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井戸の中にいたカエルは自分の小ささを知る
自分が馬鹿だと知る
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ステラは生まれてはじめてずる休みをした。
ステラは寝台に寝転がり天井をみつめた。
これまでさんざん言われてきたいやみで、なぜ指ひとつ動かすのも億劫なほど気持ちが折れてしまったのかとあきれるが、気力がまったくわかず体が動かない。
新しくはいったスミルノフ班の事務員に、ミオンジュ語で「おとこ女がうざい」とすれ違いざまにいわれた。
いつもなら何をいわれても聞き流すが、仕事が進まずいらついていたこともあり、「わざわざミオンジュ語で悪口いわずディアス語でいったら?」とノルン語で反応してしまった。
ステラがノルン語で反応したとたんその事務員が顔色を悪くした。
「ミオンジュ語を話せるのか?」
「ミオンジュ語じゃなくてノルン語を話せるの。ミオンジュとノルンって昔ひとつの国だったから、言葉が意思疎通に困らないほど似てること知らなかったようだね」
ステラの指摘に事務員が逆上した。
「何をえらそうにいってんだよ。体つかって見習いになったような女なくせに。さすがに資格試験じゃ体つかえないから試験にとおらないだろう。さっさとやめろよ」
怒鳴るようにいったせいで周囲から注目をあび、それに気付いた事務員がさっとステラの側からはなれた。
周りから何があったのかと聞かれたが、ちょっとした誤解があっただけとステラはこたえた。
これまでも体を使ったといわれることはあったし、言葉にしなくてもステラが事務員ではなく弁護士見習いだと知ると、訳知り顔やいやらしげな視線をむけられ何を考えているのかが透けて見えることは何度となくあった。
いやなことを言われたあとはすぐに気持ちを切りかえ、言われたことを気にしないようにしていた。
しかし朝起きてすぐに「体をつかって見習いになった」といわれたことが頭にうかび、体が沈んでいくような感覚におそわれた。
起きなくてはと思うものの体がまったく動かず、仕事にいかなければとあせればあせるほど胸がしめつけられ涙がこぼれた。
やらなければならないことで頭の中がいっぱいになり、少し気持ちが落ち着けば体が動くはずだと思うが、寝台のへりに座った状態にまで体は動かせたが、それ以上は足がぬいつけられたように動かなかった。
いつもの時間になっても朝食を食べにあらわれないステラを心配したソフィアが様子をみにきてくれ、ソフィアが事務所に休む連絡をいれる手配をするから休むようにと無理矢理寝台におしこんだ。
ステラは三日前の大したことのない言葉に打ちのめされている自分の弱さが情けなかった。
しかし頭の中から押しやろうとしてもあの時のやりとりがよみがえり、これまで女だからと見下され、嘲笑われ、ないがしろにされたことが次々にうかんでくる。
そしてカミラに大嫌いだといわれた時のことも思い出し苦しかった。
スミルノフ班の事務員がステラが特別傷つくようなことをいったわけではない。もっとひどいことを言った人はいる。
それにもかかわらずまるでこれまでの中で一番ひどいことを言われたかのように痛みを感じ、まったく気力がわかなくなっている。
「何をやってるんだろう、私」
ステラは急に、いきおいでニウミールにきたことや、弁護士になろうとした自分が滑稽におもえた。
大した能力があるわけでもないのに何かができるような錯覚におちいっていた。
女性であっても医師や弁護士になった人がいる。自分もなれるかもしれないと思ってしまった。
ヤング・ジュニアに自分の能力を過大評価しすぎだといわれて当然だった。夢見る子供で自分のことも世間のことも何一つ分かっていなかった。
母のいうとおりだった。女として普通の人生を歩むべきだった。高等学校を卒業してクロードと結婚し子供を産み育てる。教師として働いていけばよかったのだ。
――疲れた。
これまでやってきたことすべてが無駄なことだった。
ステラが弁護士になっても誰もよろこばない。それどころか迷惑に思われるだけだ。
