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本編
八、鹿鳴・前
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さすがに文字数多すぎて大変になってきたので二分割します。
今話の鹿鳴は前、後とも過去編です。
ーーー
「……陛下、しばらく休憩しますか?」
「え?」
ヴィンセントがそっと囁き声をかけてきて、エリアーナは我に返った。うっかりぼんやりしてしまっていたようで、書類仕事の手が止まっていたらしい。不覚不覚、と筆に墨をつけ直そうと思っていると、すでに手元に広げた紙に黒い染みが点々と出来ているのに気づいて落ち込んだ。
「ごめんヴィンセント。書き直すわ」
「いえ、そちらはどうとでもできますから。それよりも、気が乗らないのでしたら、一服のお時間くらいお休みされてもいいのですよ」
「いいわよ、今度はもう失敗しないようにするから」
換えのまっさらな紙は、と机の周りを見渡すが、王座に座り続けるエリアーナの執務机は書類と文具をお伴にあっちこっち持ち運べるものなので、予備の用意は都度申しつけるしかない。とりあえず目の前に立つヴィンセントに手を差し伸べると、ため息とともに別の書類が渡された。その隙にヴィンセントが家から連れてきた若い小間使いが書き損じを回収している。
エリアーナとヴィンセントのやり取りは、大広間で注目を集める位置にあっても、密やかなものだった。今日の正午の会議はとっくに終わって、官吏が使い走りにうろうろしている程度。
春の大嵐でエリアーナがキレてから半年近く経つが、なんとなく官吏の自分を見る目が変わってきた感じがするような、しないような。見下す目が減って見定める目が増えてきた、気がする。とはいえ相変わらず誹謗中傷は絶えないし、エリアーナにとってなにかいいことがあるわけでもないし、悪いことになるわけでもないので、様子見をしているところだ。
どんな悪口雑言を吐こうと、不敬不忠な行動をしようと、仕事さえしてくれるならエリアーナに文句はない。それは最初から言ってきたことだ。それなのに。
ふと目が合った官吏がぴょんっと飛び上がってがばりと頭を下げてほぼダッシュで大広間を出て行った。
「あんな風にあからさまな反応をされると、心当たりあるのかなって気になるんだけど」
「ああ、そうですね」
ヴィンセントはちらりと出入り口を振り返った。まだ大広間をうろついている官吏たちがこちらの会話に耳をそばだてているのに、エリアーナは気づいていないのだろう。
「ちなみに先ほどの者の名は?」
「また?緑玉三位のグローシュ」
「そうやって顔と名前と官位と所属を陛下が全部当ててしまうのが原因の一つだと思いますよ。本当に全員ご存じなんじゃないんですか?」
「そんなわけないって言ってるじゃないの」
「ちっとも信用できないんですが、まあ、陛下はそのままなにもお気になさらず。わかりやすい程度ならこちらでどうにでもできますから」
「そう。ならいいわ」
エリアーナはあっさり話を流して終わりにした。仕事さえしてくれれば他はなにをしてもいい、というのはヴィンセントやサラも同じだ。ついでに家の立場を盛り上げたいならそうすればいいし、個人で権力をつけたいならそうすればいい。誰のため、なんのためか、エリアーナは干渉しない。
淡々と新たな書類に目を通しはじめたエリアーナだが、視界の端に入った人影に、反射的に顔を上げそうになった。すぐそばにいるヴィンセントはまたどでかいため息をついた。
「そういえば、レーリオの帰還は、予定通りに行けばあと八日ほどでしたか?」
「約束だとあと五日」
すかさず答えたエリアーナにこれみよがしに肩を竦めるのはなんなのか。じろりと睨むと呆れの一切ない微笑が返ってきた。
儚げは強面に追加装備できるらしい。エリアーナはぱちぱち瞬いた。
「陛下がこんなにわかりやすいとは思ってませんでしたよ。そんなに待ち遠しいですか」
「別に……」
「ずっとそわそわそわそわしておいて、いまだに自覚がないとは言わないでしょう。あんたが色惚けて政務が手につかなくなる日が来るとは、これまでちっとも想像してきませんでした」
「い、色惚け」
エリアーナは筆から墨を散らしそうになって慌てて墨入れに突っ込んだ。じわじわ顔が熱くなってきた。これでは仕事ができない、と呼吸を整える合間にちらっとヴィンセントを見上げたら鼻で笑われた。突っかかったらさらに大変なことになりそうなので見なかったことにした。……大変なこと。
(待ち遠しい?)
