お飾りの王妃が本当の王妃になる話。

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 マクガレイ侯爵家の珠玉の姫君ミーアは、十五歳の時に時の王太子ディッセルの婚約者となり、三年の後に婚姻を結んだ。
 王宮にて、秋の花見の茶会で運命的な出会いをしてから、ゆっくり愛を育んでの縁組だった。

 ――それが、今やどうだろう。

 ミーア王妃に王太子妃の頃より仕える第一の侍女マルタは、主人の泰然としか見えない背中を見て、内心で嘆息した。
 マルタは主人を敬愛し、慕っていた。この方ならば王妃に相応しいと確信していた。事実その通りになったものの、内実が全く伴わないとは、予想だにしなかった。
 正面切って言う愚か者はいないが、陰日向と王妃を支えるマルタは、ミーアがなんと揶揄されているか知っていた。

「お飾りの王妃」。
 陛下の寵愛を失い、夜伽にすら陛下のおとないはない。
 正妃の公務のために在位している哀れな女。もしくは、位にしがみつき身の程知らずに愛を乞い続ける傲慢な女。陛下は、一度たりともその髪の毛先にすら触れることはないだろうに――……。


 怒るマルタを諌めたのは当の王妃本人だった。ミーアは己の陰口を知っていた。そしてマルタにも、放置するようにとそう言ったのだ。なぜ、と愕然としたマルタに、王妃は告げた。「だって、嘘は一つしかないもの」
 その無邪気な物言いにまた衝撃を受け、しかし、マルタは口をつぐむことに決めた。王妃は全く揺らがなかったのだ。

「私がいまだに陛下のお手もついていないと、陛下自身が気づいていないだけでも結構だわ」

 この言、婚姻から二年――王太子の即位から一年――過ぎたとある日のものである。公式記録では、初夜は当然済んだものとされている。実際にディッセルはその晩、王妃の寝室を訪れた。最初で最後の夜だ。……そして朝まで過ごした。
 だから、王妃がいまだに純潔を保っていることを知っているのは、王妃本人と、部屋の世話をする数人の召し使いのみだった。

 それで結構というミーアの言葉の真意を、マルタは知らない。どこまでも泰然としたミーアの態度も理解ができない。
 しかし、ミーアがどこまでも「王妃」であるので、マルタは黙って仕えるしかないのだった。





☆☆☆






 王妃に与えられた執務室で、ミーアはその陳情書を頬杖をついて眺めていた。

「……あの方は、よくもまあここまで落ちぶれたものですね」

 内容は最近見慣れたものだ。国王陛下の散財が荒い、国庫がからになってしまう――。
 その金の流れまで詳細に記しているあたり、いい加減ミーアに具体的な方策を取れと……もしくはこっちで何とかするから許可だけ出してくれという無言の訴えだろう。
 ミーアは王妃でありながら、既に国王の仕事の七割を肩代わりしている。残りの三割は国王にしか許されぬ公務だ。国王印を捺すのはさすがにミーアでも無理だ。その場合、ミーアは国王の愛妾を煽てて国王に判を捺させている。もちろん愛妾たちが己の都合のいい書類にも国王印をさせようとしているが、その書類が全て回収されたのちに届けられる先は、結局王妃であるミーアの元なのだ。つまりそこで隠滅すれば早い。

 国王ディッセルは、即位した頃から性格が変わった。元々少しその毛があった程度の傲慢さが目に余るようになり、恋と信じていた関係を紛い物だと決めつけるようになり、果てには淫蕩に耽って公務を疎かにした。ミーアとの初夜の際も、周りがうるさいからとミーアの部屋を訪ねるだけ訪ね、つまらない意地で新妻を抱かず、その窓から既に囲っていた愛人の元へ向かう始末。ミーアはもはや、国王の唯一ではなくなっていた。
 それでも、まだ二年ほどは国王として、民を守る導き手として、矜持を保っていたのを知っている。それが私事で国庫に手をつけないという意味だと話したら、腹心の侍女マルタに物凄く複雑な顔をされたが。
 それが、三年経てば箍が弛み、五年経てば完全に弾け飛んだ。愛妾には国庫から最低限の給金が出ているが、そこに増して国王が貢ぎ物をするようになった。税金が湯水のように使われるという、国に仕える官吏たちには到底許されぬ事態となっているのである。

