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彼女を本当に愛さなかったのだろうか
嫉妬がゆがませたもの
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「親愛なるノアへ
君の献身的な働きのおかげで王太子妃主宰の慈善行事を無事終えることができた。
王太子妃への君の貢献と献身に感謝する。
感謝をこめて
アーサー」
雲ひとつない晴天の空を、大きく翼を広げた鷹が気持ちよさそうに舞っている。天に近い場所を飛ぶことができる鳥の目は人間とは違うものが見えるのだろうか。
故グレイス殿下の秘書官をつとめたノア・スミスは、グレイス殿下の葬儀でみた鷹の姿を思い出す。あの日も雲ひとつない晴天だった。
ルイ王太子殿下の結婚式の日程発表をノアは王都から遠くはなれた実家の領地で聞いた。
ノアはグレイス殿下亡きあと実家へ戻った。四十代半ばで公職をさることをおしまれたが、殿下の死はノアの生きる気力をうばった。
グレイス殿下はノアにとって忠誠を捧げる主であり特別な存在だった。
グレイス殿下がアーサー陛下と結婚してからグレイス殿下付きの秘書官として仕えた。ノアより九歳年下のグレイス殿下は侯爵家の令嬢としてマナーはしっかりしていたが、ノアとうちとけるとさまざまな感情をみせるようになった。
「若くて物を知らないのだから黙って笑っていればよいとにこやかに人をこき下ろし、王国民のためになることを何もしようとしないタヌキばかりで嫌になるわ」
王太子妃であり未来の国母といえど、貴族達は若いだけでなく女性であることからグレイス殿下を見下すことは多かった。
それに対し殿下は初めの頃は感情的になることが多かったが、時がたつにつれタヌキ達をやわらかな笑顔でさばき、自分が望む方向へと話を進める技を身につけていった。
身分があっても人が自分のために動いてくれるわけではないと早い段階で悟ったグレイス妃は、ノアをふくめた側近の意見をよく聞き自分がとるべき行動をねった。
慣習が重んじられる環境に足を踏みいれるには、そこにどのようなルールがあるのか、そのルールがある意味や裏にある背景、利権といったものを知る必要があった。
グレイス殿下は若者らしいまっすぐな理想をもっていたが、理想と現実は違うことをしっかり理解していた。
グレイス殿下の最大の武器は忍耐強いことだった。そして何かしらの成果をえるには時間がかかることをよく知っていた。
「孤児院の衛生状態をよくするのに三年かかったの。驚いたわ。清潔にしましょうといえば一週間もあれば何とかなるものだと思っていたから」
グレイス殿下は結婚前におこなっていた慈善活動をとおし、何かを変えるには時間と労力、工夫や資金が必要なことと、自分がいかに子供で何もしらないかを痛感したとノアに楽しげに語った。
そしてグレイス殿下は亡くなるまで成果がみえなくても自分の信じる道をひたすら歩きつづけた。
「私が生きている間に結果はでないかもしれない」といえるのがグレイス殿下の強さだった。
そしてそのようなグレイス殿下の活動を支えたのがアーサー陛下だった。グレイス殿下の慈善事業に王太子として進めている事業の予算をけずり支援した。
王太子夫妻はノアからみて仲睦まじい夫婦だったが、グレイス殿下のアーサー陛下への態度には遠慮があるようにみえた。
ときどき切なげな視線をアーサー陛下にむけるグレイス殿下をみるたび、その視線にふくまれる悲しみが気になった。
その原因と思われるアーサー陛下の愛人問題をノアが知ることになったのは偶然だった。
王太子夫妻が出席していた行事で、アーサー陛下の秘書官が部下に「あの方とグレイス殿下が鉢合わせしないよう誘導しろ」と命じ、その部下がつれだした女性が現王妃のミア陛下だった。
ミア陛下がアーサー陛下と昔恋人だったという噂はあったが、ただの噂だと思っていた。
しかしグレイス殿下と鉢合わせしないようにとアーサー陛下の秘書官が苦心しているとなると話は違ってくる。
次代の希望とよばれる二人に王国民は高潔な印象をもっている。その印象をアーサー陛下が打ち壊すようなことをするとは。
意外だった。ノアは前国王陛下の秘書官補佐をしていたこともあり、アーサー陛下の人となりを知る機会がそれなりにあった。アーサー陛下は理性的で悪癖もなく王にふさわしい方だと思っていた。
