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一旦立ち止まって振り返る
縁結び
しおりを挟むヘリオス・アルブスとセレネス・アルブスは、兄弟二人で父エドガーの領主補佐として働いている。行政はヘリオス、軍事はセレネスと、掌握に効率よく分担しており、また、それぞれ幼い頃から各分野の現場に名前と身分を偽って放り込まれ、順当に揉まれてきた上での成人到達による補佐就任なので、組織内部の統制はかなり順調にとれていた。そして、それぞれ下っ端時代に独自の人脈をも培っていた。
その珍しい縁の中でも、今自分の目の前にいる少年はかなりの奇縁だ、とセレネスは一人で納得している。
四年ぶりの再会だが、感動もへったくれもない邂逅だった。
以前の――セーレと名乗っていた自分と、現在のセレネスの身分や責任は全く違う。自由を目指して、奴隷同然に働かされていたフリーセアから密入国しようとしていたところに知り合った少年は、貴族や権威――形式虚飾にまつわるものが大嫌いだ。
しかし、少年は同時に、義理堅い性格でもあった。
過去の下っ端兵士の記憶とは似つかぬ恩人に対して察しがいい彼は、顔をひきつらせて全力で逃げ出そうとしたが、掴まえられてからは気が変わったように「四年前の借りを返す」と言い、セレネスが頼んだ街中での見張りの仕事を引き受けてくれていた。
笛を鳴らして襲撃を未然に防いでくれたのは、この少年だった。
ヘリオスに後始末を任せて王子の待つ分邸に向かったセレネスは、身支度を整える短い時間の中で、そんな少年と雑談紛いの仕事の話をしていた。
「でも、何でおれにそんな仕事任せた?アルビオンなら『影』がいるだろ」
知らないうちに、裏社会に多少は詳しくなっていたらしい。まあ、戸籍も家族もないのに成人前の子どもが真っ当な仕事につける方がおかしいので仕方はないが。
「『影』は何でも屋じゃないんだよ」
セレネスは肩をすくめてそれだけを言った。内心では「影」なんて母と弟以外は信用できないと思っている。その所感はヘリオスも同様だ。
そもそも当主以外に扱えない人材を欲しがり、頼る方が無駄だ。
それでも一応公言できないことなので口をつぐんでいると、少年も察したのか、そうか、で済ませている。引き際もいい。
その頭の後ろで、黒く長い髪が尻尾のようにゆうらりと揺れていた。そのさらに後ろには開け放たれた青い空。
少年は二階のこの部屋まで外の壁を登ってきたらしく、窓を開けてやると桟に腰かけてしまったのだ。けして分邸に足を踏み入れないところに、分別が透けて見えた。
特異な身体能力を持ち、目端が利く。またこの線引きのうまさ。
あとは、セーレの正体を知っても目の色を変えず、媚もしない――態度を全く改めないところも、かなり高得点だ。
「むしろ、私としてはお前が欲しいな」
「冗談」
しかし少年は一刀両断した。わずかな躊躇いもなく。
「なぜ?戸籍も衣食住もちゃんと用意する。ヘリオス――兄も、お前なら重用するだろう」
「どれもおれには必要ない。『影』の代わりなら他を探せ」
「金銀財貨も?名誉も?地位も?」
「いらない」
しつこい、と顔が歪められている。短気だ。
「一応うちの兄は次期領主なんだが……」
「――おれが」
少年は冷笑した。それだけでこれまでの朗らかな雰囲気が掻き消える。
空気まで凍りついたように少年の支配下に置かれ、暗く、深く、鋭い双眸がセレネスを射抜く。
セレネスは知らず息を呑んでいた。
こんな目をできるようになったのか――まるで、セレネスの存在の一切を嘲笑うような……。
「おれが、自らお貴族さまの手駒になるとでも?ずいぶんと安く買い叩かれたもんだな」
ぎらりと瞳が激情に染まった。
「覚えとけ、おれは、おれのものだ。死ぬまでな」
何が逆鱗だったのかはわからない。しかしセレネスは息を飲むほどの殺意を感じたし、扉の向こうで待機していた兵士たちにも殺気は届いたはず。扉がいささか乱暴に叩かれた。
