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序章
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十三歳になったばかりのことだった。
突然、殺されかけた。
自分の誕生日を祝う宴も一段落ついた、明るく静かな夜に、生まれて初めて人を殺した。
相手は自分へ仕向けられた名もない刺客だった。あとで、どうして宴の席で一杯毒を盛らなかったのか不思議に思ったものだが、この時はそこまで気が回らなかった。
慣れない夜会のせいで火照った顔を夜風で覚まそうと思い、一人で庭をすずろ歩いている時だった。
夜に花開くリンの草は、子供らしく緊張した少年を密かに和ませるものだった。初春の甘やかな匂いを風がそっと静かに運んできて、ようやく最近冬の厳しさから開放された木々がさわさわと軽やかな音を立てる。濁りの一切もない濃紺の空に月が清明に輝いていた。
どうしてその時最初の一撃を躱すことができたのか、自分でもわからなかった。なんとなくとしか言いようがない。飛刀が足元に刺さった時、またわからないことに、覆面の刺客は愚かにもその身を晒して斬りかかってきた。どうしたこうしたと考えている場合ではなかった。相手の思考は稚拙でも、刺客としての腕はかなりのものだった。つい三日前に、誕生祝いに親戚から贈られた剣をたまたま身に着けていて運が良かった。規格もいつも稽古に使っているのと同じだったから扱いやすかったが、鉄の重みにはまだ慣れていなかった。ましてこちらは命のやり取りなど一度もしたことがない素人だ。だが、嗜みとしては度が過ぎるほどの厳しい鍛錬を積んでいたのと僅かばかりの幸運が、結局は死の淵を渡らせなかったのだった。
我に返ったとき、足元には刺客が倒れ、血溜まりができていた。荒い息をつきながら、自分の心がまだふわふわと浮き立っているのに首を傾げた。剣の血を拭って打ち捨てられていた鞘に収めた後もまだ落ち着かなかった。熱い血が全身を凄まじい速さで巡っている。こんなことは初めてだった。
襲われたからといって夜会の会場へ戻ろうとも思わず、ふと思いついて死体の覆面を取った。
刺客の顔を見ようと思ったのは気まぐれだったが、それがこの先の人生を変えてしまうことになった。
全然知らない顔だった。特に美しいというわけでもない、ただの平凡な顔。目的を果たせずして殺されたというのに、目を閉じて安らかにも見える死に顔だった。
呆然とした。
体の中を雷が通り抜けたように感じた。
名も知らぬ男は仕留め損なった子供に殺され、それでもこんな風に死ねるのだ。
これまでの自分は惰性の殻の中で生きていたのだと、そしてそこは自分の場所ではなかったのだと気づいた。生ぬるい世界ではふやけてしまう。
血がこんなにも熱いのは高揚していたからなのだ。生きていると実感したからだった。
心の底から。
この重っ苦しい服を脱ぎ捨ててどこかへ行ってしまいたいと思った。
ニ年後、少年は荒野に立っていた。連れはこっそり自分で稼いで貯めていた僅かばかりのお金と自分の金で買った大切な命綱。粗悪品だが、あの日使った剣よりましだった。これまでの自分を捨て去るために、あれは邪魔でしかなかった。
日が昇る。
運命の朝だった。見渡す限り荒涼とした大地。生きるも死ぬも己次第の、厳しくも美しい世界に黎明が差す。
笑った。殻は簡単に壊れ、いま少年は自由だった。
この世界でなら生きられる。
かつてない喜びを胸に、残していくものを振り返ることすらせずに笑いながら月下の荒野を駆けていった。
色々な場所を回り、色々な人に出会った。殺伐とした世の中でも楽しめることはそれなりにある。高揚感を何度も味わう機会があった。
自分の出身を知った者は口を揃えて自分を責めた。地位も名誉も財産も何もかも思い通りになるといい、それを享受するべきだ。安全なはずの世界から飛び出し、どうして身を危険に晒す必要があるのか。擦り減る心を抱えた者があふれかえる世界で、少年もその例外にはなり得なかった。
あそこにいれば、心がおかしくなることなどないのに。
誰よりも幸せになれるのに。
だからといって納得はできなかった。ニ年間考えたのだ。自分が捨てたものの重みとその意味を。その上で決めたことだったから、他人にとやかく言われる筋合いはない。しつこい奴はその場で殴り倒した。
そんな中で、一人だけ、
「いいんじゃないの」
そう言ってくれる人が現れた。
自分で言うのも何だが自分と同じくらい変わり者で、それでもあの人の周りには沢山人が集まった。流浪の日々だったから会わない時のほうが多かったが、会ったときは決まってふざけ合い笑い合い喧嘩し合った。
肯定してくれることがたまらなく嬉しかった。
思い返せばあの頃が一番まともでいられた。壊れかけた心を無視できた貴重な時間だった。
だが、また独りぼっちになった。
もう自分に笑いかけてはくれないのだ。
愛する者の亡骸の前で、また何かが壊れる音がした。何かが粉々に砕け散った音。
遠ざかる意識の中で、自分が剣を抜いたことに気づく。
それは誰も自分を止められないということだと、なんとなくわかっていた。
