろう」
 小賢しい嘘と虚飾は要らない。本音で挑まねば、この男に呑まれる。
「家康殿は、上杉討伐に臨まれるのですよね?」
 上杉が城の築城・浪人の雇入れなど軍備を整えているとの情報は既に三月、上洛した出羽の大名・最上義光より家康へもたらされていた。
 この最上義光の娘・駒姫も、秀次の側室として処刑されていた。一説には、未だ上洛したばかりで秀次に面会も叶わぬうちに連座したと言われている。また、駒姫の母である義光の正室は、娘の死から程なくして亡くなっている。
 以降、義光は完全なる「家康派」となった。その義光の情報である。上杉の軍備増強は事実であろう。
「秀秋殿は、反対ですかな?」
 家康の返答に、秀秋は察する。この男には、足りない物がある。
「いいえ。討伐せよ、と豊家・朝廷の号令があるのでしたら、私も兵を率いて上洛させて頂く所存です」
 家康の眉がぴくりと動く。当たった、と秀秋は思った。
「秀秋殿、先程より豊家、朝廷と申しておるが」
 秀秋が微かに首を傾げる。
「上杉に戦を仕掛けるのです。その様な大それた事、豊家と朝廷の認可無しにどうして行えましょう。それに」
 秀秋が目を細める。ここが正念場だ、押せ――。
「留守を狙う不届き者らを出さぬ為にも、豊家と朝廷の後ろ盾――即ち、家康殿の正統性は必要で御座いましょう」
 家康は泰然とした顔で座っている。しかし、その口が真一文字に結ばれている事を確認し、秀秋は笑みを浮かべた。
「ああ、まだ豊家と朝廷へ要請しておられなかったのですね。私の方で手を回して――」
「待て」
 家康が呻くように重い声を漏らす。
「何か問題でも? よもや家康殿は殿下の遺命に逆らい、私闘を起こそうと言うのですか?」
 秀秋が家康を睨むように凝視する。
「お主の利は何だ」
 余りにも家康にとってのみ利のある申し出に聞こえたか。家康がにじり寄るように間合いを詰める。
「私の望みは、ただ秀頼様を……豊家をお守りする事です。その為にお頼り出来るのは、家康殿を置いて他には御座いませぬ。其故に、私は家康殿にお力添えしたいと申し上げているのです」
 そう。私は、豊臣を守ると誓ったのだ。家康が動くとしても、あくまで豊家の為とさせなければならない。
 家康に、豊臣を滅ぼさせない為に。
「そうか……くれぐれも頼んだぞ」
 家康は不意に笑みを浮かべ、秀秋の肩に手を置いた。
「はい。承知仕りました」
 秀秋は深く頭を下げた。
 そう、秀秋であれば豊家と朝廷を動かす事が出来た。豊家は言わずもがなであるが、秀秋は幼少――秀吉の後継者であった時分より、聖護院道澄、近衛信尹と言う朝廷の主要人物に教育されていたのである。
 朝廷は、何よりも天下静謐を望んでいた。泰平であるからこそ、その権威を保つことが出来るのだ。其処に武家の頭領が誰であるか等、些末事であった。
 故に、天下を乱す者の討伐であれば朝廷はその後ろ盾となり得たのである。

 秀秋はこの後、一旦筑前に下向する。
 六月二日、家康は上杉家の討伐を諸将に命じる。
 六月八日、後陽成天皇が使者を遣わし、家康の出馬を労う。
 六月十五日、秀頼が軍資金を家康へと渡す。
 即ち、この日を以て会津征伐は豊家と朝廷の認を得たのである。
 かくして秀秋は家康に与する為、筑前を出発する。そう、秀秋は会津征伐が「豊家公認」となる事を待ち出陣したのだ。
 しかし、結果的にこの「待ち」が自身を追いつめる事になろうとは、まだ秀秋は知る由も無かった。

 七月二日。家康の会津征伐に与するため出陣していた吉継はこの日、三成の隠遁する佐和山城へと赴いていた。
 三成の嫡男・石田重家を会津征伐の軍勢に加えるよう、三成に打診するためであった。
 吉継としては、せめて息子は取り立てられるように、加えて三成を政権に復帰させ、家康の政権下でもその能力を発揮出来るようにと目論んでいたのである。だが。
「家康討伐の兵を挙げる。お前も同心してくれるか」
 佐和山城の一室に通された吉継を迎えたのは、三成のその言葉であった。
「お主は何を言っておるのだ」
