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前編
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「返してこい。」
「断る。」
「返してこい!元居た場所に!」
「断る!!」
「人間だけは絶対に拾ってくるなとあれほど言っただろう!!」
「拾って来たんじゃない貰い受けてきたんだ!!!」
「ああ言えばこう言う…!!!」
どうしよう。カラカテは煌びやかな部屋で縮こまっていた。クリーム色の部屋は見るからに品のよさそうな調度品が並んでいて、カラカテが席に着いたテーブルにはなんだかよくわからない3段積みの皿が置かれている。ケーキやスコーンが置いてあって、正直触っていいか分からない。目の前の紅茶もなんだかいい香りがするし、淹れられたカップも繊細なつくりをしていて、壊しそうでとてもつかめた物じゃない。
そんなまばゆい空間で、自分を王都に連れてきたお貴族様が別のお貴族様らしき人とずっと言い争っている。
カラカテの向かいの席にはとても綺麗な若い女性が座っていた。つやつやの金の長い髪を結いあげて、結い上げられた髪がこれまた金細工の繊細な髪飾りに収められている。ほっそりした首元を覆い隠すようなドレスはレースがあしらわれていて、胸元から下は滑らかな生地が広がっている。
そんな綺麗な人がテーブルに突っ伏しで爆笑している。テーブルの空いた場所をバンバン叩きながら大笑いしている。カラカテは森に帰りたくなった。
「ハハハハハ!!!」
「殿下!笑ってらっしゃらないで貴女もヴァレルディンを諫めて頂きたい!!!このバケモノついに人間を拾ってきてしまったのですよ!!!」
「にっ、人間、人間持って帰ってきたわこの男!!!アハハハハハ!!!!」
「殿下!!!」
膝から両手を離さずチラとヴァン様を見ると、ちょっと申し訳なさそうに目をそらされた。いたずらのばれた犬のようだ。
冬の森の小さな小屋で、カラカテはヴァレルディンの傍にいることを許された。たった一人の友人に別れを告げ、幾許かの私物を持ち、両親との思い出の家をあとにした。あの家もきっと廃屋敷のようになるのだろう。それだけが寂しかったが、悔いはなかった。それよりもヴァレルディンの傍にいたい気持ちの方が強かった。
ヴァン様は心配ないと言っていた。届いた真新しい手紙をひらひらと振り、友人たちがいるから問題ないと言っていた。手紙をあけて紙を複雑な形に折り上げると、真白いドアが雪原の中に現れた。手を引かれてドアの向こうへ行くと、暖かな空気に包まれて暑かった。
そこに呆気にとられた女性と男性がいたのだ。それが今大笑いしている女性と、ヴァン様と言い争っている男性だ。上着を脱ぎながら、カラカテはもう一度あの扉が出ないかなと思った。
「はあ、笑わせていただきました。矛を収めなさいな、エルドゲルニア。客人が怯えているわ。」
「しかし、」
「エルドゲルニア。」
「…申し訳ありません。」
「よくてよ。」
殿下、殿下と言ったか。それは勘違いでなければこの国の王族ではないか。暑いにもかかわらずカラカテは冷汗が出てきた。まったくと心外そうにしながら隣の席に着いたヴァン様が、膝上で硬く握りしめられて開けない手を握ってきた。
聞いていないんですが?掴んできた手を掴み返してガクガクと振ってやりたかったが、不敬すぎて出来なかった。誰に対して不敬かというと、暫定王族に対してである。
エルドゲルニアと呼ばれた人はカラカテの斜め前、ヴァン様と殿下の間にため息をつきながら座ると、紅茶を飲んで一息ついていた。ヴァン様もエルドゲルニア様も殿下に対して気の置けない感じで、3人が親しい間柄であることが伺えた。
「そこの貴方、お名前を伺ってもいいかしら?」
「アッえっ…あ、か、カラカテと申します。」
「カラカテ、此度はヴァレルディンが大変な失礼を働いたようですね。これに代わって謝らせてくださいな。」
「あ、いや、あの、」
「なぜ殿下に謝られなければならないので?これは私とカラカテの話でしょう。」
「こちらからの催促の手紙を7回も無視した挙句、8回目の手紙を燃やしたから転送用の手紙をよこせと催促してきたやつの発言とは思えないな。」
「エルドゲルニアは黙っていろ。」
「お前が不敬すぎるからだろ!」
「二人ともそこまで。締め出されたいのかしら?」
パシンといつの間にか取り出された杖が机を叩いた。ヴァン様とエルドゲルニア様がすぐさま押し黙る。3人の力関係が伺えてしまい―そもそも立場的に殿下が強いのは当たり前ではあるが、カラカテはちょっと目をそらしたくなった。
「それで、ヴァレルディン。貴方がこちらの度重なる催促に気がつかなかったのは、こちらの方に起因するのかしら?とても仲がよろしいようだけれど。」
「彼に助けていただいたので、恩返しをしておりました。」
「いつから貴方は鶴になったのかしら。貴方がようやく色恋に興味を持ったことは、友人として喜ばしく思っています。けれど立場を忘れるほどのめりこまれては困ります。わかりますね。」
「はい、申し訳ありません。」
