7 / 10
本編
六、枯角
しおりを挟む
黒羽の城は広大だ。
大手門から楼門まで一階層の建物が点在し、警らや納税のために人の出入りが最も多い。祭事を行う広場もこの区画にあり、京に生まれ暮らす誰もが一度は足を踏み入れたことがあるくらいには開かれた場所だった。
楼門から奥はがらりと様相が変わり、優美な外観ながら堅牢な造りの多層構造の建造物が存在感を誇っている。ここから先は確かな身元でなければ立ち入りを許されず、政に携わる官吏ですら定めし等級に至らなければ弾かれる。
厳しいようだが、身元の保証さえあればザルだったのだとは、幼いファウストがまだ知る由もないことだった。
先の王族の激減に合わせて、城に幅を利かせる有力者もまた、城を去るか勢力を落とすかが大半だった。それでは国が回らないと主に縁故採用で人員を掻き集めたので、後ろ盾さえはっきりしていれば本人の身分がどうでも城内を出入りできるようになった。
さらに、緩くなった規則に便乗して、名家が仕事に役立たない子どもを帯同するようにもなっていた。社会勉強ではなく、社交も二の次で、後宮にたった二人いる、直系に最も近い公子公女と親交を持とうとしてのこと。
「姉様ったら、全然うちに帰ってきてくれないんですもの。こないだ帰ってきたと思ったらすぐにお城にとんぼ返りしちゃって、ご挨拶もできなかったわ」
とはいえ、ファウストを連れて城を歩く母の場合は、後宮で働き家に帰ってこない親族に会うついでに我が子の顔を見せてあげようという完全なる身内の都合であった。歳が近いお子とも会えたらいいねぇと母はのほほんと笑う。ファウストは初めて立ち入る城内のあちこちに視線を飛ばすのに精一杯で、返事は上の空だった。城の広さも、建物の造りも、人の多さも、何もかも物珍しい。とてとて歩いては時々色んなものに気を取られて立ち止まるファウストに、母は三度は付き合ってくれ、その後は抱きかかえていくことになった。
たった二人だけの道行きだった。母は出戻りで、実家で冷遇されているわけではないが、付き人がつけられるほどの重要性もなかった。城から案内人が用意されないのは別の話だが、母は「全くもう、姉様ったら」とわざとらしく頬を膨らませて、ファウストの頬に擦り寄せた。
「ファウスト、ご挨拶は覚えてる?あなたの伯母様に、なんて言うんだったかしら?」
「はじめまして。ファウストです。サラおばさま、お元気ですか」
「そうそう、上手よ」
ゆさゆさと抱える腕と上体を揺らす母にファウストも揺れて、それが楽しくてきゃらきゃらと笑う。しかし興味はすぐにまた逸れた。どんなに広々とした空間でも壁と屋根に囲われていた景色が晴れ、細い柱がずらりと両脇に並び、それらを欄干が縫うように繋ぐ道が現れたのだ。ざわざわと木々を揺らして吹き過ぎる風に髪を煽られ、眩しい陽光に目をぎゅっと瞑る。水と若葉の匂いがした。
「ああ、エリアーナ陛下の後宮は、こんな香りなのね……」
瑞々しく、清々しく、なにもない香り。母の呟きの意味はファウストの耳から入って脳内には留まらず溶け消えた。
開けた回廊は幅が狭いので無意味に屯する者はいない。母はファウストを下ろして手を繋ぎ直した。
急に世界が切り替わったことに、ファウストは開放感より恐怖を覚えて母の手に縋った。見上げた母は、口元を笑ませながらなにかを探すように視線を遠くへ流し、歩いていく。
やがて新たな門が現れる。外の門二つと違って、雨に打たれることもない精緻な装飾が生き生きと踊る、木造りの門だ。その両脇に、槍を立てた衛士が二人。それからもう一人。母がぱっと表情を明るくした。
「姉様!まあまあ、お迎えしてくださるなんて思ってもみなかったわ!」
「君が日付と時間を事細かく書いてよこしてきたんだろう。無視できるものならしてもよかったけど、野放しに城をうろつかれちゃたまらない」
「まあひどい。姉様、お元気にしてました?陛下のお身体を大事になさるなら、姉様も同じくらい我が身を労らなければなりませんのよ」
「陛下が健康なら私も健康だ。逆はない」
「そうおっしゃって、なあんにも教えてくださらないのですもの。なにも尋ねてもくださらないし。お兄様がこの間お見合いを持ってきたのだけど、姉様のところも同じかしら?」
「この間まで寒かったからね。暖を取れた分には重宝した」
「あら、私もそうすればよかったわ。実家とはいえ今は出戻りの居候ですもの、薪代の節約は大事だわ」
「今日、私の分の釣書きの余りを持って帰るといい。家だけじゃなく個人的にも色々もらって邪魔をしている」
「私が持てる量ですか?」
「荷運び役に任せる。君たちの乗ってきた輅に積み込んでもらおう。これで部屋がすっきりする」
「……私たちが乗れる隙間は残りますわね?」
「無理なら荷運びに返していい。そっちで処分してもらう」
「お部屋に戻すつもりはないのね」
もちろん、と深く深く頷いた人の無表情は鉄壁だ。母はにこにこにこにこ、心底嬉しそうな笑みを浮かべているのに、落差がすごい。どっちを見ればいいかわからずファウストは二人の顔を延々と見比べ続けた。首が痛い。すると無表情の方とばちりと目が合った。びくりとしたが、「そういえばアニーより一年遅く生まれたんだっけ」と言って、すぐに逸らされた。というより体丸ごと翻した。
「こっちに来なさい。荷物を引き取ってくれる礼に、お茶の一杯くらいは出すよ」
「まあ、楽しみだわ。姉様のお茶はそれはもう苦いので、お菓子も付いてる?」
「……君とその子には普通のものを出そうと思ってたんだけど。特に子どもには飲めたものじゃない」
「あら、私、昔に特製健康茶の試作で味覚が犠牲になったけれど、今では全ての味に新鮮な驚きを持つようになって、いつでもお食事が楽しいのよ。どんなに気分が悪くても、どんなに気分が落ち込んでも、お食事が喉を通らないなんてことがないの。つわりでも、離縁してもよ。すごいでしょう?」
「…………すまなかった」
「謝っちゃだめよ、姉様。私も謝らなくちゃいけなくなるわ」
閉じたままの後宮の門から離れてすたすたと歩く人の後ろに母と一緒にちょこちょこした足取りで進む。その人の背中はちっとも振り返らないのに、なんでか歩調と歩幅がぴったりとファウストたちと合っていた。
悪いことをしたら、相手の目を見て、丁寧に謝りなさい。ファウストは母にそう教えてもらったけれど、その人は目どころか顔も見えないし、母も気にした様子ではない。いけないんだよ、と母のかわりに叱ってあげようと思ったけれど、お城では挨拶もしてない人にいきなり声をかけてはいけませんと言われている。どっちを守るべきだろう。うんうん悩んでいるうちに目的地にたどり着いていた。
「……私は、君が相変わらず苦手だ」
「私はずっと姉様のこと好きよ。兄様は縁談ばかり持ってくるから嫌いになりはじめてるけれど」
回廊の端からたった三つほどの階段を降りて、大きな飛び石の上を踏む。小さな小さな屋根と囲いがあるだけのそこが、今日の団欒の場所らしい。火鉢にかけた湯も茶器もあらかじめ用意されていた。茶缶とお菓子も。四阿に先に入った人の後に続いて屋根の下をくぐる。石造りのテーブルと、囲いの出っ張りのようにしてくっついている長い椅子。椅子にはクッションが三つ載っていた。
「姉様の、いやいやしてるのに歓迎してくださるところが、特に好きだわ。本当なら手土産を持ってくるはずでしたけど、この子で勘弁してくださいね。さあファウスト、ご挨拶よ」
背中を軽く押されて一歩進む。屋根にかかる影が無表情の斜め半分を隠して、瞳の色までわからなくなった。けれどまっすぐ見つめてくるのがわかったから、見返した。
母に教えられたことを、ファウストはなおざりにはしないと決めている。家のみんな、父と離れた母を馬鹿にしてくる。味方がファウストしかいないから、ファウストが母を守るのだ。
「はじめまして。ファウストです。サラおばさま、お元気ですか」
「はじめまして。私は君の母の姉のサラだ。元気にしているよ」
くすりと吐息が漏れる音がした。見上げた口元がうっすら弧を描いている。そのまま腰を屈めて抱き上げてくる。母はとっくに一人で座っていて、ファウストはその隣に下ろされた。
「アニーより重いな……やっぱり子どもと言ってももうちょっと食べてもらわないといけないか」
「健康茶を飲ませてもらえばイチコロだと思うの」
「それは最終手段だ。ファウスト、君の母親の勧めにあうだろうと一応は用意していたが、最初は一口だけにしなさい。残しても構わないから」
「わかり、ました?」
とりあえず疑問形で頷いたがよかったようだ。出された茶は真っ黒だった。茶碗の底も見えないドス黒さ。……逆にどう淹れたらこんな色で妙に爽やかな香りが立つのだろう。湯気が白いのにほっとしたくらいだ。
傾けたらドロっとしてそうな表面がさらりと動いた。ほんとになんでこの色?
