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井戸の中にいたカエルは自分の小ささを知る
ひとりの寂しさを知る
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ディアス国で二番目に大きな町として知られるニウミールの冬は、ステラ・デュボワの故郷であるイリアトスよりおだやかで過ごしやすかった。
朝晩は冷えこむが、日中は冬用の厚いコートだと汗ばむほどの陽気になることが多かった。
十二月最終週は神に感謝の祈りを捧げる一週間の宗教行事のため休暇になる。
ステラは弁護士見習いとして働いているダシルバ法律事務所が休暇にはいったとたん風邪でねこんだが、久しぶりにのんびり過ごしたので新年初の出勤日に気力も体力も十分だった。
「おい、さっき頼んだやつ出来たか?」
「まだです、ダシルバ先生。さすがに五分で終えられません」
「はあ? 使えないなあ」
「申し訳ありません」
ダシルバ弁護士がステラの席からはなれると、隣にすわっている見習いのジョージ・ウルソンが「新年からダシルバ先生、絶好調だな」とつぶやいた。
ダシルバ先生は一日がかりでも終わらないような仕事を人に投げた十分後に「出来たか?」というような人で、機嫌が悪い日は出来ていないとこたえると叱責されるのもめずらしくない。
いやみの一言で終わるのはダシルバ先生の機嫌はそれなりによいといえる。
休暇明けであらかたの仕事は年末におえていることもあり、事務所はのんびりとした雰囲気がただよっている。
事務所は新年からダシルバ弁護士事務所からダシルバ法律事務所に名前をかえた。
「法律事務所って言葉のひびきは弁護士事務所とは格がちがうって感じがするだろう?」という理由からの改名だ。
ダシルバ法律事務所は大きな事務所で、専門が違う弁護士が寄り合い一つの法律事務所として仕事をしているめずらしい形だった。
弁護士事務所はステラがイリアトスで弁護士見習いをしていたヤング弁護士事務所のように、二人か三人の弁護士が商業契約をあつかう小さな事務所であることがほとんどだ。
しかしダシルバ法律事務所は四つの専門班があった。
土地不動産売買の契約を主とするダシルバ弁護士を中心としたダシルバ班。
商業契約を主とするテイラー弁護士を中心としたテイラー班。
他地区や他国との契約を主とするスミルノフ弁護士を中心としたスミルノフ班。
そして弁護士であり政治家でもあるモリソン弁護士を中心とした政治活動を中心とするモリソン班があった。
それぞれの班に複数人の弁護士と弁護士見習い、そして事務員がおり、四つの弁護士事務所を一つに集めた形だった。
ダシルバ弁護士は明言したことはないが、この弁護士事務所から法律事務所への改名は西地区の名門としてしられるサントス家の意向があるようだった。
西地区について一般的なことしか知らなかったステラは、ダシルバ先生が西地区の名門旧家としてしられるサントス家の分家のひとつ、ダシルバ家の嫡男であることをニウミールにきてから知った。
「見習いつぶし」の別名をもつダシルバ先生のもとに見習いが途切れないのは、ダシルバ法律事務所が力がある事務所というだけでなくサントス家とのつながりもあった。
「そうだ、ステラ。予想通りカルロは見習いをやめた」
ダシルバ先生がサントス家から押しつけられた見習いのカルロは、「すでに見習いがいるから」と断ったにもかかわらず、「どうせその見習いもすぐにやめるだろう」といわれ受け入れざるをえず、カルロは一ヶ月前から事務所で仕事をはじめた。
しかしカルロはダシルバ先生と相性があわず、その上ダシルバ先生の気まぐれな要求に消耗していったので長くつづかないだろうとステラも思っていた。
ある日突然見習いが姿をあらわさなくなるのはダシルバ法律事務所ではよくあることらしく、カルロが出勤しなくなっても誰もおどろいていない。
「カルロってこの事務所が見習いつぶしとして有名なの知らなかったような気がする」