「貴方はまったく、そう言っていつも勝手をするのですから。ご覧なさいなこのエルドゲルニアの顔を、唇を噛みしめすぎて貴族にあるまじき顔になっているわ。」
「いい加減にしろよお前まじで…」
「なんてこと、敬語が外れてしまっているわ。しっかりなさいエルドゲルニア、お前までトチ狂われては困ります。」
なんだろうこの会話。カラカテは置き去りにされていた。会話に入れる気もせず黙って俯いていると、クスクスと品の良い笑い声が聞こえた。殿下のものだった。
「まあ、いいでしょう。可愛らしい拾いものに免じて今回は不問とします。」
「よろしいので?」
「今回は、です。わかっていますね、ヴァレルディン。働きで忠誠を示しなさい。貴方にやってもらいたい仕事は山ほどあるのです。」
「は。剣に誓って忠誠を。」
「茶を飲みながら言うことではなくてよ。」
ほほ笑む殿下と凄い顔のエルドゲルニア様に見送られ、煌びやかな部屋を後にする。部屋を出てもこれまた煌びやかな部屋の作りが続いていて、カラカテはずっと下を向いていた。自分があまりにも場違いな存在で顔を上げられなかった。
人気の少ない門から馬車に逃げるように乗り込み、ようやく息を吐く。後から入って来たヴァン様が座ると、馬車が出発した。
出発したな、よし。カラカテはヴァレルディンの肩に手を置いた。うん?とこちらを見てきた男のもう片方の肩にも手を置くと、ガタガタと揺らした。
「聞いてない。聞いてないです!」
「落ち着けカラカテ、馬車が左右に揺れている。」
「落ち着けるもんですか!一応聞きますけど先ほどの方は王女殿下で間違いないですか?」
「間違いないな。」
「貴方って人は!」
ヴァレルディンの肩から手を離すと、カラカテはあああと頭を抱えてうなだれた。予想以上に貴い御方の御前に突然立たされた身にもなって欲しかった。
うなだれるカラカテの右手がとられた。人差し指に嵌められた指輪を撫でる顔は楽しそうで、カラカテはまあいいかと少し笑った。ヴァン様は一夜の睦言ではなく本気でカラカテを欲しがってくれた。それがカラカテには嬉しかった。
「はあ。それで、これからどちらへ?」
「屋敷に行く。俺と君の家だ。」
「お屋敷ですか?」
「ああ、屋敷の者に君の顔を見せる。すまないカラカテ、俺はその後騎士団の方に行かなくてはいけない。」
「心配しないでください。大人しくしておきます。」
今のカラカテでは屋敷で出来ることなどないだろう。ヴァン様が戻るまで待っていた方がいい。申し訳なさそうにこちらを見る人にそう言うと、少し目を見開いて、嬉しそうに目を細めたと思ったら、また少し申し訳なさそうな顔をして、百面相をしていた。
どういう感情なんだ。不思議に思ったが深くは聞かなかった。カラカテとしてはヴァレルディンに少しでも喜んでもらえたらそれでよかった。
傍にいることを許されたのだ。喜んでもらえるならなんだってやろう。カラカテはらしくもなくひどく浮かれていた。いつかカラカテの元からいなくなると思っていたとびきりの人が運よくカラカテを欲しがってくれた。僥倖だった。身に余る幸せだった。
浮かれながら紹介された屋敷は広く、頭を下げてきた身なりの良い人に恐縮しながらカラカテは一つの部屋に通された。
「ここで待っていてくれ。夕食までには必ず戻る。」
「はい。いってらっしゃい。」
チェス盤と本が置かれた部屋でカラカテに口づけると、ヴァン様は部屋を出ていった。置かれていたチェス盤はあの小屋でヴァン様が完成させたもので、カラカテは早速手に取った。
「で、これの面倒を俺に見ろと?」
「魔法は使えないが、カラカテは記憶能力が非常に高い。北で猟もしていた、血も見慣れている。」
「お前殿下に責任を取れと言われていただろう。」
「責任を取って信頼できる友人に相談している。」
「そうやっていつもお前の拾い物全部俺が責任もって見ることになるんだ!」
翌日、カラカテはヴァレルディンと共に大きな施設に来ていた。森の傍にある施設は豊かな植物に囲まれていて、清潔そうな身なりの人々がいくつかの書類を持ちながら行きかっていた。カラカテは人の多さと温暖さに溺れそうになっていた。
北にいたころよりも軽くて質のいい服を着せられ、少し身なりを整えたカラカテは、所在なさげにヴァレルディンのすぐ傍に立つ。二人の前に立つ目つきが少しきつい人は、はああと大きなため息をついて腰に手を置いている。エルドゲルニアだった。片手に薄い板を持っていて、板にはいくつかの紙が挟まれている。服装は昨日よりも簡素で、行きかう人と同じような清潔なものだった。
ジロと上からねめつけられた。カラカテは少し身がすくんだ。こういった視線を受けたことがある。昔、まだカラカテをよく知らない頃村人たちからよく受けていた視線だった。人を値踏みする目だった。
「名前はカラカテと言ったか。」
「は、ええと、はい。」
詰まってこたえると、エルドゲルニアは嫌そうに眉をひそめた。なにか気を悪くしてしまっただろうか。ぐっと耐えていると、エルドゲルニアは板の方に目を移した。ペラペラと紙が一枚一枚捲られている。息を詰めていると、背中に手がそっとあてられた。ヴァレルディンのもので、カラカテはふうと息を吐けた。