「……記憶を補正どころか上塗りする勢いで禍々しい色ですわねぇ……。陛下もこれをお召し上がりなんでしょう?姉様、罰されていません?」
「君はアニーに飲ませようとしただろう。陛下は好き嫌いがないんだ」
「そういえば、この間帰っていらしてたのはどんな用件だったんです?」
「だから普通の茶を出すと言ったんだ。かつてなく話題の転換が下手くそだな」
「兄様は私には教えてくださらないの、姉様、お話を逸らしちゃいやよ」
「それは君だ。尻込みしたってもう淹れたんだから、飲みなさいね。ファウストだって……ファウスト?」
母と伯母の会話が途切れたが、ファウストはそんなこと意識の端にもかからなかった。味覚とは衝撃を受けすぎると味の認識すらままならなくなるらしいと、幼いながらも思う。なんだこの味。おいしいもまずいもない。口の中に宇宙が広がっている。
ぼろぼろ涙が出てきたのを母が慌てて拭って、伯母が茶碗を取り上げてかわりに菓子を口に詰め込んできた。どうしよう味がしない。それでももごもご噛んでいると、今度は白湯を押し付けられた。
「は、ははうえ、わたしのした、ありますか?とれてませんか?」
「取れてないわ。えらいわファウスト。頑張ったわね。お菓子たくさん食べちゃいなさい」
「ううううう」
「改めて、陛下はなんでこれを『苦いなぁ』で済ませて普通に飲みきれるのか、理解できないな……作ったの私だけど」
「……うっ……突き詰めてはいけない味だわ……姉様、お菓子ってこれだけ……?」
「棒飴ならある。ファウストの歯が抜けるかもしれないから君がこっちを食べなさい。君も涙目じゃないか。一気飲みなんてするから」
「人生はじまってから今日までの全ての食事に感謝を覚えるわ……」
母とひしと抱き合いながら二人で泣く。伯母は手拭いを出したり白湯を出したりお菓子を出したり忙しい。宇宙に旅に出た舌が戻ってきたのは白湯を三度目がぶ飲みしてからだった。合間に食べていたはずの菓子のさくりとした食感に初めて気づいて、食感すら吹っ飛んでいた事実に、怖くてまた泣けてきた。父とお別れしたときより泣いた。よく戻ってきてくれた、舌。二度と離さない。お菓子おいしい。
「一応健康にはいいんだよ、私も毎日飲んでるからか風邪知らずだし。飲むだけで体力削られるけど」
「どうして昔から改善してないの……?」
「効率の良い栄養補給にぴったりなんだ。味に手を加えたらそっちが減……、伏せなさい!」
伯母がはっと表情を改めたのが見えた。
景色が目まぐるしく変わって、暗闇に視界が閉ざされる。母の叫び声が聞こえた。いつの間にか椅子から滑り落ちて母の匂いが鼻を覆った。
「陛下!」
「サラ!?誰もいないと思ったのになんでサラがいるの!?」
「いいからこっち!一人!?ああくそ今日も今日とて護衛が役に立たないな!」
「構わん、邪魔者ごと殺せ!女が一人増えただけだ!」
ぶるぶると震えている振動が直に伝わる。世界が揺れているよう。草を踏む音、入り乱れる荒い足音。たくさんの声。なにかが強く擦れ合うような胸がざわつく音がして、大粒の雨の降り損ないがぱたたっと鳴っていた。
つむじの上でひっと喉が引きつった。母が怖がっている。守らないと。――伯母様はどこ?
「おーい、サラ、そのままエリー庇って下がってて」
間抜けたようなのんびりした声が、全ての雑音を割ってファウストの耳に飛び込んできた。
誰かの手がファウストの耳を塞いで、それからのことはよくわからない。
気づいたときには温もった耳に冷たい空気がすうすうと当たっていた。母の震えはずっとファウストを抱き込んでいて、けれどその向こうでは世界が変わってしまったように、物音がなにもしなかった。顔を上げると、知らない女の人の横顔が目の前に見えた。
「レーリオ。もういない?」
「エリー、だめだ。ヴィンスの使いが来るまで隠れて。追手はみんな殺したけど、安全と決まったわけじゃない」
この男の人の声は誰だろう。体を起こそうとすると母がより強く抱きしめてくる。大丈夫。そう伝えたくて腕を撫でた。徐々に緩んだ腕から這い出すように背を伸ばしたら、四阿の外にいるその人と目が合った。
上着に真っ赤なしぶきが模様を作っていた。片手にぶら下げた剣も真っ赤。頬にも飛んでいる赤を手甲で拭いながらファウストのことをまじまじと見つめて、へらりと笑って片手を振った。
「やあ、元気?どこの子?」
周囲にはごろごろと大きな人形がいくつも転がっていて。むせ返るような生臭さが立ち込めていて。
その中で赤を被って浮かべる軽薄な笑みは、世界の一片も知らぬ子どもの目を通してさえ、どこまでも異質に際立っていた。
「……それから、どうなったんだ?」
「……けっこう衝撃的な出来事のはずだったんですが、これまで私がとんと忘れ果てていたのは、ですね。陛下が相変わらず陛下だったからなんですよ」
「どういうことよ?」
公子公女を前にして、ファウストは遠い目で秋の色彩豊かな庭を眺めた。
風鎮めの祭事が終わると、世界は一気に秋真っ盛りだ。風は冷たく乾き、虫食いの青葉がひらひら散ってどんぐりがぽとぽとと音を立てて落ちていく。城の中で一番美しい庭園は後宮にあるが、本宮の片隅もそのおこぼれに預かっていて、四阿の近くには金木犀がほのかに金の芳香を散らしはじめ、その足元では秋咲の車菊が群れとなり、茎を伸ばしてゆうらりと揺れている。すぐそこの一つ向こうの回廊は収穫祭だ冬越えの支度だ年貢の徴収だ決算だと官吏が身分の上下問わずドタバタ走り回っているが、その喧騒も遠いのどかさに、心が穏やかになる。武官の方も祭りが増えるこの時季は、浮かれた阿呆どもが起こす騒動で街や城内あっちこっち駆けずり回ってのんびりなどしていられない。今のうちにとファウストは秋のほんのり甘く涼しい香りをすうっと吸い込んだ。
かつてここは死が落ちた場所だ。けれどそんなものはここに限らず、どこにでも当然のように転がっていて、どこにでも次から次へと命は芽吹き、花散らし、根を紡ぐ。時は過去を忘れさせる。いいことか悪いことかわからないが、あの時酷く怯えていた母が、今のこののどかな景色に恐怖を流してくれればいいと思う。
それはそれとしてファウストはとっくに忘却していたわけだが、弁明というか、もう仕方がないと思う。
「……己はこのまま留まっているので、レーリオという方には私と母と伯母上の三人を後宮まで連れて行けとおっしゃったんです」
レーリオという名前に心当たりはないかと公子に尋ねられて、聞き覚えがあるような気がして脳みそをひっくり返す勢いで思い出したら、こんな顛末である。
今のファウストはあの赤が血だと知っているし、後々武官として仕官してからは状況にすら慣れも出た。
エリアーナ女王が昼夜問わず暗殺者から逃げ回るのは、ある意味日常だった。暗殺者の中には国軍の離反者さえあったのだから最悪だ。そんな荒波に揉まれ、腹立たしいほどに慣れたファウストよりも誰よりも当事者の女王は、暗殺者から逃げ切っても達成感も安堵も抱かない。
「は?」
「叔母様が一人になるじゃない」
「大人三人が全員同じ反応をして、確か伯母上がキレました」
だろうなという二人の頷きが重い。幼かったファウストも母の口から聞いたこともない地の底を這うような「は?」を聞いて、反射的に恐怖を覚えたくらいだった。感じ取れないまま去った危機より目先の恐怖。その後後宮に入ったような記憶はないので、多分その場で全員で待機したはずだ。王は自身の危害に他人が巻き込まれるのを嫌うので、みんなが残るならと一人別の場所で暗殺者の前に身をさらすつもりだったかもしれないが、あの伯母がそれを許すはずがないのでそれも失敗したことだろう。
「だが、そのレーリオという男は、結局誰なんだ?」
「伯母上、ご存知ですか?」
「君のもう一人の伯父だよ」
きょとんとしたアーネストとマリエットが、はっと振り返った。ファウストは気配に気づいていたので驚かない。伯母がひらりと片手を振って歩み寄ってきていた。
ファウストが立ち上がって席を譲り、新たに自分の上着を畳んで座布団にして別の位置に腰かけ、マリエットが新たに茶を淹れた。
伯母は用意された席にありがとうと言ってすとんと腰を下ろした。懐から柿の葉の包をてんてんてんと出したあと、頬杖をついて三人の顔を眺める。
「三人でこそこそ密談かと思えば、懐かしい名前を出してきたね」