「セレネスさま!」
「いかがしましたか!賊が!?」
「いや、待て、入るな――」
一瞬目を逸らした隙に、窓からはあの長い尻尾の軌跡だけを残して少年は消え去っていた。さすがに慌てて窓に走り寄ると、上から声が降ってきた。
あの態勢から跳んで、三階の窓の枠に手をかけてぶら下がっていたようだった。むちゃくちゃな身体能力を目の当たりにして呆気にとられたセレネスに、少年は素知らぬ顔で告げた。
「――報告。あのお坊っちゃんの馬車を別の方向から襲撃しようとしてた連中がいたから、全員のして道端に放置してきた。二十人くらい、西側の細い路地だ」
「待て、ナオ!」
「詳しい事情は知らないし、知りたいとも思わない。ただし、借りはちゃんと返すさ。じゃあな、セーレ」
今度は枠を掴んでいた手をぱっと離した。
少年は真っ逆さまに人気のない庭に激突する――と思われたが、空中で一回転し、足と手で着地していた。そのまま分邸の外を目指して走り去っていく。
ひらりと片手を振ったように見えたのは気のせいか。手を使わず、大人三人分はある塀を軽々と飛び越えていった。
その鮮やかな逃げ足といったらない。
さしものセレネスも呼び止めることなどかなわず、唖然と見送るしかなかった。
「……『借り』は、か」
我慢できずに扉の外で待機していた兵士が二人入ってきて、安全確認と同時にどうしたのかと尋ねられた。
様々与えられた衝撃が冷めやらぬセレネスは、それをごまかすことも億劫に感じた。
深々とため息をついたあと、少し疲れたように笑う。
「なあに……黒猫がじゃれてきたと思ったら、お前たちに驚いて逃げ出したんだ」
「わ、私たちのせいですか?」
「そこじゃないだろう。セレネスさま、先ほどまで人の気配がしていましたが?」
「それこそ気のせいだ、気のせい」
変な顔をしている部下たちを見て気分が落ち着いてきたのか、セレネスはようやくいつもの人を食った笑みを取り戻しはじめた。
「それより、馬鹿共がまだ西の路地にいたらしい。寝てるらしいから、回収して……いや、ヘリオスに連絡」
「別動ということですか?」
「そうだ。警備も改善の余地があるな。その辺りを部隊長と打ち合わせて夜に私に報告に来い」
「はっ」
二人とも、敬礼のあと、ぱっと身を翻して駆け去っていく。
さて、こちらもいい加減王子のところに向かわないと、心配をさせたままなのだ。
気をつけてと言ったあの顔を思い出すと、昔のイオンを思い出す。弟の、強がって強がって一人で抱え込む弱さを、セレネスはヘリオスと一緒に見守ってきた。
(……つくづく年下に弱いのかな、私は)
父が長年ご当主に世話を焼くさまを見てきたせいか。
手元に置きたくなる。甘やかしてしまいたい。
その姉姫はというと、強がっていても漬け込む隙がなく可愛げがないので、ああ、やはり違うんだな、と思った。信用を育もうとする弟王子と違い、あれは全く警戒を解くつもりがないのだ。……ナオがそれに似ているか。
ナオも弱さを晒すことから是としないから、甘やかしようがない。特に四年前はそれがかなりひどく、セレネスも手負いの獣を相手にするように慎重に接したものだ。
(でも、元気そうだったのはよかったな)
手元に置いておきたいのはナオも変わらない。それが駄目なら、あと二日間の仕事でまたさりげなく勧誘して……いや、無理か。ナオは「セーレ」と最後に呼んだ。形式主義を否定した口で、下っ端兵士だったセーレを。
『安く買い叩かれたもんだ』
『借りは返すさ』
雑兵の払った恩義は領主補佐の権威より高くつくらしい。それはセレネスの知らない常識だった。
分邸を後にしたナオは、今日の見張り場所だった時計塔の屋根にあぐらを掻いていた。どの建造物よりも高い塔なので、街もその向こうの田畑や河川、領都ラーウムまで全て一望できる。しかし、もちろん無断侵入だ。セーレに言えば壁を乗り越える真似をせずとも登れただろうが、そこまでするなら登りたくない。
