彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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シーラカンス②

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 雨風から客を守るポリエステル製の天井から吊り下げられている、メニューと価格を見れば、目を丸くして驚くような高価なものではなかったし、安価の即席麺とは一線を画す味の保証が読み取れた。それでも、鼻をつまんで飛び込む深い意気込みに似つかわしくない雰囲気を看取しており、一度座ってしまった木の椅子からそぞろに立ち上がってしまった。

「どうしました? 気分でも?」

 店主の表情は変わらないものの、疑心を多く孕んだ声色であることは伝わってくる。

「いえ、気分というより、懐の事情で……からかうつもりで入ったわけではないのですが」

 全くもって値打ちのない懺悔と頭を一つ下げて、粛々と去ろうとする。そうすれば、店主は衷心を込めて云う。

「せっかく来たんだ。一杯食べてってくれよ。お代は次に来たときでいいからさ」

 今度とは、呆れるほど遠大な時間の進みを意味し、悪しからずに予期してしまう店主の不幸を思うと、快諾するのは憚られた。

「いやぁー……」

 バツの悪さに頭を掻き出す所作は、一瞥すれば誰だって逡巡を指摘するところだ。店主もまた、優れた洞察力というより、泣き落としに近い理由を掲げて語りかけてくる。

「いつ逝くかわからん身分なんでね。一人でも多くの人に食べてもらいたくて」

 身寄りのない老齢が一寸先にある闇について語る姿はひとえに憐憫を誘う。立ち上がって去ろうとした足は沼にハマったように動かなくなってしまい、不承不承ながら椅子へ座り直した。

「じゃあ、ラーメンを一杯」

 蟻道を崩す魅惑的な匂いにうつつを抜かす紙作りのスーツが、荒く擦られた愛の辛さを噛みしめて帰路に収まる。そんな慎ましい気配を背中越しに感じたものだから、幾ばくか誇らしく思えた。このような椅子に座る際に、背景を慮り選択から遠ざけられるのは我慢ならない。ヒトの共生関係を否定したい訳ではないが、適切な距離感を維持する健康的な結び付きを所望する。

「水を忘れていたね。すまない」

 店主は小型の冷蔵庫からボトルの水を取りだし、透明のコップへ注ぐ。長きに渡って使われてきたと思われるコップの透明度に、喉がいくら渇いていたとしても、口を付けて飲むには些か躊躇われた。そんなコップから注意を反らすようにして、出し抜けに尋ねる。

「人類不偏の夢である不老不死が叶うとしたら、どう思います?」

 胡散臭い香気を寸胴のなかに嗅ぎ付けて、その真偽に少しでも近付こうとした。

「突然だね」

 ケタケタと入れ歯が笑う。やはり、大衆の好奇心をくすぐる為に作られた馬鹿馬鹿しい与太話に過ぎず、それを間に受けて店主に質問を直裁にぶつけたのは、極めて阿呆らしい振る舞いであった。

「思うに、ヒトの根源的恐怖である“死”という概念から解放された者は、きっと事故死するのが関の山だろうな。ただ、老いによって享受する死と比べれば、幾分幸せかもしれない。指で数えて測れてしまう死期なんて、真綿で首を絞められるのと何も変わらないからね」

 やぼったい瞼の僅かな隙間から覗く艶消しの黒目が、閃くが如く光り、光は頬の皺の深い谷へ落ちていく。店主の腕は激しく伸び縮みしながら麺を仕上げ、口が大きく開いたお椀の中に琥珀色のスープが流し込まれた。

「食べてごらん。直ぐにわかる」
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