彼岸よ、ララバイ!

駄犬

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変身⑯

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 軒先にある一台だけ止められる駐車場には、老齢の自家用車であろう黒いワゴン車が占領しており、仮に排気量の小さい軽自動車であろうとそこに止められるだけの敷地面積はなかった。その皺寄せに、先刻に身体を揺らした軽自動車は、路肩へ追いやられている様子だった。長髪の男は迷いなくワゴン車に乗り込み、普段からこのハンドルを操っていることを示唆するように、自分好みの芳香剤を車内の中央に設える。

「安全運転でいくよ」

 初めて乗り合わせる客に対する礼儀として、そう宣言すると、意気込みに違わぬ慎重な発進を体現し、鳩のように首を左右に振って、事故の起因となり得る全ての事象を視覚で確認する。閑静な住宅街でそれは少しだけ大袈裟のように思えたが、「安全運転」を標榜した以上、急ブレーキに繋がりかねない危険因子はつぶさに捉える必要があった。

 この町の駅前は、県内に於いて人口密度が出色に高く、夜の深い時間でも若者や仕事帰りの社会人が雑多に行き交い、酒気を地面に垂らす酔いどれが至る所で散見できる。

「一体何処に行くつもりなんですか」

「それはお楽しみに」

 ご機嫌な鼻歌がやけに不吉に聞こえたのは、恐らく彼の疾しい身持ちからくる猜疑心に違いない。とはいえ、悪事を働くには些か、不適切な場所と言える。住宅街とは比べ物にならない数の監視カメラがそこらじゅうに設置され、事件発生時刻から何処へ向かったなどの概算は、聞き込みをするより確かな情報を獲得できた。悪いことにはならない。彼はそう確信していた。

 数時間前から降り始めた霧雨は、駅の裏手でぽつねんと息を潜める公園の寂しさに拍車を掛ける。吐く息は尽く湿り気を帯びて、辛気臭い雰囲気が雨粒と共に跳梁する。そんな公園の入り口に黒いワゴン車が横付けされれば、忽ち邪な目論見が浮き彫りになり、助手席に座る彼はしきりに周囲を見渡す。まるで闇夜の礫を警戒するような、激しい目配せの間隙に、後部座席の扉が開く音を聞いた。左を向いて窓の景色に特大の注視を向けた直後だった為、襟首を持たれるようにして、振り向かせられる。

「こんばんは!」

 褐色の肌をした、活発そうな少女が夜更け過ぎに黒いワゴン車に単独で乗り込んできた。きわめて不純な光景を目の当たりにした彼は、あまりのバツの悪さに正面に向き直って、動揺する顔色を誤魔化した。

「やあ、ムササビちゃん」

 長髪の男は、この状況をさも当然かのように至って平静に対応し、耳馴染みのないハンドルネームらしき仮称を口にする。立ち込める暗雲に彼は一人俯き、こんこんと思索を始めた。しかし、あらゆる道筋を考えたところで、最悪とも言うべき結論に回帰した。老齢の自宅に足を踏み入れた瞬間に覚えた違和感は、決して先走ったものではなく、経験や時間によって把捉できない“野生の勘”に通ずる言語化が難しい肌感覚であった。

「安全運転でいくよ」

 同じ言葉が繰り返され、彼は背筋を凍らせる。
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