14 / 51
13 横網町 六軒長屋
しおりを挟む
両国橋からほど近い横網町の外れに、軒が傾いた六軒長屋があった。壁の下見板があちこちで剥がれ、内壁の泥が覗いているような古い建物だ。
長屋と道をはさんだ向かい側には、藤堂和泉守の広大な下屋敷の塀が続き、その脇には、柳の古木が不気味に枝を揺らす空き地がある。
空き地の向こうには、屋号もついていない薄汚れた居酒屋が、長屋と向かいあうかたちで建っていた。軒先にぶら下がっている、ところどころ破れた提灯だけが、それが居酒屋だという唯一の目印である。
夜更けにも関わらず、その居酒屋の二階の障子が、細く開けられている。
部屋には、五人の男たちがいた。
障子の隙間から、隣の長屋をうかがっているのは、鍋屋の辰二。通称・鍋辰とよばれる岡っ引きであった。
壁に寄りかかり、尊大な態度でふんぞり返っているのは、寄合席、三千石の大身旗本、本多佐度守である。
「やつは、いつもこんな刻限にかえってくるのか?」
そう言ったのは、先日、入江町で山口に、顔を踏み潰された本多佐渡守の、取り巻きの男だ。
「へえ。野郎は、二日店に詰めると三日休む……というのを、きちんと繰り返しています。破落戸浪人にしては、律儀な野郎なんで、もうすぐ仕事が明けて、かえってくるはずでさ」
「必ず仕止めるのだぞ。上手くいったら、ひとりに十両ずつ、つかわそう」
本多佐渡守が、憎々しげにつぶやいた。
「しかし鍋辰。よく突き止めたな。見事な働きだ……やつは、佐渡守様に無礼をはたらいた狼藉者。身の程を思い知らせてやらねば、直参旗本の面目が立たん」
取り巻きの男が、さも義憤にたえない様子で言った。
「ありがとうございます。野郎がいくら武芸者だろうと、あっしら玄人から、逃れることなどは、できやしません」
男は、両国広小路で山口を見つけると、下手に自分で探ったりはせず、鍋辰に見張りを依頼した。
辰二のような岡っ引きは、事件の捜査などそっちのけで、奉行所への呼び出しを握り潰す(引き合いを抜くという)かわりに、金品を要求するのが本業のような、腐った岡っ引きである。
また、大店や、大名、旗本などの屋敷に出入りして、こういったトラブルも飯の種にしていた。
部屋には、佐渡守と取り巻きの男、鍋辰のほかに、ふたりの無頼浪人がいた。
「先生方……やつがかえってきたら、ひと思いに殺っちまってください。なあに、騒ぎになっても、辰二が、上手く片付けますんで、安心です」
佐度守の取り巻きが、浪人に声をかけた。
「まかせておけ。多少遣えるからといって、ひけをとる俺たちじゃない。その痩せ浪人の命も、今宵限りだ」
そのとき、藤堂和泉守の屋敷の塀の前で、商いをしていた屋台の蕎麦屋が、そそくさと店をたたみはじめた。
この蕎麦屋は、鍋辰の手下の銀次という下っ引きである。
銀次が店をたたむのが、山口がかえってきた。という、合図だった。
「野郎が、けえってきましたぜ」
「よし、では行くか」
「あっ、ちょいとお待ちを……」
立ちあがりかけた、ふたりの浪人を、鍋辰があわてて制した。
「どうした?」
「まずいな……野郎に、連れがいます」
「ちっ、しかたねえ……ならば、やつが寝るのを待つまでだ」
「しかし、家んなかには、やつの女もいますぜ」
「なあに、もろとも串刺しにするだけの話だ」
それから小半刻ほど時間を潰すと、佐渡守を除いた男たちが、静かに外に忍び出た。
鍋辰は、離れたところから、その様子をうかがう。
もし騒ぎになった場合、いかにも事件の現場に駆けつけてきたふりを装い、上手く誤魔化すのが、鍋辰の役目だ。