結婚してからは二人に婚約時のような熱さは感じられなくなったが、それは夫婦という関係になったことと、お子様方がうまれ家族となったことで落ち着いたせいだろうと思っていた。
しかしアーサー陛下に愛人がいたのであれば、グレイス殿下の遠慮があるようにみえた態度も、アーサー陛下にむける切なげな視線の意味もそのせいだったのかと分かる。
アーサー陛下の心変わりは、グレイス殿下に悲痛な思いをもたらせたはずだ。しかしグレイス殿下はそのようなことをまったく感じさせなかった。
アーサー陛下とグレイス殿下の関係は、時間がたつにつれよいと思えない方向へ進んでいった。それはグレイス殿下が王太子妃として王国民から大きく支持されるようになったからだ。
グレイス殿下の人気の高さは、アーサー陛下だけでなく王族全体へ影響をおよぼした。
王族も派閥があり時勢に応じて協力したり反目したりしている。国王陛下と王妃陛下もかすませるグレイス殿下の存在をおもしろく思わない王族が、裏でグレイス殿下へのいやがらせに加わるようになった。
グレイス殿下を支えるアーサー陛下も結婚当初からグレイス殿下へのいやがらせや妨害に対処していたが、しだいにアーサー陛下の対処に疑問をもつようになった。
噂をけす命令をくだすタイミングがおそかったり、対処した方がよいと思うことを様子見したり、対処策を忘れられたりと、ささいだがそれまでにはなかった行動がみられるようになった。
そして決定的におかしいと思うことになったのが、グレイス殿下の近衛騎士だったオリバーの死を、隣国王太子の結婚披露宴直前というタイミングで伝えたことだった。
馬車に同乗していた侍女からそのことを聞きノアは愕然とした。
なぜそのようなタイミングでつたえたのかという疑問しかわかなかった。しかしそれまで感じていた違和感から考えると、アーサー陛下に何らかの意図があったのは明らかだった。
オリバーの死について王国出発前に報告があり、そのことを隣国から戻るまでグレイス殿下にはふせておくことを王太子夫妻付き側近全員で確認した。
アーサー陛下の秘書官に陛下と情報を共有していなかったのかとつめよったところ、秘書官はちゃんと確認したといい、その話し合いに同席していた秘書官補佐も確認したといった。
アーサー陛下がうっかりした性格であれば、そのような情報自体を隣国へ向かう前に伝えることはなかっただろう。
しかし陛下はごくたまにうっかりすることはあっても、大事な場面を台なしにするようなうっかりはしたことがない。
「なぜわざとグレイス殿下を動揺させた?」
ノアの問いに答えたのはアーサー現国王陛下の秘書官だった。
「アーサー殿下の嫉妬じゃないかなあ。オリバーに対してではなく、自分よりも人気の高いグレイス殿下が気にくわなかったんだろう。
他の王族もグレイス殿下を妬んで嫌がらせをしてるのは知ってるだろう?
一度王弟殿下が『なぜあの女ばかりがもてはやされる!』と自分への拍手が少なかった時に控え室でわめいてたのを聞いた。
アーサー殿下も自身の評価につながるグレイス殿下のことをいろいろ助けているが、自分以上の人気をえていることに思うところはあるだろう。
拍手の大きさだったり、集まってくる人の数だったり、グレイス殿下のついでのように声をかけられたりしたらプライドが傷つく。
もともとアーサー殿下は王太子としてこれまで誰よりも注目を集めてきた。
王太子妃としてグレイス殿下の人気の高さを喜ぶ気持ちはあっても、プライドを傷つけられそれをかくさなくてはならないとなると気持ちが歪んでしまうのも仕方ない」
ノアはその意見に納得がいった。
くすぶる嫉妬が理性を吹き飛ばした。グレイス殿下が動揺する姿をみたい。精彩をかいた姿がみたい。失態をみせろと思ってしまったのだろう。
グレイス殿下が失態をみせたなら自分がうまく処理すればよい。それによって自分の評価があがるといったところまで陛下は計算したかもしれない。
しかしアーサー陛下のひそかな願望はかなうことなくグレイス殿下は結婚披露宴をのりきった。
グレイス殿下に聞いたことはないが、殿下はアーサー陛下がオリバーの死をわざとあのタイミングで伝えたことに気付いていたように思う。
「人は優しい笑顔を向けながらひどいことができる生き物よね」
脈絡もなく突然そのようにグレイス殿下がいったことがある。その視線の先にはアーサー陛下がいた。
