運はたったの一度で使いきり

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 ぼくは幸運だった。
 言葉も文字も文化も世界も一つも重なることないこの場所で、君に見つけてもらった。
 人はひとりじゃ生きていけないってよく言ったものだ。しかもぼくは生まれてから世界規模の迷子になるまでの十数年間をスッポーンと忘れ去っていて、体よりも先に心が死にそうだった。誰かが与えてくれたぼくの存在理由なまえも思い出せないんだから。
 これが、ほかに人の住んでいない荒野やジャングルならまだよかったかもしれない。でも、文明として栄える「完成した」人混みの中じゃ、ぼくという異分子は水に浮く油のように際立ってしまうんだ。

 この恐怖を君にわかってほしいなんて、思わないけど。でも、君にだけは知っててほしいんだ。君が、呆然と大通りに突っ立つぼくの手を握ってくれたから、ぼくは独りぼっちじゃなくなったんだよ。





☆☆☆




 アルシュレードという名前の大陸のはしっこのはしっこ、さらに猫の額のような小さな都市国家であるこの街は、長い長い歴史を持っている。地図上で近隣の国がどれほど国境線を書き換えてきても、この街だけは傷ひとつなくひとつの形で在り続けてきた。街をぐるりと囲む山と海は天然の要塞として役立っていたし、街を治める領主一族も野心とは無縁で、堅実に、安穏と街を守り続けてきた。しかもこの街、厳しい入国制限が課されている。正規の入国者は毎年二人か三人程度で、街の人が外国と行き来することもほとんどない。ここにこんな国があるって、知ってる人の方が少ないだろう。しかも未開の国家とも思えないほど開放的で、文明的で。
 開放的という言葉は入国制限と矛盾してるように思えるけど、実際、国民性は本当におおらか。大雑把の間違いじゃない?というくらい心が広い。
 ぼくみたいな異世界人がそこら辺にごろごろいるって言ったら、わかってくれる?それが入国制限の理由でもあるんだけど。

 この街は、文字通り異世界から迷い込む人たちが本当に多いらしい。平均で五年に三人。街という広さに五年で三人。言葉も文字も通じないぼくらのために、領主さまは保護する機関まで作ったし、この世界に馴染むための教育まで与えてくれた。他にも異世界人――この街では親しみを込めて「来訪者」と呼ぶ――のための法律や政策が十個以上もあって、来訪者にそれをきちんと教えてくれるのだ。
 そのひとつに、「監護人制度」というものがある。一定の基準を設けて、街生まれの人と来訪者を共同生活させる制度。来訪者が早く街での生活に馴染めるように、日々の暮らしから学ぶ機会なのだ。

「監護人じゃなくて家族制度って方がいいと思う」

 うん、まあね。ぼくもその制度のお陰で、見知らぬ土地で心から安らぐ場所を得ることができたし、監護人一家は第二の家族って呼べるくらい大好きなんだけどさ。

「ティシャ、書いてるところ、覗き見、しないで」
「マウルがこんなところで延々と集中してるのが悪い。もうお昼だよ。お弁当持ってきた」

  その監護人一家の一人娘、ティシャの手元の籠から漂う匂いに、ぼくの胃袋が口より早く敗北を宣言した。恥ずかしい。ティシャは「一緒に食べよう」と言ってちょこんと隣に座って、籠を長テーブルの上に載せた。ぼくは黙って紙を束ねて端に寄せ、文房具も仕舞った。