「…記憶力、そうだな…カラカテ、君は北で学校には通っていたか。」
「い、いいえ、すみません。」
「文字はどの程度書けて、どの程度読める。」
「も、文字は…ヴァレルディン様に教えて頂いて、えーと…薬草学初級の本を、辞書を引きながらであればどうにか…」
「なるほど。今まで仕事は猟のみを?記憶力がいいというのはどういった点でそう評価されたんだ?」
「や、薬草を集めたりもしていました。記憶力は、その、ヴァン様が言うには森を地図と紙なしで記録して回るのはおかしいと…。」
「記録とはどういったものだ。」
「森の中の変化を覚えます。前の年と大きく違ったり、雪崩が起きそうな場所があったりしたら村に連絡をするといいますか…めったに無かったんですが…。」
「なるほど。」
少し考え込むと、エルドゲルニア様は捲った紙を何枚か巻き戻した。一枚を眺めて、こちらを見てくる。眼鏡越しの目は厳しくて、カラカテはグッと手を握った。
「君の意志は?」
「えっ…と…」
「君はなぜここに来た。ヴァレルディンの姑息な我儘に付き合っているだけなのか。」
「い、いえ、そんなことは。」
「ではここがどういった場所か知っているか。」
「あ、の、…す、すみません、知らないです。」
「君は今日、ここにどういった目的で来た。本当にヴァレルディンに言われるまま来ただけか。」
「…はい。そうです。申し訳ありません。」
ひどく責められている心地になって、カラカテは恥ずかしくなった。もう目を見ていられなくなって下を向くと、そうか、と淡々とした回答が返って来た。
エルドゲルニア様は何かを紙に書き連ねると、これまた嫌そうな顔をしてヴァン様を見た。
「適性ではない、他をあたるべきだ。」
「今俺が信頼して預けられる場所がお前か殿下のところしかない。」
「それならお前の仕事の書記にしたらどうだ。お前が一番信頼できる場所だろう。」
「それはそうだが、危険地帯に放り込むことになる。それは避けたい。」
「贅沢な男め。彼を振り回している自覚はあるのか?彼の意志は確認したのか?これはお前の善意の押し付けではないのか?」
エルドゲルニア様にそう言われると、ヴァン様は視線を彷徨わせた。そっとこちらを伺ってくる目は申し訳なさそうで、カラカテはなんとかしてあげたくなった。この人に悲しい思いをさせたくなかった。
「あ、あの、エルドゲルニア様、確かに僕はただここに来ただけですが、雑用でもなんでもやります。文字の読み書きも頑張って勉強します。働かせていただけませんか。」
「はあ?」
「ヴァ、レウディン様がそうして欲しいなら頑張りたいのです。お願いします。」
キュと背中にあてられていた手が丸まった。どうにか自分を奮い立たせてエルドゲルニア様を見上げる。厳しい目がさらに嫌そうに顰められた。ヴァン様を見て、僕を見る。眼鏡を少し押し上げると、捲った紙を全て元に戻した。
「不健全だ。しかしそこまで言うなら、しばらくここで働いてみると良い。ただし先に忠告はしておくぞ、ここは君の適性に合っていない。出来ることはせいぜい書類の整理やおつかいくらいだ。それでも本当にいいんだな。」
「はい。」
「…はあ。わかった。では君には私の雑用をしてもらう。ついて来い。おいヴァレルディンお前、よく考えることだな。」
そう言って歩き出したエルドゲルニア様の後ろを着いていく。振り向いた先には、ずっと先で人に囲まれるヴァン様がいた。
頑張ろう。あの人のために。カラカテは前に向き直った。
それから始まった仕事は、エルドゲルニア様の申告通り書類整理とおつかい、それからちょっとした雑用だった。連れてこられたのはどうやら彼の仕事部屋のようで、そこがカラカテの職場になった。雑多につまれた紙を一枚一枚読んで内容を確認する。多くのものはレポートの写しで、どれがどう重要か分からない。
一枚一枚辞書を片手に読み進め、用意された箱に分類していく。植物、生物、魔法、様々な分野のレポートが出てきて、最新のものはヴァン様が持って帰ってきていた森のレポートだった。
昼食の時間になると、いくばくかの金を渡され昼食を買いに出る。広い施設の中にはいくつかの店が並んでいて、今日はサンドウィッチの店に行くことにした。エルドゲルニアからは二人分の食事を買ってくるようそっけなく言いつけられており、書類を見ながら食事をしがちな人に合わせて片手で食べられるものばかりを最近食べている。
「いらっしゃい。あらカラカテ!今日もおつかい?」
「はい、こんにちは。ええと、この魚のやつと、肉のやつ。あ、あとクッキーを。飲み物はアイスのコーヒーで。」
「はいよ。エルドゲルニアさんはまた昼時もお仕事?」
「そうなんです。」
「困った人よねえ。あんたが来てから引きこもりが加速したんじゃないかしら。」
どう答えていいかわからず苦笑していると、紙袋を渡された。礼を言って受け取ると、ああそうそうとカラッとした声が呼び止めた。
「ヴァレルディン様は元気かい?」
「はい、今日もたくさん朝食をとっておられました。」