 思わず、考えがそのまま口に出る。目前のこの男が何を言っているのか、訳が分からなかった。
「奉行衆・大老衆の合議こそが殿下の遺命。大老の一角である上杉を誅しようとする家康殿の行いはそれに反している。なればこそ、俺は兵を挙げ家康殿を糾弾する」
 先年、吉継は三成より似た内容の言を聞いていた。だが、あの頃の様に焦燥し激昂していた三成は最早居ない。三成は冷静に、淡々と、吉継を見据えていた。
「だが、家康殿の会津征伐は秀頼様より認められたもの。これを糾弾するは豊家への謀叛むほんではないか」
 豊家への謀叛。とうに自身が無くした筈の豊家への忠義を持ち出す己に、吉継は内心苦笑する。次代を支える筈の関白様を死に追いやり、残された当主は幼子。その様な家に未来はないと三成に語ったのは紛れもない己自身ではないか。
「幼き秀頼様が独断で御認めになられた筈が無い。何者か――いや、恐らくは家康殿が裏で手を引いたのだ。家康殿の出陣した今であれば、我らが決起し大坂城で秀頼様を『お守り』出来る。その上で我らが家康殿を下せば、我らの正当が証明される」
 吉継は思案する。三成の言は理想論に過ぎない。それに、かつて私はこの男に語ったではないか。
「それは殿下の本意ではない。お主も分かっておるだろう。殿下は、例え徳川の傘下に豊臣が入ろうとも秀頼様が安穏に暮らす事のみを望まれたのだ」
 三成が身を乗り出す。吉継にその光景は見えなかったが、三成が己に寄った事は確かに感じた。
「俺は腹を決めたのだ。例え負けて全てを失おうとも、腹を召そうとも、己を貫く。それが例え殿下の意に背く事になろうとも、俺は殿下の築き上げてきたものを――豊家の天下を護りたいのだ」
 目には見えぬが――いや、目に見えぬからこそ、吉継は肌で三成の熱気を感じた。
「若し、それでも我が家康殿に与すると言えば、お主はどうする」
 熱気が、殺気に変わる。
「この場でお前を討つ。お前の才智が家康側に在っては俺に勝ち目は無い。その前に討ち果たす」
 三成の手は懐の短刀へと掛けられていた。
 だが、その手が僅かに汗ばんでいる事を吉継は感じとっていた。
「ふっ……はっはっはっはっは!」
 不意に、吉継が大笑する。平生の吉継からは想像もできないその姿に三成の殺気は消え失せ、ただ唖然としていた。
「本当に阿呆だな、お主は! 今更この様な病者を殺してどうなると言うのだ!」
 笑いながら吉継が言い放つ。
「俺は本気で申しているのだ」
 三成が気を取り戻した様に叫ぶ。しかし殺気は無く、まるでからかわれ腹を立てているといった様子であった。
「ああ、それは認めてやろう」
 吉継は笑いを収めつつ、被った頭巾の上から口元を拭う。
 この男に我は殺せまい。いや、若し殺せたとて屹度きっとこの男は後悔と自責に駆られるだけなのだ。全く、大事を為そうと言うのに甘い男だ。
「先ずは、恵瓊殿を此処に呼び寄せよ」
 吉継が頭巾の下でにっと笑った。三成が驚いたように口を丸く空けている。
 いや、それ以上に我は嬉しかったのだ。この朽ちるのを待つばかりの我が身に、我が居れば勝てると、そこまでこの男が賭けていたことが。
「我がお主を勝たせてやる」

「よくぞ参られた、秀秋殿」
 七月十二日。船旅で大坂に到着した秀秋を出迎えたのは、宇喜多秀家であった。その様子に、秀秋は妙な胸騒ぎを覚える。
 尋常の様子では無い。
「これは……秀家殿。出迎え頂けるとは、御足労つかまつります」
 そう返しながら、秀秋は辺りに視線を走らせる。港の警護兵、そして秀家の供回りの数が妙に多い。
「ああ。かつて殿下の後継にと称された秀秋殿が我らに与して頂けるのだ。これ程心強い事は無い」
「なっ……」
 秀秋は言葉を失った。刹那の間に、秀家の言と辺りの状況から考察する。
 一つの解が見えた。即ち、秀家らは「謀叛」を起こしたのだ。
「私は会津征伐に加わるため、筑前を出立したのですよ」
「家康殿の会津征伐は不当。故に我らは大坂城の秀頼殿をお守りするため、決起したのだ。当然、秀秋殿も我らに与して頂けるのだろう」
 誰が与するものか、と思わず返答しそうになった秀秋の肩を、強引に稲葉正成が掴んだ。