それはどういう気持ちなのだろう。今のこの落ち着かない気持ちはそう形容されるものなのだろうか。確かに、時々……ここ半年背後にレーリオが控えていたのに慣れきっていたのか、今はいないことに戸惑うことがあった。収穫祭で城に攻め込んだ勢力の追討戦に、レーリオ率いる部隊が出払ってから、背中がすうすうするし、寄りかかれなくて足もふらつくような、そんな感覚。
でもレーリオはあと五日で帰ってくる。前は年単位で無言の失踪状態でもなんにも思わなかったのだ。ちゃんと本人から申告してきたのに、待つことも耐えきれないなんておかしい。
「理屈と感情は別物ですからね」
心を読んだような一言がするっと耳から体内に入り込んでいった。理屈と、噛み合わない感情。そんなものがあるのかと思ったが、二ヶ月くらい前の収穫祭の夜にも同じようなことがあったと思い出した。
夜の本宮の屋根の上、レーリオと約束を交わした。
『エリー、ぼくの姫様。ぼくの人生、丸ごとあげる』
『なに、いきなり。もらってもどうしようもないんだけど。もったいないからやめて』
『ふっふっふ。ただであげるとは言ってないよ』
『いやあたし欲しがった覚えないんだけど? あ、もしかして最近噂の新しいあくどい商法? 不良品を良品と偽って安物と抱き合わせて割高で売りつけるっていう』
『待ってぼく不良品扱いされてる?』
『安物の方?』
『真顔やめて。違うから。根本から違うから』
寒い風が頬をくすぐるが、体は柔らかく包まれていてぽかぽか心地よい。他者の温もりに安堵を覚える自分に初めて気づいて、エリアーナはやっと、一つの感情の名前を得た。
これまで自分に必要ないと思っていたもの。一生得られぬ、得る気もないと思っていたもの。
『エリー、君の残りの人生がほしい』
『残りの?』
『もちろん君が王様でいる間だって、絶対に君のそばにいる権利を手放す気はないけどね。君がいつか、王座を降りたとき。その後の人生の、全部がほしい』
その後の人生? 生まれてこの方、エリアーナは我が身の先を考えたことはない。時勢に流され今では王なんてやっているが、その果てになにがあるかなど、ちっとも想像なんてできやしない。
『それって、いつ?』
『君が、降りたいと思ったときだよ。「その時」はぼくが決めるんじゃなくて、君の意志でしか決まらない。君がぼくに人生全部をあげるって思ったら、その時、君は黒烏の止まり木からぼくだけの姫様になる』
『レーリオだけの?』
『誰にもくれてやるつもりはないね。……ああ、うん、そこは心積もりしておいて。君が王じゃなくなったなら、ヴィンスとサラ、君の甥っ子姪っ子にも、君を譲る気はないから』
『よくわからない』
『いつかわかるよ。とりあえず今は、ぼくがずっと君のことを好きだってことを覚えといてくれたらいい。わかった?』
『それなら……わかった』
エリアーナが考えたこともない未来をさも当然のように語るレーリオに、エリアーナは驚いて、戸惑って、最後は衝動的に頷いた。
レーリオが嬉しそうに笑うので、エリアーナも頬を染めながら身のうちから溢れる感情のままに笑った。
あの夜、月下に重なる影に、願いと安らぎを得た。
なのに今はない。背中がすうすうする。
「……早く会いたいな」
ぽろっとこぼれた言葉に、ヴィンセントが「それでいいんですよ」と言わんばかりに頷いた。
それから十日経っても、レーリオは帰ってこなかった。
伝令も来ない。ヴィンセントの強面に不穏な気配が装備され、サラも何度か軍部や家に遣いを出すようになった。
エリアーナもいっそうそわそわするようになったが、王座からは離れられなかった。そんな中、ふと、エリアーナの耳が荒々しい足音を拾った。王城を自由に走るのはエリアーナくらいで、武官たちでさえエリアーナが暗殺者に逃げ回るときのみ許されている。今はその時ではないので、ぎりぎりまで走るのを堪えているようだ。忙しなく猛々しく、どこかもどかしさすら感じる足音に、大広間に居合わせた官吏らまで浮ついた。
そのざわつきに滑り込むように、ヴィンセントが大股に大広間に入ってきた。周囲を睥睨して王座の側まで上がってくる。
少し遅れて、後宮にいたはずのサラまでやって来た。いつにもましてのっぺりとした無表情で、隙間を縫うように奥へと進む。エリアーナが二人に問いかける前に、荒々しい足音が大広間に辿り着いた。
「――おう、陛下。ちょっと宰相貸してくれや」
床を蹴立てて現れた将軍は、傍らに伴を引き連れるというより、片手で掴んで引きずってきていた。ぼろぼろの身なりの部下と思しき男で、足取りは蹌踉としている。ところどころに見えるしみは血の痕ではないのか。それに、埃や垢で顔が黒く汚れているが、その男の容貌には見覚えがあった。
エリアーナは胸のざわめきを抑えて目を細めた。
「話によるわ。先に説明を」
将軍は一瞬言葉を詰まらせたあと、堂々と舌打ちしてみせた。
「じゃあ陛下、飛び出すなよ。一歩も王座から動くんじゃねえ」
「城から出ないことはわかってるでしょうに」
将軍は無視してサラを見た。
「女医、同性だからてめえが押さえつけろ。最悪ふん縛れ」
「わかった。陛下、話が進まないから、先に失礼するよ」
「あたし王様のはずなんだけど……」
王座の横から身を乗り出したサラに片腕を取られぎゅっと抱き込まれた。振り払ったらサラが転げ落ちるのでどうにも動きようがなくなったわけだ。
思わずぼやいたが、声は中途半端に絶えた。
「――リュスト追討部隊が消息不明だ。捜索に人手が足りねぇ。宰相の家から兵士を借りたい」
直後にヴィンセントの手がサラとは反対側から伸びてエリアーナの肩を重石のように押さえつけた。指が衣を握り込み、ぎりりと爪と布の間に音が走った。
「陛下」
両脇から同時に声をかけられて、椅子から身を起こしていた自分に気づく。将軍はがりがりと頭を掻いてまっすぐにエリアーナを睨み上げた。
「動くなっつってんだろーが。捜索はこれからだ」