佐渡守は、部屋から高みの見物である。
山口は、目を覚ますと、枕元に置いた刀を引き寄せ、鯉口を切った。
(明らかな殺気……ふたり、いや三人か……)
横では女が、安らかな寝息をたてて眠っている。
どこかに匿いたいが、その余裕は、なさそうだ。
山口は、気付くのが遅れた自分を罵った。
そのとき、いきなり戸が打ち破られ、抜刀したふたりの浪人が飛びこんできた。
ふたりは、山口がすでに刀を抜いて、待ちうけていたことに、愕然としたが、勢いは止まらない。
ひとりが、猛然と突きを入れる。
――が、山口は、横に転がりながら、難なくそれをかわし、男の脇を斬り裂いた。
「ぐえっ!」
倒れた男を無視して、もうひとりの浪人が、首を薙ごうと、刀を横に払い、それを、山口が弾き飛ばして火花が散った。
「ひっ!」
女が低い悲鳴をあげ、庭から逃げようと障子を開けたとたん、
「――きゃっ」
断末魔の声をあげ、ばたりと倒れ、あたりに血が飛び散る。
様子をうかがっていた、取り巻きの男が、庭から飛びこみ、女を斬ったのだ。
浪人は立て続けに、山口に鋭い突きを繰りだすが、ことごとくが、よけられ、弾かれる。
焦った浪人の振りかぶった刀が柱に当たり、一瞬、攻撃に間ができた。
「やっ!」
その隙を見逃す山口ではない。浪人は、喉を貫かれ、ごぼごぼと血を巻き散らしながら倒れこんだ。
取り巻きの男は、形勢不利とみて、あわてて逃げようとしたが、山口は、倒れた浪人の刀を奪うと、その背中に投げつけた。
首筋を狙った刀は大きく的を外れ、男の腰に刺さり、男が悲鳴をあげながら畳に尻をついた。
「ま、待て、俺は、命令されてやっただけだ……た、助けてくれ」
山口は、男の顔を見て、命令したやつの見当はついたが、その名前が知りたかった。
「誰の命令だ?」
「ほ、本多佐渡守だ……」
「――で、そいつは、いまどこにいるんだ?」
「向かいの居酒屋の二階から見ているはずだ」
「わかった」
「助けてくれるのか?」
山口は、息絶えた女を、ちらりと見て、
「おぬし……本気で言ってるのか?」
無造作に男の胸を突き刺した。
そこに、入り口から鍋辰が顔をだし、
「先生がた。片付きましたか? 両隣には、捕物だから、顔をだすんじゃねえと脅して……」
と、早口でまくし立てたところで、山口に気付き、ぎょっと固まった。
「あわわ、わ……」
そして、走りだした瞬間には、山口の投げた刀が、今度はしっかり首筋に突き立っていた。
即死した鍋辰には一瞥もくれず、もう一度、血塗れで琴切れている女に視線を向けると、山口は、赦せ。と、小さくつぶやいた。
山口は、怒っていた。
頭の芯が痺れ、血の気がひいて、身体じゅうが震えるような激しい怒りだ。
その怒りは、この男たちよりも、むざむざ女を死なせてしまった、自分への怒りであった。
矢場の女と、御家人の息子が結ばれるはずもないし、その前に、この女を、愛していたかどうかも定かではない。
だが、女が、どれほど荒んだ生活の救いになってくれていたのか、今さらながらに気付き、それに愕然としていた。
(――そして、この女を死なせてしまったのは、俺の油断からだ)
山口は、居酒屋に向かって走りだした。
障子の隙間から、外の様子をうかがっていた本多佐渡守は、物音が絶えたのに、浪人が長屋から出てこないことを不審に思った。
しかし、差し向けたのは、腕利きのふたりである。さらに、取り巻きの男と岡っ引きまでいるのだ。
万が一にも失敗するとは思えなかった。
そのとき、長屋のなかの様子をうかがっていた岡っ引きが、あわてて走りだすのが見えた。