ジョージのその意見にステラはうなずく。カルロの家は旧家ではないようだが良い家柄だときいている。深く考えず家同士のつながりだけで見習い先を決めたのだろう。
ダシルバ先生に見習いつぶしの別名があるのは、ダシルバ先生付きの見習いがやめるだけでなく、他の弁護士達についている見習いがやめることからきているという。
他の弁護士達も見習いに対し要求が高いことから、見習いが弁護士資格をえる前にやめてしまうことはめずらしくなかった。
そのためダシルバ先生ひとりが次々に見習いがやめる扱いをしているような印象を与え「見習いつぶし」といわれるようになったらしい。
ダシルバ班のワグナー弁護士についているジョージも、ワグナー先生から日々「まだ出来てないのか。のろまが」「調べが足りない。頭をつかえ」といった言葉を投げられている。
ジョージはステラと境遇が似ていた。庶民で篤志家に援助をうけ高等学校へ進学し弁護士になるため見習いとして働いていた。
見習い期間は二年から三年で、ジョージは二年目の見習いを終了した去年に推薦書がもらえなかったことからもう一年見習いとして働いている。
「年始めから数日はさすがにのんびりしてるけどすぐに忙しくなる。さっさとやるべき仕事終わらせて帰ろう」
ジョージはそのようにいうと目の前にある書類の頁をめくる。ステラもダシルバ先生から頼まれた仕事に集中した。
ステラは仕事をおえ下宿先へ帰りながら、明日の「願いがかなう日」をどうしようかと考えていた。
ノルン国の習慣で一月三日に家族や友人と甘いパンを切り分け食べる。
ニウミールにはノルン村がなかった。ノルン国からの移民が少ないためニウミールではノルン国の食べ物が手にはいらなかった。
甘いパンであれば何をつかっても問題はないが、長年ブリオッシュを使って祝ってきたので他のもので代用するしかないことに寂しさをかんじた。
十月にニウミールへ来てからというもの新しい仕事になれるだけでなく、新しい土地になれることも想像していたよりも大変だった。
イリアトスにはあるがニウミールにはないものがいろいろとあり、そのひとつがノルン村であり、ノルン国ゆかりのものだった。ノルン村で生まれ育っているステラにとって、自分の生活にノルンという文字がないのは初めてのことだった。
十二月最終週の一週間の休暇にはいったとたん風邪で寝こみ、下宿先の大家、ソフィアが寝こんでいるステラを気にかけてくれたとはいえ、実家にいた時のように看病してくれる人がいないという現実が身にしみた。
そして願いがかなう日を一緒に祝う人がいないことに、自分がこの地で一人なのだと思い知る。
「ひとりって寂しいなあ……」
ずっと家族と一緒に暮らしてきたステラは知り合いが誰もいない土地に住むのがはじめてだった。
ノルン国へいった時は雇い主のリリアナと寄宿舎生活で、リリアナや寄宿舎で仲良くなった人達など誰かがいっしょにいるのが普通だった。ディアス国にいる人達のことを考え寂しさはあったが、孤独だと思うことはなかった。
事務所で親しくなった同僚はいるが職場外で会うほど親しくはない。ニウミールにきてからは事務所と下宿を往復するだけの生活で、職場以外の人と話すといえば大家のソフィアと、買い物をする時ぐらいだった。
「会いたいなあ。みんなに会いたい」
ステラは寂しいと泣きわめきたくなる気持ちを無理矢理おしこめ、「明日の願いがかなう日のパンはどれにしようかなあ」わざと声にして気持ちを切りかえようとした。
しかしステラの心の中から寂しさはでていかない。
明日はパンの中にアーモンドを自分でうめこみ、そのうめこんだアーモンドを「見つけた!」といってよろこぼう。そしてアーモンドを見つけた人の願いがかなうことを信じよう。
何を願おうかと考え「イリアトスに帰りたい」という思いがうかび、あわててその気持ちを胸の奥底におしこめる。
ステラはノルン国にいた時に流行っていた歌を口ずさみ気をまぎらわせた。ニウミールにきてからノルン語を聞くことも話すこともなくなってしまい、ノルン語の響きが懐かしかった。
