彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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負け知らずのコンビニ店員③

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 目出し帽の下では、歯茎を剥き出しにして敵意の何たるかを語っているはずだ。声色や小刻みに揺れる金属バットの様子を随意に捉えているだけで、その感情の機微は伝わってくる。ただ、田中から怖気に付随する身体の反応は全くもって窺えず、激情に駆られがちな男とは相反して冷静だった。再びの衝突を意味する一歩目を踏み出したのが男であったことは、上記の様子から分かって貰えるはずだ。そして、遅々とした歩行に合わせて金属バットを振り回す。攻防を兼ねた効果的な動作とはいえ、外聞は酷く不恰好だ。しかし、田中が見せた一連の動きを鑑みれば、当然の警戒であり、それほど突飛な真似ではないだろう。

 怪我に相当する痛みを与えんが為に、ガムシャラに金属バットを振り回す。その体裁は鉄の扇風機と然のみ変わらない。田中は憐れむような眼差しを向け、鼻から息を小さく吐いた。それは、これから起きる出来事に対する幾ばくかの憂慮にも見えた。田中は身を屈める為に膝を少しだけ折り曲げる。湾曲する背中は、前傾姿勢になったことによる影響であり、影法師はさながら短距離選手のそれだ。

 目の前で着々と積み上げられていく何らかの準備に、男の喉仏が上下に蠕動した。金属バットを振り子のように扱う腕は、水を抱えているかのような負担が掛かり、鈍く遅くなっていた。男は堪らず、遅々とした歩行を断念し、金属バットが届く距離まで駆け寄ろうとする。風見鶏のように忙しない男に対して、田中は動揺の色をまるで見せない。如何に修羅場を潜り抜けてきたかを雄弁に語り、手の平の上で転がる虫を眺めるかのような、冷笑を多分に含んだ顔付きが田中の表情から見て取れた。

 田中は軸足を左足に定め、右足を後ろに引いた。それは明らかに、人を足蹴にする際の予備動作のようだったが、一心不乱な男の前では些か頼りなく思えた。しかし、田中はしずしずと嵐の如き金属バットの軌道を目で追ったのち、足場もない空間に斜面を見出し、そこへ右足を置いた。

「!」

 よしんば、その右足が何事もなく男の足元に到達すれば、きわめて極めて深い踏み込みになるだろう。だが、男はこれを許さなかった。アルミニウム合金と呼ばれる、銅や亜鉛、マグネシウムを混ぜ合わせた金属バットは、未成熟な子どもが扱うことを念頭に重さが調節されている。大の大人が振り回せば、極めて危険な用具の一つとなり、目の前に差し出された右足など粉砕されて当然であった。

 硬度を持った同士が衝突し合う鈍い音が金属バットと足の間で起き、そこで起きた事象を把捉しようと目を凝らす男の眉間にシワが寄った。金属バットを握った両手に残る痺れは、爆ぜるようにして反発し合った結果であり、悠々と右足を上げたままの田中はまるで意に介していない。鋼のような肉体を想起させる大胆不敵な所作は、金属バットに於ける利点の一つを見事に凌駕しているように感じた。
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