名前を呼んで

潮騒めもそ

文字の大きさ
1 / 1

名前を呼んで

しおりを挟む
 その日は、ひどい雨だった。

 神殿の石畳は黒く濡れ、夕刻の祈りの声も、雨音に溶けていた。
 神官は外套を深くかぶり、最後の戸締まりをするために回廊を歩いていた。

 ――そのときだ。

 かすかな鳴き声。

 風に攫われそうな、か細い音。

 足を止めたのは、習慣ではない。
 慈悲とも、義務とも違う、もっと原始的な衝動だった。

 太い柱の陰、布切れの中で、小さな命が震えていた。

 生後二か月ほどの子猫だった。
 雨に濡れて、声も枯れかけている。

「ひどい……こんなところに」

 神官はそう呟いたが、表情は変わらない。
 いつも通りの、堅い顔。

 だが、その手は迷わず伸びていた。

 外套の内側にそっと包み、
 子猫の体温が伝わると、ほんのわずかに息をつめる。

 ――生きている。

 それだけで、十分だった。

 ***

 それから、ぼくは神殿に住み始めた。

 神官さまは相変わらず寡黙で、
 人前では笑わない。
 祈りの場では、感情を一切見せない。

 けれどその夜、誰もいない礼拝堂の片隅。
 ぼくが神官さまの膝におぼつかない足で乗ると、彼はためらいなく受け入れた。

「……少し冷たいな」

 そう言いながら、指先で小さな前足を包む。
 肉球を、そっと。

 ぷに、とした感触に、
 彼の口元が、わずかに緩む。

 誰にも見せない、ほんの一瞬の微笑み。

 ぼくは安心して、神官さまの胸元に顔を埋めた。

 彼は小さく息を吐いて――そして、理性を少しだけ緩める。

 神官さまは、ぼくの毛並みに顔をうずめる。

 深く吸うわけでもなく、
 ただ、そこにある温もりを確かめるように。

 それは祈りよりも静かで、背徳よりも無垢な行為だった。

「……なんて小さくて可愛いんだ」

 誰に聞かせるでもない言葉。

 ぼくは言葉の意味も分からず、温もりにうとうとする。

 次の日の夜までぼくは眠ったままだった。

 神官さまの寝室は、祈りのあと特有の静けさに包まれている。
 灯りは落とされ、月の光だけが床に淡く流れていた。

 ぼくは、また神官さまの胸の上で丸くなる。

 神官さまの心臓の音。
 ゆっくりで、強い。

 その音を聞くのが、すき。

 神官さまは、ぼくの背中を撫でながら、ぽつりとささやいた。

「お前は、私より先に逝くだろう」

 低くて、静かな声。

「だから名は与えない。……お別れが、辛くなるからね」

 その言葉は、祈りみたいだった。

 でも、ぼくは知ってる。

 それは神官さまを守るための言葉だって。

 ぼくは、にゃあと鳴かなかった。
 代わりに、神官さまの衣の上に、顔をうずめた。

 名前がなくてもいい。
 呼ばれなくてもいい。
 
 それでも――
 この人のそばに、いたい。
 この人を、ひとりにしたくない。

 言葉にならない。
 でも、わかるんだ。
 この人が、どれだけ孤独か。
 誰にも甘えられないか。

 ぼくは、そっと喉を鳴らした。

 神官さまの指が、一瞬止まる。

「……すまない」

 ちがう。謝らないで。
 ぼくは、あなたのために、ここにいる。
 あなたを助けるために、ここにいたい。
 ――それが、ぼくの願い。

 神官さまは、長い沈黙のあと、ぼくを抱きしめた。

 優しくも、離さない力で。

「……私の可愛い猫ちゃん」

 その声は、少しだけ震えていた。

 ぼくは目を閉じる。

 名前のないまま、眠りにつく。

 ***

 神官さまに、喜んでもらいたかった。

 今日も忙しそうだった。
 朝から人が途切れなくて、声も少し疲れていたから。

 これを見つけたとき、きっとお役に立てると思った。
 青くて、大きい虫。
 羽がきらきらして、強そうで、なんだか特別な感じがした。

 これなら――神官さまは喜んでくれるよね。

 そう思って、口にくわえて走った。

 神官さまの足元に堂々と、虫を置く。

「にゃあん!」

 ――ほら! すごいでしょ?