「学校に、ごめんね」
「どのみち今日はユーリャンに呼ばれてたから、学校に来ないといけなかったの。気にしないで」

 ティシャはあんまり表情が変わらない。普段からなにかに怒ってるような無表情で、淡々と言葉を操る。ティシャを怖がる子は多いけど、ぼくはティシャがとても優しい子だって知っていた。異世界から来たばかりで、間抜けに街中に突っ立っていたぼくを来訪者保護機関ラムゼースまで連れていってくれて、監護人にも率先して立候補してくれた。名前を思い出せないぼくに新しい呼び名もくれた。ぼくにこの世界の文字と言葉を教えてくれたし、ぼくの元いた世界の文字を覚えてもくれた。
 異世界といってもみんなばらばらな出身じゃなくて、高い頻度で同じところからやってくる来訪者なんだけど、ぼくだけは、過去を遡っても同じ故郷の人はいなかった。ラムゼースには異世界さまざまな言語の書物が置いてあって、来訪当日にそれを確認済み。ティシャはそこで絶望したぼくのために、文字を覚えてくれたのだ。まだたったの十歳の女の子、出会ったときは八歳。とてもできることじゃない。

「ありがとう」

 一年半で、覚えた感謝の言葉だけはさらりと言えるようになった。感情をぎゅっと込めた一言に、ティシャはわずかに口角を持ち上げて頷いてくれた。
 そんなティシャが大激怒するようなことが起きた。

 学校は来訪者と街の人双方で必要な人に開かれている施設だ。ティシャは今日は休みで、ぼくは授業を受けた後に居残って書き物をしていた。周りは子どもたちばかりなのに推定十八歳のぼく(生年月日も覚えてない)が混じってるのはいたたまれないものがあったけど、もう慣れてきた。自分の物覚えがこんなに悪かったことに衝撃を受けたのも前のこと。今は食らいつくのに必死な毎日で、あと二年のうちに自立できるのか本当に不安だ。
 ちなみにユーリャンとはティシャに次ぐ恩人で、ラムゼースで働く、戦うお役人だ。ぼくの担当官として時々様子を見に来てくれるし、時々学校に頼まれては運動を教えてくれたりもしている。
 そのユーリャンが「護身術の試験」のためにティシャを呼んだらしい。
 賢くて運動もできるティシャは、時々特別授業を受けている。

「ぼく、見たい」
「記録の続きをしなくていいの?」
「帰ってから、する。邪魔?」
「ううん。それなら、終わったら一緒に帰ろうね。お母さんにおつかいも頼まれてるの」
「うん」

 護身術の試験ってどんなのだろうとちょっとワクワクしながら二人で食べて、いざ学校の裏手にある空き地に行った。

「ああ!お前!なんでここにいるんだよ!」
「えっと……どうしてここに来た、ってことで合ってる?見学」
「うるさい」
「おう、もっと言ってやれティシャ。マウル、なんかある……様子じゃないな。好きに見学してけ」

 ティシャと歳の近い男の子は二人にズバンと切り捨てられていた。ユーリャンの歳の離れた弟っていうこの子は怒りっぽいし、すぐ早口になってしまうので、聞き取るのが大変だったりする。あと、なんかぼくだけ異様に嫌われてる。聞き直したり確認したりするのが勘に障るのかもしれない。ぼくも早くここの言葉に馴染まないと、とは思ってるんだけど……。

「お前は帰っとけ。おれは仕事でここに来てるんだ。終わったら久しぶりに稽古してやるよ。ティシャ、体はほぐしたか」
「うん、いつでも大丈夫」
「ティシャだけならなんでこいつまで!」
「マウルは見学だっつってもお前みたいにうるさくないんだよ」

 男の子が真っ赤になった。
 反省したそばから聞き逃してしまったけどこれどんな状況、と慌てていたら、びしっと指を差された。

「この脱落者が!兄ちゃんにもティシャにも近寄んな!!」

 またまた早口なことに加えて、聞いたことのない言葉も聞こえた。ごめん、もう一回言って、と言おうとした次の瞬間だった。

 男の子がぶっ飛ばされた。

 横殴りにすっ飛んでごろごろと地面を転がっていく。ティシャがずんずんと足を鳴らしてそれを追いかけた。なにか言ってる、けどいつもはゆっくりはっきりしたティシャの言葉が早口と囁き声のせいで聞こえない。近付こうとしたらユーリャンに止められた。というかあっちを止めないの?

