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クルガ編
じう
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それからの三日間、ウミの両足首に、獣の爪を連ねた飾りが嵌められるようになった。刻んだ文様でウミの足から爪に呪いを移すらしい。
応急措置に使った方の爪は、一度外すと炭のように黒い砂になった。
神は当然人間より強大で、偉大で、畏怖と畏敬を払わずにはいられぬ絶対的な存在だ。一部の例外除く。氏族ごとに仰ぐ神はそれぞれだが、共通して主神には太陽に住まい日の下を照らすものを祀り上げる。流民の呪いはその太陽の神がかけたものらしいが、呪いを食い止めた代償がちっぽけな獣の爪の炭化だけで済んだことに、ウミが絶句していた。
飾りにした爪も一日で黒ずみはじめ、三日目には余すところなく真っ黒になった。アルザの描き込んだ文様が、反対に不思議と白く浮かび上がっていた。そして――。
「足が、元の肌色に戻ったな」
アルザが「移し完了」と飾りを回収すると、すかさずウミは足を衣の下に隠した。まじまじ見つめてしまったのが悪かったかもしれない。ここ三日、淡々とした無表情が崩れやすくなっているウミは、謝ると顔を逸らして答えた。「いいえ」。もじもじと足を擦り合わせても、呪具同士がぶつかり合って音を鳴らすことはもうない。同時に、痛みもなさそうだ。
「おいアルザ。今さらだが、後から呪いが這い戻ってきたりしないだろうな?」
「返すのに失敗したらそうなるかもしれないけど、まずありえないね。おれが中途半端な仕事するわけないだろ?」
「その意気込みを本業に見せたら文句はない」
ウミを見ると、ほっとしたような、まだ安心しきれないような、曖昧な表情で足を擦っていた。
呪いが防がれたとしても、刻みつけられた恐怖は簡単に消せやしない。ミルカに身支度を手伝わせたあの夜、アルザが黒い砂を回収して足に飾りをつけて帰ってから、ウミはうまく眠りにつけなくなった。死ぬほど痛いと言う、そんな痛みがいつ再来するか、怖いのだろう。
ウミが寝返りするたびに、両足首でさらさらと音が鳴る。なんとなく別の布団で横になりながら、その音に耳を傾けた。けれどもいつまで経っても鳴り止まないので、窓から夜間の散歩に連れ出した。飾りはあまりゆとりがなく、靴を履きにくそうだったので、上掛けでまた足をぐるぐる巻きにして、おれが片手で担いだ。ネラに匙を求めたときのように。
ウミは無言だったし、おれも会話を求めたりしなかった。泣く子どもをあやすように時々背を叩きながら雪を踏み、ぬかるんだ部分を跨ぎ、夜の集落をそぞろ歩く。澄明な夜空には傾いた十六夜月が引っかけられていた。
悄然と黙りこくっていたウミは、冷気で鼻や頬を赤くしながらも、単調な揺れにこっくり舟を漕ぎはじめ、気づけば寝入っていた。三日間、同じようにしてウミは眠った。
寝たら部屋に戻って布団にしまい込んだが、おれの方も、なんでか眠りが浅かった。飢える一歩手前で走り回っていたところでウミが来て、徹夜した後の三日間だ。眠れるものなら眠りたかったが、嫌な夢を見ては目覚めるほど浅いものだった。
『――お兄ちゃん、どうしよう……』
嫌な夢も三日連続だ。起きたら胸糞悪い余韻が残るとわかっていながら、見ないでいることができなかった。呪いと神罰と、ウミの世話を頼んだミルカの表情と、それから、……あの声を聞いたせい。
『……私を産んで、産褥も明けきらぬうちに、放浪に戻ったそうです』
顔も声も覚えていないのに、自分に大切なはずの人だとなぜかわかっていて。それなのに置いていかれたことを、呑み込もうとして受け止めきれず、溢れたような声だった。
『お兄ちゃん。どうしよう。なにか忘れてるの、だけど思い出せない。どうしよう、お兄ちゃん。怖いよ……』
夢の中で、アルザは呪術師に証を砕かれ連れ攫われ、氏族はアルザの名と記憶を奪われ、ミルカが心の虚を見つけて泣きじゃくる。夢ならではで、記憶と違って、少し離れたところでウミがぽつんとしていた。どこかを呆然と見ていた。探しに行きたいのに、誰を探しに、どこへ行けばいいかもわからないのだった。
アルザがネラに笑いかけた。ネラは最も仲のいい遊び相手だった兄の顔も名前も覚えておらず、他人を見る目で別の名を呼ぶ。アルー。はじめまして。
アルザは半年前まで毎日そうしたように、ネラの頭を柔らかくかき混ぜた。
『はじめまして、ネラ』
アルザと本当の名を呼ぶのは、記憶を持ったままでいるのは、血の繋がった家族ではなく、心を通わせた少女ではなく、幼なじみというだけの、ただの一人だけ。