グレイス殿下がもし「もういやだ。逃げ出したい」といったなら、ノアは命をかけて逃げる手立てをつけるつもりだった。グレイス殿下を安全な場所へ、幸せをつかめる場所へ送りだしたかった。
たとえグレイス殿下を逃がすことで自分が死ぬことになろうと、親族を犠牲にし恨まれることになろうと、臣下として、そして一人の男として殿下に幸せになってもらいたかった。
グレイス殿下は自身の幸せについて考えたことがあるのだろうか? アーサー陛下と自身のお子様方、そして王国民のために尽くしつづけ、グレイスという一人の女性としての幸せを放棄した。
グレイス殿下がお子様方にむけていた美しいほほえみは、ノアの胸のなかで色褪せることなくありつづけている。
ふとグレイス殿下がオリバーに「承知しましたわ、父上」とおどけていう姿がうかんだ。
働きすぎるグレイス殿下にオリバーが「御身を大切にしてください」と休養をとることの大切さをとくと、殿下は口うるさい父親に小言をいわれたとばかりに、オリバーを「父上」とよんでからかった。
オリバーがそれに対し「まじめに聞いて下さい」ときびしい声色でいうのが二人のやりとりの定番となっていた。
二人のそのようなやりとりは王太子妃付きの者達にとってほほえましく、それがずっとつづいていくのだと思っていた。
「あなたと一緒に逝けず生き残り、いまこのようなことを考えている自分が嫌になりますよ」
本来であればノアはグレイス殿下と一緒の馬車に乗るはずだった。それが問題を処理するため現地に残りあとを追うことになった。
ノアの周囲の人達は土砂崩れに巻き込まれずよかったとノアの無事を喜んでくれたが、ノアはあの時グレイス殿下とはなれたことを悔やんだ。
ノアは空をみあげた。さきほど空を舞っていた鷹はすでにどこかへ行ってしまった。
「もうどこへも行く気がしない。どこにでも行ける翼をもっていたとしても。あなたとあの日一緒に逝きたかったですよ」
ノアは空をみあげたままつぶやいた。
君の献身的な働きのおかげで王太子妃主宰の慈善行事を無事終えることができた。
王太子妃への君の貢献と献身に感謝する。
感謝をこめて
アーサー」
雲ひとつない晴天の空を、大きく翼を広げた鷹が気持ちよさそうに舞っている。天に近い場所を飛ぶことができる鳥の目は人間とは違うものが見えるのだろうか。
故グレイス殿下の秘書官をつとめたノア・スミスは、グレイス殿下の葬儀でみた鷹の姿を思い出す。あの日も雲ひとつない晴天だった。
ルイ王太子殿下の結婚式の日程発表をノアは王都から遠くはなれた実家の領地で聞いた。
ノアはグレイス殿下亡きあと実家へ戻った。四十代半ばで公職をさることをおしまれたが、殿下の死はノアの生きる気力をうばった。
グレイス殿下はノアにとって忠誠を捧げる主であり特別な存在だった。
グレイス殿下がアーサー陛下と結婚してからグレイス殿下付きの秘書官として仕えた。ノアより九歳年下のグレイス殿下は侯爵家の令嬢としてマナーはしっかりしていたが、ノアとうちとけるとさまざまな感情をみせるようになった。
「若くて物を知らないのだから黙って笑っていればよいとにこやかに人をこき下ろし、王国民のためになることを何もしようとしないタヌキばかりで嫌になるわ」
王太子妃であり未来の国母といえど、貴族達は若いだけでなく女性であることからグレイス殿下を見下すことは多かった。
それに対し殿下は初めの頃は感情的になることが多かったが、時がたつにつれタヌキ達をやわらかな笑顔でさばき、自分が望む方向へと話を進める技を身につけていった。
身分があっても人が自分のために動いてくれるわけではないと早い段階で悟ったグレイス妃は、ノアをふくめた側近の意見をよく聞き自分がとるべき行動をねった。
慣習が重んじられる環境に足を踏みいれるには、そこにどのようなルールがあるのか、そのルールがある意味や裏にある背景、利権といったものを知る必要があった。
グレイス殿下は若者らしいまっすぐな理想をもっていたが、理想と現実は違うことをしっかり理解していた。
グレイス殿下の最大の武器は忍耐強いことだった。そして何かしらの成果をえるには時間がかかることをよく知っていた。
「孤児院の衛生状態をよくするのに三年かかったの。驚いたわ。清潔にしましょうといえば一週間もあれば何とかなるものだと思っていたから」
グレイス殿下は結婚前におこなっていた慈善活動をとおし、何かを変えるには時間と労力、工夫や資金が必要なことと、自分がいかに子供で何もしらないかを痛感したとノアに楽しげに語った。
