高層ビルでも星は隠せぬ

たらこ飴

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日本編 1. 天体観測の夜

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「真白さん、インドに行くって本当ですか?」

 夜の屋上の手すりの前にセットした望遠鏡を覗いていた真白さんは、私の方に向き直るなり「うん、行くよ。デリーの大学に長期留学するんだ!」と眩いばかりの笑顔を見せた。

「本当に、行っちゃうんですか?」

 きっと本当なのだろう、真白さんのことだから。分かり切っていたのにも関わらずわざわざ聞いたのは、嘘だと言ってほしいという願いがあったからだ。

「うん、本当」

ーーああ。

 彼女は行ってしまう。私が知らない場所へ。彼女がずっと憧れて止まなかった、その名前を口にし続けた国へ。

 吐いた白い息が、虚しく夜の空気に溶けた。

「どうして言ってくれなかったんですか?」

 出来たら人伝てではなく、本人の口から聞きたかった。直接聞いてもショックなことに変わりはないのだが、聞いていればこの三日間の私の、本当にインドに行くのか、いや、嘘に違いない、嘘だと言ってほしいなどという押し問答を繰り返す、どうしようもない感情と時間を割愛できたかもしれないのに。

「だって、言ったら怒るでしょ? 糸」

 真白さんの目の中にある真っ黒な瞳は、インドの話をするたびに黒曜石のように輝いていたっけ。ちょうど今みたいに。

「そりゃ怒りますけど・・・・・・。言ってくれない方が嫌です。もやもやするっていうか。そもそも何でインドなんですか? もっと他にもあるじゃないですか。アメリカとかフランスとか」

 留学先として大多数の人が選ぶ国ではなく、何でインドに行きたいのか。

 私は彼女から、これまで散々インドの魅力について聞かされていた。街や人の魅力、食生活、文化や気候、風土についてなど。だが、私にはどうしても理解できなかった。どうして日本をーー生まれ育ったこの国や、親や慣れ親しんだ友人たちの元を離れてまで、異国の地に足を踏み入れようとするのかが。

「だって好きなんだもん、仕方ないじゃん? 例えばさ、国じゃなくて人で考えてみて。自分の好きな人が地球の裏側にいたとしたら、会いに行きたいと思わない?」

 目の前の先輩のとても秀逸とは言えない喩えに「まぁ・・・・・・」と曖昧な返事を返す。真白さんは「それと同じよ、インドが好きなの。だからどんなに遠くても、知らない人しかいない場所だとしても行きたいと思うよ」と、さも上手いことを言ったかのような得意顔を披露する。

ーー駄目だ。

 もう誰もこの人を止められない。

 分かっているのに、自分のこの口を止めることができない。

「真白さん、インドってめちゃくちゃ危険なんですよ。女の人がレイプされたりするんですよ。トイレもあんまりないみたいだし」

「私のことレイプする人なんていないっしょ。それに、トイレ事情もこの頃は少しずつ改善されてるみたいだし?」

「心配しなくて大丈夫だって~!」と私の背中を叩く真白さんの目は、やはり輝いている。この輝きを生み出すインドが憎い。もしインドが無かったら、真白さんは私の側にいてくれたのに。その代わり、彼女のこの生き生きとした表情も、眩いばかりの笑顔も存在していなかったかもしれないけれど。

 俯いている私に向かって「寂しい?」と悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女は、狡い。もし寂しいって言っても、ここに残ってくれないくせに。
 
 この笑えなさは、いつもの笑えなさとは違う。ガチで笑えないのだ。大声でやめてくれと叫びたかった。インドに行くのをやめてくれ、私をこれ以上苦しめるのをやめてくれ、真白さんを放したくないこの気持ちをやめてくれ。

 そして実感した。

 やっぱり、私は真白さんが好きなのだと。
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