「そりゃよかったよ。あの人もひどい目に遭ったもんだからね、よろしく伝えておいて。昔私の住んでた町が世話になったんだよ。」
「はい、伝えておきます。」
ここで働くようになってから、カラカテは何回かこういう言伝を受けている。初日から今日まで毎朝ヴァレルディンに連れられて来るところを見られているからか、カラカテはヴァレルディンの内縁のものとして見られていた。
ある時は書類のおつかいに行った別の部署の職員から、ある時は先ほどのような買い出しの店から。一様にヴァレルディンに感謝していた。
一方カラカテはと言うと、未だに右往左往していた。お使いの時に出かけた際にエルドゲルニア宛にちょっとした言伝を頼まれるのだが、専門用語が多くカラカテにとってはちょっとした言伝ではない。覚えられはするが初めて聞く単語ばかりで、学んだカラカテは初日以降メモ帳とペンを持ち歩いている。それでもメモを取るのにも四苦八苦する始末で、相手に時間を取らせてしまっていた。
書類の整理もとにかく専門用語が多く、辞書だけでは対応できないものも多かった。分からないものはエルドゲルニアに聞けばすぐわかるのだが、カラカテにとってはこれが難関だった。エルドゲルニアが少し怖いし、なにより集中仕切っている人に話しかけるのは気が引けた。
結局昼時にどうにか必要そうな用語集を聞いて、それを施設内の図書館からかりてきては戻し、引いてはメモをする。分野も幅広いため一冊だけでおさまることは無かった。
時折、職員から少し不思議そうな顔で見られることがあった。それはカラカテがなぜ自分の言うことが分からないのか測りかねている顔で、つまり、その程度のことも知らずにここに居るのはなぜだろうかというものだった。皆優しい人で口には出さず、その中には魔法が使えない者だっていたが、全員相応の知識を持った人たちだった。
カラカテは雑踏の中、紙袋とメモ帳を持って少し立ち尽くした。この施設の中はあの北の大地と違って、魔法の有無は全く気にされていない。それどころか魔法はほとんど道具化されていて、人が魔法を使っているところは滅多に見なかった。
ここに居るのは皆が皆、何かを夢中でやっている人たちばかりだった。先ほどサンドウィッチを売っていた店員だってそうだった。彼女は店をやりたくて街に出てきたのだと誇らしげに笑っていた。
「仕事の方はどうだ?慣れそうか?」
今日も迎えに来てくれたヴァン様は心配そうだった。思った以上にカラカテが疲弊していているからだろう、今も馬車の中でカラカテを肩に凭れかからせて顔を覗き込んでいる。
カラカテは順調ですと答えようとして、口を閉じた。エルドゲルニアは確かに少し怖いが無理を言ってこないし、あの施設にいる誰もがカラカテに優しい。明るい雰囲気は心地がいいし、温暖な気候にも慣れてきた。不満があるわけもない。
ただ自分の不甲斐なさに気後れしているだけだ。周囲の活気、ヴァン様の名声、それに反する自分のちっぽけさ。記憶力だけではどうしようもない熱意の重みに圧倒される。あの小屋で2人きりでいた人がどんどん高いところにいるように見えてくる。
そっと凭れていた肩から離れた。恐れ多くなったのだ。自分のような人間が凭れていいような人では無いのではと思った。
「カラカテ?」
「あ…は、い。ヴァン様のおかげで、僕にはもったいないくらい良いところで…毎日勉強させていただいています。」
「…どうした、そんなよそよそしく。なにか嫌なことでもあったか?エルドゲルニアになにか妙なことでも言われたか。」
「そんなまさか!エルドゲルニア様はよくしてくださっています。」
「ならどうしてそんな距離をとるんだ、カラカテ。」
眉を下げて手を取るヴァン様の傍にいたいと確かに思うのに、言いようのない不安にかられる。このままでは共にいられなくなるような、自分が押しつぶされるような、そんな予感がする。
あの小屋から抜け出して少し広がった世界では、カラカテは余りにもヴァレルディンには不釣り合いだった。そのことがどうしようもなく寂しく悔しい。
そのことをありのまま伝えることはカラカテのわずかに残ったプライドが許さなかった。どれだけちっぽけな存在であろうと、好きな人の前では見栄を張りたかった。なにかを与えたかった。
きっとまだ働き始めたばかりで、慣れない環境に戸惑っているだけなのだろう。頑張ると決めたのだから頑張らねば。紹介してくれたヴァン様の面子だってある。面倒を見てくれているエルドゲルニア様への感謝だってある。踏ん張らねば。
カラカテはグッと口角を持ち上げた。カラカテの手を取っているヴァレルディンの手に、もう片方の手を重ねた。
「大丈夫なんです、本当に。」
「…。」
「慣れない環境で少し疲れてしまっただけです。きっと慣れてみせます。」
「本当に?」
「本当に。」
「カラカテ、嘘はないな。本当なんだな。」
「本当ですってば。」
不安そうに抱きすくめられて少し笑ってしまう。安心させたくて背中に回した手をポンポンと動かしていると、さらに力を入れられた。
手を取られて屋敷に入っていく。今日は一緒に風呂に入ろう、明日は休日だから酒も飲むか。こちらを見下ろしながらジャケット脱がしてくる人はそう言って笑っている。2人きりになった室内に、カラカテはなぜか安堵した。