「おれの弟がすまない」
「……ええと、なにが?」
「聞こえなかったのか?それならそれでいい。お前って完全無防備だから、ティシャの心配もよくわかるな」
「……?」
「おれの弟をぶん殴ったのはティシャの意志で、お前のせいじゃない。そこだけ、覚えておいてくれ」
「わかった」
「素直だなあ本当に」

 雑に頭を撫でられた。ユーリャンが弟さんの心配をしてないなら、多分、大丈夫ってことなんだろうな。仕方ないっていう顔をしているから、ティシャを叱るつもりもないんだろう。ほっとしていると、男の子がどこかへ走り去っていた。ユーリャンが「後で地獄を見せてやる」ってその背中に声をかけてるけど……まあ、つまり、ユーリャンでさえも心配より怒りが勝るようなことを、あの子は言ってしまったらしい。しかもユーリャンの口振りからすれば、ぼくのせいではなくとも、ぼくのために怒ってくれた。ティシャはとても優しい子で、手を上げるのを見たことはこれまでなかったのに。
 ぼくに背中を向けたままその場に突っ立つティシャの、ずっと握られたままの拳を拾って、両手で撫でて揉んだ。顔を覗き込もうとしたら避けられたので、とりあえずもみもみを続ける。握力が緩んできたので手を繋いだ。初めて会ったときはティシャが引いてくれた手を、ぼくが引く。ユーリャンのところへ向かうと、とぼとぼとした足取りでついてきた。

「ティシャ、落ち込むなら自分を律することを覚えろ。お前は歳に比べたら冷静な方だが、まだ未熟だ。その未熟に流されて力を奮うんじゃない。痛がるのはお前で、お前が守ろうとするものだ」
「……うん」
「あのクソガキにはおれがみっちり説教する。試験は中止だ」

 ユーリャンはわしわしとティシャの頭を撫でて、ついでにぼくの頭も撫でていった。ユーリャンってこういうところがかっこいいんだよね。











 でも、悲しいほどにぼくにはそういった才能がないらしい。かけっこじゃ全力を出してもティシャに負ける。柔軟性はまだ余地があるけれども筋力他は子ども並みかそれ以下。ついでに気性としても向いてない。ティシャに内緒でユーリャンに見てもらったんだけど、遠回しにやんわりと真綿でくるむように「諦めろ」と言われて諦めた。ぼくはユーリャンのようにはなれないらしい。泣きたくなったのは秘密だ。

「お前は細かい作業に向いてるよ。辛抱強いし、字も丁寧だってことは仕事も丁寧にこなすだろ。そろそろ職業体験に行ってみたらどうだ?」
「うーん」

 来訪者は本来なら三年間、この街に馴染む期間として大目に見てもらえる。けれどもぼくの場合は記憶喪失と新規異世界来訪者という特殊な例としてさらに一年の猶予をもらっていた。その間に独り立ちの準備をしていく、その一環だとユーリャンは勘違いしているようだった。いや、完全な間違いじゃないんだけど。男同士の内緒話ってことで、ちょっとだけ事情を説明した。ユーリャンは呆れと面白さが半々になった顔で頭を撫でてきた。

「お前はなあ、義理堅いんだよなあ」

 義理堅いって。人として当然のことだと思う。ぼくのせいで恩人が落ち込むのも怒るのも嫌だ。痛い思いもさせたくない。それがおかしいなんてことはないはずだ。

 おかしくなんて、ない。

「マウル!」

 恩人がぼくの腕の中で元気に叫んだ。やったあ、と笑ったら、口の端から血がこぼれでた。慌てて閉じて飲み込もうとするけど、あまりに鉄臭いものが大量に込み上げてきて、もごもごすることになった。恩人の顔に吐きかけるのだけは駄目。
 ああほら、暴れちゃ駄目だよティシャ。まだ危ないから。ティシャと一緒に雪の上に膝をつく。火事場の馬鹿力って言うんだろうか、暴れるティシャを押し倒すことに成功した。ごめんね、背中が冷たいだろうけど我慢してね。その分、傷からは守るから。頭を抱き込んで背中を丸めて、ティシャの髪にかからないように雪に血をこぼす。柔らかくて温かくて力強い体に触れているのはとても心地よかった。時々眠れない夜中に一緒に寝てくれるティシャから漂うユラネの匂いは、今は鉄錆びたものに取って変わっている。それだけが残念だった。