「密談というほどでは」
「後宮じゃ陛下を憚るから、こんなとこで頭つっつき合わせてるんだろう」
ファウストたちは差し入れのおやつに伸ばしかけた手を引っ込め、目配せし合った。特にマリエットがきょとんとしてファウストとアーネストを見比べている。
城宰の様子から異常を悟ってファウストに話を持ち込んだアーネストは苦い顔になり、ファウストも思い返した過去を思えば、確かになんとなく、後宮で話をするには障りがあると思っていた。この際なので尋ねてみることにする。
「伯母上、あの時、陛下は泣いてはいませんでしたか」
なにを問うのかと二人の視線を受けたが、ファウストは今はそれよりも伯母の一瞬の表情の変化の方が大事だった。
しばらく見つめ続けると、伯母は観念したように小さくため息をつき、石のテーブルに頬杖をついて足を組んだ。砕けた格好のまま三人を順々に見ていき、最後は結局中空を見つめて「泣かないよ」と答えた。
「そうだね。君たちはなにも覚えてないし、私たちもわざわざ教えなかったから、知る由もなかったんだ。君たちの知る陛下は、自分の命の危機なのに自分以外の命が喪われることを恐れていつも泣いていた。陛下を守らんと立ちふさがる兵士にも、それを乗り越えようとする暗殺者相手にも、同じ涙をこぼす、そんな陛下のことしか知らないんだ」
泣き虫女王と謗りを受けるほど、あの王はよく泣いた。アーネストとマリエットも、ファウストも、それが珍しくないくらいには見慣れていた。
普段はあっさりしていて、悪口ぐらいの害なら笑って聞き流すのに、(他人の)命の危機だけには涙腺がすぐに仕事を始める。だから泣かないはずがない。そのはずなのに、ひっくり返した一番はじめの出会いでは、すぐそばに死体があったのに、からっとしていた気がするのだ。……そうだ、全員殺したと言われても、全く動じていなかった。ファウストの知る王はぼろぼろ泣いて途中で止めさせていたはずなのに。
殺さないで。生かして捕らえて。でも死なないで。武官として女王の側に仕えたことのある者は必ず聞く台詞だった。
そして武官をごぼう抜きにして暗殺者と本宮全てを駆け巡る追いかけっこを始める。
泣きながら木に登るわ泣きながら本棚の隙間に挟まるわ泣きながら屋根を通路にするわ。滅多に普通の道を使ってくれないので、途中からは、追跡のために窓を蹴破り扉を蹴破り文官の仕事場を横断するという認可を将軍が城宰から得たくらいだった。いちいち断りをいれていられないし、一番に文句を言われるべきは、暗殺者の殺意を全部一人で抱え込み誰にも渡さない女王本人だ。
文句を言っても直らないまま幾年月、正直、暗殺者を捕まえるより女王に追いつく方が大変だった。
「これ、栗大福だよ。アニーの休憩時間に合わせての密談ならちょっとは腹ごしらえしておきなさい」
「……ありがとうございます、サラ様」
アーネストがそう言って包に手を伸ばしたので、ファウストとマリエットも同じようにした。伯母は子どもによくおやつを直接差し入れしてくるので全員慣れたものだ。直接手渡しなので毒見もなにもない、安心安全に最速最短なおやつ時が迎えられる。
そういえば昔、子どもの成長を気にしていた気がするが、その解決策の一つがこのおやつだろうか。柿の葉を結ぶ木皮の紐をくるくる解いて緑の包を開けば、白い粉を振られた大福がぽてりと出てきた。
「……叔母上は、いつから、そのような……」
「レーリオが死んでからだよ」
こともなげに言った伯母が、茶碗を掬い上げて口元で傾けた。一瞬顔が見えなくなる。知ってる味だなと呟いたのは、マリエットが持ってきたお茶が、伯母が手遊びに作る香草茶の一種だったからだろう。後宮の厨房にそのまま置いているので女官うちでは自由に使っていいことになっているらしく、ファウストはたまにマリエットと逢瀬する時は必ず伯母謹製のお茶を相伴していたので、こちらも馴染みはある。
「ところで、その名前はどこから出てきた?」
「私はアーネスト様から言われて思い出しました」
「私は、叔母上がそう言ってるのを聞いて、ヴィンセント様の様子がおかしかったので、それで」
「……エリーが?」
「エリー?」
聞き慣れない呼称に首を傾げたのは反射のようなものだ。しかしすぐに戸惑いは引っ込んだ。
常に表情の薄い伯母から感情を読み取るのは至難の業だ。慣れれば少しはわかるが、あっさり読み解くのは王くらいのものだった。
だから、こんなにわかりやすいくらいあからさまに表情が凍りついたのを見るのは、ファウストたちは初めてだった。
まるで名前そのものが禁句のようだとすら思えたが、アーネストが戸惑いながら経緯を語り終えた頃には、その動揺はなくなっていた。深くため息をついて椅子の背もたれ、というより壁に背中を預け、「そうか」と呟いた。
「……ぽろっとこぼせるくらいにはなってたのか……。ヴィンスも仰天したんだろうね。どんな間抜け面を晒したものか」
「間抜け面だったの、従兄様」
「顔面凶度は五割ぐらい減っていた」
「一割減でもありえないのに、大事だわ」
「なんという測り方をしてるんですか、お二人とも」
だから城宰にクソガキ共と言われているのに、と思えば伯母も「それは最高値だね」と納得していた。全て聞かなかったふりをした。
「私はそんなにレーリオ様という方に似ていますか」
「そういえばもう一人の伯父とか言ってたわよね、小母様。小母様は三兄妹で、お兄様は一人だけのはずだったけど。まさか小母様のお婿……」
「ないからそれ以上気色悪いこと言うのはやめなさい」
伯母が酷く重たい声でマリエットを遮った。表情筋をこれでもかと駆使して渋面を作っている。
ファウストたちはそっと口を閉じた。気色悪いって言ったわよ。結婚してたのか?初耳です。視線だけでやり取りをしていると全力で嫌そうな声が答えを告げた。
「率直に言うと、私とファウストの母親の異母兄だよ」
「異母兄?」
「我が父ながらろくでなしだよ。外に作った女を孕ませた挙げ句、母子を家に引き取りもせず市井で育つのに援助もろくになかったらしいね。それまで存在すら知らなかったのが、陛下が即位して三年頃かな。ファウスト、君が初めてこの城に来た、数日前の話だよ。急に家から呼び出しがかかった。火急かつ家の進退に関わると言われたら嫌でも応じざるを得なかった」
あ、とファウストは口を開けた。幼い頃、野心皆無の母がわざわざファウストを連れて城に赴いたのは、前日に伯母との挨拶の機会があったのを逃したためだった。
伯母は医官になってから今まで、城を住処にして家には滅多に寄り付かない。会いたいなら出向くしかなかったが、城となると強く理由をつけるほどの用事がなければ、家の平素の呼び出しすら平気で無視する伯母が即座に追い返しにかかるだろう。
家の益は最低限、自身が女王の側近になったことそのもので充分。それ以上の干渉を嫌った伯母の考えは、ファウストにも理解できないものではなかった。ファウストも数年前にそれなりの武功を挙げて得た報奨で屋敷を一つ建て、母と一緒に移り住んだので。マリエットとの結婚後もそのまま、嫁と姑の同居になるのでふさわしいように改装もしている。
辞令で地方に一時任官しているファウストが仲を取り次ぐまでもなく嫁姑が良好な関係なのは、本人たちの人柄もあるが、家が口出ししてきても全て黙殺しているからだ。
母いわく、「うちは基本、政治に向いてないのよ。姉様が例外なのよ。兄様ももっと早くに諦められたらよかったのに」とのこと。
「そこで対面したのが、かつて後宮でエリーの親友面してた奴とは思いもしなかった。私にもヴィンスにも、エリーにすらも無言で姿を消したくせに、五年近く経ってから、武功を引っ提げてやって来て。うちの名を踏み台にしようってのはまあいいが、それで私には『城での口添えをしてくれ』だ?」
サラは当時を思い出すだけで憤懣やる方ない気持ちで一杯だった。三人の沈黙と凝視に構わず堂々と吐き捨てた。
レーリオ。あの男は、ヴィンセントよりサラより前にエリアーナと親しくなっておきながら、ろくなことをしなかった。惚れた女に求婚し続ける口でよその女を落とすヴィンセントとはまた別方向に最低な部類だ。
『待たせたね』
エリアーナの秘密の友だち、とはいえサラもヴィンセントも、成り行きではあっても秘密の枠内には入っていた。後宮の外、城の外から忍び込んできた市井の子ども。少し顔を会わせればそれくらいは察せられる。エリアーナが受け容れるなら、何事も起きないうちは黙認するだけだった。