と、思ったら、首筋に刀が刺さり、地面に倒れる。
襲撃の失敗をさとった佐渡守は、脱兎の勢いで部屋を出ると、階段を駆け降りるが、足がもつれて尻を打ちながら転落した。
激しい痛みに呻いていると、目の前には、いつの間にか、あの男が立っていた。
「ま、待ってくれ、これは何かの間違いだ……か、金か? 金ならいくらでもだす。いまは、これしかないが、ほら」
懐から切り餅をふたつ取りだし、山口に突きだす。男たちへの報酬のため用意した五十両だ。
山口は、冷ややかに笑い、
「そうか。くれるものなら、もらっておこう……」
小判を奪うと懐に入れた。
「――どうせ、あの世では、使い道がないだろうからな」
「ま、待ってくれ、屋敷にかえれば、もっ」
佐渡守の言葉は、そこで途絶えた。
抜く手も見せぬ速さで抜刀し、山口が頸動脈を跳ね斬ったからだ。
長い吐息をつくと、山口は、刀を指先でくるりと回し、きぃーんと、音をたてて納刀した。
女の仇は討ったが、胸の奥に、澱のように沈んだ、行き場のない怒りを、山口は、もてあましていた。
入江町に住む前澤慎之助のもとを、山口が訪ねたのは、もう、夜が明けようかという時刻だった。
本所の町には、早出の職人や、下総からでてきた物売りなどが、ちらほら歩いている。
前澤は、朝早くから起こされて、不機嫌な顔をしていた。
「なんだ、こんな朝っぱらから……」
と、そこまで言って、口をつぐむ。
山口の身体にまとわりついている、なんとも言いようのない虚無感と、血腥い気配に気付いたからだ。
「五人殺った……誰にも見られてはいないとは思うが、念のため江戸から逃けるつもりだ。例の男の件、手伝えなくてすまんな」
山口は、蕎麦屋が下っ引きだったことに気付いていない。
「ちょっと待て、おまえ……五人は、ただ事じゃねえぞ。いったい何があった?」
山口は、簡潔に経緯を話した。
「ふうむ、こないだの切見世の酔っぱらいか。まあ、死んだのは自業自得だな……だが、例の男の件なら、どちらにせよ、しばらくは、お預けだ」
「どういうことだ?」
「ふん、昨日、政吉が知らせてきた……あの野郎、欠落して、武者修行の旅にでたそうだ」
それをきいて、山口がくすりと笑った。
「今どき武者修行だと? それも、わざわざ欠落までして……そいつは、とんだ大馬鹿野郎だな」
「ああ、まったくだ。どうやら俺たちと同じ、はぐれ者のようだ」
「おもしろい……ますますそいつが斬りたくなった」
「そんなことより、おまえ、これからどうするんだ?」
「久しぶりに、安次郎のところにでも、顔を出そうかと思っている」
「ふふふ。安次郎か……あやつも、甲府で退屈を持て余しているだろうからな……」
安次郎とは、山口たちの遊び仲間で、以前は、よくつるんで、本所あたりを肩で風を切っていた御家人の不良息子、倉本安次郎のことである。
安次郎は、家督を継いだあとも素行が改まらず、酒と喧嘩が原因で、甲府勤番を申しつけられてしまった。
甲府勤番は、一種の懲罰人事で、これを言い渡された幕臣は、もはや改易寸前で、あとがなかった。
「とりあえず、一年ぐらい様子を見て、ほとぼりが冷めたら、また江戸に舞い戻るつもりだ」
「ちょっと待て。甲府か。俺もいっしょに行くぞ。安次郎にも久しぶりに会ってみたいしな……」
「ふん。おまえなら、わざわざ行かなくても、そのうち甲府勤番の沙汰が下りそうだがな……」
山口が鼻で笑う。
「馬鹿野郎。縁起でもねえことを言うな。もっとも俺は次男坊だ。たとえ甲府勤番でも、家督を継げればめっけもんだが……」
