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その日は、ひどい雨だった。
神殿の石畳は黒く濡れ、夕刻の祈りの声も、雨音に溶けていた。
神官は外套を深くかぶり、最後の戸締まりをするために回廊を歩いていた。
――そのときだ。
かすかな鳴き声。
風に攫われそうな、か細い音。
足を止めたのは、習慣ではない。
慈悲とも、義務とも違う、もっと原始的な衝動だった。
太い柱の陰、布切れの中で、小さな命が震えていた。
生後二か月ほどの子猫だった。
雨に濡れて、声も枯れかけている。
「ひどい……こんなところに」
神官はそう呟いたが、表情は変わらない。
いつも通りの、堅い顔。
だが、その手は迷わず伸びていた。
外套の内側にそっと包み、
子猫の体温が伝わると、ほんのわずかに息をつめる。
――生きている。
それだけで、十分だった。
***
それから、ぼくは神殿に住み始めた。
神官さまは相変わらず寡黙で、
人前では笑わない。
祈りの場では、感情を一切見せない。
けれどその夜、誰もいない礼拝堂の片隅。
ぼくが神官さまの膝におぼつかない足で乗ると、彼はためらいなく受け入れた。
「……少し冷たいな」
そう言いながら、指先で小さな前足を包む。
肉球を、そっと。
ぷに、とした感触に、
彼の口元が、わずかに緩む。
誰にも見せない、ほんの一瞬の微笑み。
ぼくは安心して、神官さまの胸元に顔を埋めた。
彼は小さく息を吐いて――そして、理性を少しだけ緩める。
神官さまは、ぼくの毛並みに顔をうずめる。
深く吸うわけでもなく、
ただ、そこにある温もりを確かめるように。
それは祈りよりも静かで、背徳よりも無垢な行為だった。
「……なんて小さくて可愛いんだ」
誰に聞かせるでもない言葉。
ぼくは言葉の意味も分からず、温もりにうとうとする。
次の日の夜までぼくは眠ったままだった。
神官さまの寝室は、祈りのあと特有の静けさに包まれている。
灯りは落とされ、月の光だけが床に淡く流れていた。
ぼくは、また神官さまの胸の上で丸くなる。
神官さまの心臓の音。
ゆっくりで、強い。
その音を聞くのが、すき。
神官さまは、ぼくの背中を撫でながら、ぽつりとささやいた。
「お前は、私より先に逝くだろう」
低くて、静かな声。
「だから名は与えない。……お別れが、辛くなるからね」
その言葉は、祈りみたいだった。
でも、ぼくは知ってる。
それは神官さまを守るための言葉だって。
ぼくは、にゃあと鳴かなかった。
代わりに、神官さまの衣の上に、顔をうずめた。
名前がなくてもいい。
呼ばれなくてもいい。
それでも――
この人のそばに、いたい。
この人を、ひとりにしたくない。
言葉にならない。
でも、わかるんだ。
この人が、どれだけ孤独か。
誰にも甘えられないか。
ぼくは、そっと喉を鳴らした。
神官さまの指が、一瞬止まる。
「……すまない」
ちがう。謝らないで。
ぼくは、あなたのために、ここにいる。
あなたを助けるために、ここにいたい。
――それが、ぼくの願い。
神官さまは、長い沈黙のあと、ぼくを抱きしめた。
優しくも、離さない力で。
「……私の可愛い猫ちゃん」
その声は、少しだけ震えていた。
ぼくは目を閉じる。
名前のないまま、眠りにつく。
***
神官さまに、喜んでもらいたかった。
今日も忙しそうだった。
朝から人が途切れなくて、声も少し疲れていたから。
これを見つけたとき、きっとお役に立てると思った。
青くて、大きい虫。
羽がきらきらして、強そうで、なんだか特別な感じがした。
これなら――神官さまは喜んでくれるよね。
そう思って、口にくわえて走った。
神官さまの足元に堂々と、虫を置く。
「にゃあん!」
――ほら! すごいでしょ?