「さてと。そろそろ収益を上げて誤魔化すのは無理ですわね。この国に忠誠を誓い、才を尽くしてくださる皆様のご期待を、わたくしが無下にしてはなりませんから」

 ミーアは国庫の管理者を呼び出した。

「お呼びと伺い、馳せ参じました。王妃殿下におかれては、本日も麗しうございます」
「過分な色代は結構です、ネイキッド卿。わたくしは王の臣下の一人なのですから」
「……私は、あなた様のその謙虚さに礼を尽くしているのみでございます。しがない金庫番など呼び捨ての上に踏みつけても咎はありますまいに。ましてや、あなた様のご威光は最下級の民の元まで届いておりまする」
「示威のためだけに民を踏みつける者がいるとは……わたくしの力不足を悔やむ限りです。どなたにされましたの?わたくしからきちんとお話を……」

 この方これが素なんだよなぁ、とルイス・ネイキッドは遠い目で、心配してくれる王妃の顎の辺りを見つめていた。当時の王太子が一目惚れしたのもわかるくらいの佳人なので、顎だけでも見てて飽きないところがまたすごい。
 ちなみに、目を合わせられないのも、真に受けたミーアに言葉の綾ですと言えないのも、顎に視線を落とす前に見たペリドットの瞳がマジギレしていたからだ。
 マルタが苦笑して「先にネイキッド卿に席を勧めては?」と耳打ちしてやっとミーアは我に返った。顔を赤らめているのはルイスを立たせたまま自分の思考に没頭していたのを恥じているからだ。そこで、用意されている椅子に腰かけたルイスは話を戻される前にミーアの用件を尋ねた。

「今の、国庫の様子を詳しく知りたいのです」

 ぱちりと瞬きをしたあと、ミーアはそう言った。 

「財務長官のディビット卿から陳情書を頂きまして、その付属資料に陛下の浪費の推移は記されていたのですが、わたくしも実際に確認をしたいと思いましたの。『入れる』のではなく『閉じる』のなら、より有効な理由付けが必要ですので」
「『閉じる』と?国庫を?」
「ええ。その資料というのが――マルタ、こちらに」
「はい」

 王妃ミーア侍女マルタから受け取った資料をぽんとルイスに渡した。
 ルイスは普通逆、というツッコミを飲み込み、恭しく捧げ持った。そして「拝見します」と断ってから開き、目を通した。

「……」
「収益が最後に黒字ならばよかったのですが、ディビット卿はここ数ヵ月のうちに赤字になると予想をしておりますし、わたくしも同意しているのです。もうこれまでの策は限界でしょう」
「なので、次は閉じると……」

 今上陛下の御代、国庫の収益は爆発的に増えていた。税の取り立てが厳しくなったからではない。ミーアが王太子の婚約者の頃に勉強の一環で始めた投資のほとんどが、成功を収めているためだ。道路整備、医学薬学の研究支援、寡夫寡婦孤児の生活援助、各地の民芸品の生産者保護、直轄領での農業新技術の普及など、国としての政策があれば、個人的にも民衆の娯楽となる小説、絵画の作家のパトロンとして王妃の私財ポケットマネーをはたいてでも行った投資がある。
 民衆にとっては政府は政府で、その内部のことなど考えもつかないから、王妃ミーアの主導した政策は全て国王陛下の名の下に集束され、果たして国王ディッセルの名声のみを高める結果になっている。その辺り遺憾を持つ官吏はとても多いのだが、ミーアがこれも気にしないのだからどうしようもなかった。