「断る。」
「返してこい!元居た場所に!」
「断る!!」
「人間だけは絶対に拾ってくるなとあれほど言っただろう!!」
「拾って来たんじゃない貰い受けてきたんだ!!!」
「ああ言えばこう言う…!!!」
どうしよう。カラカテは煌びやかな部屋で縮こまっていた。クリーム色の部屋は見るからに品のよさそうな調度品が並んでいて、カラカテが席に着いたテーブルにはなんだかよくわからない3段積みの皿が置かれている。ケーキやスコーンが置いてあって、正直触っていいか分からない。目の前の紅茶もなんだかいい香りがするし、淹れられたカップも繊細なつくりをしていて、壊しそうでとてもつかめた物じゃない。
そんなまばゆい空間で、自分を王都に連れてきたお貴族様が別のお貴族様らしき人とずっと言い争っている。
カラカテの向かいの席にはとても綺麗な若い女性が座っていた。つやつやの金の長い髪を結いあげて、結い上げられた髪がこれまた金細工の繊細な髪飾りに収められている。ほっそりした首元を覆い隠すようなドレスはレースがあしらわれていて、胸元から下は滑らかな生地が広がっている。
そんな綺麗な人がテーブルに突っ伏しで爆笑している。テーブルの空いた場所をバンバン叩きながら大笑いしている。カラカテは森に帰りたくなった。
「ハハハハハ!!!」
「殿下!笑ってらっしゃらないで貴女もヴァレルディンを諫めて頂きたい!!!このバケモノついに人間を拾ってきてしまったのですよ!!!」
「にっ、人間、人間持って帰ってきたわこの男!!!アハハハハハ!!!!」
「殿下!!!」
膝から両手を離さずチラとヴァン様を見ると、ちょっと申し訳なさそうに目をそらされた。いたずらのばれた犬のようだ。
冬の森の小さな小屋で、カラカテはヴァレルディンの傍にいることを許された。たった一人の友人に別れを告げ、幾許かの私物を持ち、両親との思い出の家をあとにした。あの家もきっと廃屋敷のようになるのだろう。それだけが寂しかったが、悔いはなかった。それよりもヴァレルディンの傍にいたい気持ちの方が強かった。
ヴァン様は心配ないと言っていた。届いた真新しい手紙をひらひらと振り、友人たちがいるから問題ないと言っていた。手紙をあけて紙を複雑な形に折り上げると、真白いドアが雪原の中に現れた。手を引かれてドアの向こうへ行くと、暖かな空気に包まれて暑かった。
そこに呆気にとられた女性と男性がいたのだ。それが今大笑いしている女性と、ヴァン様と言い争っている男性だ。上着を脱ぎながら、カラカテはもう一度あの扉が出ないかなと思った。
「はあ、笑わせていただきました。矛を収めなさいな、エルドゲルニア。客人が怯えているわ。」
「しかし、」
「エルドゲルニア。」
「…申し訳ありません。」
「よくてよ。」
殿下、殿下と言ったか。それは勘違いでなければこの国の王族ではないか。暑いにもかかわらずカラカテは冷汗が出てきた。まったくと心外そうにしながら隣の席に着いたヴァン様が、膝上で硬く握りしめられて開けない手を握ってきた。
聞いていないんですが?掴んできた手を掴み返してガクガクと振ってやりたかったが、不敬すぎて出来なかった。誰に対して不敬かというと、暫定王族に対してである。
エルドゲルニアと呼ばれた人はカラカテの斜め前、ヴァン様と殿下の間にため息をつきながら座ると、紅茶を飲んで一息ついていた。ヴァン様もエルドゲルニア様も殿下に対して気の置けない感じで、3人が親しい間柄であることが伺えた。
「そこの貴方、お名前を伺ってもいいかしら?」
「アッえっ…あ、か、カラカテと申します。」
「カラカテ、此度はヴァレルディンが大変な失礼を働いたようですね。これに代わって謝らせてくださいな。」
「あ、いや、あの、」
「なぜ殿下に謝られなければならないので?これは私とカラカテの話でしょう。」
「こちらからの催促の手紙を7回も無視した挙句、8回目の手紙を燃やしたから転送用の手紙をよこせと催促してきたやつの発言とは思えないな。」
「エルドゲルニアは黙っていろ。」
「お前が不敬すぎるからだろ!」
「二人ともそこまで。締め出されたいのかしら?」
パシンといつの間にか取り出された杖が机を叩いた。ヴァン様とエルドゲルニア様がすぐさま押し黙る。3人の力関係が伺えてしまい―そもそも立場的に殿下が強いのは当たり前ではあるが、カラカテはちょっと目をそらしたくなった。
「それで、ヴァレルディン。貴方がこちらの度重なる催促に気がつかなかったのは、こちらの方に起因するのかしら?とても仲がよろしいようだけれど。」
「彼に助けていただいたので、恩返しをしておりました。」
「いつから貴方は鶴になったのかしら。貴方がようやく色恋に興味を持ったことは、友人として喜ばしく思っています。けれど立場を忘れるほどのめりこまれては困ります。わかりますね。」
「はい、申し訳ありません。」
「貴方はまったく、そう言っていつも勝手をするのですから。ご覧なさいなこのエルドゲルニアの顔を、唇を噛みしめすぎて貴族にあるまじき顔になっているわ。」
「いい加減にしろよお前まじで…」
