珊瑚礁は二つ頭の夢を見る

あおさのみそしる

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珊瑚礁は二つ頭の夢を見る2ー夢のあとさきー

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俺の恋人の話をしよう。

初めて会ったのは、そうだな、俺が中学生で、彼女が小学生の頃だった。住んでるアパートの部屋が隣だったんだ。でも、隣と言ってもご近所付き合いがあったわけじゃない。そのアパート自体オンボロで、今にも崩れそうで、おまけに住んでるやつにまともな人間なんかいなかった。俺はそのアパートに祖母と一緒に暮らしていた。本当に祖母だったのかは分からない。が、育ての親なのは確かだから、例え血が繋がっていなかったとしても、肉親だと思っている。


四畳半の狭いアパートだった。そして隣の部屋で繰り返される音に、俺はいつも通り目をつぶり、心を閉ざしていた。
隣には、哀れな親子が住んでいた。事情など知らない。そもそも、こんな今にも壊れそうな退廃したアパートに住んでいる住人の中に、まともな人生を歩んできた者などいるのだろうか。出来る事ならばすぐにでもこんな場所からは出ていきたかった。だが、その時俺は中学生で、自分で出来ることなんて何も無かった。そう、自分で出来ることなんて。
隣の部屋からは、いつも何かしらの音がしていた。何かが壁に叩きつけられる音、割れる音、嗚咽、悲鳴、嘆願、叫び。この世に地獄という所があるのなら、それはこのアパートのあの一室に詰め込まれているに違いない。そんなことを真面目に考えていた。

扉を開けたのは、漏れ出る光が、あまりに赤かったからだと思う。

学校から帰ってきて、ふと立ち止まった。隣の部屋の住人はいつも扉が閉じきっていない。その隙間から漏れ出る音で、隣の住人が何をしているのかはだいたい知っていた。他でもない、自分が、蒸発する前の父母から受けていた仕打ちと一緒だ。おそらくは女の子がいて、大人から暴力を受けている。他から見れば非日常でも、自分にとっては日常だった。会ったこともないその女の子に、親近感さえ感じていたのだ。だがその日は何かが違った。半開きの扉。なんだろうこの違和感は。ぴくりとも動けなくなってしまった俺は、そのあまりの静かさに気づいた。音がしないのだ。人の気配はあるのに、まるで世界が止まってしまったような静寂。俺は扉に手をかけた。心臓が早鐘を打っていた。頭の中は真っ白だった。あの時、何故自分でも扉を開けたのかは分からない。でも、俺はあの時、確かに違和感を感じていたのだ。理不尽をただひたすらに受け取る自分たちには、こんな当たり前の静寂さえ、日常ではない。俺たちの空間に何か不穏なものが入り混じっている、と感じていた。
それがなんなのか、俺は確かめたくなったのだ。
扉の先には、真っ赤な空間が広がっていた。窓から入り込む夕日だと、僅かに逡巡してから理解した。その部屋にはカーテンさえなかったのだ。
男が横たわっている。仰向けで、目玉がこぼれんばかりに見開かれて、俺はその男と目があった。気がした。人形かと思った。男の腹には、女の子が座っていた。裸で、真っ赤だった。こちらも人形のようだったが、口だけが動いている。くちゃくちゃと、何かを咀嚼していた。耳障りな音だった。しばらくして、俺は彼女が何を咀嚼しているのかに気づいた。

彼女は自分の父親を喰っていたのである。


***


八月の真ん中。
熱気で歪む景色の中から、じりじりと空気の焼かれる音さえ聞こえてきそうだ
うだるような暑さ。一歩外へ出ればたちまち汗がふき出し、耳にはこれでもかと命を燃やす蝉たちの大合唱が聞こえてくるだろう。
分かり切った事だ。だが、真夏の気配の微塵も入り込めないほど冷えきった寝室の中から眺めるそれは、まるで一生をもってしても辿りつけない別世界のようだった。


伊織は今年で19になる。俺よりも6つ若い。伊織は大学生だ。真面目に勉強をし、大学に受かったときは、二人して馬鹿みたいに喜んで、朝まで騒いでいた。
今年の夏も、大学の友だちと楽しく過ごす。予定だった。結局彼女は、8月に入っていた予定を全てキャンセルしている。そうせざるを得ないのだ。