そしてグレイス殿下は亡くなるまで成果がみえなくても自分の信じる道をひたすら歩きつづけた。
「私が生きている間に結果はでないかもしれない」といえるのがグレイス殿下の強さだった。
そしてそのようなグレイス殿下の活動を支えたのがアーサー陛下だった。グレイス殿下の慈善事業に王太子として進めている事業の予算をけずり支援した。
王太子夫妻はノアからみて仲睦まじい夫婦だったが、グレイス殿下のアーサー陛下への態度には遠慮があるようにみえた。
ときどき切なげな視線をアーサー陛下にむけるグレイス殿下をみるたび、その視線にふくまれる悲しみが気になった。
その原因と思われるアーサー陛下の愛人問題をノアが知ることになったのは偶然だった。
王太子夫妻が出席していた行事で、アーサー陛下の秘書官が部下に「あの方とグレイス殿下が鉢合わせしないよう誘導しろ」と命じ、その部下がつれだした女性が現王妃のミア陛下だった。
ミア陛下がアーサー陛下と昔恋人だったという噂はあったが、ただの噂だと思っていた。
しかしグレイス殿下と鉢合わせしないようにとアーサー陛下の秘書官が苦心しているとなると話は違ってくる。
次代の希望とよばれる二人に王国民は高潔な印象をもっている。その印象をアーサー陛下が打ち壊すようなことをするとは。
意外だった。ノアは前国王陛下の秘書官補佐をしていたこともあり、アーサー陛下の人となりを知る機会がそれなりにあった。アーサー陛下は理性的で悪癖もなく王にふさわしい方だと思っていた。
結婚してからは二人に婚約時のような熱さは感じられなくなったが、それは夫婦という関係になったことと、お子様方がうまれ家族となったことで落ち着いたせいだろうと思っていた。
しかしアーサー陛下に愛人がいたのであれば、グレイス殿下の遠慮があるようにみえた態度も、アーサー陛下にむける切なげな視線の意味もそのせいだったのかと分かる。
アーサー陛下の心変わりは、グレイス殿下に悲痛な思いをもたらせたはずだ。しかしグレイス殿下はそのようなことをまったく感じさせなかった。
アーサー陛下とグレイス殿下の関係は、時間がたつにつれよいと思えない方向へ進んでいった。それはグレイス殿下が王太子妃として王国民から大きく支持されるようになったからだ。
グレイス殿下の人気の高さは、アーサー陛下だけでなく王族全体へ影響をおよぼした。
王族も派閥があり時勢に応じて協力したり反目したりしている。国王陛下と王妃陛下もかすませるグレイス殿下の存在をおもしろく思わない王族が、裏でグレイス殿下へのいやがらせに加わるようになった。
グレイス殿下を支えるアーサー陛下も結婚当初からグレイス殿下へのいやがらせや妨害に対処していたが、しだいにアーサー陛下の対処に疑問をもつようになった。
噂をけす命令をくだすタイミングがおそかったり、対処した方がよいと思うことを様子見したり、対処策を忘れられたりと、ささいだがそれまでにはなかった行動がみられるようになった。
そして決定的におかしいと思うことになったのが、グレイス殿下の近衛騎士だったオリバーの死を、隣国王太子の結婚披露宴直前というタイミングで伝えたことだった。
馬車に同乗していた侍女からそのことを聞きノアは愕然とした。
なぜそのようなタイミングでつたえたのかという疑問しかわかなかった。しかしそれまで感じていた違和感から考えると、アーサー陛下に何らかの意図があったのは明らかだった。
オリバーの死について王国出発前に報告があり、そのことを隣国から戻るまでグレイス殿下にはふせておくことを王太子夫妻付き側近全員で確認した。
アーサー陛下の秘書官に陛下と情報を共有していなかったのかとつめよったところ、秘書官はちゃんと確認したといい、その話し合いに同席していた秘書官補佐も確認したといった。
アーサー陛下がうっかりした性格であれば、そのような情報自体を隣国へ向かう前に伝えることはなかっただろう。
しかし陛下はごくたまにうっかりすることはあっても、大事な場面を台なしにするようなうっかりはしたことがない。
「なぜわざとグレイス殿下を動揺させた?」
ノアの問いに答えたのはアーサー現国王陛下の秘書官だった。
「アーサー殿下の嫉妬じゃないかなあ。オリバーに対してではなく、自分よりも人気の高いグレイス殿下が気にくわなかったんだろう。
他の王族もグレイス殿下を妬んで嫌がらせをしてるのは知ってるだろう?