 でも。

 神官さまの顔が、みるみるうちに変わっていった。

 最初は驚いた顔。
 次に、息を呑んだ顔。
 そして……青い虫と、同じような顔色。

 血の気が引く、というのはきっとこういうことだ。

「……どこで、これを」

 声が、低く震えている。

 神官さまは、ゆっくりと虫を受け取った。
 触れないように、布越しに。

 ぼくは、しっぽを振る。

 受け取ってくれた。よかった。

 そう思った、そのとき。

 神官さまの手が、ぼくの頭に触れた。

 いつもより、少しだけ重い。

「……お前の気持ちは受け取った」

 光が、ふわっと広がる。

 あたたかいのに、いつもと違う。

 ぼく、これ分かるよ。
 これは、汚れを落とすときのやつだ。

 浄化の魔法。

 なんで? ぼく、汚れてないよ?

 そう言いたかったけど、
 声は「にゃあ」としか出せなかった。

 神官さまは、虫を持ったまま、振り返らずに歩いていく。

 回廊の向こう。
 立ち入りを禁じられた、奥の奥。

 ぼくは、取り残された。

 床の上で、しばらく動けなかった。

 ……あれ?

 喜んでもらえると思ったのに。

 神官さまのお役に立ちたかっただけなのに。

 なんか、ちがう?

 神官さまの背中は、
 いつもより、少しだけ遠く見えた。

 ***

 神官さまのおてつだい、なにかできないかなぁ。

 供物やお水を運ぶのは無理だし、書き物は読めないし。

 かみさまは、ねずみはすきかな?

 でもこの前の、虫はだめだった。

 じゃあ、やっぱり……ぼくにも魔法が使えたらいいのに。

 神官さまみたいに、手をかざすだけで疲れをとってあげられたらいいのに。

 でも、ぼくは猫だ。

「にゃあ」

 考えても仕方ないから、ちょっと甘えちゃおう。

 神官さまの足元に近づく。
 裾に鼻先をこすりつけて、もう一度。

「にゃぅ」

 神官さまは、手を止めた。

 書きかけの祈祷文。
 深く吐かれる息。

 それから、ゆっくりと腰を落として、
 ぼくを抱き上げた。

「……どうした」

 声は低いけれど、やわらかい。

 胸に引き寄せられる。
 いつもの場所。

 神官さまは、そのまま――ぼくの頭に、顔を埋めた。

 すう、と。

 息を吸う音。

 え?

 もう一度。

 すう……。

 神官さまの指が、ぼくの背中に回る。
 逃がさないみたいに。

 ああ、これ。この感じ。
 神官さまはぼくの匂いが好きみたい。
 恥ずかしいけど、なんだか嬉しいな。

 でも今日は、いつもより深い。

 神官さまの肩が、少しだけ震えている。

「はぁ……落ち着く」

 ぽつりと、独り言みたいに。

 ぼくは喉を鳴らした。
 それしか、できないけど。

 魔法は使えない。
 言葉もよく分からない。

 でも、こうして匂いを分けて、ぬくもりを渡すことならできる。

 神官さまは、しばらくそのままだった。

 祈りよりも長く。
 かみさまの仕事よりも大切そうに。

 やがて、静かに囁く。

「……ずっとそばに居て。少しでも永く一緒に居よう」

 それって、ぼくは役に立ってるってこと?

 ぼくはもう一度、小さく鳴いた。

「にゃぁぅ」

 胸の奥で、神官さまの鼓動が少しだけ軽くなった気がした。

 ***

 最近、神殿がざわざわしている。

「二月二十二日の、二十二時二十二分」
「その時に、神様に祈ると――」
「奇跡が起こるらしい」

 そんな声が、廊下の向こうから聞こえてくる。

 奇跡。それって、なに?

 病気が治ること?
 怪我が消えること?
 願いが、叶うこと?