仕事がないかもしれない。誰も自分のことを必要としてくれないかもしれない。それにもかかわらず弁護士になろうとしているのは、意地になっているだけかもしれない。
ステラは誰もステラが弁護士になることを望んでいないのに、弁護士になろうとしていることに空しさをかんじた。
――道を間違ってしまった。
自分の能力を過大評価していることに気付かないほど馬鹿だったのだ。
ステラは目を閉じた。
これ以上何も考えたくなかった。
眠ろう。何も考えなくてよいよう眠ろう。ステラはさまざまな感情でざわめく心をみないように目をつぶりつづけた。
「ステラ、この案件の契約書の下書きを用意しろ」
ステラはずる休みをした次の日から再びこれまで同様に働いていた。
やるべきことをやる。自分ができることをやるのだと自分に言い聞かせながら働いていた。
そうしなければ体が止まってしまいそうだった。
「道を間違ってしまったかもしれない」と考えてから、その気持ちがじわじわステラの心をむしばんでいた。
いまこうして弁護士見習いとして働いているのは、弁護士になりたいという気持ちではなく、ここまできてしまいもう後戻りができないという意地でしかないような気がする。
弁護士になると大きな口をたたいて、女性が弁護士になることができないイリアトスで弁護士見習いになった。そしてニウミールにまできてしまったのだ。
ステラの挑戦を応援してくれ支えてくれた人達がいる。その人達を失望させたくない。そのような理由だけで踏ん張っているような気がする。
「ステラ、手がとまってる」
カミラのかわりにきた事務員のシャーロットに小声でいわれ、はっとした。仕事中に余計なことを考えすぎている。
シャーロットに礼をのべ仕事に集中する。せめて与えられた仕事をしっかりとやり遂げる。いまのステラにできることはそれだけだ。
仕事に私情は必要ない。ステラは大きく深呼吸をし目の前にある仕事に意識をもどした。
ステラは夕食を買いに事務所の外へでるとニウミール・タワーの星をみた。
ステラは毎日、ニウミール・タワーの星を見ながら通勤し、がんばろうと自分を奮い立たせてきた。
「昼間にしかみえない星。ちがった。昼間でもみえる星だよね」
日が落ち薄暗くなってきたこともあり、ニウミール・タワーの星が見えなくなっていく。
早くしないと店がしまってしまうと急ぎ足で店にむかっていたが、暗闇にとけこむように見えなくなっていくニウミール・タワーの星をみながら、まるで自分のようだと思い足がとまった。
光をうしなった星は人の希望になどなれない。暗闇にまぎれこんだ光を発しない星は暗闇の一部でしかない。
もともと自分は希望の星などではなかった。そうであったらと思いたかっただけだ。
「ステラ? なにこんなところでぼーっと突っ立ってるんだよ」
反対方向からきたジョージに声をかけられた。
「食べる物を買おうと思ったんだけど、閉店時間に間に合わないからどうしようかと思って」
とっさに嘘をつくとジョージが自分の分をわけてやるから心配するなといった。
役所にいったあと顧客先によって戻ってきたジョージも残業するようだ。
事務所へと歩いていると、ジョージが「最近、元気ないけど大丈夫か?」ときいた。
自分ではこれまで通りにしているつもりだが、どうやら人に心配されるほど様子がおかしかったようだ。
弁護士として感情を制御しなくてはならないが、まったく修行が足りていない。
「ちょっと疲れてるだけ。ずっと気を張って仕事してたから一気に疲れがでたみたい」
ステラはできるだけ明るくいったのでジョージがこれ以上詮索しないよう祈る。
「同僚としていつでも仕事の愚痴きくぞ。ステラが男なら酒場にいって飲みながらといいたいところだが、女の子だしメシでも食いにいって飲もう。
同い年だけど弁護士見習いとしては俺はステラの先輩だしおごってやる」
ジョージのやさしさが心にしみる。しかし勘違いしてはいけない。甘えてはいけない。ジョージには婚約者がいる。
「じゃあ遠慮なくディアスエール十杯ぐらい飲んじゃおうかなあ」
ステラはジョージと二人で食べに行く気はない。しかしこの場の雰囲気を軽くするためあえて大げさにジョージの話にのっているふりをする。
「うわ、お互い安月給なの忘れてないか?」
