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第一部
3-2
しおりを挟む――泣けばいい。
泣いたら、忘れて、前に進める。
それにな、お前がそんなに落ち込んでるんだ。まともに覚えてなくても、いい人だったんだろ?
泣いて、弔いの代わりにしな。
お前以外に泣いてやれる人はいないんだから……。
この晩も、ナジカは持ち馴れてきたペンを片手に日記帳に向かっていたが、水底から浮き上がった記憶に、少し硬直した。
あれはどれくらい前のことだったか……。前に住んでいた所から、どんな理由でか引き取られた孤児院で、陰にずっと蹲っていたのは覚えている。
かなり年上の男の子にそう言われて、たぶん本当に泣いてしまって。そして、前のことを忘れて孤児院で生活していたのだ。
――泣きたくない。
でも、レイソルから助け出されたときは、泣かなかった。
あんまり唐突に奪われた幸せな日常。
何も訳がわからないうちにレイソルに引き取られて、何もない日々にようやく血の海が現実に思えて、でも……忘れたくなかったのだ。レイソルは何も言わなかった。黙って、ローナがやるみたいに頭を撫でて、それだけだったから。忘れなくてもいい。立ち止まっていてもいいと言われた気がして、思う存分に甘えていた。
(その罰が当たったんだ)
なんでレイソルまで死んでしまったのだろう。ローナより、私の方が責められるべきだった。一緒に住んでいて、何も知らないまま目の前でレイソルが息絶えたのを呆然と見つめていただけなんだから。
進まないと。
忘れたくない。でも、何も知らないまま、みんなが消えていくのだけは、嫌だ。
そのためにルアに頼んだ文字の学習と、日記帳だった。
ぎこちない文字で今日あったことを書き出した。今日は街を歩いても迷子にならなかったし、ローナの仕事の人と会って挨拶してくれた。ミアとは会わなかったのがちょっと残念。でもルアと歩くのも楽しかったとまとめた。
もう一冊を開いて、その白紙をじっと見つめた。「今」のものはページが埋まってきたのに、こっちはまだインクの染みしかついてない。
必死で昔を……忘れたくないと守ろうとした記憶を懸命に掘り返そうとしても、血の海しか出てこない。……この様だと、レイソルと過ごした日々は何のためにあったのだろう。立ち止まっていたら、気づいたらナジカはたった一人、どの世界からも切り離されていたのだ。
ティム――歯の抜けた兄――血の海で切り落とされた顔が虚ろな目をしていた。
(違う)
ナナ――笑顔が可愛くて――でも手足がばらばらになっていた。
(違う)
アレイ――物静かで、物知りだった――血まみれで扉から引きずられていた。
(違う……)
ユーフェ――いつも優しいみんなのお父さん――白い髪が血に染まって、そばに指輪と赤黒いものが沢山転がっていた。
(違う)
あの全てを失った日が、ナジカの思考を凍らせる。みんなの顔が思い出せない。幸せな日々が確かにあったのに。みんなで笑いあった日があったはずなのに。どんなに思い出そうとしても、血の海に引きずり込まれる。
そして、ナジカに泣くことを教えてくれた人。
『ナジカ!逃げろ!!』
草を摘みに行くのについてきてくれたトーサ。帰ってきたらナジカより異変に気づくのが早くて、大きくて不気味な大人たちからナジカを庇って傷を負って……そのままナジカもお腹を刺されて、わからないまま気絶した。助かったのがナジカ一人なら、トーサも死んでしまったんだ。みんな、あの血の海に取り残されてる。
じく、とかなり前に癒えたはずの刺し傷が疼いた。
「ナジカ、ちょっといいか?」
こんこんと扉を叩く音が聞こえて、過呼吸になっていたことに気づいた。どくどくと血が巡る音が全身に響いて、身体中に汗が滲んでいた。息が浅い。肺まで届かない。
「――ナジカ!?」
扉が開けられて、誰かが入ってくる。
「ナジカ!大丈夫か!」
「…………ロー……ナ……っ」
嫌だ。まだ泣けない。泣きたくない。忘れてしまう前に全部日記に刻むんだ。そしたら、進めるから。泣かないでも前に進むために……。
誰でもない、レイソルにそっくりなこの人が与えてくれた時間が、ナジカの背中を押してくれたから。