「秀家殿の御歓待、真に僥倖ぎょうこうに存じます。しかしながら、秀秋様は長きの船旅でお疲れです。暫し屋敷にて静養させて頂きたく……」
 正成が仰々しく辞儀をする。
「分かった。落ち着き次第大坂城に出仕頂く様」
 秀家は笑みを浮かべながら返答した。不敵に笑むその口元が、秀秋の脳裏に焼き付いていた。
 背を向ける秀家を無言で見送った後、秀秋は一際大きな溜息を吐いた。
「済まなかった。正成、恩に着る」
「いえ、秀秋様の為です」
 正成が僅かに微笑む。
 とにかく、先ずは上方のこの状況を把握しなければ。
 秀秋の掌にはじとりと汗がにじんでいた。

 大坂・小早川屋敷。
 秀秋と正成は襖を閉め切った一室で畿内の地図を広げ、思案していた。現時点で調べうる限りの情報は集めただろう。
 状況は、最悪であった。
「……不味いな」
 秀秋が眉間に大きく皺を寄せる。
「石田三成殿と大谷吉継殿が同心し、ここ大坂で『謀叛』を起こした……」
 正成もまた、眉間に皺をよせ地図を見つめていた。
「まさか三成殿が蜂起するとは。この為の豊家の後ろ盾であったと言うのに」
 秀秋が大きく溜息を吐く。三成の豊家への忠義は認める所である。故に三成が邪魔立てをしない様、会津征伐に際して豊家から家康へ軍資金を準備させたのだ。
「大坂城の秀頼様を擁してしまった以上、勝てば如何様にも正当性を主張出来る、と言った所でしょうか。随分思い切りましたね」
「あの吉継殿がこの様な企てに噛んでいるとは……」
 先年、吉継と言葉を交わした記憶が蘇る。天下万民に代わり御礼申し上げる――そう申していた筈なのに。
 信じられなかった。その吉継殿がこの様な民をいたずらに脅かす企てに乗るなどと。
「そうである以上、受け入れるしか御座いません」
 正成の言葉に、秀秋はふと我に帰る。そうだ、ここで思考を止めてはならない。
「三成殿と吉継殿、それに秀家殿か。その他に同心している者は?」
「小西行長殿、そして長束正家殿、前田玄以殿、増田長盛殿ら奉行衆が中核となっている様です。ただ、奉行衆は誰がどれほど積極的に与しているか判断は付きかねます」
 家康殿、或いは家康殿に与する者に実権を握られると不味い者。大方予想通りの顔ぶれだと秀秋は思った。だが、どこか違和感を覚える。
「輝元殿はどうだ」
 毛利輝元。先年の三成襲撃の一件で家康に主導権を奪われた彼こそ、その筆頭であるはずであった。
「現時点で動きは無い様です」
「とはいえ、輝元殿に出られては『小早川』の私としては芳しくない事態となるな」
 小早川家は元々、毛利の家臣である。秀秋は確かに隆景を父と仰いでいた。だが、毛利の属下に与する気は無かった。しかし、輝元が出た以上「主家」の名を使い秀秋を取りこもうと試みる事は容易に想像がついた。
「そう言えば、吉川広家殿が明日にも大坂に到着するそうです」
「広家殿……そうだな、広家殿ならば間違っても三成殿に与しはしない筈だ」
 正成が頷く。
「早急に会合を手配いたします」
「頼む。それと、奴らの具体的な行動はどうだ」
 息の詰まる程重い空気に満ちた室内。正成はその室内にまた重い空気を吐き出した。
「会津征伐に参加した諸将の、大坂に残した妻子を人質に取ろうとしている様です」
「抜け目のない事だ」
 この現実的かつ容赦無く効果的な方策。確かに吉継殿は噛んでいるらしいな。
 正成が地図のある一点を指差す。琵琶湖から流れる川であった。
「そして、近江の愛知川に石田正澄殿が関所を置いた様です」
「諸将を足止めし、傘下に加えるつもりか」
 正成は重々しい声で続けた。
「既に長宗我部盛親殿、鍋島勝茂殿、脇坂安治殿、前田茂勝殿らが足止めされた様です」
「茂勝殿は玄以殿の御子息であったな。或いは、玄以殿は茂勝殿が足止めされた故奴らに与したのか……何れにせよ、これでは我らも行軍は出来ぬな」
 しかし、奴らが一枚板では無いという事実は光明であった。或いは、止むなく与した者と呼応すれば穴を空ける事も出来るやも知れない――秀秋はそう思い、顎に手を当て僅かに頷いた。
