世界でたったふたりきり

森 千織

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エピローグ、夏の方舟

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 きらりと、なにかが光った。冷たい風が頬を撫でて、オレは、自分がざらざらの床に横たわっていることに気づいた。ほんの三か月の間に何度も触れた押し入れの床は、古いベニヤ板みたいにぼろぼろだ。ささくれた木片が、頬にちくちくと刺さる。
「玲央」
 まだなかなか聞き慣れない、「弟」の声が響いた。五月のゴールデンウィークのころに弟になった大雅は、オレのことを、お兄ちゃんとは呼んでくれない。オレと同じようにだらしない親に振り回されて、何度も父親が変わってきたらしいけど、子連れ同士の再婚は初めてなんだって。「どうして同い年なのに、お前、兄貴面すんだよ」なんて、つんとした横顔で言われて、すごくびっくりしたことを覚えている。オレは今までなにも考えずに、父親が連れてきた知らない女を「お母さん」と呼んで、お兄ちゃんと、お姉ちゃんと、おじいちゃんとおばあちゃんと、弟と妹と呼んできたから。
「玲央、死んでンの?」
 蛍光灯を背負った大雅が、どんな顔をしているか見えない。いつの間に、押し入れから抜け出したんだろう。戸が大きく開いて、つけっぱなしの蛍光灯が眩しい。
 喉がからからに乾いていて、「死んでないよ」なんて軽口を飛ばすこともできなかった。息一つするのも苦しくて、大雅が言うように、死んでいるのかもしれないと思った。押し入れに閉じ込められて、熱中症で男児死亡、児童虐待か、なんてニュースが脳裏にくるくると回った。押し入れの床が身体を擦って、全身がひりひりする。
「玲央」
 大雅が、オレの手を掴んで強く引っ張った。ぐいと持ち上がったオレの頭がぐらぐら揺れて、視界がちかちかする。首筋がざらざらする。なんだこれ、塩? 汗をかきすぎて、逆に乾いてしまった手のひらに、冷たいものが押し付けられる。何年使ってるのか分からない、プリントがぼろぼろに剥げたプラスチックのコップに入っていたのは、カルキ臭い水道水だった。水だ。たがが外れたみたいに一気にあおって咳き込むオレを、大雅は呆れた顔で見ていた。
「あれ、二人、は?」
 大雅の身体は押し入れの外に出ていた。明るい部屋の中で、大雅の影が大きい。部屋は静まり返っていて、世界中に、オレたちしかいないみたいだ。こんなの、おかしい。今までこんなことはなかった。オレたちを押し入れに閉じ込めて、二人はセックスする。二時間くらいのセックスを終えて二人が寝静まるまで、オレたちは押し入れで息を殺して待つ。二人が静かになって、寝息以外の音がしないのを確認して、真っ暗な部屋にそろそろと這い出して、ようやく水を飲みに行ける。それだって、足音一つ立てないようにゆっくり台所に行って、蛇口から糸のように流れる水を、長い時間をかけてコップにためて、ゆっくり飲まないといけない。足音で気づかれでもしたら、夜更かししてんじゃねぇって、殴られるから。
「いない」と、大雅は首を振った。
「いない?」
「車で、出かけた」
 額の汗をぬぐう大雅を見ながら、俺は押し入れから這い出した。クーラーをつけっぱなしの部屋は、ヒヤリと寒かった。ぞくぞくと、鳥肌が立つ。
「こんな時間に、どこに……、コンビニとか……?」
「知らねェ、でも、これ」
 大雅はくるりと背を向けて、部屋の真ん中に向かった。さっきまで二人がセックスしていたらしいぐちゃぐちゃの布団に、鮮やかな色がこぼれている。ひどく見慣れた色だけど、オレたちの身体と、父親と母親のこぶし以外についているところは、ほとんど見たことがない。
「……血?」
「たぶん、お母さんの」
 そう言って、大雅が咳をする。がさがさの声と、外で響く車の音。一瞬、父親の車のエンジン音に聞こえて肩が震えたけれど、違う車だと気づいて、息を吐いた。
「え、なんで……、怪我……?」
「ぶん殴られて、血ィ出てた。動かなくなって、引きずってった」