 しかし、これ以上は無理だとミーアが言う。

「陛下に、素直に国庫の話を申し上げたところで『増税する』とおっしゃるのは目に見えています」
「……それは、心当たりがおありで?」
「ヨランダ殿のご実家が陛下に判を捺させていたのですよ。こ存じかわかりませんが、彼女のご実家は徴税官が多く、土地も塩造りの関係で長者に伝が広いのです。かの者たちは増税により必ず横行する賄賂で懐を潤わせるおつもりでした」
「そ、それは……」
「もちろんわたくしが黙殺いたしましたが、ヨランダ殿に突き上げられたのか、陛下がわたくしにお尋ねになりましたのよ。なぜ税率は変わっていないのかと」

 めっちゃギルティ。ルイスはぱかりと口を開けて放心した。

「わたくしは申し上げました。『心優しいヨランダ殿はご実家にいらっしゃる従兄様をお見捨てになることはないでしょう』と」

 ちなみにミーアがそう告げたとほぼ同時に、ディッセルの背後から駆け寄ってきたヨランダが真っ青な顔でディッセルにしがみつき、必死に話を逸らしてこの話はおしまいになった。

「ヨランダ殿は少し思慮が足りないですが、心根は優しく、従順ですわ。ご実家の頼みを引き受けられたのも、病弱な従兄様の治療代のためだと騙されたからですのよ」
「……そのヨランダ殿というのがコルベール嬢であるならば、私の記憶違いでなければ、半年前に彼女が宿下がりしたと同時に実家は取り潰されておりませんでしたか?」
「よくご存じですね。きちんと従兄殿やヨランダ殿のお世話はいたしましたわ。ですが、民をいたずらに傷つけるご家族を赦す義理は、わたくしにはありませんの」
「……さようでございますか」

 国王よりも誇り高きその容貌に、誰が否を唱えられようか。誰が、ミーアの私心を疑うことができようか。巷ではその功績が伝えられず「嫉妬狂いの王妃」と悪し様に言われていても、城に勤める官吏は高官の者ほど誰もそれを信じない。ルイスも信じなかったし、むしろ今目の前に明らかにされてますます忠誠心が奮い立っていた。










 さて、作戦会議は、時おり相談相手を変えつつも着々と進んでいった。
 下準備も同時並行である。
 ようやく王妃が肚をお決めになられたと、彼女に心酔する心ある貴族・優秀な官僚は喜び勇んで、むしろ呼ばれる前に御前に馳せ参じ、助力を買って出た。ミーアの方がちょっと驚いて、勇み足にならないように窘めるほどの勢いだった。

 やにわに活気づいた城の表層に、一国一城の主であるというのに奥に閉じ籠ってばかりだった国王も、うすぼんやりと異変を感じ取るようになっていた。惰性にまみれ欲に溺れようと、元は有能な男だったのだ。
 人間性失格、臣下からの忠誠を見放されようと、国主となるべく受けてきた教育だけは馬鹿にできない。
 国王は早速、愛妾らを通してその親族を動かし、城の情報を集めさせた。
 愛妾らにとっても、国王の進退は他人事ではない。この中には当然機を見るに敏い賢婦人がいて、国王の劣勢を悟ると国王との連絡を絶ち、夜逃げ同然の逃げ足を発揮した。しかし、国王に恩を売れると、他の愛妾とその親族が穴を埋めていくので、国王にとって問題はなかった。外見上は。
 その紐帯がいかに脆いものか、国王が知るのは少し先でのことである。








☆☆☆








 ミーアは困惑の表情で、玉座に座る国王を見上げていた。
 書類上の夫は、書類上の妻の顔を見下ろし、嫌悪と嘲りに満ちた視線をもって応えた。ミーアは跪いたまま、胸にぎゅっと両手を押し当てて、震えを圧し殺そうとした。

「……なんと仰いましたでしょうか?」

 下座というにはあまりにも下座に、ミーアはいた。参列する貴族たちよりも、夫より遠い場所で平伏させられたのだ。
 本来なら玉座の一段下に、国王と同じく階下を見下ろすような造りで用意された王妃の椅子は、今、王妃ではない女が腰かけていた。国王が最近とみに入れ込んでいる妾だ。本来の身分に沿わぬきらびやかな衣装と宝石に身をくるまれ、美しい顔立ちがよりいっそう華やかに引き立てられている。だが、彼女の表情がこれまた王妃に向けるにはあまりにも無礼で傲慢なものなので、品性の面では思いっきり台無しな有り様になっている残念さである。