でも。
神官さまの顔が、みるみるうちに変わっていった。
最初は驚いた顔。
次に、息を呑んだ顔。
そして……青い虫と、同じような顔色。
血の気が引く、というのはきっとこういうことだ。
「……どこで、これを」
声が、低く震えている。
神官さまは、ゆっくりと虫を受け取った。
触れないように、布越しに。
ぼくは、しっぽを振る。
受け取ってくれた。よかった。
そう思った、そのとき。
神官さまの手が、ぼくの頭に触れた。
いつもより、少しだけ重い。
「……お前の気持ちは受け取った」
光が、ふわっと広がる。
あたたかいのに、いつもと違う。
ぼく、これ分かるよ。
これは、汚れを落とすときのやつだ。
浄化の魔法。
なんで? ぼく、汚れてないよ?
そう言いたかったけど、
声は「にゃあ」としか出せなかった。
神官さまは、虫を持ったまま、振り返らずに歩いていく。
回廊の向こう。
立ち入りを禁じられた、奥の奥。
ぼくは、取り残された。
床の上で、しばらく動けなかった。
……あれ?
喜んでもらえると思ったのに。
神官さまのお役に立ちたかっただけなのに。
なんか、ちがう?
神官さまの背中は、
いつもより、少しだけ遠く見えた。
***
神官さまのおてつだい、なにかできないかなぁ。
供物やお水を運ぶのは無理だし、書き物は読めないし。
かみさまは、ねずみはすきかな?
でもこの前の、虫はだめだった。
じゃあ、やっぱり……ぼくにも魔法が使えたらいいのに。
神官さまみたいに、手をかざすだけで疲れをとってあげられたらいいのに。
でも、ぼくは猫だ。
「にゃあ」
考えても仕方ないから、ちょっと甘えちゃおう。
神官さまの足元に近づく。
裾に鼻先をこすりつけて、もう一度。
「にゃぅ」
神官さまは、手を止めた。
書きかけの祈祷文。
深く吐かれる息。
それから、ゆっくりと腰を落として、
ぼくを抱き上げた。
「……どうした」
声は低いけれど、やわらかい。
胸に引き寄せられる。
いつもの場所。
神官さまは、そのまま――ぼくの頭に、顔を埋めた。
すう、と。
息を吸う音。
え?
もう一度。
すう……。
神官さまの指が、ぼくの背中に回る。
逃がさないみたいに。
ああ、これ。この感じ。
神官さまはぼくの匂いが好きみたい。
恥ずかしいけど、なんだか嬉しいな。
でも今日は、いつもより深い。
神官さまの肩が、少しだけ震えている。
「はぁ……落ち着く」
ぽつりと、独り言みたいに。
ぼくは喉を鳴らした。
それしか、できないけど。
魔法は使えない。
言葉もよく分からない。
でも、こうして匂いを分けて、ぬくもりを渡すことならできる。
神官さまは、しばらくそのままだった。
祈りよりも長く。
かみさまの仕事よりも大切そうに。
やがて、静かに囁く。
「……ずっとそばに居て。少しでも永く一緒に居よう」
それって、ぼくは役に立ってるってこと?
ぼくはもう一度、小さく鳴いた。
「にゃぁぅ」
胸の奥で、神官さまの鼓動が少しだけ軽くなった気がした。
***
最近、神殿がざわざわしている。
「二月二十二日の、二十二時二十二分」
「その時に、神様に祈ると――」
「奇跡が起こるらしい」
そんな声が、廊下の向こうから聞こえてくる。
奇跡。それって、なに?
病気が治ること?
怪我が消えること?
願いが、叶うこと?