「わかりました。本日中に私の家から人手と物資を揃えます。一筆書くので、あなたが家令に間違いなく届けてください。あなた自身で必要と判断したなら別途その命令に従うようにも書き加えておきます」
「個人的には認めたくないが、家の身内が追討に出ていたのに私に援助要請しないのは、ヴィンスに部隊の失踪に関して嫌疑がかかっているためか。そこの武官の身なりも気になるけど、問題はやっぱり場所かな」
「――頭がいいやつがいると、話が早く進むから楽でいいぜ」
エリアーナの頭は煮え立っていて、三人分の声が全部上滑りして聞こえた。三人の会話の内容や、端々にちらつく含みを理解できるのに、それが胸の内まで入ってこない。
「仔細はそちらの武官が?」
「こいつも追討部隊の一員だった。役目は斥候だ」
「……なんでここに戻ってきてる? 斥候って、異変があれば先に察知し、本隊に知らせるのが仕事だろう?」
「……もっ、申し上げます!」
サラの懐疑の視線を受けたぼろぼろの武官が、崩折れるように両膝をついた。それまで片腕を掴んでいた将軍が手を離すと、まるで人形のようにだらりと垂れ下がり、その勢いで頭から床にのめり込みそうなくらい項垂れた。
「わ、私と他の二名が物見に出た後に――背後から、本陣の方から鬨の声が聞こえ。慌てて引き返しましたが、敵兵に出くわして追い立てられるうちに本隊と逸れ、ふ、二人とも、逸れ、私だけは、私だけは助けを呼ばなければと」
「一昨日に二つ先の北砦の警戒範囲内でこいつを拾った。その時点で既に襲撃から五日は経ってる」
「――どうか!どうか、陛下!!隊長をお助けください!!」
「てめえは必要なこと以外黙ってろ!!」
将軍が押さえつけようとした手を掻い潜るように武官ががばりと顔を上げて、痩せて落ち窪んだ眼でエリアーナを見つめた。
悲痛な願い、苦悶の叫び、黒い熱が滲んだ声がわんわんと大広間に響き渡り、落ちた静寂までも染めていくようだった。
誰もがエリアーナを見ていた。
即座に背中から押さえつけられた武官とその頭を床にぶつけるように踏んづけた将軍、エリアーナの肩を掴む手に力を込めたヴィンセントと、庇うように半身を傾けたサラ以外の、全員が、王座に居竦むエリアーナを見ていた。
その中で、エリアーナは呆然とさっきの視線を見つめ返した。ほんの一瞬の前に捉えた、切実な眼差しの奥に、確かに見えた昏い炎。
やっと全てがエリアーナの胸の奥に届いて、そして、全部が粉々になった。
「……そう。レーリオは、七日も前に、殺されたの」
両脇の二人の手が震えた。将軍はいつの間に抜剣したま白い刃を武官の首筋に添え、そこから視線を上げない。突拍子もないエリアーナの発言にぎょっとしているのは、居合わせた他の官吏たちだけだ。目撃者であり証人としての配役。そのための演出だった。政治は苦手だと常日頃嘯いていた将軍にしては手が込んでいる――敵と味方の炙り出し、風評の操作、堅実な課題解決まで目論んだ。
とんだ小芝居だ。
「そんな、陛下!隊長を諦めるとおっしゃるのですか!あなたをこれまでお側で最も長くお守りし続けてきた方を!?」
「将軍、刎ねる前にまだ使えることがあるのでしょう。落として。うるさい」
「――御意」
エリアーナの冷たいとも違うひどく無機質な声に、大広間中がしんと時を止めた。
気絶させた武官をさっと手持ちの縄で拘束した将軍は、そのまま傍らに跪いた。次の命を待つために。
エリアーナが応じて口を開く前に、サラが腕を引っ張った。
「まだだ。陛下、まだ、決まってない。あいつはしぶとい、君に会うためにひょっこり戻ってくる」
「どうせ約束の日にちを忘れてるんでしょう。なんだかんだ抜けてる男です。すぐ連れ戻しますよ」
世界から覆い隠すようにエリアーナの顔を覗き込んでくる二人に、エリアーナは微笑んだ。口角がうまく上がらなくて歪になっていたことだろう、それを見た二人の顔がくしゃりと歪んだ。
エリアーナの心に、天啓のように閃くというよりは熟れた果実のように落ちてきた答えは、エリアーナより遥かに賢い二人でさえ得られなかったものらしい。けれど、反射的に理解してしまったはずだ。納得できてしまったはずだ。
だってエリアーナの「間違い」に、なぜと問うて来ないのだ。
「そうね。連れ戻さなきゃ。死体だけでも返してもらわないと、だって、あたし、もらったんだもの」
レーリオの人生をもらったのはエリアーナなのだ。命も、体も、なにもかもを、エリアーナに捧げた。だからエリアーナも同じように捧げる、そういう約束だった。
命が絶えたところでなんだというのだろう。
断じて他者の手に渡らせてやるものか。
ヴィンセントは、エリアーナに求婚していたという周知の事実によって、誰よりもエリアーナの側近くに侍るレーリオとその部隊の「失踪」について容疑者の一人と目される。身内の軍部を信用できなかった将軍は、それを逆手に取りヴィンセントに捜索の人手を出させた。
ついでにヴィンセント本人は潔白を証すため、王城本宮にその身をおいて、監視付きの謹慎を自主的に受け入れた。とはいえ自家とのやり取りを自粛したくらいで、表向き以外の仕事は普通にやっているし、むしろ鬼気迫る勢いでレーリオたちを襲った者たちの特定を進めていた。その分サラがより忙しなく城の内外を出入りして情報の収集と精査に力を注ぎ、慌ただしい城内に警戒網を張り巡らせた。
エリアーナは。
エリアーナはいつも通りの毎日のように政をし、降って湧いてくる暗殺者相手に全速力の追いかけっこをし、甥姪に縋りつかれながら少し休み、また政務に出かけた。
ヴィンセントが謹慎中で表に立たない分だけ色んな思惑が近づいてはきていたがいつも通り跳ね除けるだけだし、兄姉を全て亡くして王となったエリアーナの風評に傷がついているのも今さらだし、ひたすら槍玉に上げられたところで面倒以外に特に困らされるようなものはなかった。
ただ、失敗したなぁと思う。事あるごとに思い返す。やり返すのは早い方がいいと思っていた。それでもきちんと前準備は整えられたと思っていた。レーリオなら大丈夫だと思っていた。
――どうか、陛下、隊長をお助けください!