「伊勢周りの海路は如何でしょうか?」
 正成の指がつつ、と紀伊半島をなぞり浜松まで線を描いた。
「いや、誰が奴らに与するか分からぬ以上それは危うい。九鬼一族が与したとすれば、海戦で勝ち目は無いだろう」
 九鬼嘉隆。かつて木津川口の戦いで一度は毛利軍に敗北しながらも、鉄甲船を築き上げ、続く戦いでは毛利軍に大勝した男である。文禄の役でも水軍を率いて戦い、その後は息子・守隆に家督を譲り隠居していた。
 先年、秀秋は嘉隆と茶席を共にした事がある。その際も嬉しそうに昔を語っていた事を秀秋は覚えていた。
「しかし、このままでは三成殿の傘下に組み込まれます。輝元殿が御到着される前に、何か手を打たねばなりません」
「そうだな。家康殿に奴らと同心したと取られては不味い。この大事、家康殿も兵を上方に戻す筈だ。その前に奴らを牽制する行動……機内で籠城出来れば……」
 秀秋の言に、正成がはたと何かに気付く。
「姫路城では秀秋様の実兄・木下延俊殿が城代を務めておられましたね」
 秀秋の実父・木下家定には多数の男児が居た。延俊はその三男である。余談だが、秀秋はその五男であった。
「延俊兄上は家康殿贔屓だったな。この状況でも三成殿には与しない筈。ならば、共に姫路城へ籠るよう持ちかけてみるべきだな」
 正成が力強く頷いた。
「では其が赴きまする」
「頼んだぞ、正成。こちらでは広家殿と話を付けておく」
 障子越しの夕日が、部屋を赤々と染め上げていた。

「全く、余計な事をしてくれた物だな」
 翌七月十三日。秀秋は大坂に到着した広家の元へすぐさま向かい、会合を持っていた。
「私とて同じ思いです。広家殿は、やはり三成殿に与する気は無いのですね」
 吉川屋敷の一室。広家と秀秋は向かい合い座していた。陰鬱な空気が満ち満ちている。
「当たり前だ。毛利は……天下の戦に関わるべきではない。いや、本来はあまりまつりごとに関わるべきでは無かったんだ。何が元で潰されるか……」
 秀秋が俯きかけた広家の顔を覗き込む様に見つめる。
「それで、広家殿は如何なさるのです」
 広家の眉が痙攣するように吊り上がる。
「輝元様は『会津征伐』に向けた準備を為されている。だが、上方に兵を向かわせては奴らに取り込まれるのみ。故に使者を遣わし、まずはその出陣を取りやめさせる。輝元様は何時も準備に手間取る、恐らくまだ出陣していない筈だ」
 そこまで言うと広家は一息吐き、腕を組んだ。
「俺は万一に備えて家康殿への釈明を準備しておく。お前も何か考えておけよ」
 秀秋が首を僅かに傾げる。
「私の身を案じて頂いているのですか?」
 広家は大きく鼻を鳴らし、言った。
「違う。奴らから離反する者が多ければ、それだけ力を削がれる。なれば輝元様も世迷はしまい。それだけだ」
 広家らしい返答だ、と秀秋は思った。「毛利を守る」と言う一点に関して、この男は絶対にぶれないのだ。
 それだけに、とても信頼できる。
「無論、私も手を講じております」
 秀秋は不敵な笑みを浮かべていた。

「正成、其方の手配はどうであった……と聞くまでも無いな」
 夜。小早川屋敷に戻っていた秀秋と正成は、再度密談を交わしていた。
「面目次第も御座いませぬ……」
 正成は傍目にも分かる程気落ちしていた。
「……延俊殿曰く、この騒乱には恐らく輝元殿も関わっていると。その身内である秀秋様も信用できないと」
 思わず、秀秋は自嘲する様な笑みを浮かべる。
「身内か。実の血より養家の縁とは皮肉なものだな」
 否。己が隆景の息子でありたいと望んでいたが故かも知れないと秀秋は思い直した。ならばこの評価も詮無き事なのかも知れない。
「広家殿が上手く輝元殿を押し留めて下されば良いのですが」
「そうだな……輝元殿、いや、毛利家さえ与しなければ鎮圧は可能な筈……」
 しかし、と秀秋は思う。あの男が、吉継が手立てを打たないものであろうか、と。
 秀秋の心中には、ざわめく黒い波が畝っていた。
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