アルザが帰ってきても、失われたものは、何一つとして元には戻らなかった。
……いつも、そんな浅い眠りから覚めては、まだまだ真っ暗な天井を見上げて舌打ちする。
だから神なんて大っ嫌いなんだ。
*
おれが眠れなかったように、ミルカも寝不足らしかった。おれは日中、族長として仕事がある。代わりに、アルザには医師としてウミの側になるべく控えさせたので、ミルカも時々それに付き合わせることにした。
ウミに渡しそびれた木の実を差し出したら、案の定面倒くさそうな顔だった。けれども日中もなるべく寝ないで済むならその方がいいと思い直したようで、空の椀に殻を割って中身をあけてやると、小さな粒を黙々と箸で挟みはじめた。
ミルカから話を聞くと、ミルカが様子を見に来た時には、椀と箸は隠すらしい。アルザだけの時は練習に励むらしいが、ミルカといれば二人揃って昼寝して時間を潰すとか。使い方は上達してきたようだが、おれと朝夕の膳を食うときは、必ず付いている匙を使う。まかない人はウミを気遣って、匙で食える料理しか作らなくなったので、支障はない。
そんな風に、さざ波にのんびり揺らされるように続いた三日間だった。
合間に、流民に神罰があった訳も、アルザに聞いた。妙に詳しいのは、呪術師に攫われた時に出くわしたことがあったからだという。
戦乱を求めた外れ者たちは、あらゆる氏族の守り神から拒絶された。その拒絶は太陽に住む祖神を動かした。我が子らへの愛情を知るゆえに残酷な神は、気軽に采配を振るった。
――罪には罰を与えよう。
守り神共の拒絶に応じ、土地に居付くことを禁じた。いつまでもどこまでも歩かせるため、足を止めさせる病などに罹らぬように頑健さを与えた。
死ぬのは歩を止めた時。永遠に世界をさまよい、それができなくなれば、そこまで。太陽の神にとって流民の存在意義はただの一つで、ちょっとでも欠けたらおしまい。
三歳児のおもちゃの人形だって、もっと辛抱強く遊んでくれる。
「おれが見たのは干からびた死体だった。嫁さんと同じように、両足が真っ黒だった。それが、道端に石みたいに転がってんの。埋葬も多分禁忌なんだろうな。墓はなく、弔いもされず、風と雨と日の光を浴びて、朽ちていくだけ」
「……そうなんですか」
ウミは、素っ気ない言葉を吐いたあとは口を閉ざした。それ以上が出てこないように飲み込んだのだとわかった。母が己を置いていった理由を思いやったって、何一つウミの慰めにはなりやしない。
頭を撫でようと手を伸ばすと、ウミは無言で俯いて、頭を差し出してきた。
応急措置に使った方の爪は、一度外すと炭のように黒い砂になった。
神は当然人間より強大で、偉大で、畏怖と畏敬を払わずにはいられぬ絶対的な存在だ。一部の例外除く。氏族ごとに仰ぐ神はそれぞれだが、共通して主神には太陽に住まい日の下を照らすものを祀り上げる。流民の呪いはその太陽の神がかけたものらしいが、呪いを食い止めた代償がちっぽけな獣の爪の炭化だけで済んだことに、ウミが絶句していた。
飾りにした爪も一日で黒ずみはじめ、三日目には余すところなく真っ黒になった。アルザの描き込んだ文様が、反対に不思議と白く浮かび上がっていた。そして――。
「足が、元の肌色に戻ったな」
アルザが「移し完了」と飾りを回収すると、すかさずウミは足を衣の下に隠した。まじまじ見つめてしまったのが悪かったかもしれない。ここ三日、淡々とした無表情が崩れやすくなっているウミは、謝ると顔を逸らして答えた。「いいえ」。もじもじと足を擦り合わせても、呪具同士がぶつかり合って音を鳴らすことはもうない。同時に、痛みもなさそうだ。
「おいアルザ。今さらだが、後から呪いが這い戻ってきたりしないだろうな?」
「返すのに失敗したらそうなるかもしれないけど、まずありえないね。おれが中途半端な仕事するわけないだろ?」
「その意気込みを本業に見せたら文句はない」
ウミを見ると、ほっとしたような、まだ安心しきれないような、曖昧な表情で足を擦っていた。
呪いが防がれたとしても、刻みつけられた恐怖は簡単に消せやしない。ミルカに身支度を手伝わせたあの夜、アルザが黒い砂を回収して足に飾りをつけて帰ってから、ウミはうまく眠りにつけなくなった。死ぬほど痛いと言う、そんな痛みがいつ再来するか、怖いのだろう。
ウミが寝返りするたびに、両足首でさらさらと音が鳴る。なんとなく別の布団で横になりながら、その音に耳を傾けた。けれどもいつまで経っても鳴り止まないので、窓から夜間の散歩に連れ出した。飾りはあまりゆとりがなく、靴を履きにくそうだったので、上掛けでまた足をぐるぐる巻きにして、おれが片手で担いだ。ネラに匙を求めたときのように。