油断していた。見えない部分に気づかず、その存在すら意識せずにいた。その闇に、エリアーナを狙った謀略に、レーリオとその部隊はまるっと絡め取られたのだ。
レーリオはエリアーナのせいで殺された。エリアーナのせいで死んだ。
吹雪など悪天候や単発的かつ小規模な襲撃の頻発などに阻まれ失踪者の捜索は難航し、ようやく発見の報が黒烏の城にもたらされたのは、それから半月は後のことだった。
案の定、死体だった。しかもレーリオだけではなく、失踪したと目されていた部隊の者たち、全員だ。死体を白い布で覆い隠していたのを一気に取っ払ったように、雪原に忽然と現れたような光景だったという。
「陛下。ちょっと出てくるよ。連れ帰ってくる」
エリアーナは城を飛び出していったサラを引き止める間もなく、ただ王座からその後ろ姿を見送った。
発見されてから死体の腐敗が進んだとかで、結局サラが持って帰ってきたのは遺髪と折れた刀身と鞘だけだった。残りは他の死体と共に、身元の確認と遺品の収集後に王都の外で荼毘にふされたという。
いつその煙が上がったのか、エリアーナは城の奥の王座にいたので知らない。
サラが無言で差し出してきた遺品をどうしたのかも、覚えていない。なにかヴィンセントに言ったような気がするし、言われた気もする。
その日の残りの仕事をどう片付けたかも、いつ日が沈んだのかも、いつ後宮に帰ったのかも。
――全部、覚えていない。
「あ、叔母上、おか……」
「まってにいさま!いっしょにいうの!」
マリエットがアーネストと繋いだ手をぶんぶん振ってなにか駄々を捏ねている。アーネストはちょっとムッとしていたが、そのままエリアーナのもとまで手を繋いだまま仲良くとてとて近寄ってきた。
顔を見交わし、せーのと声を合わせて、二人の声が弾けた。
「おかえりなさい!」
エリアーナは、あ、と思った。
そういえばさっき、サラにおかえりなさいと言いそびれた気がする。
絶句してただ瞬いている間にじわじわと視界が潤みはじめ、すぐさま大粒の雫が生まれてぼろぼろと頬を伝い落ちていった。
「お、叔母上!?」
「ないてるー!?」
ぎょっとしてしがみついてきた二人を力の限りで抱き返した。喉の奥で息がつかえている。引き絞られるように胸が苦しくて、えづくだけで痛くて痛くて堪らなかった。次兄の剣に腕を貫かれたときだってこんなに痛くはなかった。心臓を粉々に砕かれすり潰されていくような、こんな、痛み――今さらでしかない。
いつもエリアーナはレーリオに教えられてやっと自分の気持ちに気づくのに、レーリオがいなくなったとたん、このザマだった。
――遅くなってごめん。待たせたね、ぼくの姫様。
(そうだ、あたし、ずっと、待ってたんだ)
待っていた。王女の頃に会えなくなって再会するまで五年。なんとも思ってなかったわけじゃなかったのだと、今さら気づいた。この二ヶ月もあの頃と似たような気持ちでいたから、やっと気づけた。
いつか会えるなら、その「いつか」まで城でのんびり待てばいい。だから慌てなかったし、誰かに消息を尋ねたりもせず、いつも通りの――時勢に流されるままの毎日を送った、五年間。
そしてこの二ヶ月。
『エリーにはぜひ城の外の世界を見てもらいたいんだぁ。ぼく、この歳にしてはあちこち渡り歩いてるからね。色々、見せたい景色がある。とても楽しいよ』
「――ぁ」
語られた未来を当たり前のように抱きしめて、今日、今この時まで、レーリオがこの城に帰ってくるのを待っていた。
からっぽの約束を大事に抱えていたなんて、なんて馬鹿らしく、愚かしい。
「あ、っぁあ」
嗚咽に溺れそうに喘ぐエリアーナの両肩に、驚き困惑する子どもたちが顎を載せて必死に取りすがっている。いや、縋り付いているのはエリアーナの方だ。
エリアーナが殺されてはやらない理由。王である意味。城に縛りつける楔。
おばうえ、おばさま。震える拙い声は涙で湿っていた。泣かせてしまった、と心のどこかで思う。一緒に泣いてくれるの、と別のところで思う。小さく柔らかい体がぎゅうぎゅうに押し付けられ、頬に熱い肌がすり寄ってくる。
けれど、どうしても背中が寒いのだ。
レーリオはもう帰ってこない。
二度と会えない。
死ぬとは、そういうことだった。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