……セーレは、四年会わないうちにずいぶんな出世を果たしていたらしい。かつて自分の脱走を幇助した兵士見習いが、領軍を顎で使う立場になっているとは。
「最近、こんなんばっかな気がするな」
傭兵かと思えば王女にしか仕えない「裏殺し」、謎の男装少女は王女さまの友だちで「赤毛の悪魔」、融通が利く一般兵の正体はまさかの領主子息ときた。
(んで馬車にいたお坊っちゃんは十中八九王子さまだろ)
一番近くに控えていた騎士は、そしたらもう一人の「裏殺し」か。
その騎士だけ、笛を吹いたときにナオがいた時計塔にまで警戒を向けていた。意外にも、近衛騎士だというのにお綺麗ばかりなわけではないらしい。
(そりゃーそうか。王女さまが二人も二つ名飼ってるもんな。王子さまもそんくらいじゃないと……っつーか、足りないよな)
真偽のほどは知らないが、次期国王を争うとかなんとか噂が流れているのを考えると、どこからどう見ても王子さまに勝ち目はない。「深窓の令嬢」とかそもそもの女という弱味があってすら、王女さまの方が敵が少ないのだ。
あんまり不利すぎて、セーレが気にかけるのもよくわかる。ナオも同じようにして助けられたからわかることだが。
今回も、周りの同族が――あの様子では「影」も含めて敵視しているあの王子さまを、多少の思惑はあれど、なんだかんだで見捨てられないのだろう。
(変わってなくて安心した)
だから領主子息だとわかっても、ナオは彼を手伝っている。
本当なら一昨日出会った段階ですぐに身分がわかって、即座に知らない顔で通り過ぎようと思っていたのだが……あちらから接触を図られたのは誤算だった。
そこで押し付けられた仕事は、いかに王子側にばれずに敵を片付けるかを目標とした作戦の要である哨戒。
一昨日昨日は出番がなかったが、今日は笛を吹くどころかナオまで戦闘に駆り出された。というか戦闘らしき戦闘をしたのはナオばかりだろう。領主軍がむやみに領民を脅かせば、王子を守ろうとするセーレに直接的な批判が殺到する。それが堪える男ではないが、その末に王子を守りづらくなってしまうのは悪手だ。
そんなわけで、馬車の護衛をする軍人も含めて絶対に馬車の団体に領民を近づけてはいけないし、追いかけていた連中について知らせようにも、周りにすぐに動ける兵士がいなかったのだ。
ナオはその中で唯一の部外者であり、セーレに雇われたことさえ明るみにならなければ、いくらでも手出しできる。セーレはそこまで見込んでこの仕事を与えたのだろう。とはいっても相手は元々一般市民だから、大怪我をさせて後で騒がれてもまずいので、とにかく手加減に苦労したものだ。
(報われねーなー)
あぐらの上に頬杖をつき、眼下の広場の様子に耳を澄ませる。あれがセーレの兄だろう、正座している民衆の前で何か切々と諭している。
説教されている民衆のなかに、石や桑、棍棒なんかが足元に転がってる人間の多いこと多いこと。
(こいつら馬っ鹿じゃねーの。王子さまに何かあって責任とるの、誰だと思ってんの)
なぜ煮え湯を飲まされまくったというアルビオン一族だけではなく、直接関係がない民衆までもが王子を憎んでいるのか、そこら辺は知らないしどうでもいいが、やることがくだらなさすぎて笑いすら出てこない。別動出すくらい頭捻るんなら、根本から違うことに気づけよ。
あの兄弟が一番に守ろうとしているのは王子ではない。襲撃に気づかれないようにするのも全て含めて、この領のためなのだ。
(アスガロならハリセンでしばき倒してるぞ、全員)
そしてあの陰険横暴な参謀は言うだろう。「やるなら陰からばれないようにやれ!」と。
悪評でもなんでも、流せば身内が傷つくことなく王子さまの立場が悪くなるだろう。まあ王族に対する噂なので嘘とばれれば死刑だろうが、そこはわざわざ嘘などなくとも、言葉を捻ればどんな善行も悪行にできる。
王子さまに目に見える恥をかかせたいなら、他にも近衛騎士や文官らを誘惑するなりして問題行動を起こさせるとか。監督不行き届きの罰は最高位の王子さまが受けるので、これが一番うまい方法か。いや、他にもまだまだ……。