「余に、二度も申せと?」

 国王は妻に冷酷な声を浴びせた。なんて愚鈍な女なのだと、こんなものが自分の妻であるなどとは到底言いたくないとばかりの、超上から目線な一言だ。
 ミーアのみならず周囲に居並ぶ臣らの怒りで染まった表情、激情で震えを押さえきれない様子をも内心で見物にしつつ、ディッセルはこの舞台のとして、しかつめらしい顔を崩さないよう尽力していた。さすがに、出し抜いたからと言ってこれ見よがしに笑わないだけの理性は残る国王だった。果たしてそれが理性と呼べるかは、かなり個人差のある問題であり議論の余地がないものであるが、当然ディッセルには知ったことではない。

「余の裁可をたかが王妃権力によって握り潰したこと僭越であり越権であること甚だしい。それに加えて、近日そなたはあろうことか夫しか立ち入ることの許されぬ王妃の居室に数多の男を招いては長く時間を共にした。王子を生む義務を放棄するばかりか、余以外のものを咥えこむとは…… 余への侮辱も大概にせよ。不敬罪も足りぬほどの大罪を犯した自覚は、そなたにはないようだな。全く、かような不届き者が十年もの間、王妃であったとは……我が国の恥辱、その身をもってあがなうがよい」

 長口舌を受ける王妃は慎ましくこうべを垂れていたわけだが、やはりその表情は困惑に染まりきっていた。

 ――この方は、本当になにを仰っているのかしら……?

 国王の言っていることは半分は確かに合っているが、もう半分は「おまいう」である。内心で市井へのお忍びで知った言葉をノリノリで呟いてみるミーアは余裕の一言に尽きる。二回目は冷静に国王の言葉を受け止められたが、その分呆れが台頭してきたのである。
 よしんば、国王の宣告が全て正しいものとしよう。その場合、国王の行為は完全なる大不正解、三角ではなくペケである。
 しかもとても大きなペケだ。

「あの……申し上げてもよろしいですか?」
「ふん、言い逃れとは見苦しい。近衛!この毒婦を引っ捕らえよ!」
「いえ、言い逃れというより、採点ですわ」
「は?」
「ちなみにゼロ点ですが。さらに申し上げるならマイナスをつけて差し上げたいくらいです。落第も落第。王子としてお生まれになった頃からやり直していただきたいほどですのよ」

 恐ろしい沈黙が場を満たした。

 ミーア以外の誰もが、呼吸をすることも忘れていた。
 国王へ不信感を募らせつつ忠誠を誓った騎士として板挟みの近衛は中途半端に足を広げたまま硬直し、文官らは揃って口をぽかんと開け、貴族の面々はあまりにもはっきり堂々と国王にとんでもないことを言い放った王妃に耳と頭と目を疑っている。
 しどけなく分不相応な椅子に座していた愛妾は真っ青な顔色で国王を窺い、肝心の国王も怒りが追いつかなかったように間抜けな風貌を晒していた。
 十年くらいほったらかしにして、今だけつぎはぎに取り繕っていた国王の威厳は、木っ端微塵に吹き飛んでいた。

「……な、なにを意味のわからぬことを――」
「陛下、なぜこの衆人環視の場で、公式に筆記に取られ、記録が残るような場で、派手な見世物のようにわたくしを断罪なさいますの?仕方のない方ですわね。ご安心なさいませ。わたくしが、ちゃんと、全て、なかったことにして差し上げますから」

 常のおっとりな口調で言い切ったミーアは、蜂蜜のようにとろりと甘い微笑みを浮かべていた。

「な……!?」
「よろしいですか、陛下?今回に限って、陛下の仰ることを全て正しいと世の人に思わせるのならば、こうして公式の場で本人を断罪することは――それだけは、決してあってはなりませんでした。陛下は何よりも国益を重んじ、体面を守らなくてはならないお立場ですのよ?王妃が……それも長く、権力も削がれず在位し続けた王妃が、陛下を軽んじていた事実など、恥以外の何物でもありません。王妃が明らかな大罪を犯しているのに長きに渡り見落としてきたご自分の無能さを大声で喧伝するも同然であり、そもそもそのような女を陛下の伴侶にお選びになったというだけで、時を遡って特大の失点になりますわ。国内は今の比ではなく荒れ狂います。表向きは派手な断罪によって陛下の体面は保たれますが、反面、人々は無意識の部分で王権を軽んじるようになるでしょう」