今話の鹿鳴は前、後とも過去編です。
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「……陛下、しばらく休憩しますか?」
「え?」
ヴィンセントがそっと囁き声をかけてきて、エリアーナは我に返った。うっかりぼんやりしてしまっていたようで、書類仕事の手が止まっていたらしい。不覚不覚、と筆に墨をつけ直そうと思っていると、すでに手元に広げた紙に黒い染みが点々と出来ているのに気づいて落ち込んだ。
「ごめんヴィンセント。書き直すわ」
「いえ、そちらはどうとでもできますから。それよりも、気が乗らないのでしたら、一服のお時間くらいお休みされてもいいのですよ」
「いいわよ、今度はもう失敗しないようにするから」
換えのまっさらな紙は、と机の周りを見渡すが、王座に座り続けるエリアーナの執務机は書類と文具をお伴にあっちこっち持ち運べるものなので、予備の用意は都度申しつけるしかない。とりあえず目の前に立つヴィンセントに手を差し伸べると、ため息とともに別の書類が渡された。その隙にヴィンセントが家から連れてきた若い小間使いが書き損じを回収している。
エリアーナとヴィンセントのやり取りは、大広間で注目を集める位置にあっても、密やかなものだった。今日の正午の会議はとっくに終わって、官吏が使い走りにうろうろしている程度。
春の大嵐でエリアーナがキレてから半年近く経つが、なんとなく官吏の自分を見る目が変わってきた感じがするような、しないような。見下す目が減って見定める目が増えてきた、気がする。とはいえ相変わらず誹謗中傷は絶えないし、エリアーナにとってなにかいいことがあるわけでもないし、悪いことになるわけでもないので、様子見をしているところだ。
どんな悪口雑言を吐こうと、不敬不忠な行動をしようと、仕事さえしてくれるならエリアーナに文句はない。それは最初から言ってきたことだ。それなのに。
ふと目が合った官吏がぴょんっと飛び上がってがばりと頭を下げてほぼダッシュで大広間を出て行った。
「あんな風にあからさまな反応をされると、心当たりあるのかなって気になるんだけど」
「ああ、そうですね」
ヴィンセントはちらりと出入り口を振り返った。まだ大広間をうろついている官吏たちがこちらの会話に耳をそばだてているのに、エリアーナは気づいていないのだろう。
「ちなみに先ほどの者の名は?」
「また?緑玉三位のグローシュ」
「そうやって顔と名前と官位と所属を陛下が全部当ててしまうのが原因の一つだと思いますよ。本当に全員ご存じなんじゃないんですか?」
「そんなわけないって言ってるじゃないの」
「ちっとも信用できないんですが、まあ、陛下はそのままなにもお気になさらず。わかりやすい程度ならこちらでどうにでもできますから」
「そう。ならいいわ」
エリアーナはあっさり話を流して終わりにした。仕事さえしてくれれば他はなにをしてもいい、というのはヴィンセントやサラも同じだ。ついでに家の立場を盛り上げたいならそうすればいいし、個人で権力をつけたいならそうすればいい。誰のため、なんのためか、エリアーナは干渉しない。
淡々と新たな書類に目を通しはじめたエリアーナだが、視界の端に入った人影に、反射的に顔を上げそうになった。すぐそばにいるヴィンセントはまたどでかいため息をついた。
「そういえば、レーリオの帰還は、予定通りに行けばあと八日ほどでしたか?」
「約束だとあと五日」
すかさず答えたエリアーナにこれみよがしに肩を竦めるのはなんなのか。じろりと睨むと呆れの一切ない微笑が返ってきた。
儚げは強面に追加装備できるらしい。エリアーナはぱちぱち瞬いた。
「陛下がこんなにわかりやすいとは思ってませんでしたよ。そんなに待ち遠しいですか」
「別に……」
「ずっとそわそわそわそわしておいて、いまだに自覚がないとは言わないでしょう。あんたが色惚けて政務が手につかなくなる日が来るとは、これまでちっとも想像してきませんでした」
「い、色惚け」
エリアーナは筆から墨を散らしそうになって慌てて墨入れに突っ込んだ。じわじわ顔が熱くなってきた。これでは仕事ができない、と呼吸を整える合間にちらっとヴィンセントを見上げたら鼻で笑われた。突っかかったらさらに大変なことになりそうなので見なかったことにした。……大変なこと。
(待ち遠しい?)