 神官さまは、いつもより忙しそうだ。

 朝のお清めは長く、供物はいつもより多く、祈りの声も、夜遅くまで途切れることはない。

 肩が、少しだけ落ちている。

 ぼくは、そばで見ているだけ。

 なにもできない。

 そわそわする。どこかの奥が、むずむずする。

 もし、奇跡が本当に起こるなら。

 ぼくも、祈っていいのかな。

 人じゃなくても――猫でも。

 ぼくは――神官さまになりたい。

 あの白い衣を着て、かみさまの前に立って、疲れた人に手を差し伸べて。

 神官さまの隣に立ちたい。

 同じ目線で。同じ夜を何度も越えて。

 寿命が違うとか、名前がないとか、そんなの後回しでいい。

 助けたいんだ、神官さまを。

 いつも、ひとりで背負ってるから。

 ぼくは、神官さまの足元にすり寄った。

 祈りの合間、僅かな静けさ。

「にゃ」

 顔を上げた神官さまが、一瞬だけ、困ったように微笑む。

「……お前も、願うのか」

 その声は、冗談みたいで、
 でもどこか、怖がっているみたいだった。

 ぼくは、答えられない。

 ただ、まっすぐ見つめる。

 金色の瞳で。

 ――ねえ、かみさま。

 二月二十二日、二十二時二十二分。

 もし、奇跡が起こるなら。

 ぼくは、神官さまと同じ神官になりたいです。

***

 祈りの鐘が、静かな神殿に響き渡った。

 二月二十二日。二十二時二十二分。

 やわらかな奇跡の光が、神殿を満たす。

 眩しさも、熱もない。
 ただ、世界の輪郭が静かにほどけていく。

 床に伏していた小さな身体が、ゆっくりと形を変えた。

 人間の顔、手足、身体。
 声を出せる喉がある。

 でも――

 猫の耳は、頭の上に残っていた。
 柔らかく、灰色で、紫に艶めく猫の耳。

 背後には、しっぽ。

 ゆらりと、感情に合わせて揺れている。

 白い衣が、自然とその身を包む。
 神官の装束。

 僕は立ち上がった。足元が少しふらつく。

「……神官さま」

 猫の時より少しだけ低く澄んだ声。

 これが僕の声?

 そばで見ていた神官さまは、息を呑んだまま動けずにいる。

 紫の瞳が揺れている。

「お前は……」

 ゆっくり、確かめるように。

「私の、猫ちゃんなのか?」

 嬉しさで胸が、ぎゅっとなる。

 僕は、一歩近づいた。

 しっぽが、無意識に揺れる。

「はい」

 短く、笑顔で答えた。

「ずっと、あなたのおそばにいたかった」

 神官さまの手が、伸びる。
 でも途中で止まる。

 触れていいのか、迷っているみたい。

 僕は、自分からその手に額を寄せた。

 猫だった時と同じように、額をすりすりと。

 神官さまの声が震える。

「……奇跡が起こったのか」

 僕は、心から笑った。

「神様に願いを叶えてもらいました」

 神官さまの指が、そっと――耳の付け根に触れた。

 ぴくり。反射で耳が動く。

「……この毛色は変わっていないな」

 声が少しだけ安心したように笑っている。

 でもその奥にあるのは、祈りと、恐れと、愛情。

 世界は、まだ冷たく静かだ。

 この奇跡の意味を、理解するには時間がかかる。

 けれど――もう、名前を呼んでもらえる距離にいる。

「神官さま! 神様が、奇跡を下さったのです。これで、ずっと永く……あなたの隣にいられます」

 神官さまは、すぐに答えなかった。

 ゆっくりと手で顔を覆い、伏せる。

 神官さまの金色の長い髪が、肩から零れ落ちる。
 その指先が、わずかに震えていた。

「……何ということだ」

 永く共にいられる奇跡。

 僕は、ゆっくり近づいた。

 猫だった頃と同じ距離で。

「神官さま。どうか僕に、名前を頂けませんか」

 神官さまの肩が、ぴくりと動く。

 長い沈黙。

 祈りの鐘の余韻が、まだ空気に残っている。
 淡い光の粒子が雪のように舞っている。

「……お前の名をずっと呼びたかった」

 神官さまは顔を上げる。

 紫の瞳が、濡れていた。

 そして抱きしめられて、耳元で名前を囁かれた。

「お前の名は――」

 ゆっくりと、噛みしめるように。

「猫であり、人であり、神の祝福を受けた――私の……」

 言葉が微かに恥じらいを帯びながら。

「……伴侶だ」

 世界が輝き出すように、名前が胸に落ちる。

 温かくて、重くて、もう手離せないもの。

 初めて名を与えられ、呼ばれた。

 これが嬉しいという感情。
 こんなにも温かくて心地良いんだ。

「大好きです」

 神官さま――いいえ。

 抱きしめながら彼の名を、呼んだ。

 共に生きるための言葉。

 僕の耳はぴんと立った。
 そしてしっぽを左右に揺らして、彼にそっと絡めた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

不倫の味

麻実
恋愛
夫に裏切られた妻。彼女は家族を大事にしていて見失っていたものに気付く・・・。

嫌われたと思って離れたのに

ラム猫
恋愛
 私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。  距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!

野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。  私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。  そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。

友人の結婚式で友人兄嫁がスピーチしてくれたのだけど修羅場だった

海林檎
恋愛
え·····こんな時代錯誤の家まだあったんだ····? 友人の家はまさに嫁は義実家の家政婦と言った風潮の生きた化石でガチで引いた上での修羅場展開になった話を書きます·····(((((´°ω°`*))))))

降っても晴れても

凛子
恋愛
もう、限界なんです……

処理中です...