 ミーアはゆるりと首を捻った。さらりとその藍色の髪が流れ落ち、美しいかんばせが少し陰の位置を変えるだけでまた違う色香を漂わせる。

「王妃の僭越を、半年ほどで諌められていたら問題はございませんでした。それでも暴露はいただけませんが、早くに退位させて新たなお妃を迎え、お世継ぎを成してゆく……これが理想でしょう。ですが、陛下。あなた様は退位もさせず幽閉などするでもなく、わたくしを十年もあなた様のお側に置かれ続けました。時すでに遅し、という格言がございますが……もしくはどの面下げて、と仰るのでしたわね。陛下。あなた様は、極悪な王妃を世に十年も野さぼらせた責任をどう償うおつもりでしたの?お分かりではないようですが、この国は陛下だけのものではなく、過去、未来と連綿と続いてゆくものです。後継のことを何ら考えず、功名心に駆られ、一時の激情にこの国の未来に暗雲をかける……そのようなことを、陛下はなさったのです」

 たおやかな風情を損なわぬ上品な笑顔でぼろくそに夫を扱き下ろしたミーアは「答え合わせ」に移行した。

「そういう時は、王妃は病で死んだと公表し、その裏でわたくしを処すようにするべきですわ。もしくは不義密通の場を直に押さえ、わたくしとお相手の方の首をもろとも刎ねるのです。わたくしが死に、かつあまり陛下に不名誉が当たらない対応となるとこのくらいでしょうか。もちろん、後者の場合は後の始末が――いえ、どちらの場合も同じですわね、残念ながら、陛下のなさったことを正しいと思える方は一握りで、それも政治から追い出されているのですから、陛下は新たな賛同者を獲得せねばなりません。その条件は、これまでの十年間が夢か幻かと見紛うほどの実績を上げること――」

 内密に処理をした方が見せしめの効果を発揮する例もある。今回の件はまさにそれだとミーアは言うのだった。
 公にすれば外聞が悪くなるどころか、「悪」と断じた以上は処分をせねばならない。必ず権力の空隙や反発が起こる。それを埋める能力が国王派にないことは瞭然で、否定のしようもないことだった。

「ご自分が勝ち目のない勝負に挑まれたと、おわかりいただけましたか、陛下?」

 今の今まで名ばかりの妻の弁舌を唖然として聞いていた国王は、はっとした。

「く、くだくだしく道理のならぬことを吐きおって!余をどれだけ愚弄すればよいのだ!?不敬罪だぞ!」

 話を聞いていたといっても、ほぼ理解できなかった国王は、自分がこの衆人環視の中で扱き下ろされたことだけはわかった。余にどこまで恥をかかせるのかと喚いたが、その声に怯懦が滲んでいることを自覚してはいなかった。
 国王の強権で目障りな王妃を始末してしまおうと考えていたのに、この王妃の泰然とした姿はどういうことだ。追い詰めたはずなのになぜこちらが追い詰められているような気分になっているのだ。
 王妃の凋落を披露してやろうと呼び集めた、王妃に従う者共や国王の味方たち。その数多の視線の行く先、視線に込められた意味が、今さらのように気になってしようがなかった。
 背中が、握り拳の内側が、じんわりと湿ってきた。遥か遠いところで情けなく這いつくばっているミーアは、相変わらずおっとりと微笑んでいる。どんなに叱責を浴びせようと、全く効果がないことは明白だった。
 恐れを認めなかった国王は、自らが敷いた断崖のような距離を、自らの足で詰めた。
 騎士にやらせずとも、これからまた余計なことを言われる前に、国王の剣で斬れば終わる話なのだ。
 不気味に光る白刃を見た文官は驚愕と脅威に声を上げ、武官は緊張と焦燥に固まった。形だけでも忠誠を捧げた国王へ剣を向ければ背任罪だし、行く手を遮ることは不敬罪だ。せめて王妃の前に飛び出して盾となろう、そう決意したのは、武官たちの半数。
 だが、他でもない、ミーアがそれを止めさせた。夫の蛮行に呆れたように目を見開き、困ったように微笑む。逃げる素振りのない、危機感の欠片もない悠然さに、国王はどんどんと大股になり、歩みを速め、まだ間合いにも入っていないのに剣を振りかぶった。