それがいつの頃からかぱたりと顔を見せなくなり、サラもヴィンセントもまさか今さら不法侵入で捕らえられでもしたのかと一通り調べたがそんな形跡もなく、ただ、後宮から、エリアーナの前から存在が消えた。
エリアーナは一度もレーリオのことを安否含めて尋ねなかったし、問われても「そういえばもうずっと見てないね」と淡白な返事しかしなかった。
そうこうしているうちに王族が次々死んでいき、エリアーナは王になった。城の内外から生死に直結する課題を息つく間もなく投げつけられ、貫禄など言ってられないほど目まぐるしく歳月が過ぎ。
『……会いに来たの?誰に?』
『エリー以外に誰がいる?』
あの男はわかっていた。狭い世界をまどろみたゆたうエリアーナの、本人も知らない感情の箱のありか。
自覚できないだけで、平気なわけじゃない。気づいていないだけで、傷がつかないわけじゃない。
その箱を、エリアーナの心に優しく手を差し込んで埃を払い、エリアーナの前にそっと差し出した。
その箱を受け取って蓋を開いたエリアーナのあの瞬間を、あの刹那の泣き出すように嬉しそうな感情の綻びを。
サラは今でもよく覚えている。
……サラも、ヴィンセントも本当はわかっていたから、レーリオの頼みを受け入れてエリアーナの前まで連れて行き、その再会を大人しく見守った。
サラとヴィンセントにエリアーナは必要だが、エリアーナにサラたちは必要ない。けれどレーリオは。
「ファウスト、君はあの男よりよっぽど誠実だし、言葉も尽くす。そこは似てないって断言できるよ。行き先も目的も行ってくるねの一言もなく年単位で失踪しておいて、『待たせたね』なんてしゃあしゃあと言って元の席に戻るようなことは、絶対にないからね。安心しなさい」
「……あん、しんできるところ、なんですかそれは」
ファウストはからからな声でなんとかかんとか抗議の声を上げたが、真顔で頷かれて呻くしかなくなった。突然存在を明かされた伯父にろくでなしの可能性が浮上した場合、どんな顔をすればいいのだろう。親類縁者が軒並み政敵なアーネストがぽんぽん肩を叩いてくるのでますます文句も言えなくなった。
「レーリオと君は顔立ちもあまり似てない。エリーが似てるって言ったのは……。……」
途中で言葉を切って全力で不快そうな表情を作られた。ファウストはごくりと生唾を飲み込んだ。
「……い、言ったのは?」
「……心底むかつくから教えない」
「私が!?」
「あの男が。私からレーリオについて言えるのはここまでだ。他に気になることは?」
この話はこれで終わり。そう打ち切るとファウストたちは素直に従わざるを得ない。この伯母はやらないと言ったら二度とやらない。市井で育ったはずなのに後宮にいたとか、女王と親友とか、気になる文言ばかりなのにひどい仕打ちだ。しかしこの伯母には逆らえないのである。
「……じゃあ小母様、私とダリラ伯母様の似てるところって?」
「ダリラ様と君ねぇ、普段はちゃんと『待て』ができるのに、自身の片割れのことになるととことん直情に突っ走ってたから、その辺りかな。君はいつでも超特急だけどね」
「私だって『待て』くらいできるわ」
「かねてから力を入れていた双子舞に、ここぞとばかりに威嚇と威圧を盛り盛りに盛り込んだのは誰かな?」
「あれは、だって!」
「翌日丸一日寝込むくらいだったんだ。外部に漏らしてはないけど反省しなさい。売られた喧嘩を買うにしても、陛下を困らせちゃ元も子もない。君だって毎日特製健康茶を飲みたいわけじゃないだろう」
「……うぐぅ……ファウストはなんともなかったのにぃ……」
「私は鍛えているので。むしろあれくらいで寝込んでいたらそっちの方が問題ですよ。全編踊り通した姫様は、よく頑張りました」
あのあと王に心配されて善意のみで特製健康茶を再三勧められた婚約者が、しおしおとテーブルに突っ伏した姿が哀れでそっと髪を撫でた。ちなみにアーネストもマリエットも幼少期に伯母謹製の激苦茶は経験済みだ。十年ほど前、ファウストが初対面で警戒心の強い公子公女と打ち解けたのは、三人揃って味覚に悟りが開けていたことが理由の一つ。
二度と飲みたくない味だと三人の見解は一致していたが、先日マリエットがあまりに王が勧めるのに押し切られた時は、ファウストも連帯責任と思って同じように一杯飲んだ。神秘は未だ健在だった。舌はぎりぎり宇宙へ旅立つ前に捕まえた。
マリエットが頭を上げないままもっと撫でてと手を掴んできたので、そのままよしよしを継続する。アーネストがそれを呆れたように見て肩を竦めた。
「その分の甲斐はあった。少なくとも、お前たち二人の結婚に今さらな横槍を入れたりはしないだろうよ」
「嘘よ、それだけしか効果ないの?従兄様がちゃっかり一人だけ飲まずに逃げたからだわ」
「阿呆。あの舞台の主役はお前とファウストだっただろうが。私の取り分はどうせこれからいくらでもある。お前が他の祭事全部投げてきたからな」
今が秋でちょうど時季がよかった、と頷くアーネストに、それはそう、とマリエットが深く深く同意した。二人とも目が据わっている。
初めて聞かされた時の怒りは今も消えないまま。燃やし続けるまま、必要な時が来るまでそれを胸のうちに留める芸当は、誰でもできるものではない。これ、「待て」ができているのでは?ファウストはちらりと伯母を見やった。呑気に茶をしばいていたが、ふと目が合うと、首を少し傾げて目を細めた。……確かにできてないとは言ってなかったか。
好きにするといい。伯母は外の話を持ち込んだファウストにそう告げた通りに、積極的に関わるつもりはないらしい。それは伯母に丸投げされた城宰もそう。特に詳細を調べると極端にやる気を失っていた。
『喧嘩を売られたのはあなたたちです。最悪の場合は動いてあげますから、自分たちの汚名は自分たちで濯ぎなさい。こてんぱんに潰して差し上げても一向に構いません。むしろやれ』
アーネストの国王代行権も、マリエットが結婚を延期して手に入れた女官の籍も。二人が王からもぎ取ったもので、情けで恵んでもらったものではないし、反対意見を実力で黙らせて確立させたものだ。
情け深いようでいて、決して甘やかすことのなかったあの王が公子公女に与えた「特別」は、一番はじめの、城に住まわせること以外にはなかったと、この城の者は誰もが知っている。
それなのに、分不相応だと言う。
アーネストとマリエットの、王子王女ではない不安定な己の立場に怯えていた頃を、なんだと思っているのだ。
なにも知らない、汲み取りもしない外部の者が勝手に嘲っていいものではない。
「悪巧みは早々に終わらせなさいね。そろそろアニーも戻らないといけないだろう」
「あ、そうですね」
「従兄様、ファウストと先に戻ってて。私はここを片付けて……」
小母様はどうする、とマリエットが尋ねようと振り向いた先で、伯母は四阿の外をじっと凝視していた。
「伯母上?」
「――エリー!!」
四阿の中いっぱいに怒号がわんわんと響いた。耳に甚大な被害を受けた三人に構わず、伯母はずんずんと外へ出ていった。落ちている枝や草をつっついていた烏や雀が慌てて逃げている。ファウストは武官ならではの反射で伯母の後を追った。
「エリー!!君は、脱走するにしても後宮の中だけにしておくと思ったら!」
「えっ、うわ、嘘、なんでサラがいるの?あ、ファウストも……ってことは」
「叔母上!?」
「叔母様!?」
「うわちゃー」
「戻るなこの馬鹿!降りてきなさい!ファウスト、確保!」
ファウストはこれまた反射でその命令に従った。とんでもない光景に半ば呆然としていたが、伯母に逆らうと怖いというのは本能への刷り込みだ。
駆け出したファウストの視線の先では、我らが王が、後宮と本宮を隔てる壁をどう登ったのか、その天辺でウゴウゴとしているところだった。
大手門から楼門まで一階層の建物が点在し、警らや納税のために人の出入りが最も多い。祭事を行う広場もこの区画にあり、京に生まれ暮らす誰もが一度は足を踏み入れたことがあるくらいには開かれた場所だった。
楼門から奥はがらりと様相が変わり、優美な外観ながら堅牢な造りの多層構造の建造物が存在感を誇っている。ここから先は確かな身元でなければ立ち入りを許されず、政に携わる官吏ですら定めし等級に至らなければ弾かれる。