それでも自分は破滅を選んだ。
死へひた走っていく。
突然、殺されかけた。
自分の誕生日を祝う宴も一段落ついた、明るく静かな夜に、生まれて初めて人を殺した。
相手は自分へ仕向けられた名もない刺客だった。あとで、どうして宴の席で一杯毒を盛らなかったのか不思議に思ったものだが、この時はそこまで気が回らなかった。
慣れない夜会のせいで火照った顔を夜風で覚まそうと思い、一人で庭をすずろ歩いている時だった。
夜に花開くリンの草は、子供らしく緊張した少年を密かに和ませるものだった。初春の甘やかな匂いを風がそっと静かに運んできて、ようやく最近冬の厳しさから開放された木々がさわさわと軽やかな音を立てる。濁りの一切もない濃紺の空に月が清明に輝いていた。
どうしてその時最初の一撃を躱すことができたのか、自分でもわからなかった。なんとなくとしか言いようがない。飛刀が足元に刺さった時、またわからないことに、覆面の刺客は愚かにもその身を晒して斬りかかってきた。どうしたこうしたと考えている場合ではなかった。相手の思考は稚拙でも、刺客としての腕はかなりのものだった。つい三日前に、誕生祝いに親戚から贈られた剣をたまたま身に着けていて運が良かった。規格もいつも稽古に使っているのと同じだったから扱いやすかったが、鉄の重みにはまだ慣れていなかった。ましてこちらは命のやり取りなど一度もしたことがない素人だ。だが、嗜みとしては度が過ぎるほどの厳しい鍛錬を積んでいたのと僅かばかりの幸運が、結局は死の淵を渡らせなかったのだった。
我に返ったとき、足元には刺客が倒れ、血溜まりができていた。荒い息をつきながら、自分の心がまだふわふわと浮き立っているのに首を傾げた。剣の血を拭って打ち捨てられていた鞘に収めた後もまだ落ち着かなかった。熱い血が全身を凄まじい速さで巡っている。こんなことは初めてだった。
襲われたからといって夜会の会場へ戻ろうとも思わず、ふと思いついて死体の覆面を取った。
刺客の顔を見ようと思ったのは気まぐれだったが、それがこの先の人生を変えてしまうことになった。
全然知らない顔だった。特に美しいというわけでもない、ただの平凡な顔。目的を果たせずして殺されたというのに、目を閉じて安らかにも見える死に顔だった。
呆然とした。
体の中を雷が通り抜けたように感じた。
名も知らぬ男は仕留め損なった子供に殺され、それでもこんな風に死ねるのだ。
これまでの自分は惰性の殻の中で生きていたのだと、そしてそこは自分の場所ではなかったのだと気づいた。生ぬるい世界ではふやけてしまう。
血がこんなにも熱いのは高揚していたからなのだ。生きていると実感したからだった。
心の底から。
この重っ苦しい服を脱ぎ捨ててどこかへ行ってしまいたいと思った。
ニ年後、少年は荒野に立っていた。連れはこっそり自分で稼いで貯めていた僅かばかりのお金と自分の金で買った大切な命綱。粗悪品だが、あの日使った剣よりましだった。これまでの自分を捨て去るために、あれは邪魔でしかなかった。
日が昇る。
運命の朝だった。見渡す限り荒涼とした大地。生きるも死ぬも己次第の、厳しくも美しい世界に黎明が差す。
笑った。殻は簡単に壊れ、いま少年は自由だった。
この世界でなら生きられる。
かつてない喜びを胸に、残していくものを振り返ることすらせずに笑いながら月下の荒野を駆けていった。
色々な場所を回り、色々な人に出会った。殺伐とした世の中でも楽しめることはそれなりにある。高揚感を何度も味わう機会があった。
自分の出身を知った者は口を揃えて自分を責めた。地位も名誉も財産も何もかも思い通りになるといい、それを享受するべきだ。安全なはずの世界から飛び出し、どうして身を危険に晒す必要があるのか。擦り減る心を抱えた者があふれかえる世界で、少年もその例外にはなり得なかった。
あそこにいれば、心がおかしくなることなどないのに。
誰よりも幸せになれるのに。
だからといって納得はできなかった。ニ年間考えたのだ。自分が捨てたものの重みとその意味を。その上で決めたことだったから、他人にとやかく言われる筋合いはない。しつこい奴はその場で殴り倒した。
そんな中で、一人だけ、
「いいんじゃないの」
そう言ってくれる人が現れた。
自分で言うのも何だが自分と同じくらい変わり者で、それでもあの人の周りには沢山人が集まった。流浪の日々だったから会わない時のほうが多かったが、会ったときは決まってふざけ合い笑い合い喧嘩し合った。
肯定してくれることがたまらなく嬉しかった。
思い返せばあの頃が一番まともでいられた。壊れかけた心を無視できた貴重な時間だった。
だが、また独りぼっちになった。
もう自分に笑いかけてはくれないのだ。
愛する者の亡骸の前で、また何かが壊れる音がした。何かが粉々に砕け散った音。
遠ざかる意識の中で、自分が剣を抜いたことに気づく。
それは誰も自分を止められないということだと、なんとなくわかっていた。
それでも自分は破滅を選んだ。
死へひた走っていく。
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