(おっかしーな。アルビオン領って貴族から平民までみんな腹黒策士だと思ってたんだけど……あー、セーレを一般市民で考えてたからか。そりゃ駄目だわ)
後でいくつかの思い付きをセレネスに話した際、比較的純真に育った彼こそ顔をひきつらせてナオに性格の悪さを指摘するのだが、そんな未来をナオは知らない。
ナオはごろんと屋根に寝転がった。……あと二日。あのヘリオスとやらが説教しているが、どれくらい牽制に繋がるか……。
しかし、四年前の借りを返すのにはうってつけの、やりがいがある任務だ。恩人セーレの首に直結しているし。
この降って湧いた仕事には、一応任務中の宿や報酬が用意されているが、ナオは全て断っていた。
こちらが好きでやっていることで、見返りなんて期待していない。ましてや施しなど真っ平ごめんだ。
「……ちっ。やなこと思い出した」
先ほどの去り際の会話が脳内によみがえり、眉をぎゅうっと寄せた。
かつて、無一文の小僧を見返りなく逃がしたのがセーレだった。その借りを返そうと働いているだけなのに、地位や名誉やなどを寄越そうとか。舐めてるとしか思えない。
欲しがったこともないものを持ち出したことが怒りを呼んだし、何より腹が立ったのは、セーレがナオをそんな浅ましい人間だと考えていたことであり――ナオの感謝の気持ちを買おうとしたことだ。
最後の最後で、裏切られた気持ちだった。
命の恩人だったのだ。小汚なく栄養失調で痩せ細っていたナオにまともな服を与え、少ないお金を渡してくれ、檻から出してくれた。それも、フリーセアへの強制送還ではなく、ジヴェルナに送り出してくれた。
セーレは礼を言うナオに笑って「二度と会うことはないだろうけどね」と返事をした。ナオもそう思ったものの、再会したときには必ず借りを返すことを己に誓ったのだ。
今回手を貸したことについて、断じて、アルビオン領領主補佐セレネス・アルブスに忠誠を誓ったからでも、その身分と権威に目が眩んだからでもない。
平民兵士のセーレ・プスコフへの友情と恩義のためだ。
(仕事が終わったらさっさと離れて、ラーウムに行こう)
そうだ、元はあの「赤毛の悪魔」を探りに来たのだ。あれから、いつも見るばかりだったあの地震の後の喪失の世界ではなく、もっと温かで幸せな夢を見ることが増えたから。レナに尋ねたら彼も同じだという。
二人の間で最近あった夢に関することと言えば、あの少女だけだった。
(「ナツ」とか「ナヅミ」とか)
夢の中で誰かが黒髪の少女をそう呼んでいた。呼ばれて振り向いて笑い、髪を撫でられて笑い、喧嘩して気がすんだらまた笑う。幸せで、幸せで、儚い夢。彼女がどう死んだのか、最後に絶望を見せつけられるところまでがワンセット。とことん最悪だ。
でも……泣くばかりだったあの女の別の表情が見れたことは、嬉しい。
そして、悲しい。
「王女さまは避けて、どうにか接触とって、早く帰らないと……レナにばれたら怒られるからな。連れていけるわけないっつーのに、あいつ拗ねるとしつこいもんな……」
でも王女さまの友だちならアルビオンの「影」なんかも近くにいて、近づけないかもしれない。その時は潔く諦めよう。まだ死にたくない。
一日が勝負だ。知りたいことははいくつかある。あの夢の女と「赤毛の悪魔」は、どんな繋がりを持っているのか。なぜ抱きついてきたのか。なぜナオたちにあんな質問をしたのか。
『ナヅミ……ナツって、知ってる……?』
もし、知っていると答えていたら、あの少女は何を告げるつもりだったのだろう。
☆☆☆
ヴィオレットは落ち着かなげに通された部屋で待っていたが、セレネスが外から帰ってきたことを知らされて立ち上がった。
ティオリアとワルターを除く同行者たちはみな別室で待機している。胡散臭そうにしている人間もいたので、セレネスたちアルビオン勢が、自分の領民の不手際を隠そうとしていることを察しているのだろう。落ち着いて考えてみれば、ヴィオレットにも分かったくらいなのだから。