「なんてこと、敬語が外れてしまっているわ。しっかりなさいエルドゲルニア、お前までトチ狂われては困ります。」
なんだろうこの会話。カラカテは置き去りにされていた。会話に入れる気もせず黙って俯いていると、クスクスと品の良い笑い声が聞こえた。殿下のものだった。
「まあ、いいでしょう。可愛らしい拾いものに免じて今回は不問とします。」
「よろしいので?」
「今回は、です。わかっていますね、ヴァレルディン。働きで忠誠を示しなさい。貴方にやってもらいたい仕事は山ほどあるのです。」
「は。剣に誓って忠誠を。」
「茶を飲みながら言うことではなくてよ。」
ほほ笑む殿下と凄い顔のエルドゲルニア様に見送られ、煌びやかな部屋を後にする。部屋を出てもこれまた煌びやかな部屋の作りが続いていて、カラカテはずっと下を向いていた。自分があまりにも場違いな存在で顔を上げられなかった。
人気の少ない門から馬車に逃げるように乗り込み、ようやく息を吐く。後から入って来たヴァン様が座ると、馬車が出発した。
出発したな、よし。カラカテはヴァレルディンの肩に手を置いた。うん?とこちらを見てきた男のもう片方の肩にも手を置くと、ガタガタと揺らした。
「聞いてない。聞いてないです!」
「落ち着けカラカテ、馬車が左右に揺れている。」
「落ち着けるもんですか!一応聞きますけど先ほどの方は王女殿下で間違いないですか?」
「間違いないな。」
「貴方って人は!」
ヴァレルディンの肩から手を離すと、カラカテはあああと頭を抱えてうなだれた。予想以上に貴い御方の御前に突然立たされた身にもなって欲しかった。
うなだれるカラカテの右手がとられた。人差し指に嵌められた指輪を撫でる顔は楽しそうで、カラカテはまあいいかと少し笑った。ヴァン様は一夜の睦言ではなく本気でカラカテを欲しがってくれた。それがカラカテには嬉しかった。
「はあ。それで、これからどちらへ?」
「屋敷に行く。俺と君の家だ。」
「お屋敷ですか?」
「ああ、屋敷の者に君の顔を見せる。すまないカラカテ、俺はその後騎士団の方に行かなくてはいけない。」
「心配しないでください。大人しくしておきます。」
今のカラカテでは屋敷で出来ることなどないだろう。ヴァン様が戻るまで待っていた方がいい。申し訳なさそうにこちらを見る人にそう言うと、少し目を見開いて、嬉しそうに目を細めたと思ったら、また少し申し訳なさそうな顔をして、百面相をしていた。
どういう感情なんだ。不思議に思ったが深くは聞かなかった。カラカテとしてはヴァレルディンに少しでも喜んでもらえたらそれでよかった。
傍にいることを許されたのだ。喜んでもらえるならなんだってやろう。カラカテはらしくもなくひどく浮かれていた。いつかカラカテの元からいなくなると思っていたとびきりの人が運よくカラカテを欲しがってくれた。僥倖だった。身に余る幸せだった。
浮かれながら紹介された屋敷は広く、頭を下げてきた身なりの良い人に恐縮しながらカラカテは一つの部屋に通された。
「ここで待っていてくれ。夕食までには必ず戻る。」
「はい。いってらっしゃい。」
チェス盤と本が置かれた部屋でカラカテに口づけると、ヴァン様は部屋を出ていった。置かれていたチェス盤はあの小屋でヴァン様が完成させたもので、カラカテは早速手に取った。
「で、これの面倒を俺に見ろと?」
「魔法は使えないが、カラカテは記憶能力が非常に高い。北で猟もしていた、血も見慣れている。」
「お前殿下に責任を取れと言われていただろう。」
「責任を取って信頼できる友人に相談している。」
「そうやっていつもお前の拾い物全部俺が責任もって見ることになるんだ!」
翌日、カラカテはヴァレルディンと共に大きな施設に来ていた。森の傍にある施設は豊かな植物に囲まれていて、清潔そうな身なりの人々がいくつかの書類を持ちながら行きかっていた。カラカテは人の多さと温暖さに溺れそうになっていた。
北にいたころよりも軽くて質のいい服を着せられ、少し身なりを整えたカラカテは、所在なさげにヴァレルディンのすぐ傍に立つ。二人の前に立つ目つきが少しきつい人は、はああと大きなため息をついて腰に手を置いている。エルドゲルニアだった。片手に薄い板を持っていて、板にはいくつかの紙が挟まれている。服装は昨日よりも簡素で、行きかう人と同じような清潔なものだった。
ジロと上からねめつけられた。カラカテは少し身がすくんだ。こういった視線を受けたことがある。昔、まだカラカテをよく知らない頃村人たちからよく受けていた視線だった。人を値踏みする目だった。
「名前はカラカテと言ったか。」
「は、ええと、はい。」
詰まってこたえると、エルドゲルニアは嫌そうに眉をひそめた。なにか気を悪くしてしまっただろうか。ぐっと耐えていると、エルドゲルニアは板の方に目を移した。ペラペラと紙が一枚一枚捲られている。息を詰めていると、背中に手がそっとあてられた。ヴァレルディンのもので、カラカテはふうと息を吐けた。
「…記憶力、そうだな…カラカテ、君は北で学校には通っていたか。」
「い、いいえ、すみません。」