神官さまは、いつもより忙しそうだ。
朝のお清めは長く、供物はいつもより多く、祈りの声も、夜遅くまで途切れることはない。
肩が、少しだけ落ちている。
ぼくは、そばで見ているだけ。
なにもできない。
そわそわする。どこかの奥が、むずむずする。
もし、奇跡が本当に起こるなら。
ぼくも、祈っていいのかな。
人じゃなくても――猫でも。
ぼくは――神官さまになりたい。
あの白い衣を着て、かみさまの前に立って、疲れた人に手を差し伸べて。
神官さまの隣に立ちたい。
同じ目線で。同じ夜を何度も越えて。
寿命が違うとか、名前がないとか、そんなの後回しでいい。
助けたいんだ、神官さまを。
いつも、ひとりで背負ってるから。
ぼくは、神官さまの足元にすり寄った。
祈りの合間、僅かな静けさ。
「にゃ」
顔を上げた神官さまが、一瞬だけ、困ったように微笑む。
「……お前も、願うのか」
その声は、冗談みたいで、
でもどこか、怖がっているみたいだった。
ぼくは、答えられない。
ただ、まっすぐ見つめる。
金色の瞳で。
――ねえ、かみさま。
二月二十二日、二十二時二十二分。
もし、奇跡が起こるなら。
ぼくは、神官さまと同じ神官になりたいです。
***
祈りの鐘が、静かな神殿に響き渡った。
二月二十二日。二十二時二十二分。
やわらかな奇跡の光が、神殿を満たす。
眩しさも、熱もない。
ただ、世界の輪郭が静かにほどけていく。
床に伏していた小さな身体が、ゆっくりと形を変えた。
人間の顔、手足、身体。
声を出せる喉がある。
でも――
猫の耳は、頭の上に残っていた。
柔らかく、灰色で、紫に艶めく猫の耳。
背後には、しっぽ。
ゆらりと、感情に合わせて揺れている。
白い衣が、自然とその身を包む。
神官の装束。
僕は立ち上がった。足元が少しふらつく。
「……神官さま」
猫の時より少しだけ低く澄んだ声。
これが僕の声?
そばで見ていた神官さまは、息を呑んだまま動けずにいる。
紫の瞳が揺れている。
「お前は……」
ゆっくり、確かめるように。
「私の、猫ちゃんなのか?」
嬉しさで胸が、ぎゅっとなる。
僕は、一歩近づいた。
しっぽが、無意識に揺れる。
「はい」
短く、笑顔で答えた。
「ずっと、あなたのおそばにいたかった」
神官さまの手が、伸びる。
でも途中で止まる。
触れていいのか、迷っているみたい。
僕は、自分からその手に額を寄せた。
猫だった時と同じように、額をすりすりと。
神官さまの声が震える。
「……奇跡が起こったのか」
僕は、心から笑った。
「神様に願いを叶えてもらいました」
神官さまの指が、そっと――耳の付け根に触れた。
ぴくり。反射で耳が動く。
「……この毛色は変わっていないな」
声が少しだけ安心したように笑っている。
でもその奥にあるのは、祈りと、恐れと、愛情。
世界は、まだ冷たく静かだ。
この奇跡の意味を、理解するには時間がかかる。
けれど――もう、名前を呼んでもらえる距離にいる。
「神官さま! 神様が、奇跡を下さったのです。これで、ずっと永く……あなたの隣にいられます」
神官さまは、すぐに答えなかった。
ゆっくりと手で顔を覆い、伏せる。
神官さまの金色の長い髪が、肩から零れ落ちる。
その指先が、わずかに震えていた。
「……何ということだ」
永く共にいられる奇跡。
僕は、ゆっくり近づいた。
猫だった頃と同じ距離で。
「神官さま。どうか僕に、名前を頂けませんか」
神官さまの肩が、ぴくりと動く。
長い沈黙。
祈りの鐘の余韻が、まだ空気に残っている。
淡い光の粒子が雪のように舞っている。
「……お前の名をずっと呼びたかった」
神官さまは顔を上げる。
紫の瞳が、濡れていた。
そして抱きしめられて、耳元で名前を囁かれた。
「お前の名は――」
ゆっくりと、噛みしめるように。
「猫であり、人であり、神の祝福を受けた――私の……」
言葉が微かに恥じらいを帯びながら。
「……伴侶だ」
世界が輝き出すように、名前が胸に落ちる。