それはどういう気持ちなのだろう。今のこの落ち着かない気持ちはそう形容されるものなのだろうか。確かに、時々……ここ半年背後にレーリオが控えていたのに慣れきっていたのか、今はいないことに戸惑うことがあった。収穫祭で城に攻め込んだ勢力の追討戦に、レーリオ率いる部隊が出払ってから、背中がすうすうするし、寄りかかれなくて足もふらつくような、そんな感覚。
でもレーリオはあと五日で帰ってくる。前は年単位で無言の失踪状態でもなんにも思わなかったのだ。ちゃんと本人から申告してきたのに、待つことも耐えきれないなんておかしい。
「理屈と感情は別物ですからね」
心を読んだような一言がするっと耳から体内に入り込んでいった。理屈と、噛み合わない感情。そんなものがあるのかと思ったが、二ヶ月くらい前の収穫祭の夜にも同じようなことがあったと思い出した。
夜の本宮の屋根の上、レーリオと約束を交わした。
『エリー、ぼくの姫様。ぼくの人生、丸ごとあげる』
『なに、いきなり。もらってもどうしようもないんだけど。もったいないからやめて』
『ふっふっふ。ただであげるとは言ってないよ』
『いやあたし欲しがった覚えないんだけど? あ、もしかして最近噂の新しいあくどい商法? 不良品を良品と偽って安物と抱き合わせて割高で売りつけるっていう』
『待ってぼく不良品扱いされてる?』
『安物の方?』
『真顔やめて。違うから。根本から違うから』
寒い風が頬をくすぐるが、体は柔らかく包まれていてぽかぽか心地よい。他者の温もりに安堵を覚える自分に初めて気づいて、エリアーナはやっと、一つの感情の名前を得た。
これまで自分に必要ないと思っていたもの。一生得られぬ、得る気もないと思っていたもの。
『エリー、君の残りの人生がほしい』
『残りの?』
『もちろん君が王様でいる間だって、絶対に君のそばにいる権利を手放す気はないけどね。君がいつか、王座を降りたとき。その後の人生の、全部がほしい』
その後の人生? 生まれてこの方、エリアーナは我が身の先を考えたことはない。時勢に流され今では王なんてやっているが、その果てになにがあるかなど、ちっとも想像なんてできやしない。
『それって、いつ?』
『君が、降りたいと思ったときだよ。「その時」はぼくが決めるんじゃなくて、君の意志でしか決まらない。君がぼくに人生全部をあげるって思ったら、その時、君は黒烏の止まり木からぼくだけの姫様になる』
『レーリオだけの?』
『誰にもくれてやるつもりはないね。……ああ、うん、そこは心積もりしておいて。君が王じゃなくなったなら、ヴィンスとサラ、君の甥っ子姪っ子にも、君を譲る気はないから』
『よくわからない』
『いつかわかるよ。とりあえず今は、ぼくがずっと君のことを好きだってことを覚えといてくれたらいい。わかった?』
『それなら……わかった』
エリアーナが考えたこともない未来をさも当然のように語るレーリオに、エリアーナは驚いて、戸惑って、最後は衝動的に頷いた。
レーリオが嬉しそうに笑うので、エリアーナも頬を染めながら身のうちから溢れる感情のままに笑った。
あの夜、月下に重なる影に、願いと安らぎを得た。
なのに今はない。背中がすうすうする。
「……早く会いたいな」
ぽろっとこぼれた言葉に、ヴィンセントが「それでいいんですよ」と言わんばかりに頷いた。
それから十日経っても、レーリオは帰ってこなかった。
伝令も来ない。ヴィンセントの強面に不穏な気配が装備され、サラも何度か軍部や家に遣いを出すようになった。
エリアーナもいっそうそわそわするようになったが、王座からは離れられなかった。そんな中、ふと、エリアーナの耳が荒々しい足音を拾った。王城を自由に走るのはエリアーナくらいで、武官たちでさえエリアーナが暗殺者に逃げ回るときのみ許されている。今はその時ではないので、ぎりぎりまで走るのを堪えているようだ。忙しなく猛々しく、どこかもどかしさすら感じる足音に、大広間に居合わせた官吏らまで浮ついた。
そのざわつきに滑り込むように、ヴィンセントが大股に大広間に入ってきた。周囲を睥睨して王座の側まで上がってくる。
少し遅れて、後宮にいたはずのサラまでやって来た。いつにもましてのっぺりとした無表情で、隙間を縫うように奥へと進む。エリアーナが二人に問いかける前に、荒々しい足音が大広間に辿り着いた。
「――おう、陛下。ちょっと宰相貸してくれや」
床を蹴立てて現れた将軍は、傍らに伴を引き連れるというより、片手で掴んで引きずってきていた。ぼろぼろの身なりの部下と思しき男で、足取りは蹌踉としている。ところどころに見えるしみは血の痕ではないのか。それに、埃や垢で顔が黒く汚れているが、その男の容貌には見覚えがあった。
エリアーナは胸のざわめきを抑えて目を細めた。
「話によるわ。先に説明を」
将軍は一瞬言葉を詰まらせたあと、堂々と舌打ちしてみせた。
「じゃあ陛下、飛び出すなよ。一歩も王座から動くんじゃねえ」
「城から出ないことはわかってるでしょうに」
将軍は無視してサラを見た。
「女医、同性だからてめえが押さえつけろ。最悪ふん縛れ」
「わかった。陛下、話が進まないから、先に失礼するよ」
「あたし王様のはずなんだけど……」
王座の横から身を乗り出したサラに片腕を取られぎゅっと抱き込まれた。振り払ったらサラが転げ落ちるのでどうにも動きようがなくなったわけだ。
思わずぼやいたが、声は中途半端に絶えた。
「――リュスト追討部隊が消息不明だ。捜索に人手が足りねぇ。宰相の家から兵士を借りたい」
直後にヴィンセントの手がサラとは反対側から伸びてエリアーナの肩を重石のように押さえつけた。指が衣を握り込み、ぎりりと爪と布の間に音が走った。
「陛下」
両脇から同時に声をかけられて、椅子から身を起こしていた自分に気づく。将軍はがりがりと頭を掻いてまっすぐにエリアーナを睨み上げた。
「動くなっつってんだろーが。捜索はこれからだ」
