世界でたったふたりきり

森 千織

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5、Ulitimate FICTION

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 ハロー、ワールド。使い古されたダサい言葉だって知ってるけど、僕は好きだ。世界と、つながってるって感じ、するから。

「おはよう」

「おはよ」

「調子はどう?」

「いつも通りかな」

「天気は?」

「こっちは、ああ、快晴だね」

 PCの電源を入れて、通話アプリを立ち上げると、既にログインしていた友人たちが当然のように話しかけてくる。他愛のない挨拶に、意味のない会話。ひどく簡単な、だけど、僕らが焦がれてやまないものだ。

「あれ、ハルト、入院だって言ってなかった?」

「うん、今日の午後からね」

「え、入院するの? 今度はなに?」

「ただの、検査入院だよ」

PCの向こう側にいるのは、病気やら怪我やら障害やらで、自由に外に出られない人たち。もちろん、PCのこっち側の僕も同じだ。産まれたときから足がない人、事故で半身不随になった人、水頭症でベッドから起き上がれない人、感染症にかかったらすぐに死んじゃうから、無菌室から一歩も出られない人。五十年も前なら家族や医者以外の誰とも話さずに死んでいったような僕たちが、壁を飛び越え、海も空も山も越えて話ができる。いい時代だよな、と思う。昔のことなんか知らないけど。 

「そっか、そろそろ手術って言ってたもんね」

 PCのマイクに向かって話せば、向こう側には、適切に翻訳された機械音が届けられる。元の声も重なって聞こえるから、本当の声も、顔も表情も分かる。治療やリハビリ以外にすることもない僕たちは、暇さえあれば、ここで無駄話をしている。ここで話した人たちの方が、医者より家族より、僕たちのことを知っているだろう。

「そうそう、検査で問題なければ、十日後に手術なんだ」

 僕はベッドから降りられない。産まれたときから、十四歳になる今の今まで、自分の足で地面に立ったことがない。だけど、それももうすぐ終わりだ。ようやく、手術のめどが立った。この煩わしい体と、やっとサヨナラだ。

「でも、腫瘍、だいぶ大きいんでしょう?」

「まあね、歩けないくらいだし」

「かなりの大手術なんじゃない?」

「まあ、そうだねぇ」

 不意に、ふん、ふん、ふんと、意味のない音が響いた。僕の足元、ベッドに伸ばした体の一番遠いところで、ベッドがぎしりと軋む。僕は流れるような動きで、マイクを切った。

「ねえ、うるさいんだけど、静かにしてくれる?」

 びくんと、痙攣するみたいに体が震える。そして、音が止まった。代わりにわざとひそめるような息の音がひゅうひゅうと響く。ぎこちない緊張が、筋肉を通して僕にまで伝わってくる。別に、そこまでしろなんて言ってない。ただ、声を出さなければいいだけの話だ。ああ、もう、本当に鬱陶しい。

「静かにしてよね」

 そう念を押して、マイクのスイッチを入れる。画面の向こうの友人たちは、僕が一瞬だけこの場を離れたことに気づいていない。一つ、咳払い。

「じゃあ、そろそろ準備しなきゃいけないから」

「うん、じゃあね、ハルト」

「またね」

 PCの画面を暗くして、僕はまた息を吐いた。ここで話す人同士、隠し事なんてほとんどない。立場は違っても、みんなほとんど同じだから。自分がどういう病気で、怪我で、どんな治療をしているか、余命何年と言われているかだって、赤裸々に語っている。だけど、僕は一つだけ、大きな嘘を吐いている。

「ねえ、祐樹、寝ないでよ。そろそろ、出かけるんだよ」

 静かにしたと同時に眠気に襲われたらしい兄が、びくんと体を震わせた。産まれたときから、僕の下半身には、馬鹿でかい腫瘍ができている。それは僕とほとんど同じ形で、そっくりな顔で、祐樹という名前だ。兄と呼ばれる肉のかたまりのせいで、僕は自由に動けない。

 僕たちは、座骨結合体と呼ばれる、結合双生児だ。股関節を真ん中に、反対向きにくっついている。僕の腰の下に、兄の上半身がそのまま生えていて、子供がバラバラにして上半身同士をつなげたビニールの人形によく似ていた。足は、最初は四本あったのだけど、一本はひどく短くて動かないから切り取ってしまった。残った三本の足の中で、どれが僕ので、どれが兄のか分からない。

「晴斗」

 不意に、声が上がる。起きた? 

「何、祐樹」

 だけど、返事はない。まあいつものことだ。普通にPCが操作できて、人と会話ができる僕と違って、兄はひどく頭が悪い。歌にもならない鼻歌と、おはようとお休みといただきますと、自分と僕の名前くらいしか分からない。骨のつながり方がおかしいせいか分からないけど、上半身を起こして座っていられるのは僕だけだ。股関節が歪んでいるんだか、腰骨がないんだか忘れてしまったけど、兄はいつも寝転がっている。ベッドの上で仰向けて、天井を見上げながら鼻歌を歌っているのが常だ。まあ、頭が悪いんだから、そのくらいでちょうどいいんだろう。

 くっついて産まれて、もう十四年。兄のせいで、僕はベッドから降りられない。くっついている僕たちはびっくりするくらい小さく生まれて、何度か心臓が止まったり、骨が変な方向に伸びたり、内臓疾患とか心臓疾患とかで数回軽く死にかけたりしたせいで、分離手術なんてできやしなかった。でも、やっとだ。十四歳になって大きくなって体も少し丈夫になって、やっと手術にGOが出た。やっと兄と離れられる。走れるようになるとは思っていないけど、何とか歩けるくらいにはなるだろう。僕はようやく、僕として産まれる。