温かくて、重くて、もう手離せないもの。
初めて名を与えられ、呼ばれた。
これが嬉しいという感情。
こんなにも温かくて心地良いんだ。
「大好きです」
神官さま――いいえ。
抱きしめながら彼の名を、呼んだ。
共に生きるための言葉。
僕の耳はぴんと立った。
そしてしっぽを左右に揺らして、彼にそっと絡めた。
神殿の石畳は黒く濡れ、夕刻の祈りの声も、雨音に溶けていた。
神官は外套を深くかぶり、最後の戸締まりをするために回廊を歩いていた。
――そのときだ。
かすかな鳴き声。
風に攫われそうな、か細い音。
足を止めたのは、習慣ではない。
慈悲とも、義務とも違う、もっと原始的な衝動だった。
太い柱の陰、布切れの中で、小さな命が震えていた。
生後二か月ほどの子猫だった。
雨に濡れて、声も枯れかけている。
「ひどい……こんなところに」
神官はそう呟いたが、表情は変わらない。
いつも通りの、堅い顔。
だが、その手は迷わず伸びていた。
外套の内側にそっと包み、
子猫の体温が伝わると、ほんのわずかに息をつめる。
――生きている。
それだけで、十分だった。
***
それから、ぼくは神殿に住み始めた。
神官さまは相変わらず寡黙で、
人前では笑わない。
祈りの場では、感情を一切見せない。
けれどその夜、誰もいない礼拝堂の片隅。
ぼくが神官さまの膝におぼつかない足で乗ると、彼はためらいなく受け入れた。
「……少し冷たいな」
そう言いながら、指先で小さな前足を包む。
肉球を、そっと。
ぷに、とした感触に、
彼の口元が、わずかに緩む。
誰にも見せない、ほんの一瞬の微笑み。
ぼくは安心して、神官さまの胸元に顔を埋めた。
彼は小さく息を吐いて――そして、理性を少しだけ緩める。
神官さまは、ぼくの毛並みに顔をうずめる。
深く吸うわけでもなく、
ただ、そこにある温もりを確かめるように。
それは祈りよりも静かで、背徳よりも無垢な行為だった。
「……なんて小さくて可愛いんだ」
誰に聞かせるでもない言葉。
ぼくは言葉の意味も分からず、温もりにうとうとする。
次の日の夜までぼくは眠ったままだった。
神官さまの寝室は、祈りのあと特有の静けさに包まれている。
灯りは落とされ、月の光だけが床に淡く流れていた。
ぼくは、また神官さまの胸の上で丸くなる。
神官さまの心臓の音。
ゆっくりで、強い。
その音を聞くのが、すき。
神官さまは、ぼくの背中を撫でながら、ぽつりとささやいた。
「お前は、私より先に逝くだろう」
低くて、静かな声。
「だから名は与えない。……お別れが、辛くなるからね」
その言葉は、祈りみたいだった。
でも、ぼくは知ってる。
それは神官さまを守るための言葉だって。
ぼくは、にゃあと鳴かなかった。
代わりに、神官さまの衣の上に、顔をうずめた。
名前がなくてもいい。
呼ばれなくてもいい。
それでも――
この人のそばに、いたい。
この人を、ひとりにしたくない。
言葉にならない。
でも、わかるんだ。
この人が、どれだけ孤独か。
誰にも甘えられないか。
ぼくは、そっと喉を鳴らした。
神官さまの指が、一瞬止まる。
「……すまない」
ちがう。謝らないで。
ぼくは、あなたのために、ここにいる。
あなたを助けるために、ここにいたい。
――それが、ぼくの願い。
神官さまは、長い沈黙のあと、ぼくを抱きしめた。
優しくも、離さない力で。
「……私の可愛い猫ちゃん」
その声は、少しだけ震えていた。
ぼくは目を閉じる。
名前のないまま、眠りにつく。
***
神官さまに、喜んでもらいたかった。
今日も忙しそうだった。
朝から人が途切れなくて、声も少し疲れていたから。
これを見つけたとき、きっとお役に立てると思った。
青くて、大きい虫。
羽がきらきらして、強そうで、なんだか特別な感じがした。
これなら――神官さまは喜んでくれるよね。
そう思って、口にくわえて走った。
神官さまの足元に堂々と、虫を置く。
「にゃあん!」
――ほら! すごいでしょ?