猫のように寄り添っている伊織の髪を撫でる。汗で張り付いた前髪を退けると、白い額が露わになる。じっとりと汗をかいて、呼吸は浅い。うっすらと開いた瞼から覗く瞳は虚ろで、焦点の定まらない視線が虚空を彷徨っている。
「伊織」
静かに声をかけると、彼女の指先だけがぴくりと反応した。何かを探すようにシーツの上を彷徨う彼女の手を絡め取ってやる。ぬめる手のひらの感触にぞわりと冷たい波が肌を逆撫でた。
それでも強く手を握る。指と指を絡め、屈みこんで口づける。華奢な指先。その皮膚は無残に噛み切られ、ひどく爛れたそのひとつひとつにゆっくりと唇で触れる。ちらりと彼女の顔を見やる。今朝方、拒否がないことを確かめてから、指先から手の甲、腕にかけてゆっくりと舌を滑らせた。錆くさい匂いが鼻腔いっぱいに広がる。時折触れるざらざらとした血の塊は、今朝方の名残だろう。時間が経ち固まったそれも丁寧に舐め上げる。ありったけの愛おしさで持って彼女の手を覆う赤い斑を拭う。
「たかまさ……」
彼女が俺を呼ばう。顔を上げれば、ベッドの上、毛布の中から彼女が身を乗り出していた。暗い色を宿した瞳は、俺の名を呼びながらも、俺を映さない。そこにあるのは深い深い洞だった。
「たかまさ、たかまさ……」


『バランスだよ』

 いつだったか、友人が語った言葉が今でも耳に残っている。まるで呪いだ。

『あんなことをして、その後ものこのこ生きている自分が許せないんだろう。時々あの頃の狂気に立ち戻って、自分の本当の在り様を確認しないと気が済まないんじゃないのか?幸せな自分がいるなら、そうじゃない自分も存在しないとバランスが取れない。だから自分を滅茶苦茶にする。でもな、そこに自殺という選択肢がないのは、彼女がちゃんとお前の事を好きで、生きていたいと思っているからだろう。そういうの、真面目って言うんだぜ。たいていそういう奴ってのは、早死にするんだけどな』

 何気ない口調で煙草を燻らせながら、かの友人は言葉で以て見事に俺の胸を抉った。その場に伊織がいなくてよかったと、それだけが救いだった。
「高雅……! たかまさっ」
 伊織のひどく怯えた声でハッとした。見ると、伊織が俺の腰に縋って震えていた。シーツを頭からかぶり、俺のシャツを握る指先は真っ白になるくらい力が込められている。何にそんなに怯えているのか。答えはすぐに分かった。携帯電話の着信音だ。枕元にあるそれを引き寄せ、相手を確認した。
「大丈夫、大丈夫。先生からだよ。ほら」
 安心させるように、努めて穏やかな声で言ってやり、伊織にも画面を見るように促すが、伊織の警戒態勢が解かれることはなかった。やだ、やだ、と幼子のような舌足らずな言葉を繰り返し、自分の手を噛みだした。俺はそれを見て、また手当をしなければならないな、と思った。噛むなと言っても、今の彼女には無理な注文だ。そうこうしているうちに着信が切れてしまったので、かけ直そうとして、部屋が冷え過ぎていることに気付いた。クーラーを切る時ふと見えた時計は、午後の三時を指していた。伊織の発作が出たのは今朝のことだ。彼女に付添ったままパソコンで仕事をしているうちにずいぶん時間が経ってしまっていたらしい。俺は窓にかけられた分厚いカーテンに目をやった。この部屋は閉め切っている。閉め切った窓の向こうに広がっているであろう真夏の気配は、その一切を遮断され、光さえ届かないこの部屋はまるで牢獄だ。だが、こうでもしないと伊織の正気が保てないのだ。
彼女はこの八月の真ん中、たった一日だけ狂ってしまう。ベッドに投げだした体を縮こませ、常に俺に縋りつき、小さな子どものように言葉足らずになる。その目は虚ろで、俺の言葉でさえもうまく飲みこむことができない。幼児退行というのだろう。溌剌として無邪気に笑っている普段の彼女からは到底考えられない姿だ。この季節、一過性のものであると分かっていても、その痛々しい姿は見るに耐えない。
「はい、高雅です。……ご無沙汰しております」
再びかかってきた電話に出る。電話の向こうの声は穏やかだ。
「伊織も元気ですよ。今はちょっと、出られませんけど……」
懐かしいその声に、僅かだが肩の力が抜ける。無意識に気張っていたらしいと、そこで初めて気づいた。電話の相手は、俺と伊織が数年前まで世話になっていた少年院の先生からだった。施設を出て自立した後も、何かと俺たちを気にかけて連絡をよこしてくれる。
がちがちと歯を鳴らしながら必死の形相で指を噛み続ける伊織を引き寄せ、被さったシーツごと抱きしめた。ふわりと香ったのは血の匂い。いつもの伊織の匂いではない。だが、初めて彼女に会った時、彼女のまわりを取り囲んでいたのはこの錆臭い匂いだった。
「終わったよ」
腰にまわされた彼女の腕をぽんぽんと叩く。すると、より一層強い力が込められる。その意図を了解して、ベッドに乗り上げ、彼女に向き直った。頭からすっぽりと毛布を被り、隙間からこちらを見る目が、虚ろな光を灯している。