「わかりました。本日中に私の家から人手と物資を揃えます。一筆書くので、あなたが家令に間違いなく届けてください。あなた自身で必要と判断したなら別途その命令に従うようにも書き加えておきます」
「個人的には認めたくないが、家の身内が追討に出ていたのに私に援助要請しないのは、ヴィンスに部隊の失踪に関して嫌疑がかかっているためか。そこの武官の身なりも気になるけど、問題はやっぱり場所かな」
「――頭がいいやつがいると、話が早く進むから楽でいいぜ」
エリアーナの頭は煮え立っていて、三人分の声が全部上滑りして聞こえた。三人の会話の内容や、端々にちらつく含みを理解できるのに、それが胸の内まで入ってこない。
「仔細はそちらの武官が?」
「こいつも追討部隊の一員だった。役目は斥候だ」
「……なんでここに戻ってきてる? 斥候って、異変があれば先に察知し、本隊に知らせるのが仕事だろう?」
「……もっ、申し上げます!」
サラの懐疑の視線を受けたぼろぼろの武官が、崩折れるように両膝をついた。それまで片腕を掴んでいた将軍が手を離すと、まるで人形のようにだらりと垂れ下がり、その勢いで頭から床にのめり込みそうなくらい項垂れた。
「わ、私と他の二名が物見に出た後に――背後から、本陣の方から鬨の声が聞こえ。慌てて引き返しましたが、敵兵に出くわして追い立てられるうちに本隊と逸れ、ふ、二人とも、逸れ、私だけは、私だけは助けを呼ばなければと」
「一昨日に二つ先の北砦の警戒範囲内でこいつを拾った。その時点で既に襲撃から五日は経ってる」
「――どうか!どうか、陛下!!隊長をお助けください!!」
「てめえは必要なこと以外黙ってろ!!」
将軍が押さえつけようとした手を掻い潜るように武官ががばりと顔を上げて、痩せて落ち窪んだ眼でエリアーナを見つめた。
悲痛な願い、苦悶の叫び、黒い熱が滲んだ声がわんわんと大広間に響き渡り、落ちた静寂までも染めていくようだった。
誰もがエリアーナを見ていた。
即座に背中から押さえつけられた武官とその頭を床にぶつけるように踏んづけた将軍、エリアーナの肩を掴む手に力を込めたヴィンセントと、庇うように半身を傾けたサラ以外の、全員が、王座に居竦むエリアーナを見ていた。
その中で、エリアーナは呆然とさっきの視線を見つめ返した。ほんの一瞬の前に捉えた、切実な眼差しの奥に、確かに見えた昏い炎。
やっと全てがエリアーナの胸の奥に届いて、そして、全部が粉々になった。
「……そう。レーリオは、七日も前に、殺されたの」
両脇の二人の手が震えた。将軍はいつの間に抜剣したま白い刃を武官の首筋に添え、そこから視線を上げない。突拍子もないエリアーナの発言にぎょっとしているのは、居合わせた他の官吏たちだけだ。目撃者であり証人としての配役。そのための演出だった。政治は苦手だと常日頃嘯いていた将軍にしては手が込んでいる――敵と味方の炙り出し、風評の操作、堅実な課題解決まで目論んだ。
とんだ小芝居だ。
「そんな、陛下!隊長を諦めるとおっしゃるのですか!あなたをこれまでお側で最も長くお守りし続けてきた方を!?」
「将軍、刎ねる前にまだ使えることがあるのでしょう。落として。うるさい」
「――御意」
エリアーナの冷たいとも違うひどく無機質な声に、大広間中がしんと時を止めた。
気絶させた武官をさっと手持ちの縄で拘束した将軍は、そのまま傍らに跪いた。次の命を待つために。
エリアーナが応じて口を開く前に、サラが腕を引っ張った。
「まだだ。陛下、まだ、決まってない。あいつはしぶとい、君に会うためにひょっこり戻ってくる」
「どうせ約束の日にちを忘れてるんでしょう。なんだかんだ抜けてる男です。すぐ連れ戻しますよ」
世界から覆い隠すようにエリアーナの顔を覗き込んでくる二人に、エリアーナは微笑んだ。口角がうまく上がらなくて歪になっていたことだろう、それを見た二人の顔がくしゃりと歪んだ。
エリアーナの心に、天啓のように閃くというよりは熟れた果実のように落ちてきた答えは、エリアーナより遥かに賢い二人でさえ得られなかったものらしい。けれど、反射的に理解してしまったはずだ。納得できてしまったはずだ。
だってエリアーナの「間違い」に、なぜと問うて来ないのだ。
「そうね。連れ戻さなきゃ。死体だけでも返してもらわないと、だって、あたし、もらったんだもの」
レーリオの人生をもらったのはエリアーナなのだ。命も、体も、なにもかもを、エリアーナに捧げた。だからエリアーナも同じように捧げる、そういう約束だった。
命が絶えたところでなんだというのだろう。
断じて他者の手に渡らせてやるものか。
ヴィンセントは、エリアーナに求婚していたという周知の事実によって、誰よりもエリアーナの側近くに侍るレーリオとその部隊の「失踪」について容疑者の一人と目される。身内の軍部を信用できなかった将軍は、それを逆手に取りヴィンセントに捜索の人手を出させた。
ついでにヴィンセント本人は潔白を証すため、王城本宮にその身をおいて、監視付きの謹慎を自主的に受け入れた。とはいえ自家とのやり取りを自粛したくらいで、表向き以外の仕事は普通にやっているし、むしろ鬼気迫る勢いでレーリオたちを襲った者たちの特定を進めていた。その分サラがより忙しなく城の内外を出入りして情報の収集と精査に力を注ぎ、慌ただしい城内に警戒網を張り巡らせた。
エリアーナは。
エリアーナはいつも通りの毎日のように政をし、降って湧いてくる暗殺者相手に全速力の追いかけっこをし、甥姪に縋りつかれながら少し休み、また政務に出かけた。
ヴィンセントが謹慎中で表に立たない分だけ色んな思惑が近づいてはきていたがいつも通り跳ね除けるだけだし、兄姉を全て亡くして王となったエリアーナの風評に傷がついているのも今さらだし、ひたすら槍玉に上げられたところで面倒以外に特に困らされるようなものはなかった。
ただ、失敗したなぁと思う。事あるごとに思い返す。やり返すのは早い方がいいと思っていた。それでもきちんと前準備は整えられたと思っていた。レーリオなら大丈夫だと思っていた。
――どうか、陛下、隊長をお助けください!