「王妃殿下!」

 この世の滅亡とばかりに広間に響き渡った悲鳴に紛れて、剣が呆気なく落ちる音がした。

「――まあ、陛下、このような熱心な抱擁など、何年ぶりでしょうか。皆様の前ですのに、お恥ずかしいですわ」
「……は……!?」

 ミーアは弾む言葉通りに嬉しげに頬を染めていた。三十歳に手が届くかという年齢でありながら肌は陶器のように滑らかで、瞳はしっとりと潤んでいる。唇はぷっくらと熟れた果実のように蠱惑的で、髪がふわりと揺れるだけで芳しい香りがディッセルの鼻を刺激した。白粉や香水の匂いではない、独特の薫香がわずかに気になったが、すぐに忘れた。
 重々しい王妃装束から覗く細く白い腕が、蛇のようにディッセルの首に巻きついている。
 国王が間合いに踏み込むより先に、剣先を閃かせるより先に、王妃は自らその間合いに飛び込み、夫へ抱きついたのである。
 少なくともディッセルは抱き返していない。そのはずなのに、ミーアは瑞々しい少女のように喜んでいた。

「ご安心くださいませ、陛下」

 ――仕方のない方ですわね。

「わたくしはどのようになっても陛下を愛しておりますわ。陛下ご自身がいらしてくださったのなら、恐れるものはなにもないのです。わたくしは陛下第一の臣。あなた様のご威光も後世の名誉も、これからいよいよ増すものになりましょう」

 ――わたくしが、ちゃんと、全て、なかったことにして差し上げますから。

 長年蔑ろにし、殺そうとまでしてきた夫に対して、甘露な笑みを浮かべる女が、今、自分に抱きついている。ディッセルは今度こそ、体の芯をぞっとわななかせた。この女が、人の形をした化け物のようにしか思えなかった。
 まさに蛇に睨まれた蛙。今にも捕食されんとしているのだと本能が理解した。
 そして、これまでの生活で堕落しきっており、今や思考の全てを溶かしきってしまったディッセルは、逃れる術を持たなかった。彫像のように微動だにせず、至近距離の妻の顔を見つめるしかできなかった。

「皆様に仲直りのご挨拶をいたしましょう?終生仕えて下さる方々ではありますが、このようなをお見せするのはよろしくありませんでしたわ」

 ミーアがうっとりと目を細める。もうろうとしているディッセルと違い、どこまでも理性的で、どこまでも情熱的な眼差しだった。

 広間の全員に見せつけるように、ゆっくりと唇が重なったのが、決着の合図だった。











☆☆☆










 ディッセル王は歴史上ではあまり目立たない統治者である。戦乱や飢饉と縁がない穏やかな治世であり、脚光を浴びることはなかったのだ。だが後の研究者たちは、彼の王こそが、緩みはじめた王政の地盤を強固に踏み固め、後世に起こるはずだった問題を未然に防いだ稀有なる存在だと提唱した。
 ディッセル王の治水工事によって、三代後の史上最大規模の大嵐の被害は最小限に抑えられ、様々に行われた福祉策は後世に発展し、世界を牽引する制度にまで洗練された。
 他にも、例を挙げてもきりがないほどの功績ばかりだ。

