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『時の雨は優しい虹となる』

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「やっほ!結明ゆめ!」
三限目の英語が終わると、
友達である宇星うらら
私の元へやって来た。

私は橋下はしもと 結明。
中学三年生、受験生である。
名前が可愛いらしく、
よくみんなから羨ましいと言われる。

別に、私は
可愛い感じの名前じゃなくて、
よくあるような名前が
良かったんだけど。

「結明、聞いてよ!
昨日、彼氏と出かけたら
優しくしてくれて
すごく嬉しかったの!」

宇星は私の隣に来るなり、
彼氏の話をし始めた。
「そうなんだね」

宇星は、本当に
彼氏さんが好きなんだな。
笑顔で話してくれる彼女を
微笑みながら眺めていた。

そんなことを思いつつ、
私は昔のことを思い出していた。
それは小学生の頃に経験した
初恋の記憶だった。

結局、失恋してしまったけど。

実は言うと、その初恋相手が
クラスメイトなので困っている。
教室のすみっこで友達と談笑してる
大谷おおや 智史さとしくんだ。

好きな気持ちはもう無いけれど、
それでもやっぱり目が合うと
ドキッとしてしまう。
気まずいんだよね。

「午後から雨が降るんだって!
帰るとき、大丈夫かな?」
大谷くんのことを考えていたら、
宇星が自分のスマホを見ながら
そんなことを言った。

「ほんと?傘、持ってないなー」
と言って、私は外を見つめた。
確かに雲行きは怪しかった。

すでに灰色の雲が埋めつくし、
青空はあまり見えない。

もうすぐ雨が降るんだ。
ちょっと嫌だな。
気分が落ち込んでしまいそう。


キーンコーン、カーンコーン。
最後の授業である六限目も終わって、
私のクラスでは終礼が始まっていた。

急いで帰りの用意をしていると、
ふと視界の隅にある人の席が映った。
私は、その人の席を見た。
それは大谷くんの席だった。

そういえば、お昼から
大谷くんを見ていない。
席や後ろのロッカーにも
荷物はなく、早退した様子だった。

どうしたんだろ……。
大丈夫かな…。

そんなことを思っていたら、
雨の音が耳に入ってきた。
ふと外を見る。
雨粒は大きくないけれど、
降ってる量は多かった。

「雨に打たれてないといいけど」

そう呟いた直後、
「起立」という日直の声が聞こえて
私は急いで立ち上がった。

クラスメイトたちと揃って
「さよなら」と告げたあと、
当たり前とでも言うように
宇星がやって来た。

「ごめん、宇星。
今日は用事があるから先に帰るね」
「うん。分かった」

てっきり一緒に帰ろうと
言われるのだろうと思って、
身構えていた。
けれど、意味は無かったよう。

彼女は言い終わったとたん、
そそくさと帰って行った。
その様子を見送ってから、
私は荷物を持ち
一階にある下駄箱へと向かった。

靴をはき替えて外に出てみると、
思った通りで
雨は止んでいなかった。

「どうしよ。傘、持ってない」

そんなことを呟いていたら、
通りすがりの人と
ぶつかってしまった。

「ごめんなさい」
と言おうとしたけれど、
言う間もなく
ぶつかった相手は去っていった。

ふと周りを見ると、
たくさんの生徒がいて
各自、部活に向かったり、
下校したりしていた。

雨が止むまで雨宿りしたいけど、
下足から出たところに
私がいたら邪魔だよね。

他に雨宿りできる場所は
ないかと探していたら、
校舎裏の庭が見えた。

そこには非常口なのか
扉があって、屋根もあった。
私はあそこだと思い、
外の渡り廊下を通って
校舎裏へと向かった。

扉の前にある
小さな段差に座って、
雨が止むのを待っていると
庭に生える花が目にとまった。

見たこともない花だったけど、
とても綺麗だった。
朝顔に似てるけど、少し違う。
何だろうと思って、
その花を見ていたら。

「その花が好きなの?」

と問いかける声が聞こえた。
私は花を見つめてから、
そっと答えた。

「うん。だって……」

すごく綺麗だからと
言いたかったけれど、
声がする方を見た瞬間、
私は声が出なくなった。

理由は祭りで売っているような
狐のお面をかぶっていたから。
降りしきる雨の中に
ポツンと立ち尽くして、
私のことを見ていた。