「ひとりで遠くにきちゃったなあ」
ノルン語で愚痴っている自分がおかしくなりステラは声をたてて笑った。
朝晩は冷えこむが、日中は冬用の厚いコートだと汗ばむほどの陽気になることが多かった。
十二月最終週は神に感謝の祈りを捧げる一週間の宗教行事のため休暇になる。
ステラは弁護士見習いとして働いているダシルバ法律事務所が休暇にはいったとたん風邪でねこんだが、久しぶりにのんびり過ごしたので新年初の出勤日に気力も体力も十分だった。
「おい、さっき頼んだやつ出来たか?」
「まだです、ダシルバ先生。さすがに五分で終えられません」
「はあ? 使えないなあ」
「申し訳ありません」
ダシルバ弁護士がステラの席からはなれると、隣にすわっている見習いのジョージ・ウルソンが「新年からダシルバ先生、絶好調だな」とつぶやいた。
ダシルバ先生は一日がかりでも終わらないような仕事を人に投げた十分後に「出来たか?」というような人で、機嫌が悪い日は出来ていないとこたえると叱責されるのもめずらしくない。
いやみの一言で終わるのはダシルバ先生の機嫌はそれなりによいといえる。
休暇明けであらかたの仕事は年末におえていることもあり、事務所はのんびりとした雰囲気がただよっている。
事務所は新年からダシルバ弁護士事務所からダシルバ法律事務所に名前をかえた。
「法律事務所って言葉のひびきは弁護士事務所とは格がちがうって感じがするだろう?」という理由からの改名だ。
ダシルバ法律事務所は大きな事務所で、専門が違う弁護士が寄り合い一つの法律事務所として仕事をしているめずらしい形だった。
弁護士事務所はステラがイリアトスで弁護士見習いをしていたヤング弁護士事務所のように、二人か三人の弁護士が商業契約をあつかう小さな事務所であることがほとんどだ。
しかしダシルバ法律事務所は四つの専門班があった。
土地不動産売買の契約を主とするダシルバ弁護士を中心としたダシルバ班。
商業契約を主とするテイラー弁護士を中心としたテイラー班。
他地区や他国との契約を主とするスミルノフ弁護士を中心としたスミルノフ班。
そして弁護士であり政治家でもあるモリソン弁護士を中心とした政治活動を中心とするモリソン班があった。
それぞれの班に複数人の弁護士と弁護士見習い、そして事務員がおり、四つの弁護士事務所を一つに集めた形だった。
ダシルバ弁護士は明言したことはないが、この弁護士事務所から法律事務所への改名は西地区の名門としてしられるサントス家の意向があるようだった。
西地区について一般的なことしか知らなかったステラは、ダシルバ先生が西地区の名門旧家としてしられるサントス家の分家のひとつ、ダシルバ家の嫡男であることをニウミールにきてから知った。
「見習いつぶし」の別名をもつダシルバ先生のもとに見習いが途切れないのは、ダシルバ法律事務所が力がある事務所というだけでなくサントス家とのつながりもあった。
「そうだ、ステラ。予想通りカルロは見習いをやめた」
ダシルバ先生がサントス家から押しつけられた見習いのカルロは、「すでに見習いがいるから」と断ったにもかかわらず、「どうせその見習いもすぐにやめるだろう」といわれ受け入れざるをえず、カルロは一ヶ月前から事務所で仕事をはじめた。
しかしカルロはダシルバ先生と相性があわず、その上ダシルバ先生の気まぐれな要求に消耗していったので長くつづかないだろうとステラも思っていた。
ある日突然見習いが姿をあらわさなくなるのはダシルバ法律事務所ではよくあることらしく、カルロが出勤しなくなっても誰もおどろいていない。
「カルロってこの事務所が見習いつぶしとして有名なの知らなかったような気がする」
ジョージのその意見にステラはうなずく。カルロの家は旧家ではないようだが良い家柄だときいている。深く考えず家同士のつながりだけで見習い先を決めたのだろう。
ダシルバ先生に見習いつぶしの別名があるのは、ダシルバ先生付きの見習いがやめるだけでなく、他の弁護士達についている見習いがやめることからきているという。