厳しいようだが、身元の保証さえあればザルだったのだとは、幼いファウストがまだ知る由もないことだった。
先の王族の激減に合わせて、城に幅を利かせる有力者もまた、城を去るか勢力を落とすかが大半だった。それでは国が回らないと主に縁故採用で人員を掻き集めたので、後ろ盾さえはっきりしていれば本人の身分がどうでも城内を出入りできるようになった。
さらに、緩くなった規則に便乗して、名家が仕事に役立たない子どもを帯同するようにもなっていた。社会勉強ではなく、社交も二の次で、後宮にたった二人いる、直系に最も近い公子公女と親交を持とうとしてのこと。
「姉様ったら、全然うちに帰ってきてくれないんですもの。こないだ帰ってきたと思ったらすぐにお城にとんぼ返りしちゃって、ご挨拶もできなかったわ」
とはいえ、ファウストを連れて城を歩く母の場合は、後宮で働き家に帰ってこない親族に会うついでに我が子の顔を見せてあげようという完全なる身内の都合であった。歳が近いお子とも会えたらいいねぇと母はのほほんと笑う。ファウストは初めて立ち入る城内のあちこちに視線を飛ばすのに精一杯で、返事は上の空だった。城の広さも、建物の造りも、人の多さも、何もかも物珍しい。とてとて歩いては時々色んなものに気を取られて立ち止まるファウストに、母は三度は付き合ってくれ、その後は抱きかかえていくことになった。
たった二人だけの道行きだった。母は出戻りで、実家で冷遇されているわけではないが、付き人がつけられるほどの重要性もなかった。城から案内人が用意されないのは別の話だが、母は「全くもう、姉様ったら」とわざとらしく頬を膨らませて、ファウストの頬に擦り寄せた。
「ファウスト、ご挨拶は覚えてる?あなたの伯母様に、なんて言うんだったかしら?」
「はじめまして。ファウストです。サラおばさま、お元気ですか」
「そうそう、上手よ」
ゆさゆさと抱える腕と上体を揺らす母にファウストも揺れて、それが楽しくてきゃらきゃらと笑う。しかし興味はすぐにまた逸れた。どんなに広々とした空間でも壁と屋根に囲われていた景色が晴れ、細い柱がずらりと両脇に並び、それらを欄干が縫うように繋ぐ道が現れたのだ。ざわざわと木々を揺らして吹き過ぎる風に髪を煽られ、眩しい陽光に目をぎゅっと瞑る。水と若葉の匂いがした。
「ああ、エリアーナ陛下の後宮は、こんな香りなのね……」
瑞々しく、清々しく、なにもない香り。母の呟きの意味はファウストの耳から入って脳内には留まらず溶け消えた。
開けた回廊は幅が狭いので無意味に屯する者はいない。母はファウストを下ろして手を繋ぎ直した。
急に世界が切り替わったことに、ファウストは開放感より恐怖を覚えて母の手に縋った。見上げた母は、口元を笑ませながらなにかを探すように視線を遠くへ流し、歩いていく。
やがて新たな門が現れる。外の門二つと違って、雨に打たれることもない精緻な装飾が生き生きと踊る、木造りの門だ。その両脇に、槍を立てた衛士が二人。それからもう一人。母がぱっと表情を明るくした。
「姉様!まあまあ、お迎えしてくださるなんて思ってもみなかったわ!」
「君が日付と時間を事細かく書いてよこしてきたんだろう。無視できるものならしてもよかったけど、野放しに城をうろつかれちゃたまらない」
「まあひどい。姉様、お元気にしてました?陛下のお身体を大事になさるなら、姉様も同じくらい我が身を労らなければなりませんのよ」
「陛下が健康なら私も健康だ。逆はない」
「そうおっしゃって、なあんにも教えてくださらないのですもの。なにも尋ねてもくださらないし。お兄様がこの間お見合いを持ってきたのだけど、姉様のところも同じかしら?」
「この間まで寒かったからね。暖を取れた分には重宝した」
「あら、私もそうすればよかったわ。実家とはいえ今は出戻りの居候ですもの、薪代の節約は大事だわ」
「今日、私の分の釣書きの余りを持って帰るといい。家だけじゃなく個人的にも色々もらって邪魔をしている」
「私が持てる量ですか?」
「荷運び役に任せる。君たちの乗ってきた輅に積み込んでもらおう。これで部屋がすっきりする」
「……私たちが乗れる隙間は残りますわね?」
「無理なら荷運びに返していい。そっちで処分してもらう」
「お部屋に戻すつもりはないのね」
もちろん、と深く深く頷いた人の無表情は鉄壁だ。母はにこにこにこにこ、心底嬉しそうな笑みを浮かべているのに、落差がすごい。どっちを見ればいいかわからずファウストは二人の顔を延々と見比べ続けた。首が痛い。すると無表情の方とばちりと目が合った。びくりとしたが、「そういえばアニーより一年遅く生まれたんだっけ」と言って、すぐに逸らされた。というより体丸ごと翻した。
「こっちに来なさい。荷物を引き取ってくれる礼に、お茶の一杯くらいは出すよ」
「まあ、楽しみだわ。姉様のお茶はそれはもう苦いので、お菓子も付いてる?」
「……君とその子には普通のものを出そうと思ってたんだけど。特に子どもには飲めたものじゃない」
「あら、私、昔に特製健康茶の試作で味覚が犠牲になったけれど、今では全ての味に新鮮な驚きを持つようになって、いつでもお食事が楽しいのよ。どんなに気分が悪くても、どんなに気分が落ち込んでも、お食事が喉を通らないなんてことがないの。つわりでも、離縁してもよ。すごいでしょう?」
「…………すまなかった」
「謝っちゃだめよ、姉様。私も謝らなくちゃいけなくなるわ」
閉じたままの後宮の門から離れてすたすたと歩く人の後ろに母と一緒にちょこちょこした足取りで進む。その人の背中はちっとも振り返らないのに、なんでか歩調と歩幅がぴったりとファウストたちと合っていた。
悪いことをしたら、相手の目を見て、丁寧に謝りなさい。ファウストは母にそう教えてもらったけれど、その人は目どころか顔も見えないし、母も気にした様子ではない。いけないんだよ、と母のかわりに叱ってあげようと思ったけれど、お城では挨拶もしてない人にいきなり声をかけてはいけませんと言われている。どっちを守るべきだろう。うんうん悩んでいるうちに目的地にたどり着いていた。
「……私は、君が相変わらず苦手だ」
「私はずっと姉様のこと好きよ。兄様は縁談ばかり持ってくるから嫌いになりはじめてるけれど」
回廊の端からたった三つほどの階段を降りて、大きな飛び石の上を踏む。小さな小さな屋根と囲いがあるだけのそこが、今日の団欒の場所らしい。火鉢にかけた湯も茶器もあらかじめ用意されていた。茶缶とお菓子も。四阿に先に入った人の後に続いて屋根の下をくぐる。石造りのテーブルと、囲いの出っ張りのようにしてくっついている長い椅子。椅子にはクッションが三つ載っていた。
「姉様の、いやいやしてるのに歓迎してくださるところが、特に好きだわ。本当なら手土産を持ってくるはずでしたけど、この子で勘弁してくださいね。さあファウスト、ご挨拶よ」
背中を軽く押されて一歩進む。屋根にかかる影が無表情の斜め半分を隠して、瞳の色までわからなくなった。けれどまっすぐ見つめてくるのがわかったから、見返した。
母に教えられたことを、ファウストはなおざりにはしないと決めている。家のみんな、父と離れた母を馬鹿にしてくる。味方がファウストしかいないから、ファウストが母を守るのだ。
「はじめまして。ファウストです。サラおばさま、お元気ですか」
「はじめまして。私は君の母の姉のサラだ。元気にしているよ」
くすりと吐息が漏れる音がした。見上げた口元がうっすら弧を描いている。そのまま腰を屈めて抱き上げてくる。母はとっくに一人で座っていて、ファウストはその隣に下ろされた。
「アニーより重いな……やっぱり子どもと言ってももうちょっと食べてもらわないといけないか」
「健康茶を飲ませてもらえばイチコロだと思うの」
「それは最終手段だ。ファウスト、君の母親の勧めにあうだろうと一応は用意していたが、最初は一口だけにしなさい。残しても構わないから」
「わかり、ました?」
とりあえず疑問形で頷いたがよかったようだ。出された茶は真っ黒だった。茶碗の底も見えないドス黒さ。……逆にどう淹れたらこんな色で妙に爽やかな香りが立つのだろう。湯気が白いのにほっとしたくらいだ。
傾けたらドロっとしてそうな表面がさらりと動いた。ほんとになんでこの色?