ああ、かわいそうな伊織。

小学生にして実の父親を殺して食った殺人鬼は、こんなにも脆い。

彼女が、情事の最中に過去に思いを馳せているのは知っていた。その事を確認したり、まして責めたことなど無い。彼女が彼女である限り、それは仕方ないことだった。彼女の父の存在は、今でも彼女を捕えて離さない。無理に引き剥がそうとすれば、彼女は壊れてしまう。
そうやって治りかけの瘡蓋に何度も何度も爪をたてる。掘れば掘るほどに深く傷つける。
彼女の中の暗い洞の中には、きっとまだあの父親の姿があるのだろう。声にもならない悲鳴が彼女を堰き立てるのだ。だが、その洞が綺麗に消えてしまうのを恐れているのは彼女の方だ。幸せな自分がいるなら、そうでない自分もいないと気が済まない。どちらもあって、そこで初めて自分が自分になるのだと。
なるほどバランスだ
彼女の中には毒がある。吐きだすことも叶わないそれを受け止める。彼女はなにひとつ置いて行かない。あのアパートの中にあったもの全て、持っていく。重すぎるそれに足を挫かれながら、それでも歩みを止めない
彼女の中の「生きる」とはそういうことなのだ。

初めて体を触れ合わせた時、拒絶反応を示したのは俺の方だった。
誰よりもこの行為を嫌悪しているのは彼女だったはずなのに、先にその肌の温度に耐えられず嘔吐した自分を、俺はあの時本気で呪いたくなった。情けなかった。ともに育った少年院を出るとき、俺は彼女に誓ったのだ。一緒になってくれ、と。なのにこの様だ。
彼女は、伊織は、ただ静かに俺を見ていた。蔑むでもなく、悲しむでもなく。ただ、諦めたような顔をして微かに笑っていた。その顔を見て、俺は悟った。彼女も同じことを思っていただろう。伊織だけじゃない。俺達はまだ、あの四畳半のぼろアパートから一歩だって出られていないのだと。
『かわいそう』
彼女は一度だけそう言った。それが彼女自身の事ではなく、俺の事を言っているのだとすぐに分かった。
『かわいそうか。そうか。じゃあ俺達、お揃いだな』
俺も、お前のことが、かわいそうで、かわいくて、たまらないのだ。

抱きしめる腕に力を込める。
「ここにいるよ」
だから、返ってこい。




『結婚しよう』

俺がそう言ったのは、他でもない彼女の為だった。

『結婚します』

彼女にそう誓わせたのは、間違いなく自分の為だった。



俺はもう一度見てみたいのだ。


あの日父親の肉を食み命を喰らった彼女の目。


水面のように穏やかな静寂の中に眠る、あの壮絶なまでの「生」への執着を。




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