年齢は私と同じくらい。
声からして男の子だろう。
でも、パジャマ姿で
スニーカーをはいていた。

どうしてここに居るの?
どうしてそんな格好なの?
聞きたいことは沢山あるのに、
聞いたのは別のことだった。

「君、名前はなんて言うの?」

初めて自分が変だと思った。
何故だか、目の前にいる彼を
怖いとは思わなかった。
むしろ話してみたいと思った。

私の質問に
彼は戸惑っているようで、
ほんの少しだけ考えてから
こう言った。

「僕の名前は時雨しぐれ
時の雨だよ。
君のためにやって来た」

「私の、ために?」

彼の言っていることが
分からない。
理解できない。

それでも、彼は
私を真っ直ぐに見つめている。
顔は狐のお面で見えないけれど、
そんな気がした。

「そうだよ。僕は時の雨、
時間を支配する者。
君の後悔を消すために来た。
君のため、
時間をまき戻してあげよう」

「で、でもっ。
私は後悔なんて、」

してないと言いたかったけれど、
急に昔の記憶が帰ってきた。
それは、失恋の記憶。
初雪が降りつもる冬の日。
遠ざかってゆく大谷くんの背中。

当時の私は、別の意味で
心の底が冷えていく。
そんな気がした。

だけど、今は違う。
未練なんてない。
好きだなんて気持ちもない。

だから、もういい。
大谷くんが誰と結ばれたって
かまわないよ。
私には関係ないんだから。

「後悔、あるんでしょ。
後悔してるんでしょ。
好きだった人の事で」

私は、違う。
彼の言うことと私は違う。

それなのに、彼は
どうして堂々とそんなことが
言えるんだろうか。
分からない。

彼が、分からない。
彼から見える私の心さえも。

「好きな気持ちはない。
ただ、遠ざかる彼に
言いたいことを言えなかった。
それを悔やんでいるのだろう?」

あ、そうか。
私だけが違ったんだ。

彼の心は見えないけど、
彼から見える私の心は
ちゃんと見えているんだ。

私という私の心が
彼にはちゃんと見えてるんだ。

瞳の奥がじわりと熱くなる。
顔も見たことないし、
彼を知っている訳じゃない。

それでも、
知らない赤の他人でも、
私のためにそう言ってくれるのが
すごく嬉しかった。

「そうだよ。
ちゃんと自分の言葉で
思いを伝えられなかった。
それが悔しいよ」

「なんで、どうしてって
言いたかったの。
理由が聞きたかったの。
そしたらきっと忘れられるから」

「過去に戻りたい。
後悔を消したい。
お願い。辛くて苦しいよ」

言葉がとめどなく溢れる。
自分を、声を、
抑えることが出来ない。
言葉にしないと壊れそうで。

そんな私の隣に彼が座り、
うなづきながら
私の話を聞いてくれていた。

「じゃあ、君を
過去に戻してあげるよ。
もうすぐ時間の扉が開くから」

言いたいことを言い切って、
落ち着いた私に
時雨くんはそんなことを言った。

その直後、私は驚いた。
彼のパジャマの裾を
ぎゅっと掴み、
すがるような思いで答える。

「本当に、戻れるの?」

私の問いかけに
時雨くんは見えぬ青空を
ゆっくりと見上げて答えた。

「うん。戻れるよ」

そう答えてくれた彼は
見上げたまま
こう聞いてきた。

「信じられない?」

私は下を向いて、
汗が染みる手を見つめた。

私だって後悔が消せるなら、
過去に戻りたいと思う。
でも、本当に戻れるんだろうか。

いや、もし戻れたとして、
私に後悔を消すことが出来るのか。
ちゃんと言いたいことを
言葉にできるんだろうか。

分からない。
何も分からない。
けれど、一つだけ分かる。

横から見える時雨くんの瞳は
本物で、嘘なんかついてないこと。

覚悟を決めた私は
汗が引いた手に力をこめて、
時雨くんのほうを見る。

私が話しかけようとした時、
時雨くんがいきなり私を見て
頭をそっと撫でた。

「でも、時間の扉が開くのは
あと二日だから、
たくさん悩めばいいよ」

そう言った彼は立ち上がり、
まだ降り続ける雨の中へ
歩き出した。

雨に濡れちゃうよと言う前に、
すでに彼の肩は
濡れてしまっていた。

すぐに傘を出したかったけれど、
自分の荷物を見たとたんに
持っていないことを思い出す。

「それじゃあ、僕はこれで。
二日後、またここで
結明のことを待ってるから」

風邪、引かないといいけど。
時雨くんは妖怪とかじゃなくて、
普通に人間だと思うし。