「文字はどの程度書けて、どの程度読める。」
「も、文字は…ヴァレルディン様に教えて頂いて、えーと…薬草学初級の本を、辞書を引きながらであればどうにか…」
「なるほど。今まで仕事は猟のみを?記憶力がいいというのはどういった点でそう評価されたんだ?」
「や、薬草を集めたりもしていました。記憶力は、その、ヴァン様が言うには森を地図と紙なしで記録して回るのはおかしいと…。」
「記録とはどういったものだ。」
「森の中の変化を覚えます。前の年と大きく違ったり、雪崩が起きそうな場所があったりしたら村に連絡をするといいますか…めったに無かったんですが…。」
「なるほど。」
少し考え込むと、エルドゲルニア様は捲った紙を何枚か巻き戻した。一枚を眺めて、こちらを見てくる。眼鏡越しの目は厳しくて、カラカテはグッと手を握った。
「君の意志は?」
「えっ…と…」
「君はなぜここに来た。ヴァレルディンの姑息な我儘に付き合っているだけなのか。」
「い、いえ、そんなことは。」
「ではここがどういった場所か知っているか。」
「あ、の、…す、すみません、知らないです。」
「君は今日、ここにどういった目的で来た。本当にヴァレルディンに言われるまま来ただけか。」
「…はい。そうです。申し訳ありません。」
ひどく責められている心地になって、カラカテは恥ずかしくなった。もう目を見ていられなくなって下を向くと、そうか、と淡々とした回答が返って来た。
エルドゲルニア様は何かを紙に書き連ねると、これまた嫌そうな顔をしてヴァン様を見た。
「適性ではない、他をあたるべきだ。」
「今俺が信頼して預けられる場所がお前か殿下のところしかない。」
「それならお前の仕事の書記にしたらどうだ。お前が一番信頼できる場所だろう。」
「それはそうだが、危険地帯に放り込むことになる。それは避けたい。」
「贅沢な男め。彼を振り回している自覚はあるのか?彼の意志は確認したのか?これはお前の善意の押し付けではないのか?」
エルドゲルニア様にそう言われると、ヴァン様は視線を彷徨わせた。そっとこちらを伺ってくる目は申し訳なさそうで、カラカテはなんとかしてあげたくなった。この人に悲しい思いをさせたくなかった。
「あ、あの、エルドゲルニア様、確かに僕はただここに来ただけですが、雑用でもなんでもやります。文字の読み書きも頑張って勉強します。働かせていただけませんか。」
「はあ?」
「ヴァ、レウディン様がそうして欲しいなら頑張りたいのです。お願いします。」
キュと背中にあてられていた手が丸まった。どうにか自分を奮い立たせてエルドゲルニア様を見上げる。厳しい目がさらに嫌そうに顰められた。ヴァン様を見て、僕を見る。眼鏡を少し押し上げると、捲った紙を全て元に戻した。
「不健全だ。しかしそこまで言うなら、しばらくここで働いてみると良い。ただし先に忠告はしておくぞ、ここは君の適性に合っていない。出来ることはせいぜい書類の整理やおつかいくらいだ。それでも本当にいいんだな。」
「はい。」
「…はあ。わかった。では君には私の雑用をしてもらう。ついて来い。おいヴァレルディンお前、よく考えることだな。」
そう言って歩き出したエルドゲルニア様の後ろを着いていく。振り向いた先には、ずっと先で人に囲まれるヴァン様がいた。
頑張ろう。あの人のために。カラカテは前に向き直った。
それから始まった仕事は、エルドゲルニア様の申告通り書類整理とおつかい、それからちょっとした雑用だった。連れてこられたのはどうやら彼の仕事部屋のようで、そこがカラカテの職場になった。雑多につまれた紙を一枚一枚読んで内容を確認する。多くのものはレポートの写しで、どれがどう重要か分からない。
一枚一枚辞書を片手に読み進め、用意された箱に分類していく。植物、生物、魔法、様々な分野のレポートが出てきて、最新のものはヴァン様が持って帰ってきていた森のレポートだった。
昼食の時間になると、いくばくかの金を渡され昼食を買いに出る。広い施設の中にはいくつかの店が並んでいて、今日はサンドウィッチの店に行くことにした。エルドゲルニアからは二人分の食事を買ってくるようそっけなく言いつけられており、書類を見ながら食事をしがちな人に合わせて片手で食べられるものばかりを最近食べている。
「いらっしゃい。あらカラカテ!今日もおつかい?」
「はい、こんにちは。ええと、この魚のやつと、肉のやつ。あ、あとクッキーを。飲み物はアイスのコーヒーで。」
「はいよ。エルドゲルニアさんはまた昼時もお仕事?」
「そうなんです。」
「困った人よねえ。あんたが来てから引きこもりが加速したんじゃないかしら。」
どう答えていいかわからず苦笑していると、紙袋を渡された。礼を言って受け取ると、ああそうそうとカラッとした声が呼び止めた。
「ヴァレルディン様は元気かい?」
「はい、今日もたくさん朝食をとっておられました。」
「そりゃよかったよ。あの人もひどい目に遭ったもんだからね、よろしく伝えておいて。昔私の住んでた町が世話になったんだよ。」
「はい、伝えておきます。」
