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第六章 『そこに、救いなどなくて……』
② 『マリアの想い』
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「そうですか……」
朝一番に出かけていったセレクトの、普段と変わらぬ報告を耳にし、マリアは低い声で呟いて天を仰いだ。けれど、それだけでは気持ちを落ち着けることができずに、握った拳を縦にして机を叩く。彼女がこんなふうに怒りを顕にするのはめったにない事。それほどの怒りを彼女は溜め込んでいるのだと、セレクトは当然理解している。
「もう、この街でニヶ月以上足止めされています。やはり、強引にでも領地に戻るべきでしょうか?」
「マリア様……」
「……分かっています。分かってはいるのですが……」
セレクトが皆まで言わずとも、マリアはそれが愚策以外の何物ではないことを理解している。
今、無理をして領地に戻ろうとしたら、きっとあの愚かな義兄は、ありとあらゆる手を使って自分を亡き者にしようとするだろう。ただでさえ正体不明のオッドアイ集団に狙われているのに、これ以上リスクを背負うわけには行かない。
けれど、腹立たしくて仕方がないのだ。
自らが治めていた領地を、親愛していた民を、そして家族のように思っていた屋敷の使用人たちを、そして何よりも妹のようにまで思っていたあの娘を奪った者たちを今すぐにでも捕らえて裁きを与えたい。それなのに、その事実が、親元であるレーナス家にそれらのことが伝わっているのかさえ不明なのだから。
セレクトはマリアの気持ちを察し、彼女を不憫に思う。けれど、そのおかげでセレクトは冷静でいる事ができる。マリアと同じか、それ以上に怒りを内に秘めて置くことができるのだ。
「マリア様。気分転換をしましょう。そろそろ夕食時です。<パニヨン>に行きませんか?」
「……そうですね。本当にあの店のおかげで、なんとか情緒を保てていますね、私達」
「ええ。バルネアさんには本当に感謝してもしきれません」
あまりにも人目を集めるので、一時は主人を部屋に閉じ込めていたが、<パニヨン>で食事をするようになってからは、マリアのストレスもずいぶん緩和されている。
それはもちろん、国王陛下から『我が国の誉れである』とまで讃えられた料理人の料理が絶品であるのも一つだが、その店に集まるマリアと同年代の男女との交流が、彼女に心の安定を与えてくれているのだ。
特に、あの黒髪の若者――ジェノの存在が大きいとセレクトは思っている。
もっとも、彼は同じ店の仕事仲間であるメルエーナという少女と最近恋仲になってしまったらしいので、マリアとしては複雑な心境でもあるのだろうが……。
「それではパニヨンに向かいましょう、セレクト先生」
「はい。今晩は何を食べさせて貰えるのか、楽しみですね」
「ええ、本当に楽しみです」
マリアは笑う。無理に笑顔を作る。
それを見て、セレクトの心は痛む。
思えばずっと彼女には無理をさせすぎているのだ。まだ、先日十八歳になったばかりの少女が抱えるには、この数ヶ月の出来事はあまりにも辛い。
(駄目だな。こんな時こそ、年長者である私がどうにかしないといけないはずなのに……)
セレクトは慚愧に堪えない気持ちを心底に押し込み、敬愛する主人である少女と同じ様に笑みを浮かべるのだった。
◇
深く沈んだ心が、その美味を口にすることで払われる。
今晩の<パニヨン>のメニューは、『あんかけ焼きそば』という未知なる料理であった。
麺といえばパスタ類が主だったマリアだが、この「焼きそば」という料理はとても口にあった。もっとも、今までこの店で口にした料理は、どれも美味しくて口に合わない料理が出てきたことはないのだが。
「ふふふっ。熱々のトロみのあるこのソースがこの麺に絡んで……。具材も、白菜に大ぶりの海老の身と豚肉、キクラゲに鶉の卵と種類豊富。ああっ、幸せです」