それを飲み込んでもらうのが、セレネスたち兄弟や彼の配下たちの尽力への最大限の礼だとヴィオレットは考えている。
そしてそのためには、正確な情報の収集と、口裏あわせが必要だった。
「セレネスさま」
「申し訳ありません。大変お待たせしました」
セレネスは部下の開いた扉のそばで優雅に落ち着いた一礼をした。ヴィオレットはそれで頭に熱が昇っていたことを自覚して、しゅんと肩を落とした。
どうにも……最近は感情の振れ幅が大きくて困る。
セレネスは、王子が一人前に自戒している姿を見て、少し表情を綻ばせた。うん、ナオよりよっぽど可愛い。相手がイオンなら、今の時点で構い倒している。絶対にこんなふうに分かりやすく様子を表に出したりしないだろうがそれでも構い倒す。兄とは時に横暴なものである。
「こちらの都合で突然視察の行程を切り上げてしまって、大変申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらず」
「……先に腰を落ち着けましょう、殿下。お茶はいかがですか」
「それなら、ワルター」
「はい」
さっとワルターが茶器を持ち、セレネスの従者が手伝いにいく。椅子に腰かけた二人の後ろにはそれぞれの護衛がついた。
「ほう……」
部屋に漂い始めた芳しい匂いに、セレネスは目を細めた。王子を見ると、少し照れ臭そうに笑っている。可愛い。ここまで来るとヘリオス(=同類)にずるいだのなんだの言われそうだ。
そうして出された紅茶は、やはりアルビオン領では滅多に飲むことがないものだった。従者アスティが気づいて教えてくれた。
「王都で現在流行りのもののようですよ」
「菓子も?」
「そうです」
従者がテーブルに並べたそれらを見て、つくづく自分の人手不足を思い知らされるセレネスだった。
耳も目も足りない。目の前の王子がそわそわして促してくるので両方に口をつけると、心から微笑んだ。
「大変、おいしいです」
「本当ですか。ありがとうございます」
ぱっと花を咲かせたような笑みのあと、またヴィオレットははっと我に返り、しゅんと座り直した。セレネスはそれを見てまた笑いを噛み殺したものである。
はてさて、公爵邸に来たときよりずいぶん元気になっているが、こんなに面白い(意訳)お人柄だっただろうか。
それは、そのあとの雑談でなんとなくセレネスも知ることになった。
待っている間、この三日間視察した内容について、同行者たちから聞いた話を含めて頭の中でまとめ直していたらしい。所々見通しが甘いが、着眼点も意見もはっきりしたもので、なるほど、歳に比べてかなり優秀なのだ。明るくはきはきと喋る声は心地よい。
「殿下にとって、有意義になっているようですね」
「はい。それはもう……。もともと、ぼくは経験が何もないですから。何でも初めてで、勉強になります」
できないことをできないと言う、その大切さをヴィオレットは知っていた。
体面が体裁がとか、場所によっては眉をひそめられるだろうが、セレネスにはそれが伸びる素質にもなるとわかっている。この敵ばかりのアルビオン領では、伸びるどころか折れる原因にもなったりするが……どこかで開き直ったのか、それともセレネスには言ってもいいと考えたのか。後者だと嬉しいな、と軽く頷いた。
「あと二日も、楽しみです。セレネスさまは明日からはいらっしゃらないんですよね」
「ええ、残念ながら。その代わり、兄のヘリオスが参ります。気をつけてくださいね、殿下。彼は見た目がとことん無愛想ですから」
「見た目が?」
「内面は私と同じくらい性格ができてます」
幼なじみでもあるアスティから白々しいと睨まれた気がするが、セレネスは無視したし、ヴィオレットは気づいても、眩しそうに笑うだけだった。
血族の結束が固いと知られるアルビオン一族。その分敵と認識した者には恐ろしいと評判だが、その愛情の温かさは確かに尊ぶべきものだ。