ここで働くようになってから、カラカテは何回かこういう言伝を受けている。初日から今日まで毎朝ヴァレルディンに連れられて来るところを見られているからか、カラカテはヴァレルディンの内縁のものとして見られていた。
ある時は書類のおつかいに行った別の部署の職員から、ある時は先ほどのような買い出しの店から。一様にヴァレルディンに感謝していた。
一方カラカテはと言うと、未だに右往左往していた。お使いの時に出かけた際にエルドゲルニア宛にちょっとした言伝を頼まれるのだが、専門用語が多くカラカテにとってはちょっとした言伝ではない。覚えられはするが初めて聞く単語ばかりで、学んだカラカテは初日以降メモ帳とペンを持ち歩いている。それでもメモを取るのにも四苦八苦する始末で、相手に時間を取らせてしまっていた。
書類の整理もとにかく専門用語が多く、辞書だけでは対応できないものも多かった。分からないものはエルドゲルニアに聞けばすぐわかるのだが、カラカテにとってはこれが難関だった。エルドゲルニアが少し怖いし、なにより集中仕切っている人に話しかけるのは気が引けた。
結局昼時にどうにか必要そうな用語集を聞いて、それを施設内の図書館からかりてきては戻し、引いてはメモをする。分野も幅広いため一冊だけでおさまることは無かった。
時折、職員から少し不思議そうな顔で見られることがあった。それはカラカテがなぜ自分の言うことが分からないのか測りかねている顔で、つまり、その程度のことも知らずにここに居るのはなぜだろうかというものだった。皆優しい人で口には出さず、その中には魔法が使えない者だっていたが、全員相応の知識を持った人たちだった。
カラカテは雑踏の中、紙袋とメモ帳を持って少し立ち尽くした。この施設の中はあの北の大地と違って、魔法の有無は全く気にされていない。それどころか魔法はほとんど道具化されていて、人が魔法を使っているところは滅多に見なかった。
ここに居るのは皆が皆、何かを夢中でやっている人たちばかりだった。先ほどサンドウィッチを売っていた店員だってそうだった。彼女は店をやりたくて街に出てきたのだと誇らしげに笑っていた。
「仕事の方はどうだ?慣れそうか?」
今日も迎えに来てくれたヴァン様は心配そうだった。思った以上にカラカテが疲弊していているからだろう、今も馬車の中でカラカテを肩に凭れかからせて顔を覗き込んでいる。
カラカテは順調ですと答えようとして、口を閉じた。エルドゲルニアは確かに少し怖いが無理を言ってこないし、あの施設にいる誰もがカラカテに優しい。明るい雰囲気は心地がいいし、温暖な気候にも慣れてきた。不満があるわけもない。
ただ自分の不甲斐なさに気後れしているだけだ。周囲の活気、ヴァン様の名声、それに反する自分のちっぽけさ。記憶力だけではどうしようもない熱意の重みに圧倒される。あの小屋で2人きりでいた人がどんどん高いところにいるように見えてくる。
そっと凭れていた肩から離れた。恐れ多くなったのだ。自分のような人間が凭れていいような人では無いのではと思った。
「カラカテ?」
「あ…は、い。ヴァン様のおかげで、僕にはもったいないくらい良いところで…毎日勉強させていただいています。」
「…どうした、そんなよそよそしく。なにか嫌なことでもあったか?エルドゲルニアになにか妙なことでも言われたか。」
「そんなまさか!エルドゲルニア様はよくしてくださっています。」
「ならどうしてそんな距離をとるんだ、カラカテ。」
眉を下げて手を取るヴァン様の傍にいたいと確かに思うのに、言いようのない不安にかられる。このままでは共にいられなくなるような、自分が押しつぶされるような、そんな予感がする。
あの小屋から抜け出して少し広がった世界では、カラカテは余りにもヴァレルディンには不釣り合いだった。そのことがどうしようもなく寂しく悔しい。
そのことをありのまま伝えることはカラカテのわずかに残ったプライドが許さなかった。どれだけちっぽけな存在であろうと、好きな人の前では見栄を張りたかった。なにかを与えたかった。
きっとまだ働き始めたばかりで、慣れない環境に戸惑っているだけなのだろう。頑張ると決めたのだから頑張らねば。紹介してくれたヴァン様の面子だってある。面倒を見てくれているエルドゲルニア様への感謝だってある。踏ん張らねば。
カラカテはグッと口角を持ち上げた。カラカテの手を取っているヴァレルディンの手に、もう片方の手を重ねた。
「大丈夫なんです、本当に。」
「…。」
「慣れない環境で少し疲れてしまっただけです。きっと慣れてみせます。」
「本当に?」
「本当に。」
「カラカテ、嘘はないな。本当なんだな。」
「本当ですってば。」
不安そうに抱きすくめられて少し笑ってしまう。安心させたくて背中に回した手をポンポンと動かしていると、さらに力を入れられた。
手を取られて屋敷に入っていく。今日は一緒に風呂に入ろう、明日は休日だから酒も飲むか。こちらを見下ろしながらジャケット脱がしてくる人はそう言って笑っている。2人きりになった室内に、カラカテはなぜか安堵した。
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