体の底からせり上がってくるものを必死に耐えていると、口許に手がかざされた。はっはっと小刻みな息が跳ね返ってくる。ぽんぽんと背中を叩かれた。
「ゆっくり息吸えよー……。吐いて。もう一回……そうだ」
真剣で、でも優しい声が心地よくて、だんだん落ち着いてきた。気づいたら目の前に水の入ったコップが差し出されていて、見上げるとクラウスがいた。銀の眼鏡の奥で糸目が少し開いて、薄い茶色の瞳が見えた。
「薄荷が入ってる。飲んだら落ち着くよ」
「……あり、がと」
飲んだ水は少し甘くて、すっと喉の奥を通っていった。ようやく大きく息をつくと、ローナが脱力していた。
「びっ……くりしたぁ」
「…………ごめん」
「ナジカ。過呼吸のときは落ち着くことが重要だよ。息の吸い方を忘れてしまっているから、手を口に当てて、ゆっくり、を心がけるようにね」
「……わかった」
たぶん、机の上をちらりと見ていたクラウスは、どうしてナジカが過呼吸になったかすぐにわかったのだろう。
伸ばされたクラウスの指は細くて長くて、でもルアみたいな柔らかさはない。ローナと同じくらい皮が厚い手が、つるりと頬を撫でていった。
「……どうしたの、二人とも」
「ちょっと君と話したいことがあってね……」
「私と?」
うん、とクラウスは頷いた。
「晩ごはんの時に話せる内容じゃないしね、後でルアにも教えるよ」
「……?」
クラウスが膝をついたので、ナジカはコップを机の上に置いて向き直った。後ろに立つローナは緊張してるのに、クラウスはずっと穏やかな顔のまま。ナジカは、クラウスが動揺している姿なんて、一度も見たことがなかった。
「ナジカ、『エーラの悲劇』が起きたのは、誰の仕業か知っている?」
「――……」
さっきまでさっぱりしていたのに、じわりと口の中に苦いものが込み上げてきた。ナジカは好き嫌いはないけれど、どうしてもナッツ類は食べられなかった。
喋るのは苦しかったから、小さく頷いた。クラウスが「苦しかったら飲んでいいよ」と言ってくれたので、一口また飲んだ。
「……その人たちなんだけどね、最近、壊滅したよ」
はっとクラウスの顔を見た。クラウスは柔らかく、するりと耳に溶け込むような声で教えてくれた。
ヘーゼルの行方が最近になってまた明らかになったこと、それは遠い地方のことで、しかもそのあとすぐに、どんな理由でか滅びたこと。誰が果たしたかわからないけれど、首領とおぼしき人間も死亡が確認されたこと。
「これから残党を捕まえるらしいんだけど、どうも王都までは流れ込まず、先に倒されているみたいだね。だから、これまで王都の治安も悪化せず、ローナも黙っていられたんだけど」
もう、突然ナジカの手のひらから奪い去っていく影に怯えなくてもいいと、そう言っているようだった。
「だから、落ち着いていいんだよ。ゆっくり、ね。進んでいこうね」
みんな、ナジカに同じことを言ってくれる。
ふる、とまぶたが痙攣した。泣きそうになって慌てて薄荷水を飲んだ。
泣けばいい、そう言ってくれた人が、血の海から起き上がって、にっこりと笑いかけてくれた。
ユーフェも、ナナも、アレイも、ティムも、他のみんなも。ある日の長閑な孤児院の風景のなかでずっと微笑んでいた。
春、ナナと一緒に近くの草原まで歩いていって花冠の作り方を教わった。
ユーフェやティム、トーサが孤児院を出て、お祭りだからときれいなお土産を買ってきてくれた。アレイが作るご飯は、貧しくてもとても美味しかった。
そんな、失ったものが蘇った中で、ナジカもずっと笑って、泣いて、最後にはまた笑ってみんなを抱きしめていた。突然泣き出したちびのナジカに周りはびっくりしていたけど。
ナジカはしゃくりあげながらごめんなさいと言い、忘れないと誓って、立ち上がった。
今度こそ、ナジカは覚えていたかった。
『行ってらっしゃい』
背中に置いてきたみんなの声を聞きながら、ローナをたちのいる家に向かって、走り出していた。
転けそうになったら、レイソルがどこからともなく支えて、腕を引っ張って、背中を押してくれた。
そして、眩い光の中に飛び込んでいく……。
……そんな、幸せな夢を見た。
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