ジョージが笑う。
ステラは闇にまぎれたニウミール・タワーの星が見えないかと目をこらした。
ステラは寝台に寝転がり天井をみつめた。
これまでさんざん言われてきたいやみで、なぜ指ひとつ動かすのも億劫なほど気持ちが折れてしまったのかとあきれるが、気力がまったくわかず体が動かない。
新しくはいったスミルノフ班の事務員に、ミオンジュ語で「おとこ女がうざい」とすれ違いざまにいわれた。
いつもなら何をいわれても聞き流すが、仕事が進まずいらついていたこともあり、「わざわざミオンジュ語で悪口いわずディアス語でいったら?」とノルン語で反応してしまった。
ステラがノルン語で反応したとたんその事務員が顔色を悪くした。
「ミオンジュ語を話せるのか?」
「ミオンジュ語じゃなくてノルン語を話せるの。ミオンジュとノルンって昔ひとつの国だったから、言葉が意思疎通に困らないほど似てること知らなかったようだね」
ステラの指摘に事務員が逆上した。
「何をえらそうにいってんだよ。体つかって見習いになったような女なくせに。さすがに資格試験じゃ体つかえないから試験にとおらないだろう。さっさとやめろよ」
怒鳴るようにいったせいで周囲から注目をあび、それに気付いた事務員がさっとステラの側からはなれた。
周りから何があったのかと聞かれたが、ちょっとした誤解があっただけとステラはこたえた。
これまでも体を使ったといわれることはあったし、言葉にしなくてもステラが事務員ではなく弁護士見習いだと知ると、訳知り顔やいやらしげな視線をむけられ何を考えているのかが透けて見えることは何度となくあった。
いやなことを言われたあとはすぐに気持ちを切りかえ、言われたことを気にしないようにしていた。
しかし朝起きてすぐに「体をつかって見習いになった」といわれたことが頭にうかび、体が沈んでいくような感覚におそわれた。
起きなくてはと思うものの体がまったく動かず、仕事にいかなければとあせればあせるほど胸がしめつけられ涙がこぼれた。
やらなければならないことで頭の中がいっぱいになり、少し気持ちが落ち着けば体が動くはずだと思うが、寝台のへりに座った状態にまで体は動かせたが、それ以上は足がぬいつけられたように動かなかった。
いつもの時間になっても朝食を食べにあらわれないステラを心配したソフィアが様子をみにきてくれ、ソフィアが事務所に休む連絡をいれる手配をするから休むようにと無理矢理寝台におしこんだ。
ステラは三日前の大したことのない言葉に打ちのめされている自分の弱さが情けなかった。
しかし頭の中から押しやろうとしてもあの時のやりとりがよみがえり、これまで女だからと見下され、嘲笑われ、ないがしろにされたことが次々にうかんでくる。
そしてカミラに大嫌いだといわれた時のことも思い出し苦しかった。
スミルノフ班の事務員がステラが特別傷つくようなことをいったわけではない。もっとひどいことを言った人はいる。
それにもかかわらずまるでこれまでの中で一番ひどいことを言われたかのように痛みを感じ、まったく気力がわかなくなっている。
「何をやってるんだろう、私」
ステラは急に、いきおいでニウミールにきたことや、弁護士になろうとした自分が滑稽におもえた。
大した能力があるわけでもないのに何かができるような錯覚におちいっていた。
女性であっても医師や弁護士になった人がいる。自分もなれるかもしれないと思ってしまった。
ヤング・ジュニアに自分の能力を過大評価しすぎだといわれて当然だった。夢見る子供で自分のことも世間のことも何一つ分かっていなかった。
母のいうとおりだった。女として普通の人生を歩むべきだった。高等学校を卒業してクロードと結婚し子供を産み育てる。教師として働いていけばよかったのだ。
――疲れた。
これまでやってきたことすべてが無駄なことだった。
ステラが弁護士になっても誰もよろこばない。それどころか迷惑に思われるだけだ。
仕事がないかもしれない。誰も自分のことを必要としてくれないかもしれない。それにもかかわらず弁護士になろうとしているのは、意地になっているだけかもしれない。
ステラは誰もステラが弁護士になることを望んでいないのに、弁護士になろうとしていることに空しさをかんじた。