一度王弟殿下が『なぜあの女ばかりがもてはやされる!』と自分への拍手が少なかった時に控え室でわめいてたのを聞いた。
アーサー殿下も自身の評価につながるグレイス殿下のことをいろいろ助けているが、自分以上の人気をえていることに思うところはあるだろう。
拍手の大きさだったり、集まってくる人の数だったり、グレイス殿下のついでのように声をかけられたりしたらプライドが傷つく。
もともとアーサー殿下は王太子としてこれまで誰よりも注目を集めてきた。
王太子妃としてグレイス殿下の人気の高さを喜ぶ気持ちはあっても、プライドを傷つけられそれをかくさなくてはならないとなると気持ちが歪んでしまうのも仕方ない」
ノアはその意見に納得がいった。
くすぶる嫉妬が理性を吹き飛ばした。グレイス殿下が動揺する姿をみたい。精彩をかいた姿がみたい。失態をみせろと思ってしまったのだろう。
グレイス殿下が失態をみせたなら自分がうまく処理すればよい。それによって自分の評価があがるといったところまで陛下は計算したかもしれない。
しかしアーサー陛下のひそかな願望はかなうことなくグレイス殿下は結婚披露宴をのりきった。
グレイス殿下に聞いたことはないが、殿下はアーサー陛下がオリバーの死をわざとあのタイミングで伝えたことに気付いていたように思う。
「人は優しい笑顔を向けながらひどいことができる生き物よね」
脈絡もなく突然そのようにグレイス殿下がいったことがある。その視線の先にはアーサー陛下がいた。
グレイス殿下がもし「もういやだ。逃げ出したい」といったなら、ノアは命をかけて逃げる手立てをつけるつもりだった。グレイス殿下を安全な場所へ、幸せをつかめる場所へ送りだしたかった。
たとえグレイス殿下を逃がすことで自分が死ぬことになろうと、親族を犠牲にし恨まれることになろうと、臣下として、そして一人の男として殿下に幸せになってもらいたかった。
グレイス殿下は自身の幸せについて考えたことがあるのだろうか? アーサー陛下と自身のお子様方、そして王国民のために尽くしつづけ、グレイスという一人の女性としての幸せを放棄した。
グレイス殿下がお子様方にむけていた美しいほほえみは、ノアの胸のなかで色褪せることなくありつづけている。
ふとグレイス殿下がオリバーに「承知しましたわ、父上」とおどけていう姿がうかんだ。
働きすぎるグレイス殿下にオリバーが「御身を大切にしてください」と休養をとることの大切さをとくと、殿下は口うるさい父親に小言をいわれたとばかりに、オリバーを「父上」とよんでからかった。
オリバーがそれに対し「まじめに聞いて下さい」ときびしい声色でいうのが二人のやりとりの定番となっていた。
二人のそのようなやりとりは王太子妃付きの者達にとってほほえましく、それがずっとつづいていくのだと思っていた。
「あなたと一緒に逝けず生き残り、いまこのようなことを考えている自分が嫌になりますよ」
本来であればノアはグレイス殿下と一緒の馬車に乗るはずだった。それが問題を処理するため現地に残りあとを追うことになった。
ノアの周囲の人達は土砂崩れに巻き込まれずよかったとノアの無事を喜んでくれたが、ノアはあの時グレイス殿下とはなれたことを悔やんだ。
ノアは空をみあげた。さきほど空を舞っていた鷹はすでにどこかへ行ってしまった。
「もうどこへも行く気がしない。どこにでも行ける翼をもっていたとしても。あなたとあの日一緒に逝きたかったですよ」
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