ウミは無言だったし、おれも会話を求めたりしなかった。泣く子どもをあやすように時々背を叩きながら雪を踏み、ぬかるんだ部分を跨ぎ、夜の集落をそぞろ歩く。澄明な夜空には傾いた十六夜月が引っかけられていた。
悄然と黙りこくっていたウミは、冷気で鼻や頬を赤くしながらも、単調な揺れにこっくり舟を漕ぎはじめ、気づけば寝入っていた。三日間、同じようにしてウミは眠った。
寝たら部屋に戻って布団にしまい込んだが、おれの方も、なんでか眠りが浅かった。飢える一歩手前で走り回っていたところでウミが来て、徹夜した後の三日間だ。眠れるものなら眠りたかったが、嫌な夢を見ては目覚めるほど浅いものだった。
『――お兄ちゃん、どうしよう……』
嫌な夢も三日連続だ。起きたら胸糞悪い余韻が残るとわかっていながら、見ないでいることができなかった。呪いと神罰と、ウミの世話を頼んだミルカの表情と、それから、……あの声を聞いたせい。
『……私を産んで、産褥も明けきらぬうちに、放浪に戻ったそうです』
顔も声も覚えていないのに、自分に大切なはずの人だとなぜかわかっていて。それなのに置いていかれたことを、呑み込もうとして受け止めきれず、溢れたような声だった。
『お兄ちゃん。どうしよう。なにか忘れてるの、だけど思い出せない。どうしよう、お兄ちゃん。怖いよ……』
夢の中で、アルザは呪術師に証を砕かれ連れ攫われ、氏族はアルザの名と記憶を奪われ、ミルカが心の虚を見つけて泣きじゃくる。夢ならではで、記憶と違って、少し離れたところでウミがぽつんとしていた。どこかを呆然と見ていた。探しに行きたいのに、誰を探しに、どこへ行けばいいかもわからないのだった。
アルザがネラに笑いかけた。ネラは最も仲のいい遊び相手だった兄の顔も名前も覚えておらず、他人を見る目で別の名を呼ぶ。アルー。はじめまして。
アルザは半年前まで毎日そうしたように、ネラの頭を柔らかくかき混ぜた。
『はじめまして、ネラ』
アルザと本当の名を呼ぶのは、記憶を持ったままでいるのは、血の繋がった家族ではなく、心を通わせた少女ではなく、幼なじみというだけの、ただの一人だけ。
アルザが帰ってきても、失われたものは、何一つとして元には戻らなかった。
……いつも、そんな浅い眠りから覚めては、まだまだ真っ暗な天井を見上げて舌打ちする。
だから神なんて大っ嫌いなんだ。
*
おれが眠れなかったように、ミルカも寝不足らしかった。おれは日中、族長として仕事がある。代わりに、アルザには医師としてウミの側になるべく控えさせたので、ミルカも時々それに付き合わせることにした。
ウミに渡しそびれた木の実を差し出したら、案の定面倒くさそうな顔だった。けれども日中もなるべく寝ないで済むならその方がいいと思い直したようで、空の椀に殻を割って中身をあけてやると、小さな粒を黙々と箸で挟みはじめた。
ミルカから話を聞くと、ミルカが様子を見に来た時には、椀と箸は隠すらしい。アルザだけの時は練習に励むらしいが、ミルカといれば二人揃って昼寝して時間を潰すとか。使い方は上達してきたようだが、おれと朝夕の膳を食うときは、必ず付いている匙を使う。まかない人はウミを気遣って、匙で食える料理しか作らなくなったので、支障はない。
そんな風に、さざ波にのんびり揺らされるように続いた三日間だった。
合間に、流民に神罰があった訳も、アルザに聞いた。妙に詳しいのは、呪術師に攫われた時に出くわしたことがあったからだという。
戦乱を求めた外れ者たちは、あらゆる氏族の守り神から拒絶された。その拒絶は太陽に住む祖神を動かした。我が子らへの愛情を知るゆえに残酷な神は、気軽に采配を振るった。
――罪には罰を与えよう。
守り神共の拒絶に応じ、土地に居付くことを禁じた。いつまでもどこまでも歩かせるため、足を止めさせる病などに罹らぬように頑健さを与えた。
死ぬのは歩を止めた時。永遠に世界をさまよい、それができなくなれば、そこまで。太陽の神にとって流民の存在意義はただの一つで、ちょっとでも欠けたらおしまい。
三歳児のおもちゃの人形だって、もっと辛抱強く遊んでくれる。
「おれが見たのは干からびた死体だった。嫁さんと同じように、両足が真っ黒だった。それが、道端に石みたいに転がってんの。埋葬も多分禁忌なんだろうな。墓はなく、弔いもされず、風と雨と日の光を浴びて、朽ちていくだけ」
「……そうなんですか」
ウミは、素っ気ない言葉を吐いたあとは口を閉ざした。それ以上が出てこないように飲み込んだのだとわかった。母が己を置いていった理由を思いやったって、何一つウミの慰めにはなりやしない。
頭を撫でようと手を伸ばすと、ウミは無言で俯いて、頭を差し出してきた。
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