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氷の王子と、初めてのデート
しおりを挟む「アリシア、明日は予定があるか?」
その日、昼食後のティータイム。レオンハルトが唐突にそう口にした。
王子としての端正な顔立ちは相変わらず無表情に近いが、どこか落ち着かないような雰囲気をまとっている。
アリシアはティーカップを持ったまま瞬きをした。
「明日、ですか? とくに何も……侍女たちと庭に出るくらいかと」
「では——出かける。街へ」
「……え?」
「少しだけ……外の空気を、二人で」
(え、いま……二人きりで、外出!?)
思わずお茶を飲みかけたまま、アリシアは固まった。
⸻
翌日。
王宮の裏口から控えめに馬車が出発する。護衛は最小限、目立たぬ衣装に身を包んだ二人は、まるでどこにでもいる上流階級の夫婦のようだった。
「……庶民の市場など、久しく見ていない」
レオンハルトが馬車の窓から外を見やりながら言う。
「わたくしも……こうして街を歩くのは、本当に久しぶりです」
「そうか」
会話が、すぐに途切れる。
(……気まずい)
アリシアは内心で叫びながら、それでも隣に座るレオンハルトの肩越しにそっと顔を覗き込む。
彼の横顔はいつも通り端正で、無表情で、けれど——どこか緊張しているようにも見えた。
「……殿下、緊張していらっしゃいますか?」
「……していない」
「ほんとうに?」
「……少し、だけ」
(認めた……!)
アリシアはくすっと笑って、視線をそらした。
すると、隣の彼がふと手を伸ばし——そっと、アリシアの指先を取った。
「……繋いでも、いいか?」
(えええええっ!?)
アリシアの脳内に鐘が鳴り響く。
でも、彼の手はとても大きくて、温かくて、思ったよりも優しい力で包んでくれる。
「はい……」
答えた声はか細かったが、ちゃんと聞こえていたようで、レオンハルトの耳がすこしだけ赤く染まった。
⸻
市場はにぎやかだった。果物、花、飴細工に香辛料……さまざまな品が並ぶ中、アリシアは目を輝かせて屋台を眺めていた。
「わぁ……あの飴、すごく綺麗です。まるで宝石みたい」
「欲しいのか?」
「い、いえ! ただ綺麗だなって思っただけで——」
「店主、その飴を二つ」
「っ!?」
一瞬で購入され、レオンハルトが無言で一つをアリシアに差し出す。
「……ありがとう、ございます」
「……あーん、はしなくていいのか?」
「……ええっ!? あ、あの、殿下、それは……!」
「冗談だ。……多分」
小さく口角を上げたレオンハルトに、アリシアは思わず目を丸くした。
(いま……笑った? しかも……からかった?)
けれどその次の瞬間。
「……俺にも、してみろ」
「えっ?」
「……あーん。してみたい」
完全に真顔で言ってのけたレオンハルトに、アリシアは顔から火が出そうになった。
(ど、どうしてこの人は時々、爆弾を落とすの!?)
でも——彼のその言葉に込められた“甘やかしたい”と“甘えたい”の間で揺れる不器用さが、たまらなく愛おしく思えた。
アリシアは小さく笑って、飴を一つつまみ、差し出す。
「……あーん、してください、殿下」
レオンハルトはその小さな飴を、静かに口に含んだ。
そして、いつもより柔らかい声で呟いた。
「……美味い。……けど、お前の笑顔のほうが、ずっと甘い」
「……っ!」
その破壊力に、アリシアは完敗だった。
⸻
屋台通りを抜けた先には、小さな広場があった。噴水のそばに木製のベンチが並び、春の陽気に包まれて、子どもたちが遊ぶ声が響いている。
アリシアはベンチに座りながら、噴水の水面を眺めていた。
「……なんだか、不思議な気持ちです」
「何がだ?」
レオンハルトが隣に腰を下ろすと、アリシアは小さく笑う。
「こんなふうに、普通に街を歩いて、手をつないで……一緒に座って。まるで“本当の恋人”みたいです」
「……」
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「それが、したかった」
「……え?」
「俺は、政略で結婚したからといって、お前に義務だけを背負わせたくなかった。……だから今日、一緒に来た。俺たちも、普通の夫婦のように過ごせることを……知ってほしくて」
アリシアは言葉を失う。
彼の不器用な愛情は、どこまでも真摯で、どこまでも真っ直ぐだ。
「殿下」
「……レオンでいい」
「……れ、れおん……さま」
「レオン、でいい」
「……れ、レオン……」
彼の名を初めて口にした瞬間、レオンハルトの目が少しだけ見開かれ、そしてゆるやかに細められた。
「……いい響きだ」
「……!」
アリシアは胸の奥が、温かくなるのを感じた。
まるで、知らなかった自分の居場所に、やっと触れられたような——そんな気がして。
⸻
その帰り道。馬車の中は、行きよりも静かだった。
けれど、その静けさは気まずさではなく、どこか優しく満ちていた。
窓辺に座るアリシアがうとうとし始めると、レオンハルトがそっとその頭を肩に寄せる。
「……」
しばらくして、静かな囁き声が落ちた。
「アリシア」
「……ん……?」
「……俺は、お前に触れるたび、鼓動が速くなる。笑顔を見るたび、目が離せなくなる。……これは、恋というものなのかもしれないと、思うようになった」
アリシアは目を開けることができなかった。
その声が、あまりにも静かで、あまりにも真っ直ぐで、心が震えてしまったから。
レオンハルトの肩に、そっと頭を預ける。
「……私も、です」
「……そうか」
その言葉に安堵したように、レオンハルトは小さく息を吐いた。
(まだ“愛してる”とは言えないけれど……きっと、近づいている)
二人の距離は、確かに、ゆっくりと、でも確実に近づいていた。
⸻
王宮に戻った夜。
アリシアはドレッサーの前で、髪を解いていた。ふわりと髪を撫でる風が窓から吹き込み、今日一日の幸福を思い出させる。
「アリシア」
振り返ると、レオンハルトが寝室の戸口に立っていた。
「少し、いいか?」
「はい」
彼は一歩、二歩と近づき、アリシアの目の前で止まった。
「今日は……ありがとう。お前の笑顔を、たくさん見られた」
「私こそ……こんな素敵な時間を、ありがとうございました」
二人の視線が交差する。
そして、そっと——レオンハルトの手が、アリシアの頬に触れた。
「……もう少しだけ、近づいてもいいか?」
「……はい」
その一言で、レオンハルトはそっと彼女を抱きしめた。
やわらかく、でも決して逃がさないように。
「……離さない。これからもずっと」
「はい、私も……どこにも行きません」
氷の王子が、完全に“恋する男”になった瞬間だった。
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