他の弁護士達も見習いに対し要求が高いことから、見習いが弁護士資格をえる前にやめてしまうことはめずらしくなかった。
そのためダシルバ先生ひとりが次々に見習いがやめる扱いをしているような印象を与え「見習いつぶし」といわれるようになったらしい。
ダシルバ班のワグナー弁護士についているジョージも、ワグナー先生から日々「まだ出来てないのか。のろまが」「調べが足りない。頭をつかえ」といった言葉を投げられている。
ジョージはステラと境遇が似ていた。庶民で篤志家に援助をうけ高等学校へ進学し弁護士になるため見習いとして働いていた。
見習い期間は二年から三年で、ジョージは二年目の見習いを終了した去年に推薦書がもらえなかったことからもう一年見習いとして働いている。
「年始めから数日はさすがにのんびりしてるけどすぐに忙しくなる。さっさとやるべき仕事終わらせて帰ろう」
ジョージはそのようにいうと目の前にある書類の頁をめくる。ステラもダシルバ先生から頼まれた仕事に集中した。
ステラは仕事をおえ下宿先へ帰りながら、明日の「願いがかなう日」をどうしようかと考えていた。
ノルン国の習慣で一月三日に家族や友人と甘いパンを切り分け食べる。
ニウミールにはノルン村がなかった。ノルン国からの移民が少ないためニウミールではノルン国の食べ物が手にはいらなかった。
甘いパンであれば何をつかっても問題はないが、長年ブリオッシュを使って祝ってきたので他のもので代用するしかないことに寂しさをかんじた。
十月にニウミールへ来てからというもの新しい仕事になれるだけでなく、新しい土地になれることも想像していたよりも大変だった。
イリアトスにはあるがニウミールにはないものがいろいろとあり、そのひとつがノルン村であり、ノルン国ゆかりのものだった。ノルン村で生まれ育っているステラにとって、自分の生活にノルンという文字がないのは初めてのことだった。
十二月最終週の一週間の休暇にはいったとたん風邪で寝こみ、下宿先の大家、ソフィアが寝こんでいるステラを気にかけてくれたとはいえ、実家にいた時のように看病してくれる人がいないという現実が身にしみた。
そして願いがかなう日を一緒に祝う人がいないことに、自分がこの地で一人なのだと思い知る。
「ひとりって寂しいなあ……」
ずっと家族と一緒に暮らしてきたステラは知り合いが誰もいない土地に住むのがはじめてだった。
ノルン国へいった時は雇い主のリリアナと寄宿舎生活で、リリアナや寄宿舎で仲良くなった人達など誰かがいっしょにいるのが普通だった。ディアス国にいる人達のことを考え寂しさはあったが、孤独だと思うことはなかった。
事務所で親しくなった同僚はいるが職場外で会うほど親しくはない。ニウミールにきてからは事務所と下宿を往復するだけの生活で、職場以外の人と話すといえば大家のソフィアと、買い物をする時ぐらいだった。
「会いたいなあ。みんなに会いたい」
ステラは寂しいと泣きわめきたくなる気持ちを無理矢理おしこめ、「明日の願いがかなう日のパンはどれにしようかなあ」わざと声にして気持ちを切りかえようとした。
しかしステラの心の中から寂しさはでていかない。
明日はパンの中にアーモンドを自分でうめこみ、そのうめこんだアーモンドを「見つけた!」といってよろこぼう。そしてアーモンドを見つけた人の願いがかなうことを信じよう。
何を願おうかと考え「イリアトスに帰りたい」という思いがうかび、あわててその気持ちを胸の奥底におしこめる。
ステラはノルン国にいた時に流行っていた歌を口ずさみ気をまぎらわせた。ニウミールにきてからノルン語を聞くことも話すこともなくなってしまい、ノルン語の響きが懐かしかった。
「ひとりで遠くにきちゃったなあ」
ノルン語で愚痴っている自分がおかしくなりステラは声をたてて笑った。
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