「じゃあ、祐樹が」

 普段使っているのとは違う、慣れたベッドで目を覚ます。僕らの検査は一日がかりで、レントゲン一枚撮るにも特別な機械が必要だ。だから、僕らは全身麻酔で眠り込む。白いシーツの上で目を覚ますときには、レントゲンもMRIも採血も髄液検査も、全部終わっている。青色の天井は、ひどく見慣れた景色。子供のころから、何度も見た。それこそ、兄が馬鹿だって気づく前から。ぼんやりと目を覚ますけれど、まだ麻酔が残っていて、声は出ない。じんじんと指先に血が巡るのを感じながら、僕は、誰かの声を聴いていた。

「ここが股関節なんですけど、外からの見た目とは、向きが逆になってるんです」

 ぺらりと、何かがめくれる音がする。レントゲン写真か、何かかな。医者の低く落ち着いた声の間に、「はい」「はい」と、相槌が挟まった。

「手術では、ここを切り離します。なので、両足が、祐樹くんの側になりますね」

「じゃあ、晴斗は」

「晴斗くんの股関節は、これです。この骨でつながっている足が晴斗くんのものなんですけど、本人も動かせてないですし、遠すぎるので、切断することになります」

「そうですか」

「整形で何とかなるか……、座位が取れなくなる可能性が高いですね」

「祐樹は」

「リハビリ次第ですが、歩けるようになる可能性があります」

 どくんと、心臓が鳴った。聞こえてきた音が、声になって、言葉になって意味を持つ。いや、ちょっと待って、先生、僕と祐樹のこと逆に言ってない? 不本意ながら、僕と祐樹はほとんど同じ顔をしている。初めて見る人には区別がつかなくて、起きている方が晴斗で寝てる方が祐樹、ってくらいだ。二人とも寝転がっていると、きっとほとんど見分けがつかない。はは、先生、僕らが産まれたときから診てるくせに、区別がつかないとかふざけてるの?しかも、こんな大事なときにさ。

 反射みたいに、目がばちりと開く。音もないから、誰も僕が目を覚ましたことに気づかない。視界の端には見慣れた医者の白衣と、お父さんと、お母さん。僕らを、間違えるわけがない。

 どくどくと心臓が鳴る。目を開けていられなくて、僕はまだ目を覚ましていないふりをした。まさか、嘘だろ。座位が取れなくなるってことは、寝転がったままってことだ。つまり、僕が、祐樹と同じになるって? それなのに、祐樹は、歩けるようになる可能性がある?

「おはよう、ハルト。いよいよ手術、明日だね」

「入院は今日?」

「あ、うん、おはよ」

「あれ、元気ないねぇ」

「緊張してるの?」

「んー、まあ、それなりに大手術だからさ」

「何時間もかかるんでしょ? 輸血用の血、採った?」

「採った採った。だってもう、なにせ」

 僕と同じ形の上半身を、丸ごと切り離す手術なんだからさ。そう言いかけて、僕は口を閉じた。僕は、この人たちに何も言っていない。僕が結合双生児であることも、下半身にくっついているのは兄だってことも、もしかしたら、兄の下半身に惨めったらしくくっついていたのは僕の方なのかもしれないってことも。

「God bless you!」

 翻訳されないそのままの声が、PCのスピーカーから響いた。だけど、誰の声なのか分からなかった。震えた指先がうまくPCを操作できなくて、切るつもりのなかった通信を切ってしまう。ブラックアウトした画面の中で、僕は小さく「あ」と声を上げた。もしかしたら、これが最後かもしれないのに。祐樹と同じになってしまったら、僕はもうPCを操作できない。

「晴斗」

 足元から、声が響いた。僕は額を押さえて息を吐いた。

「なに……、忙しいんだから、話しかけないでよ」

 忙しい、忙しいってなんだ。僕はベッドの上で、PCの画面に向かって喋っていただけだ。意味のあることなんて、何もしてない。ベッドに仰向けて寝転がっているだけの祐樹と何一つ変わらなくて、明日の手術で祐樹と同じになってしまう。

 ああ、もう嫌だ。手術が終わっても、目が覚めなければいい。

「晴斗」

「なんだよ、うるっさいなぁ!」

 声を上げて、顔を上げて、僕ははっと息を飲んだ。仰向けて、いつも天井を見上げているだけの祐樹が、指の力だけで頭を起こして、僕を見ていた。僕とまるで同じ顔が、目をぐりぐりと開いている。その目と同じくらい強く、何かが、ぎらりと光った。

「体、晴斗にあげるね」

 祐樹は、にっこりと笑った。そして、手に持っていた大きなハサミを、自分の首に突き立てた。体の端に、刺すような痛みが走る。普通の体だったら、たぶん足の指先の位置。

「えっ、ちょっと、何してんの、祐樹!?」

 祐樹の手の銀色が、真っ赤に染まる。そんなに大きなハサミ、どこから。体の端の痛みが、じんと焼け付くように強くなる。そうだ、僕たちは結合双生児。体が一つにくっついている。

 祐樹の首筋から吹き出す血が、祐樹の顔を染めていく。ずるりと、肩の力だ抜ける。だけど、ハサミを握る手だけは、いつまでも力が抜けない。

 祐樹、何してんの。僕たちは体がくっついている。片方が死んだら、もう片方も死ぬ。

 えっ、死ぬ? 死ぬって僕が? なんで?

 慌てて手を伸ばすけど、僕の反対側にいる祐樹には届かない。馬鹿、何してんの。そんな声も、もう出ない。がらりと、急に喉が渇く。まるで体中の水分が、祐樹の首の傷からこぼれてしまったように。

 そして、真っ赤な視界が、真っ白になった。
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