月の騎士と誘蛾灯 子爵の婿取り事情

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喧嘩

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 子爵邸全体が震え立つような、凄まじい音が鳴り渡った。
 壁に激突したカルロスは、痛みに悶える暇も惜しく、レオンの追撃を躱して床を転がり、跳ね起きた。しばらく怠けていた体は、ひと月欠かさなかった鍛錬のお陰で勘を取り戻す程度にはなっている。結局、なんだかんだと気づけばレオンと一緒の時間を鍛錬に費やしたこともあり、レオンの動きに目が慣れていたのも幸いした。
 レオンは剣を持っているが、鞘から抜くことはしなかった。それでも体重の乗った突きは下手をしたら相手を殺しかねない勢いでカルロスに襲いかかってくる。丸腰のカルロスは紙一重で躱しながら反撃の機会を窺った。

「カルロスさま!子爵どの!失礼します!」

 部屋の外に待機していたセレスが、分厚い扉の奥の騒音に我慢ならないという風に飛び込んできたとき、カルロスはちょうどその扉の前まで転がっていた。

「な……!?」
「セレス、剣を貸せ」
「は!?」

 カルロスは貴族子弟とは思えぬ手癖の悪さで、棒立ちのセレスの腰から剣を鞘ごとふんだくった。その間にも、レオンも乱入者があったとて手を引くつもりはさらさらなく、目にも止まらぬ速さで突っ込んできた。カルロスはとっさに身構えたセレスを押しのけたが、その分対処が遅れて剣の衝撃をいなしきれなかった。廊下に叩き出されながらレオンの剣の軌道を追い、今度は上へと弾き上げた。

「!」

 すかさずしかけた膝への蹴りを、レオンは飛び退いて躱す。
 やっとまともに立ち上がったカルロスは、剣を正眼に構えた。レオンもゆっくりと剣を構え直している。

 先に踏み込んだのはレオンだった。レオンの剣は一般の規格より少しだけ軽く細く作られている。男よりも力が弱い分、素早く動けるよう。剣閃の鋭さは打ち込みの弱さを凌駕する。第一、急所を跳ね切れば力の強弱など関係ない。レオンの剣はそういう冷酷さが際立っていた。
 しかもこの場では、刃を抜かないだけで、他は一切の容赦がない。カルロスはセレスの剣で手数の多さをなんとか捌いていった。十をいなして一の反撃を狙うが、時々は腕や肩を打たれた。それでも剣は取り落とさず、目も離さない。カルロスの狙い目は腕と肩と膝から下、それから剣だ。しかし派手に転ばすことは厳禁。胴体を狙えば格段に戦況がましになるはずだが、カルロスはあえて避けていた。
 広々とした廊下を目まぐるしく動き回り、剣の唸りを上げさせ、時には壁や床が軋み、調度品が宙を舞う。
 何度目かでやっと、カルロスはレオンの剣を剣で絡め取った。同時にここぞと深く間合いに入り込み、レオンの剣を持った腕まで巻き取り、片手でレオンの背中を掴んだ。床に押さえつけさえすれば、体格も力も上のカルロスの勝ちだ。だが、レオンもそんなことはわかっている。
 伸びきったレオンの手があっさりと剣を手放したことに、カルロスは気づかなかった。

「うおっ!?」

 カルロスは不意に後ろ側から引っ張られた。後ろ襟を掴まれているとわかった直後、ぐんと人一人分の重みがかかった。レオンはカルロスの上半身を抱きしめるように両腕を回した状態で、床を蹴っていた。
 カルロスの上体は前後に大きく揺さぶられ、最後はレオンの全体重と振り子のような勢いに負けた。

「……くっ!」

 顔面から床に叩きつけられるところを、カルロスは無理やり身をよじって肩から着地した。勢いを流すようにそのまま床を転がっていく。
 レオンもまた、巻き込まれる寸前で自分から手を離したのとカルロスに突き飛ばされたのとで逆方向に床を転がっているが、こちらはすぐに起き上がった。己の剣を拾い、まだ起き上がれないカルロスに、蹌踉とした足取りで近づいていった。肩で息をついている。
 カルロスは無理な動きをした反動で、体がまともに動かなかった。特に床に打ち付けた肩から下は痺れて剣も握れない。今さら全身から汗が吹き出てくる。
 浜に打ち上げられた魚のようにもがいて、なんとか仰向けになったカルロスの顔に、影がさした。レオンがすぐ側でカルロスを見下ろしている。カルロスの片足を。
 レオンの剣が静かに振り上げられた。
 カルロスは思わず笑っていた。笑うしかなかった。
 なんで足だよ?

(腕を折るほうがよっぽど楽だろ?)

 そう軽口を叩こうとした瞬間、知らない高い声が廊下中に響き渡った。

「レオノーラ!」

 レオンの剣が中途半端に持ち上げられたまま止まった。ほぼ同時にカルロスは叫んでいた。

「セレス!」

 制止はなんとか間に合った。セレスは鞘付きの短剣の軌道を変え、レオンの剣を打ち据え、反対の手でそれを奪い取った。
 そのまま豹のような身のこなしでレオンとカルロスの間に割り入って跪いた。

「――申し訳ありません、子爵。甘んじて処罰は受けます」

 セレスの背中に遮られて、カルロスからはレオンの様子が見えなくなった。しかし重いドレスを捌いて駆け寄る足音は耳元によく響いた。

「レオン!怪我はない!?」

 若い、溌剌とした娘の声だ。レオンがふうと息を吐く音が聞こえた。

「……メルフィナ、君はまた無理やり押し入ってきたな?報せも届いていないぞ」
「お手紙を出している暇なんてあるものですか!だけどその前に、あなたたち!見ているのなら早くこの悪漢たちを取り押さえなさい!」
「悪漢ではなく、私の夫とその従者だ」

 カルロスはだいぶん呼吸が整ってきてから気づいたが、廊下の奥にちらほらと人影が見えていた。アルハイド邸の使用人だけではなく、警備の騎士たちや訪問中の親戚やカルロスの恋敵の顔まで見える。

(あーあ、やっちまった)

 本職の騎士相手とはいえ女に負けた。しかも婚約者だ。カルロス個人の噛みしめる悔しさはともかく、人前に晒していい醜態ではないが、いかんせん、いまだに体が動かない。このまま地中にまで沈んでいきそうなくらいだ。せめて声だけでも、と口を開いたが、喉がからからに干上がっていた上に、息切れでまともな言葉も出そうにない。
 呼吸を整えることに集中していると、だんだんと意識が遠のきはじめた。……気絶もいいかもしれない。どうせもう喧嘩はしまいだ。レオンが剣を止めたのはそういうこと。

(夫婦喧嘩は、まだ結婚してないからないな。じゃあこれは、痴話喧嘩か……)

 痴話喧嘩にしては暴力性がありまくりだったが、痴話喧嘩ということにして収めておこう。
 耳障りなほどの甲高い詰問声やら動き始めた人々の足音やら、セレスのかけてくる声やらが、柔らかい膜を隔てた向こう側にある気がした。いや、痛みも痺れも置き去りにして、カルロス一人が水の中に沈み込んでいくような、そんな感覚だった。
 カルロスは抵抗なく目を閉じた。深く深く……誰にも触れない奥深く、空漠たる孤独の水底へと潜っていった。
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