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閑話休題
うまかろう、まずかろう③
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やおら間合いを測りつつ飛び込もうと目論むトーマスに、ギークゴリラの特性の一つである唾飛ばしについて知見があったか? 私は、ギークゴリラの間合いの中に入っていた事を大きく膨らんだ頬の歪さから、直下に理解した。
「うぎゃ!」
ギークゴリラが飛ばす重油のような黒々とした唾が、鎧に掛かると煙を上げながら融解を始め、勇猛果敢なるトーマスの心根をあっという間に瓦解させた。鎧を脱ごうと必死に手を動かす焦燥から見て取れる、戦意の霧散が私にある一つの選択を提示した。それは、道徳的気風に欠けた、あまりに無責任な手段ではあったものの、私がここへ来た訳を顧みれば、小首を傾げて疑問を浮かべるほどの逸脱した思考とは決して言えない。要するに、トーマスを囮にこの場を脱する事である。
ギークゴリラは目の前の獲物に首ったけで、走り出す私の姿など目にも入っていなかった。木々の隙間を縫うようにして一心不乱な走りに傾倒し、ひたすら足を動かし続ける。背中に迫る危機感に追い立てられながらも、不思議と向かう方向を選んで風を切っており、知らぬ間にカスミキノコが自生する場所までの導線を辿っていた。
幾星霜も樹齢を重ねた一本は、この森の中でもとりわけ大きく、目を見張る。指針にして当然の景色の一つとして数えられ、私が愛してやまないカスミキノコのねぐらなのだ。
「やられた……」
胞子が根こそぎ剥ぎ取られ、小綺麗になった木の幹は、私を骨抜きにした。ぐるぐると形容し難い感情が身体の中で渦巻き、今にも泡を吹いてしまいそうだった。足を向けて寝られないとさえ思っていた人物からの裏切りに遭い、白濁とした脳は思考を放棄した。帰巣本能だけが正常に働き、そぞろに帰路を辿り始める。
やがて、二手に分かれた岐路となる場所まで戻ると、地面に残る夥しい量の血溜まりを目にした。傍若無人なギークゴリラの振る舞いは、人間の手には負えないと歴然たる事実が刻まれている。底を尽きたと思われた運は、私を完全に見放した訳ではなさそうだ。恙無く森を抜け、再び馬に騎乗し町へ戻っている事実がそう告げている。
荒れた地面の凹凸と馬の蹄が踏んで香る青臭い草の湿り気を経て、長い時間と数え切れない人の往来で築かれた轍を踏む。それはそのうち硬質な足音を誘う石畳へ変わり、ぽつりぽつりと民家が散見され始める町の入り口まで戻ってきた。心身共に疲れていた私は、路上にて販売されている、滋養競争を謳った「イルマ粉末」とやらが目に入った。
「随分、疲れた顔をしているね。これ効くよ」
物は試しだ。私は一袋、貰う事にした。
「毎度。鼻から吸うのが上等、やってみなされ」
店主にそう促され、袋から「イルマ粉末」を手のひらへ少量出す。余った片手で鼻を閉じ、手のひらの「イルマ粉末」を鼻の直ぐ下に持っていき、勢いよく吸い込んだ。
太古の昔から処女の血は神聖なものとして扱われてきた歴史があり、あらゆる手段を用いて摂取する伝来は耳にする。よしんば、そんな処女の血を煮詰めて霧状にしたものを粘膜に吹き付けられたのなら、きっとこのような夢見心地を味わえるのかもしれない。「イルマ粉末」は、この上ない興奮を引き出すカスミキノコに比肩する蠱惑的な甘美さがあった。
「うぎゃ!」
ギークゴリラが飛ばす重油のような黒々とした唾が、鎧に掛かると煙を上げながら融解を始め、勇猛果敢なるトーマスの心根をあっという間に瓦解させた。鎧を脱ごうと必死に手を動かす焦燥から見て取れる、戦意の霧散が私にある一つの選択を提示した。それは、道徳的気風に欠けた、あまりに無責任な手段ではあったものの、私がここへ来た訳を顧みれば、小首を傾げて疑問を浮かべるほどの逸脱した思考とは決して言えない。要するに、トーマスを囮にこの場を脱する事である。
ギークゴリラは目の前の獲物に首ったけで、走り出す私の姿など目にも入っていなかった。木々の隙間を縫うようにして一心不乱な走りに傾倒し、ひたすら足を動かし続ける。背中に迫る危機感に追い立てられながらも、不思議と向かう方向を選んで風を切っており、知らぬ間にカスミキノコが自生する場所までの導線を辿っていた。
幾星霜も樹齢を重ねた一本は、この森の中でもとりわけ大きく、目を見張る。指針にして当然の景色の一つとして数えられ、私が愛してやまないカスミキノコのねぐらなのだ。
「やられた……」
胞子が根こそぎ剥ぎ取られ、小綺麗になった木の幹は、私を骨抜きにした。ぐるぐると形容し難い感情が身体の中で渦巻き、今にも泡を吹いてしまいそうだった。足を向けて寝られないとさえ思っていた人物からの裏切りに遭い、白濁とした脳は思考を放棄した。帰巣本能だけが正常に働き、そぞろに帰路を辿り始める。
やがて、二手に分かれた岐路となる場所まで戻ると、地面に残る夥しい量の血溜まりを目にした。傍若無人なギークゴリラの振る舞いは、人間の手には負えないと歴然たる事実が刻まれている。底を尽きたと思われた運は、私を完全に見放した訳ではなさそうだ。恙無く森を抜け、再び馬に騎乗し町へ戻っている事実がそう告げている。
荒れた地面の凹凸と馬の蹄が踏んで香る青臭い草の湿り気を経て、長い時間と数え切れない人の往来で築かれた轍を踏む。それはそのうち硬質な足音を誘う石畳へ変わり、ぽつりぽつりと民家が散見され始める町の入り口まで戻ってきた。心身共に疲れていた私は、路上にて販売されている、滋養競争を謳った「イルマ粉末」とやらが目に入った。
「随分、疲れた顔をしているね。これ効くよ」
物は試しだ。私は一袋、貰う事にした。
「毎度。鼻から吸うのが上等、やってみなされ」
店主にそう促され、袋から「イルマ粉末」を手のひらへ少量出す。余った片手で鼻を閉じ、手のひらの「イルマ粉末」を鼻の直ぐ下に持っていき、勢いよく吸い込んだ。
太古の昔から処女の血は神聖なものとして扱われてきた歴史があり、あらゆる手段を用いて摂取する伝来は耳にする。よしんば、そんな処女の血を煮詰めて霧状にしたものを粘膜に吹き付けられたのなら、きっとこのような夢見心地を味わえるのかもしれない。「イルマ粉末」は、この上ない興奮を引き出すカスミキノコに比肩する蠱惑的な甘美さがあった。
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