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第3話
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真白い空間で交換した身体の名前は、『泉サキ』といった。十九歳の若者だった。以前の自分は社会人十年目だったので、十歳以上若返ったことになる。苦笑するしかなかった。
これから自分はサキとして生きる。
目覚めたときにいた若い男は『霧島レイ』と名乗った。彼は大学の同級生らしい。
端整な顔をした長身のレイは、サキの部屋を案内すると隣の自室に入っていった。
サキは六畳ほどの洋室を見て、ため息をついた。
ベッドの上に放り出されている服、テーブルの上に散らかったままのスナック菓子、床に転がったペットボトル。
ひとことで言えば、汚い。サキはのろのろとベッドにいき、服を畳んで床に置いた。壁に収納があったが、今は開ける気にはなれなかった。ゴミを拾い集め、手近にあったレジ袋に詰め込む。取手を結んで部屋の隅に置いた。そこでやっと、ベッドに寝転がった。
はあ、と静かに息を吐き、目をつぶった。今日起きたことを思い返していた。
記憶喪失を装ったことで動揺したレイが呼んだ救急車に乗せられ、サキは病院で頭部の検査を受けた。
正直なところ、頭は打っていないと思った。目覚めたときは座り込んでいたので、頭を打った記憶はない。だが、じわりと感じたのは肩の痛みで、それも救急車を待っている間に治ってしまった。
後頭部を触ってみたが、たんこぶもない。しかし、記憶喪失と言ってしまった以上、頭をぶつけたことにするしかなかった。
診察室に入り、医者への説明はレイがしてくれた。彼はばつが悪そうに、経緯を語った。
「喧嘩してたんです……。サキに腕を掴まれて、振り払ったときに、肘が顔に当たってしまったんです。その勢いでサキは壁にぶつかって」
「頭を打ったんですね」
能面のような顔をした医者が言った。
「気を失っていたのは、どれくらいですか」
訊かれて、レイは宙に目をやった。
「ほんの数秒だったと思います。二、三回、名前を呼んだら、目を開けたんですけど……」
医者は彼の言葉を継いだ。
「ご本人が、自分のことがわからないと言った」
レイは横に座っているサキを見て、うなずいた。
それから検査室に入って白い診察台に横になり、頭を機械に通したりした。
頭部検査を受けるのは初めてだった。検査結果は即日出た。医者は頭部に異常はないと告げ、記憶喪失についてはこう語った。
「頭を打って一時的に記憶を失うことは、たまにあります。記憶が戻る時間は人によるので、数分で思い出す人もいれば、何時間か後に思い出す人もいます。
中には数日かかることもありますが。いずれにせよ、脳に異常はありませんので、安心してください。記憶についてはそのうち戻るくらいに思っていた方がいいでしょう」
「薬とか、治療とかは?」
レイが身を乗り出したが、医者は淡々としていた。
「記憶を取り戻すための治療というのは、ありません。頭が痛くなるようなことがあれば、また来てください」
医者は二人から身体をそむけ、キーボードを叩きはじめた。診察は終わりのようだ。
記憶喪失になった患者の気持ちを汲んでいるとは思えない態度だったが、サキにとっては都合がよかった。
『泉サキ』としての記憶を持ち合わせていない別人なだけで、肉体的な損傷はないのだから、下手に治療など受けたくはない。
レイは医者の冷たい態度に不服そうだったが、内心ホッとして診察室を出た。
これから自分はサキとして生きる。
目覚めたときにいた若い男は『霧島レイ』と名乗った。彼は大学の同級生らしい。
端整な顔をした長身のレイは、サキの部屋を案内すると隣の自室に入っていった。
サキは六畳ほどの洋室を見て、ため息をついた。
ベッドの上に放り出されている服、テーブルの上に散らかったままのスナック菓子、床に転がったペットボトル。
ひとことで言えば、汚い。サキはのろのろとベッドにいき、服を畳んで床に置いた。壁に収納があったが、今は開ける気にはなれなかった。ゴミを拾い集め、手近にあったレジ袋に詰め込む。取手を結んで部屋の隅に置いた。そこでやっと、ベッドに寝転がった。
はあ、と静かに息を吐き、目をつぶった。今日起きたことを思い返していた。
記憶喪失を装ったことで動揺したレイが呼んだ救急車に乗せられ、サキは病院で頭部の検査を受けた。
正直なところ、頭は打っていないと思った。目覚めたときは座り込んでいたので、頭を打った記憶はない。だが、じわりと感じたのは肩の痛みで、それも救急車を待っている間に治ってしまった。
後頭部を触ってみたが、たんこぶもない。しかし、記憶喪失と言ってしまった以上、頭をぶつけたことにするしかなかった。
診察室に入り、医者への説明はレイがしてくれた。彼はばつが悪そうに、経緯を語った。
「喧嘩してたんです……。サキに腕を掴まれて、振り払ったときに、肘が顔に当たってしまったんです。その勢いでサキは壁にぶつかって」
「頭を打ったんですね」
能面のような顔をした医者が言った。
「気を失っていたのは、どれくらいですか」
訊かれて、レイは宙に目をやった。
「ほんの数秒だったと思います。二、三回、名前を呼んだら、目を開けたんですけど……」
医者は彼の言葉を継いだ。
「ご本人が、自分のことがわからないと言った」
レイは横に座っているサキを見て、うなずいた。
それから検査室に入って白い診察台に横になり、頭を機械に通したりした。
頭部検査を受けるのは初めてだった。検査結果は即日出た。医者は頭部に異常はないと告げ、記憶喪失についてはこう語った。
「頭を打って一時的に記憶を失うことは、たまにあります。記憶が戻る時間は人によるので、数分で思い出す人もいれば、何時間か後に思い出す人もいます。
中には数日かかることもありますが。いずれにせよ、脳に異常はありませんので、安心してください。記憶についてはそのうち戻るくらいに思っていた方がいいでしょう」
「薬とか、治療とかは?」
レイが身を乗り出したが、医者は淡々としていた。
「記憶を取り戻すための治療というのは、ありません。頭が痛くなるようなことがあれば、また来てください」
医者は二人から身体をそむけ、キーボードを叩きはじめた。診察は終わりのようだ。
記憶喪失になった患者の気持ちを汲んでいるとは思えない態度だったが、サキにとっては都合がよかった。
『泉サキ』としての記憶を持ち合わせていない別人なだけで、肉体的な損傷はないのだから、下手に治療など受けたくはない。
レイは医者の冷たい態度に不服そうだったが、内心ホッとして診察室を出た。
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