――道を間違ってしまった。
自分の能力を過大評価していることに気付かないほど馬鹿だったのだ。
ステラは目を閉じた。
これ以上何も考えたくなかった。
眠ろう。何も考えなくてよいよう眠ろう。ステラはさまざまな感情でざわめく心をみないように目をつぶりつづけた。
「ステラ、この案件の契約書の下書きを用意しろ」
ステラはずる休みをした次の日から再びこれまで同様に働いていた。
やるべきことをやる。自分ができることをやるのだと自分に言い聞かせながら働いていた。
そうしなければ体が止まってしまいそうだった。
「道を間違ってしまったかもしれない」と考えてから、その気持ちがじわじわステラの心をむしばんでいた。
いまこうして弁護士見習いとして働いているのは、弁護士になりたいという気持ちではなく、ここまできてしまいもう後戻りができないという意地でしかないような気がする。
弁護士になると大きな口をたたいて、女性が弁護士になることができないイリアトスで弁護士見習いになった。そしてニウミールにまできてしまったのだ。
ステラの挑戦を応援してくれ支えてくれた人達がいる。その人達を失望させたくない。そのような理由だけで踏ん張っているような気がする。
「ステラ、手がとまってる」
カミラのかわりにきた事務員のシャーロットに小声でいわれ、はっとした。仕事中に余計なことを考えすぎている。
シャーロットに礼をのべ仕事に集中する。せめて与えられた仕事をしっかりとやり遂げる。いまのステラにできることはそれだけだ。
仕事に私情は必要ない。ステラは大きく深呼吸をし目の前にある仕事に意識をもどした。
ステラは夕食を買いに事務所の外へでるとニウミール・タワーの星をみた。
ステラは毎日、ニウミール・タワーの星を見ながら通勤し、がんばろうと自分を奮い立たせてきた。
「昼間にしかみえない星。ちがった。昼間でもみえる星だよね」
日が落ち薄暗くなってきたこともあり、ニウミール・タワーの星が見えなくなっていく。
早くしないと店がしまってしまうと急ぎ足で店にむかっていたが、暗闇にとけこむように見えなくなっていくニウミール・タワーの星をみながら、まるで自分のようだと思い足がとまった。
光をうしなった星は人の希望になどなれない。暗闇にまぎれこんだ光を発しない星は暗闇の一部でしかない。
もともと自分は希望の星などではなかった。そうであったらと思いたかっただけだ。
「ステラ? なにこんなところでぼーっと突っ立ってるんだよ」
反対方向からきたジョージに声をかけられた。
「食べる物を買おうと思ったんだけど、閉店時間に間に合わないからどうしようかと思って」
とっさに嘘をつくとジョージが自分の分をわけてやるから心配するなといった。
役所にいったあと顧客先によって戻ってきたジョージも残業するようだ。
事務所へと歩いていると、ジョージが「最近、元気ないけど大丈夫か?」ときいた。
自分ではこれまで通りにしているつもりだが、どうやら人に心配されるほど様子がおかしかったようだ。
弁護士として感情を制御しなくてはならないが、まったく修行が足りていない。
「ちょっと疲れてるだけ。ずっと気を張って仕事してたから一気に疲れがでたみたい」
ステラはできるだけ明るくいったのでジョージがこれ以上詮索しないよう祈る。
「同僚としていつでも仕事の愚痴きくぞ。ステラが男なら酒場にいって飲みながらといいたいところだが、女の子だしメシでも食いにいって飲もう。
同い年だけど弁護士見習いとしては俺はステラの先輩だしおごってやる」
ジョージのやさしさが心にしみる。しかし勘違いしてはいけない。甘えてはいけない。ジョージには婚約者がいる。
「じゃあ遠慮なくディアスエール十杯ぐらい飲んじゃおうかなあ」
ステラはジョージと二人で食べに行く気はない。しかしこの場の雰囲気を軽くするためあえて大げさにジョージの話にのっているふりをする。
「うわ、お互い安月給なの忘れてないか?」
ジョージが笑う。
ステラは闇にまぎれたニウミール・タワーの星が見えないかと目をこらした。
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