「……記憶を補正どころか上塗りする勢いで禍々しい色ですわねぇ……。陛下もこれをお召し上がりなんでしょう?姉様、罰されていません?」
「君はアニーに飲ませようとしただろう。陛下は好き嫌いがないんだ」
「そういえば、この間帰っていらしてたのはどんな用件だったんです?」
「だから普通の茶を出すと言ったんだ。かつてなく話題の転換が下手くそだな」
「兄様は私には教えてくださらないの、姉様、お話を逸らしちゃいやよ」
「それは君だ。尻込みしたってもう淹れたんだから、飲みなさいね。ファウストだって……ファウスト?」
母と伯母の会話が途切れたが、ファウストはそんなこと意識の端にもかからなかった。味覚とは衝撃を受けすぎると味の認識すらままならなくなるらしいと、幼いながらも思う。なんだこの味。おいしいもまずいもない。口の中に宇宙が広がっている。
ぼろぼろ涙が出てきたのを母が慌てて拭って、伯母が茶碗を取り上げてかわりに菓子を口に詰め込んできた。どうしよう味がしない。それでももごもご噛んでいると、今度は白湯を押し付けられた。
「は、ははうえ、わたしのした、ありますか?とれてませんか?」
「取れてないわ。えらいわファウスト。頑張ったわね。お菓子たくさん食べちゃいなさい」
「ううううう」
「改めて、陛下はなんでこれを『苦いなぁ』で済ませて普通に飲みきれるのか、理解できないな……作ったの私だけど」
「……うっ……突き詰めてはいけない味だわ……姉様、お菓子ってこれだけ……?」
「棒飴ならある。ファウストの歯が抜けるかもしれないから君がこっちを食べなさい。君も涙目じゃないか。一気飲みなんてするから」
「人生はじまってから今日までの全ての食事に感謝を覚えるわ……」
母とひしと抱き合いながら二人で泣く。伯母は手拭いを出したり白湯を出したりお菓子を出したり忙しい。宇宙に旅に出た舌が戻ってきたのは白湯を三度目がぶ飲みしてからだった。合間に食べていたはずの菓子のさくりとした食感に初めて気づいて、食感すら吹っ飛んでいた事実に、怖くてまた泣けてきた。父とお別れしたときより泣いた。よく戻ってきてくれた、舌。二度と離さない。お菓子おいしい。
「一応健康にはいいんだよ、私も毎日飲んでるからか風邪知らずだし。飲むだけで体力削られるけど」
「どうして昔から改善してないの……?」
「効率の良い栄養補給にぴったりなんだ。味に手を加えたらそっちが減……、伏せなさい!」
伯母がはっと表情を改めたのが見えた。
景色が目まぐるしく変わって、暗闇に視界が閉ざされる。母の叫び声が聞こえた。いつの間にか椅子から滑り落ちて母の匂いが鼻を覆った。
「陛下!」
「サラ!?誰もいないと思ったのになんでサラがいるの!?」
「いいからこっち!一人!?ああくそ今日も今日とて護衛が役に立たないな!」
「構わん、邪魔者ごと殺せ!女が一人増えただけだ!」
ぶるぶると震えている振動が直に伝わる。世界が揺れているよう。草を踏む音、入り乱れる荒い足音。たくさんの声。なにかが強く擦れ合うような胸がざわつく音がして、大粒の雨の降り損ないがぱたたっと鳴っていた。
つむじの上でひっと喉が引きつった。母が怖がっている。守らないと。――伯母様はどこ?
「おーい、サラ、そのままエリー庇って下がってて」
間抜けたようなのんびりした声が、全ての雑音を割ってファウストの耳に飛び込んできた。
誰かの手がファウストの耳を塞いで、それからのことはよくわからない。
気づいたときには温もった耳に冷たい空気がすうすうと当たっていた。母の震えはずっとファウストを抱き込んでいて、けれどその向こうでは世界が変わってしまったように、物音がなにもしなかった。顔を上げると、知らない女の人の横顔が目の前に見えた。
「レーリオ。もういない?」
「エリー、だめだ。ヴィンスの使いが来るまで隠れて。追手はみんな殺したけど、安全と決まったわけじゃない」
この男の人の声は誰だろう。体を起こそうとすると母がより強く抱きしめてくる。大丈夫。そう伝えたくて腕を撫でた。徐々に緩んだ腕から這い出すように背を伸ばしたら、四阿の外にいるその人と目が合った。
上着に真っ赤なしぶきが模様を作っていた。片手にぶら下げた剣も真っ赤。頬にも飛んでいる赤を手甲で拭いながらファウストのことをまじまじと見つめて、へらりと笑って片手を振った。
「やあ、元気?どこの子?」
周囲にはごろごろと大きな人形がいくつも転がっていて。むせ返るような生臭さが立ち込めていて。
その中で赤を被って浮かべる軽薄な笑みは、世界の一片も知らぬ子どもの目を通してさえ、どこまでも異質に際立っていた。
「……それから、どうなったんだ?」
「……けっこう衝撃的な出来事のはずだったんですが、これまで私がとんと忘れ果てていたのは、ですね。陛下が相変わらず陛下だったからなんですよ」
「どういうことよ?」
公子公女を前にして、ファウストは遠い目で秋の色彩豊かな庭を眺めた。
風鎮めの祭事が終わると、世界は一気に秋真っ盛りだ。風は冷たく乾き、虫食いの青葉がひらひら散ってどんぐりがぽとぽとと音を立てて落ちていく。城の中で一番美しい庭園は後宮にあるが、本宮の片隅もそのおこぼれに預かっていて、四阿の近くには金木犀がほのかに金の芳香を散らしはじめ、その足元では秋咲の車菊が群れとなり、茎を伸ばしてゆうらりと揺れている。すぐそこの一つ向こうの回廊は収穫祭だ冬越えの支度だ年貢の徴収だ決算だと官吏が身分の上下問わずドタバタ走り回っているが、その喧騒も遠いのどかさに、心が穏やかになる。武官の方も祭りが増えるこの時季は、浮かれた阿呆どもが起こす騒動で街や城内あっちこっち駆けずり回ってのんびりなどしていられない。今のうちにとファウストは秋のほんのり甘く涼しい香りをすうっと吸い込んだ。
かつてここは死が落ちた場所だ。けれどそんなものはここに限らず、どこにでも当然のように転がっていて、どこにでも次から次へと命は芽吹き、花散らし、根を紡ぐ。時は過去を忘れさせる。いいことか悪いことかわからないが、あの時酷く怯えていた母が、今のこののどかな景色に恐怖を流してくれればいいと思う。
それはそれとしてファウストはとっくに忘却していたわけだが、弁明というか、もう仕方がないと思う。
「……己はこのまま留まっているので、レーリオという方には私と母と伯母上の三人を後宮まで連れて行けとおっしゃったんです」
レーリオという名前に心当たりはないかと公子に尋ねられて、聞き覚えがあるような気がして脳みそをひっくり返す勢いで思い出したら、こんな顛末である。
今のファウストはあの赤が血だと知っているし、後々武官として仕官してからは状況にすら慣れも出た。
エリアーナ女王が昼夜問わず暗殺者から逃げ回るのは、ある意味日常だった。暗殺者の中には国軍の離反者さえあったのだから最悪だ。そんな荒波に揉まれ、腹立たしいほどに慣れたファウストよりも誰よりも当事者の女王は、暗殺者から逃げ切っても達成感も安堵も抱かない。
「は?」
「叔母様が一人になるじゃない」
「大人三人が全員同じ反応をして、確か伯母上がキレました」
だろうなという二人の頷きが重い。幼かったファウストも母の口から聞いたこともない地の底を這うような「は?」を聞いて、反射的に恐怖を覚えたくらいだった。感じ取れないまま去った危機より目先の恐怖。その後後宮に入ったような記憶はないので、多分その場で全員で待機したはずだ。王は自身の危害に他人が巻き込まれるのを嫌うので、みんなが残るならと一人別の場所で暗殺者の前に身をさらすつもりだったかもしれないが、あの伯母がそれを許すはずがないのでそれも失敗したことだろう。
「だが、そのレーリオという男は、結局誰なんだ?」
「伯母上、ご存知ですか?」
「君のもう一人の伯父だよ」
きょとんとしたアーネストとマリエットが、はっと振り返った。ファウストは気配に気づいていたので驚かない。伯母がひらりと片手を振って歩み寄ってきていた。
ファウストが立ち上がって席を譲り、新たに自分の上着を畳んで座布団にして別の位置に腰かけ、マリエットが新たに茶を淹れた。
伯母は用意された席にありがとうと言ってすとんと腰を下ろした。懐から柿の葉の包をてんてんてんと出したあと、頬杖をついて三人の顔を眺める。
「三人でこそこそ密談かと思えば、懐かしい名前を出してきたね」
「密談というほどでは」
「後宮じゃ陛下を憚るから、こんなとこで頭つっつき合わせてるんだろう」
ファウストたちは差し入れのおやつに伸ばしかけた手を引っ込め、目配せし合った。特にマリエットがきょとんとしてファウストとアーネストを見比べている。
城宰の様子から異常を悟ってファウストに話を持ち込んだアーネストは苦い顔になり、ファウストも思い返した過去を思えば、確かになんとなく、後宮で話をするには障りがあると思っていた。この際なので尋ねてみることにする。
「伯母上、あの時、陛下は泣いてはいませんでしたか」
なにを問うのかと二人の視線を受けたが、ファウストは今はそれよりも伯母の一瞬の表情の変化の方が大事だった。
しばらく見つめ続けると、伯母は観念したように小さくため息をつき、石のテーブルに頬杖をついて足を組んだ。砕けた格好のまま三人を順々に見ていき、最後は結局中空を見つめて「泣かないよ」と答えた。