 大雅の話には主語がない。だから、聞いただけでは、なんの話をしているか分からない。そういう理由で、父親にも母親にもよく殴られる。だけど、布団の上の血は、オレたちが殴られて流す血よりも多かった。棚の角にぶつけて額を切ったときより、目測を誤った拳が鼻の真ん中に当たって、鼻血を出したときより。これ、大怪我なんじゃない? 明日のニュースで名前を呼ばれるのは、オレたちじゃなくて、お母さんの方?
「玲央」
 強張ったオレの肩に、手が触れた。汗でびちゃびちゃに濡れて、塩の浮いたTシャツの向こうで、大雅の手が熱い。
「逃げるぞ」
 大雅が、まっすぐオレを見ていた。「お母さん」に、よく似た目だ。オレの父親はバカがつくくらい面食いで、連れてくる「お母さん」は、みんな美人だ。見境もないから、「お姉ちゃん」に手を出して二週間で離婚されたことがある。オレは自分の母親の顔を知らないけど、オレによく似た、美人なんだろう。
「ここにいたら、そのうち、殺される」
 氷みたいな印象の、きつい美人の母親に、大雅は本当によく似ている。今までの母親の中で、一番怖い。あの目ににらまれると、心臓が針で刺されたみたいに動けなくなる。乱暴なオレの父親と違って拳では殴らないけど、平手で叩かれると、キラキラした飾りがたくさんついた長い爪が引っかかって痛い。引っ張られて裂けた耳朶には、まだ傷が残っている。
「逃げるって、どこに」
「分かんねェ。だけど、ここよりは、どこだって」
 オレが押し入れで眠っている間に、大雅は、ずっと起きていたんだろうか。押し入れの隙間から、オレの父親に、自分の母親が殴られるところを見ていたんだろうか。母親が殴られて、血を流して、動かなくなって引きずられていくところまで、全部。
「オレは、大丈夫。大雅、一人で逃げて」
 乾いた身体が、じくりと痛む。大雅をうまく見返せなくて、汗をぬぐうふりをして、大雅から目をそらす。ざらつく身体が、ひりひり痛む。
「バカ、お前だって、やられてんだろ」
「でも、オレ、あの人の子供だから」
 だから、オレはたぶん殺されはしない。オレみたいなかわいい子供がいると、ナンパも同棲も結婚も簡単で、だから、あの父親にとってオレは必要。いくら殴られようが、食事をもらえなかろうが、真夏の暑い日に押し入れに閉じ込められようが、真冬の雪降る夜にベランダに締め出されようが、殺されることはない。母親がいなくなってしまったなら、大雅はきっと、いらない子供だ。
「玲央」
 両手が、じんと熱くなる。汗でかすんだ視界の向こうで、大雅が、じっとオレを見ていた。
「一緒に行こう」
 かちかちと、時計の針の音が響く。ちりちりと、蛍光灯が悲鳴を上げている。大雅がオレの手をぎゅっと握って、汗が染みて痛む目を、擦ることもできなかった。
「オレは、お前を死なせたくない」
 大雅、なにを言ってんだろう。ほんの三か月前に会ったばかりの人間の命なんか、オレはどうだっていい。自分自身の人生だって、どうだっていい。目を閉じて、頭の中で空想を弄んでいるだけで時間は流れる。それと一緒に現実の時間も勝手に進んで、何人ものお母さんとお兄ちゃんとお姉ちゃんと、おじいちゃんとおばあちゃんと弟と妹が、オレの前を通り過ぎて行った。大雅もその中の一人だし、大雅にとってのオレだって、いずれそうなる。そんなやつが生きようが死のうが、どっちだっていい。
「オレたち、兄弟になったんだろ」
 どこをとってもなに一つ似ていないオレたちは、やっぱり他人だ。じっとオレを見る切れ長の目も、狭い額も、固くて短い髪の毛も、骨の筋が目立つ鼻も、色の薄い唇も、尖った顎も、どこも似ていない。握られた手の、指の先の爪の形まで違っている。
「玲央」
 名前を呼ばれるのは、もう何度目だろう。痛いほどに強く握られた手が、真っ白になっている。大雅の指先も、同じ色だ。
「行くよ」
 引きずられるみたいに立ち上がって、「痛い痛い」と、どうでもいい言葉がこぼれた。だけど、だったらなんて言いたいのかなんて、少しも分からなかった。
「玲央」
 オレはなにも言わず、ただ頷いた。湿った真夏の夜の街は、コンクリートのにおいがした。
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