でも。
神官さまの顔が、みるみるうちに変わっていった。
最初は驚いた顔。
次に、息を呑んだ顔。
そして……青い虫と、同じような顔色。
血の気が引く、というのはきっとこういうことだ。
「……どこで、これを」
声が、低く震えている。
神官さまは、ゆっくりと虫を受け取った。
触れないように、布越しに。
ぼくは、しっぽを振る。
受け取ってくれた。よかった。
そう思った、そのとき。
神官さまの手が、ぼくの頭に触れた。
いつもより、少しだけ重い。
「……お前の気持ちは受け取った」
光が、ふわっと広がる。
あたたかいのに、いつもと違う。
ぼく、これ分かるよ。
これは、汚れを落とすときのやつだ。
浄化の魔法。
なんで? ぼく、汚れてないよ?
そう言いたかったけど、
声は「にゃあ」としか出せなかった。
神官さまは、虫を持ったまま、振り返らずに歩いていく。
回廊の向こう。
立ち入りを禁じられた、奥の奥。
ぼくは、取り残された。
床の上で、しばらく動けなかった。
……あれ?
喜んでもらえると思ったのに。
神官さまのお役に立ちたかっただけなのに。
なんか、ちがう?
神官さまの背中は、
いつもより、少しだけ遠く見えた。
***
神官さまのおてつだい、なにかできないかなぁ。
供物やお水を運ぶのは無理だし、書き物は読めないし。
かみさまは、ねずみはすきかな?
でもこの前の、虫はだめだった。
じゃあ、やっぱり……ぼくにも魔法が使えたらいいのに。
神官さまみたいに、手をかざすだけで疲れをとってあげられたらいいのに。
でも、ぼくは猫だ。
「にゃあ」
考えても仕方ないから、ちょっと甘えちゃおう。
神官さまの足元に近づく。
裾に鼻先をこすりつけて、もう一度。
「にゃぅ」
神官さまは、手を止めた。
書きかけの祈祷文。
深く吐かれる息。
それから、ゆっくりと腰を落として、
ぼくを抱き上げた。
「……どうした」
声は低いけれど、やわらかい。
胸に引き寄せられる。
いつもの場所。
神官さまは、そのまま――ぼくの頭に、顔を埋めた。
すう、と。
息を吸う音。
え?
もう一度。
すう……。
神官さまの指が、ぼくの背中に回る。
逃がさないみたいに。
ああ、これ。この感じ。
神官さまはぼくの匂いが好きみたい。
恥ずかしいけど、なんだか嬉しいな。
でも今日は、いつもより深い。
神官さまの肩が、少しだけ震えている。
「はぁ……落ち着く」
ぽつりと、独り言みたいに。
ぼくは喉を鳴らした。
それしか、できないけど。
魔法は使えない。
言葉もよく分からない。
でも、こうして匂いを分けて、ぬくもりを渡すことならできる。
神官さまは、しばらくそのままだった。
祈りよりも長く。
かみさまの仕事よりも大切そうに。
やがて、静かに囁く。
「……ずっとそばに居て。少しでも永く一緒に居よう」
それって、ぼくは役に立ってるってこと?
ぼくはもう一度、小さく鳴いた。
「にゃぁぅ」
胸の奥で、神官さまの鼓動が少しだけ軽くなった気がした。
***
最近、神殿がざわざわしている。
「二月二十二日の、二十二時二十二分」
「その時に、神様に祈ると――」
「奇跡が起こるらしい」
そんな声が、廊下の向こうから聞こえてくる。
奇跡。それって、なに?
病気が治ること?
怪我が消えること?
願いが、叶うこと?