「いや!離して、マウル!」

 やめて、暴れないで。後ろはどうなったんだろう。そろそろユーリャンたちが駆けつけていてもおかしくないけど。

「くそ、こいつ!毒か何か仕込んでやがったな!?」
「おい医者を呼べ!いや、領主さまのところへ運べ!今ちょうど客が来てたはずだ!」
「マウル、ティシャを離せ、もう大丈夫だから……!」
「ユーリャン!マウルが死んじゃう!マウル!マウル!」

 泣かないでよティシャ。















「君が泣かせたんですよ」

 領主さまの館に数日滞在しているというお客さまはそう言って、不思議な力でぼくの体を癒した。それでも一気にとは言わず、ぼくは数日生死をさ迷ったらしい。お客さまはそんなぼくと同じくらい死にそうな顔色をしているのに、病気じゃないという。死にそうなほど心が疲れきっていて、それを癒しながらの旅をしているときに連れと海を北上していたら難破して、この街にたどり着いたのだそうだ。私たちが旅立つ直前で君は運がよかったんですよ、とちょっと厳しめに言われた。
 本当にそうなのかな、と思った。それが顔に出ていたらしくて、その人はやるせないような顔をした。

「そんなに死にたかったんですか?」

 いいえ、ともはい、とも言えなかった。
 この世界に来てから、眠れない夜を何度も越した。自分の存在が闇に溶けてしまうような虚脱感と焦燥感と恐怖に襲われる夜。ぼくが今していることってなんなんだろう。どうして息をしているのだろう。足からゆっくりと全身が砂に埋もれるように存在が消えていく幻に、何度胸をかきむしったことだろう。
 生きているのに夢を見ているようなこの気持ちを、どう表したらいいのだろう。

「訂正します。運がよかったのではなく、そうあるべきだったのです」

 むにっと両頬がつままれた。晴れ渡った海のような青い瞳がぼくの間抜けな顔を映している。

「私が君を治癒したのは必然でしたし、私の連れがあなたを冒す毒を打ち消すことができたのも必然。決められたことでした。ですから君は生きなくてはならないのです」
「……この場所で?誰も、ぼくを、ぼくよりも知らないのに?」
「そうです」

 迷いなくはっきりと断言されて、なあんだ、と思った。ぼく、ここで生きてて、いいんだな。
 ぽろっと涙がこぼれてしまってびっくりしていると、お客さまがタオルを差し出してくれた。

「女を泣くほど怒らせたんだから、覚悟しとけよ、ガキ」
「おや、盗み聞きしてたんですか」
「……ガキじゃないです。もう十九歳です。多分」

 忽然と現れた青い瞳のお客さまのお連れさまにぼそっと抗議すると、はんと鼻で笑われた。

「自分の価値を自分で決めきれない奴はガキで充分だ。そいつも偉そうにお前に講釈つけてたが、こっちは六歳児くらいだ。お前は何歳だかな」
「ちょっと待ちなさい。なんですか六歳児って!」
「うるさい、騒ぐな」
「あなたの発言のせいでしょうが!」

 ぎゃいぎゃい騒ぐ二人は死人一歩手前の顔色でお揃いだったけど、かといって死にそうな雰囲気じゃなかった。二人とも、こんなに疲れながらも、よたよたと生きてる。
 泣いたあとは笑いが込み上げてきた。こんな風になっても生きていけるんだなって、なんとなく、安心して。部屋に殴り込む勢いで駆け込んできた領主さまの息子さまに「怪我人のすぐそばでうるさいんですよ!!」って正座で叱られていたのも笑いを誘った。もうどこも痛くないので、思う存分笑い転げた。

 最後にはぼくまで息子さまに正座で「怪我人がそんなに笑うんじゃありません!」ってお説教されちゃったけど。


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