「仲がよろしいんですか?」
「ええ、それはもう」
年子だったために、二人は双子のように育った。生まれた早さが問題だっただけで、外からは長男と次男で差別されたりしたが、お互いにどちらが上か下かなどを気にしたことがない。だから二つ下にイオンが生まれてみると、二人からは待望の弟だったので可愛がりまくり、最終的に嫌厭されるに至った。切ない。
王子が兄弟の昔のあれこれを話す様子に羨ましそうに耳を傾けているので、セレネスには少し疑問だった。そちらこそ仲がいい王族姉弟で有名ではないかと思っていたのだが。
……しかし、ふと思い出した。
公爵邸にたどり着いた弟を出迎えなかった王女と、それにほっとしていた王子の姿、それを訝しく――わずかに気遣わしげに見ていたご当主。ついでにこれまでの旅程でぼこぼこにされたらしいことも、聞いてはいないが予想はできている。
もしかしなくても、この姉弟って……今、かなり危ういのでは。
「……殿下、私も王都についてお伺いしてもよろしいですか?なにぶん、これまでほとんどジーウェンには行ったことがなく……」
しかし、セレネスは潔く諦めて、一旦話を逸らすことにした。彼では役不足だろう。周りにとやかく言われるにしても、結局は本人が収まりをつけるしかないのだ。
ジーウェンに行ったことがないのは本当だ。十五年前に城から引き上げた一族は、王立学園からも同時に立ち去ったのだ。それ以来、セレネスやヘリオス含めた若者は、みな領内の教育機関や家庭教師などを利用して知識を身につけていた。元々、学園自体に対するアルビオンの人間の関心もあまりなかったこともある。とことん身内にしか心を動かされない、許容範囲の狭い一族だ。
政変直後に父がご当主に呼ばれたときは、ヘリオスが従者としてついて行き、セレネスが留守を預かったこともあって、機会には最後まで恵まれなかった。
それにこの話を振ったのも、……この王子が気に入ったから、わざわざお茶や菓子を振る舞った「思惑」に乗ってみるのも、悪くないと思ったからだ。
(目に見える手柄を、ね)
一旦話をそらすことにしただけで、なにもしないとは言ってない。ここまで視察に出向いておいて、何もなかった、だけじゃ足りないだろう。王子が今変な顔を浮かべているのを見ても、それは正しいと確信する材料にしかならない。
手柄を欲しがっている。満足していない。けれど言い出せば迷惑になると思っている。
「……あの、でもぼくは、あまり城から出たことがなくて」
餌にわざと噛みついてやったのに、それを引き揚げることをためらいもする。
……継承権一位の王子とは何でも恣にできる立場だと、誰が勘違いしているのか知らない。この様子の、どこがそう見えるのだ。
怒ったナオは正しいと、今なら思えた。セレネス・アルブスは、もはやそれ以外の誰にもなれないし、なる気がない。この地位にいることで、果たせるものも、守れるものもあるから。
それなのに昔の立場を利用しようとした。卑怯にもほどがある。
(謝んないとな)
王子に腰が低いとか言ってられない。人との付き合いには柔軟さこそ必要なのだ。
せっかく得た縁、切るのはもったいない。
「殿下の視点で見てみたいのですから、構いませんよ」
たった今、こちらに繋ぎを取ろうとしながら誠実さを捨てられないこの王子のように。言い訳がましく付け加えるならば、信用できない「影」を使わずに王都から情報を仕入れる伝を手に入れなくてはならないこちらの事情もある。
この間の政変のように、何かあってまた出遅れるようなことにはしたくない。
それより以前には、セレネスとヘリオスは幼いゆえに大事な弟を守りきることができず、引き離された。
しかし、もうそんな情けないことは、絶対にしたくない。
歳を経て着々と力をつけた、今度こそ。
年下に手本を見せるのが、年上の役目だ。
応援ありがとうございます!
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