吸血鬼は唇に紅を差す

駄犬

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愛だ恋だの語りたい

愛だ恋だの語りたい

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 瀬戸海斗は、今にもひっくり返りそうな勢いで身体を仰け反らす。だがすかさず、獲物を前にした野生動物の眼光鋭い目付きを拵えて、好都合だと言わんばかりに微笑んだ。僕たちは言葉を介さずとも、互いの主旨を理解し合う仲である。ならばこそ、挨拶代わりに瀬戸海斗が右拳を放ってくるのを僕は当然のように避けた。

 次から次へと繰り出される打撃の洪水を、反射でのみ受け流す。それは、虫の如き俊敏性と瓜二つで、頭を空っぽにすることでしかなし得ない動きであった。息もろくに吸えないまま身体を動かし続けていると、のっぴきならない信号が脳から送られてきて、反撃に転じて時間を稼がねばと肌で理解した。

 そしてその機会は、出し抜けに訪れる。攻めあぐねた瀬戸海斗が、胴体の中心もとい鳩尾を狙って左拳を放ったのだ。身体をくの字に曲げるための苦し紛れの一手であり、僕はその場に屈んでやり過ごす。がら空きとなった足元が目に入り、先にある戦果など考えもしないまま足払いの格好になっていた。だが、段差に躓くまいと足を上げる軽微な苦労でもって、屈んだ僕の頭上を瀬戸海斗は涼しい顔で飛び越えていく。

「無駄だ。わかるだろう?」

 迷いはない。全身に行き渡る活力のみが、僕を動かす。一気呵成に張り倒そうと勇む拳を担いで走る様は、無邪気そのものだ。いとも容易く避けられようが、僕は左右の拳を投げ続ける。

「ははっ、は……」

 殴り返されても決して手を止めずにいると、瀬戸海斗の頬を右拳が捉えた。ただ、僕の鼻は折れ曲がり、口がみだらに開き、そのうち左目が微睡みだす。下半身は地面に根付き、上体をなんとか動かしながら、攻防をこなす。すると、僕の拳は確実に瀬戸海斗の身体を捉え出し、互いの顔が無様な形へ変わっていく。

 頬を潰すつもりで力を乗せた一撃が盛大に空を切った。それは、先んじて瀬戸海斗が地面に尻を着いたことによる、偶然の回避であった。瀬戸海斗は、暗澹たる光景を目にしたかのように呆けた顔をする。如何に人間を虚仮にしてきたかを語るに落ちる吸血鬼の末路であった。

「嗚呼」

 湯冷めしたかのように体温が下がっていくのを感じている。目の前の瀬戸海斗に対して、僕はもう尊敬の念を抱けそうにない。一度振り上げた拳の手前、諦観を込めて振り下ろす。が、由来不明の影の塊が僕と瀬戸海斗の間に割って入る。予想だにしない不意の突かれ方は目を擦る以外に取るべき手段がなく、夢見を疑うしかなかった。

 華澄由子が僕の前に立ち塞がり、あたかも我が子を守るかのように瀬戸海斗を翼下に入れる、摩訶不思議な光景を咀嚼する手立てがなかった。

「なにを……」

 僕は、絵に描いたような困惑を吐露した。先日まで華澄由子の庇護下にあったはずで、敵対を意味する相対など想像もしなかった。急転直下の反転に、落とし所を失った拳は宙ぶらりんになる。

「もう、大丈夫だから」

 瀬戸海斗の安否を背中越しに確認しつつ僕を相手取る姿勢は勇ましく、侃侃諤諤とやり合うための目付きの鋭さが今はやり切れない。さめざめとした虚脱感に襲われる。それは、僕が無意識のうちに抱いていた手前勝手な期待の裏返しであり、情けなく頭が垂れた。

「……」

 舌は喉の奥へと身を潜め、やぼったい瞼が今にも落ちてきそうだ。愚鈍を極めし折、華澄由子は瀬戸海斗に肩を貸し始める。お互いを助け合う殊勝な心がけを前に僕はどうすることもできなかった。恙無く目の前から去っていく二人を、ただ見送った

「私さえいれば、大丈夫」

 華澄由子が目の前に現れるとき、いつだって危機に際した人間が泡を吹く手前にあり、その手を取らざるを得ない状況にあった。お釈迦が蜘蛛の糸を垂らして寓話を語るような華澄由子の手は、僕にとって何事にも代え難い好機に違いなかった。しかしその顛末は、舞台の上を空騒ぎする道化として甲斐甲斐しく働いて、男女の逢引きに使われただけ。それでも、所在無いと独り言ちるより、僕は瀬戸海斗と華澄由子に愛だ恋だの語りたかった。
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