「そうだね。君たちはなにも覚えてないし、私たちもわざわざ教えなかったから、知る由もなかったんだ。君たちの知る陛下は、自分の命の危機なのに自分以外の命が喪われることを恐れていつも泣いていた。陛下を守らんと立ちふさがる兵士にも、それを乗り越えようとする暗殺者相手にも、同じ涙をこぼす、そんな陛下のことしか知らないんだ」
泣き虫女王と謗りを受けるほど、あの王はよく泣いた。アーネストとマリエットも、ファウストも、それが珍しくないくらいには見慣れていた。
普段はあっさりしていて、悪口ぐらいの害なら笑って聞き流すのに、(他人の)命の危機だけには涙腺がすぐに仕事を始める。だから泣かないはずがない。そのはずなのに、ひっくり返した一番はじめの出会いでは、すぐそばに死体があったのに、からっとしていた気がするのだ。……そうだ、全員殺したと言われても、全く動じていなかった。ファウストの知る王はぼろぼろ泣いて途中で止めさせていたはずなのに。
殺さないで。生かして捕らえて。でも死なないで。武官として女王の側に仕えたことのある者は必ず聞く台詞だった。
そして武官をごぼう抜きにして暗殺者と本宮全てを駆け巡る追いかけっこを始める。
泣きながら木に登るわ泣きながら本棚の隙間に挟まるわ泣きながら屋根を通路にするわ。滅多に普通の道を使ってくれないので、途中からは、追跡のために窓を蹴破り扉を蹴破り文官の仕事場を横断するという認可を将軍が城宰から得たくらいだった。いちいち断りをいれていられないし、一番に文句を言われるべきは、暗殺者の殺意を全部一人で抱え込み誰にも渡さない女王本人だ。
文句を言っても直らないまま幾年月、正直、暗殺者を捕まえるより女王に追いつく方が大変だった。
「これ、栗大福だよ。アニーの休憩時間に合わせての密談ならちょっとは腹ごしらえしておきなさい」
「……ありがとうございます、サラ様」
アーネストがそう言って包に手を伸ばしたので、ファウストとマリエットも同じようにした。伯母は子どもによくおやつを直接差し入れしてくるので全員慣れたものだ。直接手渡しなので毒見もなにもない、安心安全に最速最短なおやつ時が迎えられる。
そういえば昔、子どもの成長を気にしていた気がするが、その解決策の一つがこのおやつだろうか。柿の葉を結ぶ木皮の紐をくるくる解いて緑の包を開けば、白い粉を振られた大福がぽてりと出てきた。
「……叔母上は、いつから、そのような……」
「レーリオが死んでからだよ」
こともなげに言った伯母が、茶碗を掬い上げて口元で傾けた。一瞬顔が見えなくなる。知ってる味だなと呟いたのは、マリエットが持ってきたお茶が、伯母が手遊びに作る香草茶の一種だったからだろう。後宮の厨房にそのまま置いているので女官うちでは自由に使っていいことになっているらしく、ファウストはたまにマリエットと逢瀬する時は必ず伯母謹製のお茶を相伴していたので、こちらも馴染みはある。
「ところで、その名前はどこから出てきた?」
「私はアーネスト様から言われて思い出しました」
「私は、叔母上がそう言ってるのを聞いて、ヴィンセント様の様子がおかしかったので、それで」
「……エリーが?」
「エリー?」
聞き慣れない呼称に首を傾げたのは反射のようなものだ。しかしすぐに戸惑いは引っ込んだ。
常に表情の薄い伯母から感情を読み取るのは至難の業だ。慣れれば少しはわかるが、あっさり読み解くのは王くらいのものだった。
だから、こんなにわかりやすいくらいあからさまに表情が凍りついたのを見るのは、ファウストたちは初めてだった。
まるで名前そのものが禁句のようだとすら思えたが、アーネストが戸惑いながら経緯を語り終えた頃には、その動揺はなくなっていた。深くため息をついて椅子の背もたれ、というより壁に背中を預け、「そうか」と呟いた。
「……ぽろっとこぼせるくらいにはなってたのか……。ヴィンスも仰天したんだろうね。どんな間抜け面を晒したものか」
「間抜け面だったの、従兄様」
「顔面凶度は五割ぐらい減っていた」
「一割減でもありえないのに、大事だわ」
「なんという測り方をしてるんですか、お二人とも」
だから城宰にクソガキ共と言われているのに、と思えば伯母も「それは最高値だね」と納得していた。全て聞かなかったふりをした。
「私はそんなにレーリオ様という方に似ていますか」
「そういえばもう一人の伯父とか言ってたわよね、小母様。小母様は三兄妹で、お兄様は一人だけのはずだったけど。まさか小母様のお婿……」
「ないからそれ以上気色悪いこと言うのはやめなさい」
伯母が酷く重たい声でマリエットを遮った。表情筋をこれでもかと駆使して渋面を作っている。
ファウストたちはそっと口を閉じた。気色悪いって言ったわよ。結婚してたのか?初耳です。視線だけでやり取りをしていると全力で嫌そうな声が答えを告げた。
「率直に言うと、私とファウストの母親の異母兄だよ」
「異母兄?」
「我が父ながらろくでなしだよ。外に作った女を孕ませた挙げ句、母子を家に引き取りもせず市井で育つのに援助もろくになかったらしいね。それまで存在すら知らなかったのが、陛下が即位して三年頃かな。ファウスト、君が初めてこの城に来た、数日前の話だよ。急に家から呼び出しがかかった。火急かつ家の進退に関わると言われたら嫌でも応じざるを得なかった」
あ、とファウストは口を開けた。幼い頃、野心皆無の母がわざわざファウストを連れて城に赴いたのは、前日に伯母との挨拶の機会があったのを逃したためだった。
伯母は医官になってから今まで、城を住処にして家には滅多に寄り付かない。会いたいなら出向くしかなかったが、城となると強く理由をつけるほどの用事がなければ、家の平素の呼び出しすら平気で無視する伯母が即座に追い返しにかかるだろう。
家の益は最低限、自身が女王の側近になったことそのもので充分。それ以上の干渉を嫌った伯母の考えは、ファウストにも理解できないものではなかった。ファウストも数年前にそれなりの武功を挙げて得た報奨で屋敷を一つ建て、母と一緒に移り住んだので。マリエットとの結婚後もそのまま、嫁と姑の同居になるのでふさわしいように改装もしている。
辞令で地方に一時任官しているファウストが仲を取り次ぐまでもなく嫁姑が良好な関係なのは、本人たちの人柄もあるが、家が口出ししてきても全て黙殺しているからだ。
母いわく、「うちは基本、政治に向いてないのよ。姉様が例外なのよ。兄様ももっと早くに諦められたらよかったのに」とのこと。
「そこで対面したのが、かつて後宮でエリーの親友面してた奴とは思いもしなかった。私にもヴィンスにも、エリーにすらも無言で姿を消したくせに、五年近く経ってから、武功を引っ提げてやって来て。うちの名を踏み台にしようってのはまあいいが、それで私には『城での口添えをしてくれ』だ?」
サラは当時を思い出すだけで憤懣やる方ない気持ちで一杯だった。三人の沈黙と凝視に構わず堂々と吐き捨てた。
レーリオ。あの男は、ヴィンセントよりサラより前にエリアーナと親しくなっておきながら、ろくなことをしなかった。惚れた女に求婚し続ける口でよその女を落とすヴィンセントとはまた別方向に最低な部類だ。
『待たせたね』
エリアーナの秘密の友だち、とはいえサラもヴィンセントも、成り行きではあっても秘密の枠内には入っていた。後宮の外、城の外から忍び込んできた市井の子ども。少し顔を会わせればそれくらいは察せられる。エリアーナが受け容れるなら、何事も起きないうちは黙認するだけだった。
それがいつの頃からかぱたりと顔を見せなくなり、サラもヴィンセントもまさか今さら不法侵入で捕らえられでもしたのかと一通り調べたがそんな形跡もなく、ただ、後宮から、エリアーナの前から存在が消えた。
エリアーナは一度もレーリオのことを安否含めて尋ねなかったし、問われても「そういえばもうずっと見てないね」と淡白な返事しかしなかった。
そうこうしているうちに王族が次々死んでいき、エリアーナは王になった。城の内外から生死に直結する課題を息つく間もなく投げつけられ、貫禄など言ってられないほど目まぐるしく歳月が過ぎ。
『……会いに来たの?誰に?』
『エリー以外に誰がいる?』
あの男はわかっていた。狭い世界をまどろみたゆたうエリアーナの、本人も知らない感情の箱のありか。
自覚できないだけで、平気なわけじゃない。気づいていないだけで、傷がつかないわけじゃない。
その箱を、エリアーナの心に優しく手を差し込んで埃を払い、エリアーナの前にそっと差し出した。
その箱を受け取って蓋を開いたエリアーナのあの瞬間を、あの刹那の泣き出すように嬉しそうな感情の綻びを。
サラは今でもよく覚えている。
……サラも、ヴィンセントも本当はわかっていたから、レーリオの頼みを受け入れてエリアーナの前まで連れて行き、その再会を大人しく見守った。
サラとヴィンセントにエリアーナは必要だが、エリアーナにサラたちは必要ない。けれどレーリオは。
「ファウスト、君はあの男よりよっぽど誠実だし、言葉も尽くす。そこは似てないって断言できるよ。行き先も目的も行ってくるねの一言もなく年単位で失踪しておいて、『待たせたね』なんてしゃあしゃあと言って元の席に戻るようなことは、絶対にないからね。安心しなさい」
「……あん、しんできるところ、なんですかそれは」
ファウストはからからな声でなんとかかんとか抗議の声を上げたが、真顔で頷かれて呻くしかなくなった。突然存在を明かされた伯父にろくでなしの可能性が浮上した場合、どんな顔をすればいいのだろう。親類縁者が軒並み政敵なアーネストがぽんぽん肩を叩いてくるのでますます文句も言えなくなった。