油断していた。見えない部分に気づかず、その存在すら意識せずにいた。その闇に、エリアーナを狙った謀略に、レーリオとその部隊はまるっと絡め取られたのだ。
レーリオはエリアーナのせいで殺された。エリアーナのせいで死んだ。
吹雪など悪天候や単発的かつ小規模な襲撃の頻発などに阻まれ失踪者の捜索は難航し、ようやく発見の報が黒烏の城にもたらされたのは、それから半月は後のことだった。
案の定、死体だった。しかもレーリオだけではなく、失踪したと目されていた部隊の者たち、全員だ。死体を白い布で覆い隠していたのを一気に取っ払ったように、雪原に忽然と現れたような光景だったという。
「陛下。ちょっと出てくるよ。連れ帰ってくる」
エリアーナは城を飛び出していったサラを引き止める間もなく、ただ王座からその後ろ姿を見送った。
発見されてから死体の腐敗が進んだとかで、結局サラが持って帰ってきたのは遺髪と折れた刀身と鞘だけだった。残りは他の死体と共に、身元の確認と遺品の収集後に王都の外で荼毘にふされたという。
いつその煙が上がったのか、エリアーナは城の奥の王座にいたので知らない。
サラが無言で差し出してきた遺品をどうしたのかも、覚えていない。なにかヴィンセントに言ったような気がするし、言われた気もする。
その日の残りの仕事をどう片付けたかも、いつ日が沈んだのかも、いつ後宮に帰ったのかも。
――全部、覚えていない。
「あ、叔母上、おか……」
「まってにいさま!いっしょにいうの!」
マリエットがアーネストと繋いだ手をぶんぶん振ってなにか駄々を捏ねている。アーネストはちょっとムッとしていたが、そのままエリアーナのもとまで手を繋いだまま仲良くとてとて近寄ってきた。
顔を見交わし、せーのと声を合わせて、二人の声が弾けた。
「おかえりなさい!」
エリアーナは、あ、と思った。
そういえばさっき、サラにおかえりなさいと言いそびれた気がする。
絶句してただ瞬いている間にじわじわと視界が潤みはじめ、すぐさま大粒の雫が生まれてぼろぼろと頬を伝い落ちていった。
「お、叔母上!?」
「ないてるー!?」
ぎょっとしてしがみついてきた二人を力の限りで抱き返した。喉の奥で息がつかえている。引き絞られるように胸が苦しくて、えづくだけで痛くて痛くて堪らなかった。次兄の剣に腕を貫かれたときだってこんなに痛くはなかった。心臓を粉々に砕かれすり潰されていくような、こんな、痛み――今さらでしかない。
いつもエリアーナはレーリオに教えられてやっと自分の気持ちに気づくのに、レーリオがいなくなったとたん、このザマだった。
――遅くなってごめん。待たせたね、ぼくの姫様。
(そうだ、あたし、ずっと、待ってたんだ)
待っていた。王女の頃に会えなくなって再会するまで五年。なんとも思ってなかったわけじゃなかったのだと、今さら気づいた。この二ヶ月もあの頃と似たような気持ちでいたから、やっと気づけた。
いつか会えるなら、その「いつか」まで城でのんびり待てばいい。だから慌てなかったし、誰かに消息を尋ねたりもせず、いつも通りの――時勢に流されるままの毎日を送った、五年間。
そしてこの二ヶ月。
『エリーにはぜひ城の外の世界を見てもらいたいんだぁ。ぼく、この歳にしてはあちこち渡り歩いてるからね。色々、見せたい景色がある。とても楽しいよ』
「――ぁ」
語られた未来を当たり前のように抱きしめて、今日、今この時まで、レーリオがこの城に帰ってくるのを待っていた。
からっぽの約束を大事に抱えていたなんて、なんて馬鹿らしく、愚かしい。
「あ、っぁあ」
嗚咽に溺れそうに喘ぐエリアーナの両肩に、驚き困惑する子どもたちが顎を載せて必死に取りすがっている。いや、縋り付いているのはエリアーナの方だ。
エリアーナが殺されてはやらない理由。王である意味。城に縛りつける楔。
おばうえ、おばさま。震える拙い声は涙で湿っていた。泣かせてしまった、と心のどこかで思う。一緒に泣いてくれるの、と別のところで思う。小さく柔らかい体がぎゅうぎゅうに押し付けられ、頬に熱い肌がすり寄ってくる。
けれど、どうしても背中が寒いのだ。
レーリオはもう帰ってこない。
二度と会えない。
死ぬとは、そういうことだった。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!」
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