彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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目蓋がピリリ⑧

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「ま、、てくれ。頼む」

 赤黒く染まった銀色のスパナを振り上げると、水雫が流れるように赤黒いまだら模様を作り、使い捨ての白い軍手を汚す。私は、ごちゃごちゃと文句を垂れる口を塞ぐ為に、右頬をスパナの先端を使って殴り付ける。「パコン」と空気が漏れる音がして、スパナは海底に引っ掛かった針のように身動きを取られる。男は、目を見開いて右頬の状態を確認しようと目玉を転がすが、スパナの影に隠れて見えないのだろう。半開きになった口から、舌が必死になってうねるのが覗き見えた。

「うっ?!」

 男が情けない声を上げた後、探りを入れた舌が奥に引っ込み、喉の奥底から九官鳥さながらに細く高い鳴き声を鳴らした。ダラダラと顎を伝い、首筋を辿って丸首の白いシャツの襟を赤く染め上げていく「血液」は、とめどなく流れ、収まる気配はない。私がスパナをやや乱暴に引き寄せると、あたかも抜歯による苦痛を催したかのような顔の歪みと共に、スパナが自由になった。健全に丸く張った左頬とは裏腹に酷く痩せこけた右頬の影が、アベコベな表情を形作り、見るに耐えない悲嘆を湛える。

 脛をハンマーで砕いたおかげで、男は夜中の公園の砂場で鎮座せざるを得ず、助けを呼ぶ声を上げる事すらままならない。男は身に迫る死の匂いを嗅いで、鬱々とした森閑へ意識を預け、白旗を上げているような状況であった。だが、

「?!」

 上体を起こした男が最後の力を振り絞り、私の髪を掴んだ。多量の硫酸を頭から被ったかのように、ずるりと髪が斜めに傾く。死角をものともせずに切り揃えたボブカットの髪型の下から、根っこが顔を出すように短く刈り上げた坊主頭が現れる。

「こ、こ、の変態……やろうがぁ」

 軍手の中で剥がれ掛かったつけ爪が、ささくれのように痛みをもたらす中、私はスパナを強く握り直す。私はスパナを星降る夜に捧げ、地面を耕すように男の頭部に振り下ろす。車止めを殴ったかのような硬質な感触が手に伝わってくる。頭を引きちぎられた蟻さながらに手足がそれぞれの意思をもって動き、乱れる呼吸が蠕動する胸から見下ろす。

「……」

 暫くすると、赤ん坊が泣き終えたように手足を四方八方に投げ出して凝然と固まった。背負い担ぐバッグに道具の一式を仕舞い、返り血を浴びた雨合羽と軍手も性急に押し込む。仕事終わりの社会人を装って、帰路となる街灯の下で定型的な影法師を作った。幾つもの影も形もない喧騒に耳を傾けながら、私は見慣れたアパートの扉を鼻歌まじりに開けた。磨りガラスから漏れ伝わる居間の明かりを頼りに靴を脱ぎ、仄暗い廊下を進んだ。

 あっけんらかんと居間の扉を開けば、自己憐憫に丸まった同居人が、ソファーの角を埋める見慣れた姿が目に飛び込んだ。脇の隙間から私を覗き見る視線は、酷い怖気を含み、もはや化け物を見る目付きとさほど変わらない。

「ただいま」

 私はいつもの様式美をこなして、同居人の傍らに腰を下ろす。殻にこもる昆虫のように仮死を装う小賢しさに嘆息する。

「大丈夫。私達は上手くやれる。そうだよね?」

 吐き気を催した丸い背中を撫でるように、弛緩した手つきで肩に寄り掛かり、頑なにコミュニケーションを拒否する同居人へ歩み寄る。すると、引っ込めた首を亀のように伸ばして、私と目を合わす。目蓋がピリリと痙攣した同居人は、ぎこちなく笑って、頷いた。

「おかえり」
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