 そのような安泰な治世に一つ難点を挙げるとしたら、妃を迎えて十年近く後継者に恵まれなかったことだろう。だがディッセル王は一途に妻を愛し、側妃を娶ることもしなかったという。積年の愛が結果として一男一女を産み、王国は興隆の道を進みはじめた。
 夫婦仲を語るのは、唯一、ユクレール財閥の祖、ルイス・ネイキッドの手記である。
 王は王妃を愛し、王妃は王をよく支えたというが、一生に一度だけ、盛大な夫婦喧嘩をしたとされている。詳細は不明だが、廃妃もされず、晩年も穏やかなものだったとは史書に記されているところであり、誰もそこに着目することはなかった。

 ルイスが、ミーアに抹消されることなく書き記せたのがこの手記の一行だけだったとは、後世の誰も知ることのない秘事である。












「ふふ、王子かしら、王女かしら」

 王妃はここ最近膨らみはじめた腹をさすりながら幸せそうに呟いた。早くも滲み出る母性がますます美貌に磨きをかけている。侍女マルタは毎日毎日、王妃の世話に余念がない、その成果である。
 最近使い物になってきた国王に仕事の半分を仕分け、王妃の負担が減ったことで、こうしてゆったりと時間を使えるようになったのだ。

「王妃」
「あら、陛下」

 書類を片手に訪ねてきた国王を王妃が出迎える。これまでのことを顧みれば、なんと温かな光景だろうか。
 ディッセルは痴話喧嘩の日から人が変わったように、己の行状を改めていた。
 というのも、ミーアが本当にあの日の騒動を「なかったこと」にしたこと、その晩、十年来夫婦だったはずの妻と初夜を迎えさせられたこと、国王の砦である妾やその一族を、丁寧に、一枚一枚、国王に見せつけるように剥ぎ取っていったことによって、国王の心を根っこからぶち折ったためである。
 今、ディッセルのミーアを見る瞳には愛情はない。恐怖と敵意が熱烈に妻に注がれているが、王妃は一顧だにせず、幸福な笑顔で迎え撃つ。

 国王は元々、王妃に無関心だった。その意識を――たとえそれが憎悪であったとしても――妾ではなくミーアの方へ惹けたのなら、これから本格的に堕としていけばいいだけのこと。国王は自分が崖っぷちに追い詰められているとは知りもせず、呑気に敵愾心を燃やしている。
 政務に真面目になったのは、ミーアが指摘したように、王妃を追い落とすために妾たちではない己の味方を作る必要性に駆られたためだが、それこそ誘導されていると気づいていない。

(お可愛らしい方だけど、残念ですわね)

 妾たちには手を回して子を生ませなかったため、今妊娠しているミーアが健康な子を生めば、王妃の地位は金剛石よりも頑丈になる。待ちに待って、やっと掌中に転がり落ちてきた機会を無駄にするつもりは、ミーアにはないのであった。
 うふ、と花が咲くような笑みがこぼれる。ディッセルは一瞬だけそれに見とれたが、すぐに全力で顔をしかめた。
 堕ちるまでもう後数歩、と言ったところか。自分がさんざん嫌っていた妻に「愛している」と言われ、愛情深く微笑まれ、夫の子を産むことに幸福を隠しもしない態度をずっと見せつけられて。それに絆されない男が、この世に存在するわけがない。かたくなに妻の名前を呼ばない男は、いつかミーアと呼び、心から恃みにするだろう。

 結果として、王国から跡継ぎという欠点は消え去る。国王の失点はひいては王国の汚点。そんなもの残すわけにはいかないので、全て、ミーアが握りつぶす。

 可愛らしくて、愚かな方。
 国王失格でも、自覚なき傀儡であってもよろしい。
 わたくしがきちんと導いて差し上げます。
 わたくしは国王の妻であり、国母であり、この王国の第一の臣下なのだから。

 ああ、楽しい。嬉しい。

「愛しておりますわ、

 
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「デホタに謝ってくれ、エマ」 「なにをでしょう?」 「この数ヶ月、デホタに嫌がらせをしていたことだ」 「謝ってくだされば、アタシは恨んだりしません」 「デホタは優しいな」 「私がデホタ様に嫌がらせをしてたんですって。あなた、知っていた?」 「存じませんでしたが、それは不可能でしょう」

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