「レーリオと君は顔立ちもあまり似てない。エリーが似てるって言ったのは……。……」
途中で言葉を切って全力で不快そうな表情を作られた。ファウストはごくりと生唾を飲み込んだ。
「……い、言ったのは?」
「……心底むかつくから教えない」
「私が!?」
「あの男が。私からレーリオについて言えるのはここまでだ。他に気になることは?」
この話はこれで終わり。そう打ち切るとファウストたちは素直に従わざるを得ない。この伯母はやらないと言ったら二度とやらない。市井で育ったはずなのに後宮にいたとか、女王と親友とか、気になる文言ばかりなのにひどい仕打ちだ。しかしこの伯母には逆らえないのである。
「……じゃあ小母様、私とダリラ伯母様の似てるところって?」
「ダリラ様と君ねぇ、普段はちゃんと『待て』ができるのに、自身の片割れのことになるととことん直情に突っ走ってたから、その辺りかな。君はいつでも超特急だけどね」
「私だって『待て』くらいできるわ」
「かねてから力を入れていた双子舞に、ここぞとばかりに威嚇と威圧を盛り盛りに盛り込んだのは誰かな?」
「あれは、だって!」
「翌日丸一日寝込むくらいだったんだ。外部に漏らしてはないけど反省しなさい。売られた喧嘩を買うにしても、陛下を困らせちゃ元も子もない。君だって毎日特製健康茶を飲みたいわけじゃないだろう」
「……うぐぅ……ファウストはなんともなかったのにぃ……」
「私は鍛えているので。むしろあれくらいで寝込んでいたらそっちの方が問題ですよ。全編踊り通した姫様は、よく頑張りました」
あのあと王に心配されて善意のみで特製健康茶を再三勧められた婚約者が、しおしおとテーブルに突っ伏した姿が哀れでそっと髪を撫でた。ちなみにアーネストもマリエットも幼少期に伯母謹製の激苦茶は経験済みだ。十年ほど前、ファウストが初対面で警戒心の強い公子公女と打ち解けたのは、三人揃って味覚に悟りが開けていたことが理由の一つ。
二度と飲みたくない味だと三人の見解は一致していたが、先日マリエットがあまりに王が勧めるのに押し切られた時は、ファウストも連帯責任と思って同じように一杯飲んだ。神秘は未だ健在だった。舌はぎりぎり宇宙へ旅立つ前に捕まえた。
マリエットが頭を上げないままもっと撫でてと手を掴んできたので、そのままよしよしを継続する。アーネストがそれを呆れたように見て肩を竦めた。
「その分の甲斐はあった。少なくとも、お前たち二人の結婚に今さらな横槍を入れたりはしないだろうよ」
「嘘よ、それだけしか効果ないの?従兄様がちゃっかり一人だけ飲まずに逃げたからだわ」
「阿呆。あの舞台の主役はお前とファウストだっただろうが。私の取り分はどうせこれからいくらでもある。お前が他の祭事全部投げてきたからな」
今が秋でちょうど時季がよかった、と頷くアーネストに、それはそう、とマリエットが深く深く同意した。二人とも目が据わっている。
初めて聞かされた時の怒りは今も消えないまま。燃やし続けるまま、必要な時が来るまでそれを胸のうちに留める芸当は、誰でもできるものではない。これ、「待て」ができているのでは?ファウストはちらりと伯母を見やった。呑気に茶をしばいていたが、ふと目が合うと、首を少し傾げて目を細めた。……確かにできてないとは言ってなかったか。
好きにするといい。伯母は外の話を持ち込んだファウストにそう告げた通りに、積極的に関わるつもりはないらしい。それは伯母に丸投げされた城宰もそう。特に詳細を調べると極端にやる気を失っていた。
『喧嘩を売られたのはあなたたちです。最悪の場合は動いてあげますから、自分たちの汚名は自分たちで濯ぎなさい。こてんぱんに潰して差し上げても一向に構いません。むしろやれ』
アーネストの国王代行権も、マリエットが結婚を延期して手に入れた女官の籍も。二人が王からもぎ取ったもので、情けで恵んでもらったものではないし、反対意見を実力で黙らせて確立させたものだ。
情け深いようでいて、決して甘やかすことのなかったあの王が公子公女に与えた「特別」は、一番はじめの、城に住まわせること以外にはなかったと、この城の者は誰もが知っている。
それなのに、分不相応だと言う。
アーネストとマリエットの、王子王女ではない不安定な己の立場に怯えていた頃を、なんだと思っているのだ。
なにも知らない、汲み取りもしない外部の者が勝手に嘲っていいものではない。
「悪巧みは早々に終わらせなさいね。そろそろアニーも戻らないといけないだろう」
「あ、そうですね」
「従兄様、ファウストと先に戻ってて。私はここを片付けて……」
小母様はどうする、とマリエットが尋ねようと振り向いた先で、伯母は四阿の外をじっと凝視していた。
「伯母上?」
「――エリー!!」
四阿の中いっぱいに怒号がわんわんと響いた。耳に甚大な被害を受けた三人に構わず、伯母はずんずんと外へ出ていった。落ちている枝や草をつっついていた烏や雀が慌てて逃げている。ファウストは武官ならではの反射で伯母の後を追った。
「エリー!!君は、脱走するにしても後宮の中だけにしておくと思ったら!」
「えっ、うわ、嘘、なんでサラがいるの?あ、ファウストも……ってことは」
「叔母上!?」
「叔母様!?」
「うわちゃー」
「戻るなこの馬鹿!降りてきなさい!ファウスト、確保!」
ファウストはこれまた反射でその命令に従った。とんでもない光景に半ば呆然としていたが、伯母に逆らうと怖いというのは本能への刷り込みだ。
駆け出したファウストの視線の先では、我らが王が、後宮と本宮を隔てる壁をどう登ったのか、その天辺でウゴウゴとしているところだった。
0
あなたにおすすめの小説
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ
さら
恋愛
会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。
ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。
けれど、測定された“能力値”は最低。
「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。
そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。
優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。
彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。
人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。
やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。
不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。
私と母のサバイバル
だましだまし
ファンタジー
侯爵家の庶子だが唯一の直系の子として育てられた令嬢シェリー。
しかしある日、母と共に魔物が出る森に捨てられてしまった。
希望を諦めず森を進もう。
そう決意するシェリーに異変が起きた。
「私、別世界の前世があるみたい」
前世の知識を駆使し、二人は無事森を抜けられるのだろうか…?
子供にしかモテない私が異世界転移したら、子連れイケメンに囲まれて逆ハーレム始まりました
もちもちのごはん
恋愛
地味で恋愛経験ゼロの29歳OL・春野こはるは、なぜか子供にだけ異常に懐かれる特異体質。ある日突然異世界に転移した彼女は、育児に手を焼くイケメンシングルファザーたちと出会う。泣き虫姫や暴れん坊、野生児たちに「おねえしゃん大好き!!」とモテモテなこはるに、彼らのパパたちも次第に惹かれはじめて……!? 逆ハーレム? ざまぁ? そんなの知らない!私はただ、子供たちと平和に暮らしたいだけなのに――!
治癒魔法で恋人の傷を治したら、「化け物」と呼ばれ故郷から追放されてしまいました
山科ひさき
恋愛
ある日治癒魔法が使えるようになったジョアンは、化け物呼ばわりされて石を投げられ、町から追い出されてしまう。彼女はただ、いまにも息絶えそうな恋人を助けたかっただけなのに。
生きる希望を失った彼女は、恋人との思い出の場所で人生の終わりを迎えようと決める。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
追放された悪役令嬢はシングルマザー
ララ
恋愛
神様の手違いで死んでしまった主人公。第二の人生を幸せに生きてほしいと言われ転生するも何と転生先は悪役令嬢。
断罪回避に奮闘するも失敗。
国外追放先で国王の子を孕んでいることに気がつく。
この子は私の子よ!守ってみせるわ。
1人、子を育てる決心をする。
そんな彼女を暖かく見守る人たち。彼女を愛するもの。
さまざまな思惑が蠢く中彼女の掴み取る未来はいかに‥‥
ーーーー
完結確約 9話完結です。
短編のくくりですが10000字ちょっとで少し短いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる