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第1章〜サーカス列車の旅〜
勤務初日⑩
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サーカス列車内部の見学をしたあと、ジェロニモと一緒に男性車両の通路の掃除の続きをした。
ジェロニモがピアジェに呼ばれていなくなったあと一人モップで狭い通路を拭いていると、車両の一番奥の部屋からゴトゴト、バタン! と凄い音がすることに気づいた。皆トレーニングをしている時間に部屋にいるなんて、何か事情があるに違いない。具合でも悪いんだろうか。誰かが部屋でのたうち回っている音だったらどうしよう。
「おーい、具合悪いのかい? 開けてもいい?」
待っていられずノックをしてドアを開けると、暗い部屋の中で両手で棒を振り回す大きな影が見えた。
「わっ」
叫び声に気づいて影は振り向いた。その影の主はゆっくりと近づいてきて、通路にいる私を見下ろした。間も無く、それが昨日私に耳栓をくれた人だと気づいた。
長い髪をオールバックにした大きな男は、無言で私を見つめた。浅黒い肌で肩幅が広く、白のタンクトップと紺色のハーフパンツから剥き出しになった肩や腕や脚を覆う隆起した筋肉が彼をより大柄に見せている。太い首にかけられた貝殻の首飾りを見て、彼は私と同じ海の近い場所の生まれなのかも知れないと思った。角ばった顔の中にある黒く輝く目が、満ち引きする海水によって磨かれた海岸の黒い石のように光っていた。
「練習中にごめんよ。君は昨日の……」
言いかけて私は男に用があったことを思い出した。
「昨日はありがとう、これを貸してくれて」
ポケットから取り出した耳栓を差し出すと、大男は受け取らずに首を振った。
「……持っていていいってこと? ありがとう」
男はこくりと頷いて、バタンとドアを閉めてしまった。私は構わずまたドアを叩いた。話がしたかった。彼となら仲良くなれるんじゃないかと思ったから。
「僕はネロ。君の名前を教えよ。サーカスで何をやってるの?」
何度呼びかけても返事はない。やがて横から「無駄だよ、そいつは滅多に喋らない」と声がした。ミラーだった。昨日とは違うトレーニング用のジャージ姿だった。
「そいつは火吹き芸と怪力芸をするんだ。力はすごい強いけど全く皆と交わろうとしない。変な奴だよ」
今は心を閉ざしていても、いつか彼は私に心を開いてくれるんじゃないか。きっと彼もケニーと同じで不器用なだけなのだ。
その後ジェロニモが戻ってきて掃除の続きをし、お昼前に洗濯物を取り込んだ。
お昼を食べ終わらないうちにジェロニモに呼ばれ、一緒に郵便局に向かった。ジェロニモは施設で暮らす妹に手紙とお金を送るのだという。
「俺たちは孤児で、施設で育った。俺がサーカスに入ってからは、妹は一人で施設にいる。寂しい思いをさせてる分、少しでも楽させてやりたくてさ」とジェロニモは悲しげに笑った。
「サーカスに来て、君は幸せかい?」
「どうかな?」とジェロニモは首を傾げた。
「少なくともサーカス団の中にいれば食いっぱぐれることもないし、お金がなけりゃ誰かか貸してくれる。困ってれば助けてくれる。みんな家族みたいかものだからな。施設にいた時と比べたら、寂しくはないかも知れない」
彼の辿ってきた孤独と苦労の道を思うと胸が痛んだが、仲間に囲まれたサーカスの世界で少しでも傷が癒えていたらいいと思った。名前も顔も知らないけれど、彼の妹が遠い海の向こうで幸せに暮らしていたらいいとも。
窓口で午前中の空いている時間に急いで母宛に書いた手紙と、ケニーから預かった祖母宛の手紙を出した。今度オーロラに手紙を書こうと思った。万が一私がいなくなったことが母伝てに彼女の耳に入っていたら、心配するに違いない。
帰りにジェロニモがサンティアゴの屋台でエンパナータというアルゼンチン名物のミートパイを奢ってくれた。
午後はルチアやトムと一緒に動物たちにお昼ご飯をあげたあとトレーニングルームに向かい、またみんなの練習を見学した。
ジェロニモがピアジェに呼ばれていなくなったあと一人モップで狭い通路を拭いていると、車両の一番奥の部屋からゴトゴト、バタン! と凄い音がすることに気づいた。皆トレーニングをしている時間に部屋にいるなんて、何か事情があるに違いない。具合でも悪いんだろうか。誰かが部屋でのたうち回っている音だったらどうしよう。
「おーい、具合悪いのかい? 開けてもいい?」
待っていられずノックをしてドアを開けると、暗い部屋の中で両手で棒を振り回す大きな影が見えた。
「わっ」
叫び声に気づいて影は振り向いた。その影の主はゆっくりと近づいてきて、通路にいる私を見下ろした。間も無く、それが昨日私に耳栓をくれた人だと気づいた。
長い髪をオールバックにした大きな男は、無言で私を見つめた。浅黒い肌で肩幅が広く、白のタンクトップと紺色のハーフパンツから剥き出しになった肩や腕や脚を覆う隆起した筋肉が彼をより大柄に見せている。太い首にかけられた貝殻の首飾りを見て、彼は私と同じ海の近い場所の生まれなのかも知れないと思った。角ばった顔の中にある黒く輝く目が、満ち引きする海水によって磨かれた海岸の黒い石のように光っていた。
「練習中にごめんよ。君は昨日の……」
言いかけて私は男に用があったことを思い出した。
「昨日はありがとう、これを貸してくれて」
ポケットから取り出した耳栓を差し出すと、大男は受け取らずに首を振った。
「……持っていていいってこと? ありがとう」
男はこくりと頷いて、バタンとドアを閉めてしまった。私は構わずまたドアを叩いた。話がしたかった。彼となら仲良くなれるんじゃないかと思ったから。
「僕はネロ。君の名前を教えよ。サーカスで何をやってるの?」
何度呼びかけても返事はない。やがて横から「無駄だよ、そいつは滅多に喋らない」と声がした。ミラーだった。昨日とは違うトレーニング用のジャージ姿だった。
「そいつは火吹き芸と怪力芸をするんだ。力はすごい強いけど全く皆と交わろうとしない。変な奴だよ」
今は心を閉ざしていても、いつか彼は私に心を開いてくれるんじゃないか。きっと彼もケニーと同じで不器用なだけなのだ。
その後ジェロニモが戻ってきて掃除の続きをし、お昼前に洗濯物を取り込んだ。
お昼を食べ終わらないうちにジェロニモに呼ばれ、一緒に郵便局に向かった。ジェロニモは施設で暮らす妹に手紙とお金を送るのだという。
「俺たちは孤児で、施設で育った。俺がサーカスに入ってからは、妹は一人で施設にいる。寂しい思いをさせてる分、少しでも楽させてやりたくてさ」とジェロニモは悲しげに笑った。
「サーカスに来て、君は幸せかい?」
「どうかな?」とジェロニモは首を傾げた。
「少なくともサーカス団の中にいれば食いっぱぐれることもないし、お金がなけりゃ誰かか貸してくれる。困ってれば助けてくれる。みんな家族みたいかものだからな。施設にいた時と比べたら、寂しくはないかも知れない」
彼の辿ってきた孤独と苦労の道を思うと胸が痛んだが、仲間に囲まれたサーカスの世界で少しでも傷が癒えていたらいいと思った。名前も顔も知らないけれど、彼の妹が遠い海の向こうで幸せに暮らしていたらいいとも。
窓口で午前中の空いている時間に急いで母宛に書いた手紙と、ケニーから預かった祖母宛の手紙を出した。今度オーロラに手紙を書こうと思った。万が一私がいなくなったことが母伝てに彼女の耳に入っていたら、心配するに違いない。
帰りにジェロニモがサンティアゴの屋台でエンパナータというアルゼンチン名物のミートパイを奢ってくれた。
午後はルチアやトムと一緒に動物たちにお昼ご飯をあげたあとトレーニングルームに向かい、またみんなの練習を見学した。
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