神官さまは、いつもより忙しそうだ。
朝のお清めは長く、供物はいつもより多く、祈りの声も、夜遅くまで途切れることはない。
肩が、少しだけ落ちている。
ぼくは、そばで見ているだけ。
なにもできない。
そわそわする。どこかの奥が、むずむずする。
もし、奇跡が本当に起こるなら。
ぼくも、祈っていいのかな。
人じゃなくても――猫でも。
ぼくは――神官さまになりたい。
あの白い衣を着て、かみさまの前に立って、疲れた人に手を差し伸べて。
神官さまの隣に立ちたい。
同じ目線で。同じ夜を何度も越えて。
寿命が違うとか、名前がないとか、そんなの後回しでいい。
助けたいんだ、神官さまを。
いつも、ひとりで背負ってるから。
ぼくは、神官さまの足元にすり寄った。
祈りの合間、僅かな静けさ。
「にゃ」
顔を上げた神官さまが、一瞬だけ、困ったように微笑む。
「……お前も、願うのか」
その声は、冗談みたいで、
でもどこか、怖がっているみたいだった。
ぼくは、答えられない。
ただ、まっすぐ見つめる。
金色の瞳で。
――ねえ、かみさま。
二月二十二日、二十二時二十二分。
もし、奇跡が起こるなら。
ぼくは、神官さまと同じ神官になりたいです。
***
祈りの鐘が、静かな神殿に響き渡った。
二月二十二日。二十二時二十二分。
やわらかな奇跡の光が、神殿を満たす。
眩しさも、熱もない。
ただ、世界の輪郭が静かにほどけていく。
床に伏していた小さな身体が、ゆっくりと形を変えた。
人間の顔、手足、身体。
声を出せる喉がある。
でも――
猫の耳は、頭の上に残っていた。
柔らかく、灰色で、紫に艶めく猫の耳。
背後には、しっぽ。
ゆらりと、感情に合わせて揺れている。
白い衣が、自然とその身を包む。
神官の装束。
僕は立ち上がった。足元が少しふらつく。
「……神官さま」
猫の時より少しだけ低く澄んだ声。
これが僕の声?
そばで見ていた神官さまは、息を呑んだまま動けずにいる。
紫の瞳が揺れている。
「お前は……」
ゆっくり、確かめるように。
「私の、猫ちゃんなのか?」
嬉しさで胸が、ぎゅっとなる。
僕は、一歩近づいた。
しっぽが、無意識に揺れる。
「はい」
短く、笑顔で答えた。
「ずっと、あなたのおそばにいたかった」
神官さまの手が、伸びる。
でも途中で止まる。
触れていいのか、迷っているみたい。
僕は、自分からその手に額を寄せた。
猫だった時と同じように、額をすりすりと。
神官さまの声が震える。
「……奇跡が起こったのか」
僕は、心から笑った。
「神様に願いを叶えてもらいました」
神官さまの指が、そっと――耳の付け根に触れた。
ぴくり。反射で耳が動く。
「……この毛色は変わっていないな」
声が少しだけ安心したように笑っている。
でもその奥にあるのは、祈りと、恐れと、愛情。
世界は、まだ冷たく静かだ。
この奇跡の意味を、理解するには時間がかかる。
けれど――もう、名前を呼んでもらえる距離にいる。
「神官さま! 神様が、奇跡を下さったのです。これで、ずっと永く……あなたの隣にいられます」
神官さまは、すぐに答えなかった。
ゆっくりと手で顔を覆い、伏せる。
神官さまの金色の長い髪が、肩から零れ落ちる。
その指先が、わずかに震えていた。
「……何ということだ」
永く共にいられる奇跡。
僕は、ゆっくり近づいた。
猫だった頃と同じ距離で。
「神官さま。どうか僕に、名前を頂けませんか」
神官さまの肩が、ぴくりと動く。
長い沈黙。
祈りの鐘の余韻が、まだ空気に残っている。
淡い光の粒子が雪のように舞っている。
「……お前の名をずっと呼びたかった」
神官さまは顔を上げる。
紫の瞳が、濡れていた。
そして抱きしめられて、耳元で名前を囁かれた。
「お前の名は――」
ゆっくりと、噛みしめるように。
「猫であり、人であり、神の祝福を受けた――私の……」
言葉が微かに恥じらいを帯びながら。
「……伴侶だ」
世界が輝き出すように、名前が胸に落ちる。
温かくて、重くて、もう手離せないもの。
初めて名を与えられ、呼ばれた。
これが嬉しいという感情。
こんなにも温かくて心地良いんだ。
「大好きです」
神官さま――いいえ。
抱きしめながら彼の名を、呼んだ。
共に生きるための言葉。
僕の耳はぴんと立った。
そしてしっぽを左右に揺らして、彼にそっと絡めた。
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