この料理は、絶対に貴族の晩餐会では出てこないだろう。具材の色合いも考えられている料理ではあるが、平皿に焼いた麺を盛り付けて、そこに餡を絡めた具材を乗せただけの見た目では、華やかさに欠けるからだ。
だが、この美味しさを味わう事ができないというのは、人生を損してしまうと思う。
最低限の体裁こそ整えられていたが、貧乏男爵家の次女であったマリアは、見栄えよりも実を取る傾向が強いのだ。
「へぇ~。マリアみたいなお貴族様も、こういった飾らない料理を美味しいと思うのね」
同じテーブルで自分と同じ様に食事を楽しんでいる赤髪の女性――イルリアが驚いたように言う。
「何を言っているのよ、イルリア。貴族だって美味しいものは素直に美味しいと思うわよ」
心外だと言わんばかりに言いながらも、マリアの目は笑っていた。
「そう? それなら、私達みたいに箸を使って啜って食べたらどうかしら? その方が美味しいわよ」
「あら、それは良いことを聞いたわ。それじゃあ、さっそく……」
「マリア様!」
実は気になっていた方法を試そうとしたマリアだったが、流石に隣の席のセレクトから待ったがかかる。
「もう。セレクト先生ったら融通が利きませんね。『郷に入っては郷に従え』というではありませんか」
「いけません。そういったマナーの綻びは不意に出てしまうことがあります。ましてや、未婚のマリア様が万が一公共の場でそのような粗相をしてしまうことになっては、私は旦那様に合わせる顔がありません」
セレクトは、自分も啜らずにあんかけ焼きそばをフォークで適量を口に運んで楽しんでいる。
「はーい。私が悪かったですよぉ」
マリアは全く反省していない口調で言うと、味変のために、お酢を少し掛けてみる。すると濃厚だった味がさっぱりとし、するすると食べられるようになる。
「苦労があるのね、お貴族様も」
「ええ。社交界なんかでは息が詰まるわよ。美味しい食事も気楽に食べられないし」
マリアは同情してくれるイルリアに愚痴をこぼした。
そして、そんなときだった。来店を告げる鈴の音が店内に響き渡ったのは。
「こんばんは、バルネアさん。またお言葉に甘えて来てしまいました」
「ただいま戻りました」
店に入ってきたのは、金色の髪を肩の当たりで切りそろえた神官服の女性とジェノだった。
マリアはジェノと一緒の女神官――パメラを見てなんとも言えない気分になる。バルネアさんもそうだが、イルリアといい、メルエーナといい、どうしてこう、ジェノの周りには容姿端麗で魅力的な女性ばかりなのだろうかと。
「あらっ、パメラちゃんいらっしゃい。ジェノちゃんもおかえりなさい」
カウンターで、メルエーナと食事の話をしていたバルネアが満面の笑顔で二人を出迎える。そして、
「いらっしゃいませ、パメラさん。あっ、ジェノさん。上着を預かりますね」
メルエーナがカウンターを出て二人の前まで歩み出ると、パメラに丁寧な挨拶をし、それからジェノに向かって静かに手を差し出す。
「いや、調理をしていたのだろう? それくらい自分で……」
「ジェノ君。こんな献身的な彼女がやってくれると言っているのだから、ここはお任せするべきだと、お姉さんは思うなぁ~」
パメラがそう言うと、「パメラさんの言うとおりよ、この朴念仁」とイルリアが加勢する。
ジェノは観念をしたのか、小さく息を吐き、『すまんが、頼む』と言って外套をメルエーナに預けて、メルエーナは嬉しそうにそれを預かる。
二人の微笑ましいやり取りに、しかしマリアはやはり寂しさと言うか、物悲しさを覚えてしまう。
マリアにとって、ジェノは初恋の相手なのだ。もう二度と会えないと思っていた。それなのに、運命のいたずらで再会することになった相手。それは運命じみているようにさえ感じる。けれど、彼はもう彼女が、心を許した女性がいるのだ。
マリアは静かにジェノたちから視線をそらして、静かに食事を再開することにする。お酢といっしょに、あんかけ焼きそばの味変のためにつけた辛子がやけに目にしみた。
朝一番に出かけていったセレクトの、普段と変わらぬ報告を耳にし、マリアは低い声で呟いて天を仰いだ。けれど、それだけでは気持ちを落ち着けることができずに、握った拳を縦にして机を叩く。彼女がこんなふうに怒りを顕にするのはめったにない事。それほどの怒りを彼女は溜め込んでいるのだと、セレクトは当然理解している。
「もう、この街でニヶ月以上足止めされています。やはり、強引にでも領地に戻るべきでしょうか?」
「マリア様……」
「……分かっています。分かってはいるのですが……」
セレクトが皆まで言わずとも、マリアはそれが愚策以外の何物ではないことを理解している。
今、無理をして領地に戻ろうとしたら、きっとあの愚かな義兄は、ありとあらゆる手を使って自分を亡き者にしようとするだろう。ただでさえ正体不明のオッドアイ集団に狙われているのに、これ以上リスクを背負うわけには行かない。
けれど、腹立たしくて仕方がないのだ。
自らが治めていた領地を、親愛していた民を、そして家族のように思っていた屋敷の使用人たちを、そして何よりも妹のようにまで思っていたあの娘を奪った者たちを今すぐにでも捕らえて裁きを与えたい。それなのに、その事実が、親元であるレーナス家にそれらのことが伝わっているのかさえ不明なのだから。
セレクトはマリアの気持ちを察し、彼女を不憫に思う。けれど、そのおかげでセレクトは冷静でいる事ができる。マリアと同じか、それ以上に怒りを内に秘めて置くことができるのだ。
「マリア様。気分転換をしましょう。そろそろ夕食時です。<パニヨン>に行きませんか?」
「……そうですね。本当にあの店のおかげで、なんとか情緒を保てていますね、私達」
「ええ。バルネアさんには本当に感謝してもしきれません」
あまりにも人目を集めるので、一時は主人を部屋に閉じ込めていたが、<パニヨン>で食事をするようになってからは、マリアのストレスもずいぶん緩和されている。
それはもちろん、国王陛下から『我が国の誉れである』とまで讃えられた料理人の料理が絶品であるのも一つだが、その店に集まるマリアと同年代の男女との交流が、彼女に心の安定を与えてくれているのだ。
特に、あの黒髪の若者――ジェノの存在が大きいとセレクトは思っている。
もっとも、彼は同じ店の仕事仲間であるメルエーナという少女と最近恋仲になってしまったらしいので、マリアとしては複雑な心境でもあるのだろうが……。
「それではパニヨンに向かいましょう、セレクト先生」
「はい。今晩は何を食べさせて貰えるのか、楽しみですね」
「ええ、本当に楽しみです」
マリアは笑う。無理に笑顔を作る。
それを見て、セレクトの心は痛む。
思えばずっと彼女には無理をさせすぎているのだ。まだ、先日十八歳になったばかりの少女が抱えるには、この数ヶ月の出来事はあまりにも辛い。
(駄目だな。こんな時こそ、年長者である私がどうにかしないといけないはずなのに……)
セレクトは慚愧に堪えない気持ちを心底に押し込み、敬愛する主人である少女と同じ様に笑みを浮かべるのだった。
◇
深く沈んだ心が、その美味を口にすることで払われる。
今晩の<パニヨン>のメニューは、『あんかけ焼きそば』という未知なる料理であった。
麺といえばパスタ類が主だったマリアだが、この「焼きそば」という料理はとても口にあった。もっとも、今までこの店で口にした料理は、どれも美味しくて口に合わない料理が出てきたことはないのだが。
「ふふふっ。熱々のトロみのあるこのソースがこの麺に絡んで……。具材も、白菜に大ぶりの海老の身と豚肉、キクラゲに鶉の卵と種類豊富。ああっ、幸せです」
この料理は、絶対に貴族の晩餐会では出てこないだろう。具材の色合いも考えられている料理ではあるが、平皿に焼いた麺を盛り付けて、そこに餡を絡めた具材を乗せただけの見た目では、華やかさに欠けるからだ。
だが、この美味しさを味わう事ができないというのは、人生を損してしまうと思う。
最低限の体裁こそ整えられていたが、貧乏男爵家の次女であったマリアは、見栄えよりも実を取る傾向が強いのだ。
「へぇ~。マリアみたいなお貴族様も、こういった飾らない料理を美味しいと思うのね」
同じテーブルで自分と同じ様に食事を楽しんでいる赤髪の女性――イルリアが驚いたように言う。
「何を言っているのよ、イルリア。貴族だって美味しいものは素直に美味しいと思うわよ」
心外だと言わんばかりに言いながらも、マリアの目は笑っていた。
「そう? それなら、私達みたいに箸を使って啜って食べたらどうかしら? その方が美味しいわよ」
「あら、それは良いことを聞いたわ。それじゃあ、さっそく……」
「マリア様!」
実は気になっていた方法を試そうとしたマリアだったが、流石に隣の席のセレクトから待ったがかかる。
「もう。セレクト先生ったら融通が利きませんね。『郷に入っては郷に従え』というではありませんか」
「いけません。そういったマナーの綻びは不意に出てしまうことがあります。ましてや、未婚のマリア様が万が一公共の場でそのような粗相をしてしまうことになっては、私は旦那様に合わせる顔がありません」
セレクトは、自分も啜らずにあんかけ焼きそばをフォークで適量を口に運んで楽しんでいる。
「はーい。私が悪かったですよぉ」
マリアは全く反省していない口調で言うと、味変のために、お酢を少し掛けてみる。すると濃厚だった味がさっぱりとし、するすると食べられるようになる。
「苦労があるのね、お貴族様も」
「ええ。社交界なんかでは息が詰まるわよ。美味しい食事も気楽に食べられないし」
マリアは同情してくれるイルリアに愚痴をこぼした。
そして、そんなときだった。来店を告げる鈴の音が店内に響き渡ったのは。
「こんばんは、バルネアさん。またお言葉に甘えて来てしまいました」
「ただいま戻りました」
店に入ってきたのは、金色の髪を肩の当たりで切りそろえた神官服の女性とジェノだった。
マリアはジェノと一緒の女神官――パメラを見てなんとも言えない気分になる。バルネアさんもそうだが、イルリアといい、メルエーナといい、どうしてこう、ジェノの周りには容姿端麗で魅力的な女性ばかりなのだろうかと。
「あらっ、パメラちゃんいらっしゃい。ジェノちゃんもおかえりなさい」
カウンターで、メルエーナと食事の話をしていたバルネアが満面の笑顔で二人を出迎える。そして、
「いらっしゃいませ、パメラさん。あっ、ジェノさん。上着を預かりますね」
メルエーナがカウンターを出て二人の前まで歩み出ると、パメラに丁寧な挨拶をし、それからジェノに向かって静かに手を差し出す。
「いや、調理をしていたのだろう? それくらい自分で……」
「ジェノ君。こんな献身的な彼女がやってくれると言っているのだから、ここはお任せするべきだと、お姉さんは思うなぁ~」
パメラがそう言うと、「パメラさんの言うとおりよ、この朴念仁」とイルリアが加勢する。
ジェノは観念をしたのか、小さく息を吐き、『すまんが、頼む』と言って外套をメルエーナに預けて、メルエーナは嬉しそうにそれを預かる。
二人の微笑ましいやり取りに、しかしマリアはやはり寂しさと言うか、物悲しさを覚えてしまう。
マリアにとって、ジェノは初恋の相手なのだ。もう二度と会えないと思っていた。それなのに、運命のいたずらで再会することになった相手。それは運命じみているようにさえ感じる。けれど、彼はもう彼女が、心を許した女性がいるのだ。
マリアは静かにジェノたちから視線をそらして、静かに食事を再開することにする。お酢といっしょに、あんかけ焼きそばの味変のためにつけた辛子がやけに目にしみた。
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