そんなことを思っていた私は、
彼が私の名前を呼んだことに
気付かなかった。


「うそ。結明ったら、
傘持って行かなかったの?
今朝、ちゃんと言ったわよ?」
「うん。そうなの」

今は家族と夕食中。
とても温かいご飯に
なんだかほっとしていた。

結局、彼が去ったあと、
雨はすっかり止んでいて
私は雨に濡れることなく、
家へと帰ってきた。

テーブルには、
ママの手作り料理が
ズラリと並んでいる。
どれも美味しそう。

私は手元にあった味噌汁を
一口だけ飲んでから、
ママにふと聞いていた。

「ねぇ、ママ。
もし後悔があって、
過去に戻れたらどう思う?」

するとママは考えながら、
ウインナーを一口かじって
こう答えた。

「うーん。ママは戻りたくない」
「え。どうして?」

「私の母がよく言ってたの。
自然や時の流れに逆らうと、
自分にそれが罰として
返ってくるんだって」

「それにタイムスリップなんて
出来ないだろうから、
後悔しないように生きなさいって」

ママは昔の話ができて嬉しいのか
懐かしいわね、なんて言いながら
夕食を食べていた。

私は軽く聞いただけだったけれど、
ママの言葉で
自分の考えが揺らいだ気がした。


翌日の放課後。
私は掃除中の宇星に
変なことを聞いていた。

「ねぇ、宇星。
タイムスリップって
ほんとに在るのかな?」

雑巾で窓を拭いている宇星は
難しい顔をした。

「どちらとも言えないよ。
ただ、タイムスリップを
便利なものだとは思えない」

「それに、何かに
頼りすぎるのは良くない。
私が思うのはそれだけ」

宇星はいつもノリが良くて
お調子者な子だから、
こんなに真剣な答えが
返ってくるなんて。

私の友達はいい人だな。
そう思ったのと同時に
私の中で覚悟ができた。

タイムスリップという
便利なものに頼るのは良くない。
宇星の言うとおりだ。
きっと逃げてちゃダメなんだ。

「ありがと!また明日ね!」

私はそれだけ言って、
校舎裏の庭へと向かう。

そんな私の姿を
宇星が切なく見ていたなんて、
私は知るよしもなかった。

階段を下りていって、
下駄箱ですぐにはき替えて
あの庭へと走った。

庭へ着いても、
時雨くんの姿は見えない。
そうだ。明日にならないと
時雨くんは現れないんだ。

タイムスリップに使う
時間の扉が開くのは、
明日だと言っていたし。

頭では分かっていたけれど、
心は強く願っていた。
時雨くんに会いたい。
会わせてほしい、と。

ママの言葉、宇星の思い。
それを聞いた今、
心には勇気が芽生えていた。

何かに頼らず、
失恋した思いと向き合うのは
不安で仕方ない。
それに怖いんだ。

それでも、きっと大丈夫。
私は一人じゃないから。
私はもう逃げたりしないから。
強くなれたから。
きっと大丈夫だ。きっと。

そう強く思ったとき、
「結明」
と私を呼ぶ声が聞こえた。

振り返ってみると、
そこには狐のお面を付けた
いつもと変わらぬ
時雨くんがいた。

「し、時雨くん!実は!」

話したいことがあると
言いたいのに、
また声にできない。
彼の瞳が、私を
見据えていたから。

時雨くんは不思議な人だ。
怖いと思わないし、
むしろ話していたいと思う。
それに、今じゃ
すごく感謝している。

私を見つめる彼の瞳は
もう私の覚悟を
察しているようだった。

「決めたんだね?
タイムスリップなんかしないと」
その言葉に私は
ゆっくりとうなづいた。

時雨くんには悪いけど、
きっとダメなんだ。
逃げるのは良くない。
今の私なら向き合える。
大谷くんに振られたあの日と。

すると、時雨くんは
気が抜けたように
「分かった」
と告げた。

私はそんな時雨くんを
横目にしながら、
持っていた荷物を握る。

「私、いつも逃げてたの。
後悔を消したいと言って、
失恋と向き合わなかった。
過去には戻れないし、
後悔を消すことだって無理」

「でも、だからこそ。
今の私しか出来ないことがある。
それを教えてくれたのは
時雨くんだよ」

私は言いたいことだけを
言い残し、近くにある
学校の校門へと走った。

最後に笑ってから、
こう告げた。

「時雨くん!ありがとー!」

そして、私は家へと走った。
新しい私に出会えた
嬉しさとと共に。
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