「おい。行くのなら、さっさと支度しろ。もう七つを回ったぞ」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
前澤は、あわてて旅支度をはじめる。あたりは、うっすらと明るくなり、一日が始まろうとしていた。
長屋と道をはさんだ向かい側には、藤堂和泉守の広大な下屋敷の塀が続き、その脇には、柳の古木が不気味に枝を揺らす空き地がある。
空き地の向こうには、屋号もついていない薄汚れた居酒屋が、長屋と向かいあうかたちで建っていた。軒先にぶら下がっている、ところどころ破れた提灯だけが、それが居酒屋だという唯一の目印である。
夜更けにも関わらず、その居酒屋の二階の障子が、細く開けられている。
部屋には、五人の男たちがいた。
障子の隙間から、隣の長屋をうかがっているのは、鍋屋の辰二。通称・鍋辰とよばれる岡っ引きであった。
壁に寄りかかり、尊大な態度でふんぞり返っているのは、寄合席、三千石の大身旗本、本多佐度守である。
「やつは、いつもこんな刻限にかえってくるのか?」
そう言ったのは、先日、入江町で山口に、顔を踏み潰された本多佐渡守の、取り巻きの男だ。
「へえ。野郎は、二日店に詰めると三日休む……というのを、きちんと繰り返しています。破落戸浪人にしては、律儀な野郎なんで、もうすぐ仕事が明けて、かえってくるはずでさ」
「必ず仕止めるのだぞ。上手くいったら、ひとりに十両ずつ、つかわそう」
本多佐渡守が、憎々しげにつぶやいた。
「しかし鍋辰。よく突き止めたな。見事な働きだ……やつは、佐渡守様に無礼をはたらいた狼藉者。身の程を思い知らせてやらねば、直参旗本の面目が立たん」
取り巻きの男が、さも義憤にたえない様子で言った。
「ありがとうございます。野郎がいくら武芸者だろうと、あっしら玄人から、逃れることなどは、できやしません」
男は、両国広小路で山口を見つけると、下手に自分で探ったりはせず、鍋辰に見張りを依頼した。
辰二のような岡っ引きは、事件の捜査などそっちのけで、奉行所への呼び出しを握り潰す(引き合いを抜くという)かわりに、金品を要求するのが本業のような、腐った岡っ引きである。
また、大店や、大名、旗本などの屋敷に出入りして、こういったトラブルも飯の種にしていた。
部屋には、佐渡守と取り巻きの男、鍋辰のほかに、ふたりの無頼浪人がいた。
「先生方……やつがかえってきたら、ひと思いに殺っちまってください。なあに、騒ぎになっても、辰二が、上手く片付けますんで、安心です」
佐度守の取り巻きが、浪人に声をかけた。
「まかせておけ。多少遣えるからといって、ひけをとる俺たちじゃない。その痩せ浪人の命も、今宵限りだ」
そのとき、藤堂和泉守の屋敷の塀の前で、商いをしていた屋台の蕎麦屋が、そそくさと店をたたみはじめた。
この蕎麦屋は、鍋辰の手下の銀次という下っ引きである。
銀次が店をたたむのが、山口がかえってきた。という、合図だった。
「野郎が、けえってきましたぜ」
「よし、では行くか」
「あっ、ちょいとお待ちを……」
立ちあがりかけた、ふたりの浪人を、鍋辰があわてて制した。
「どうした?」
「まずいな……野郎に、連れがいます」
「ちっ、しかたねえ……ならば、やつが寝るのを待つまでだ」
「しかし、家んなかには、やつの女もいますぜ」
「なあに、もろとも串刺しにするだけの話だ」
それから小半刻ほど時間を潰すと、佐渡守を除いた男たちが、静かに外に忍び出た。
鍋辰は、離れたところから、その様子をうかがう。
もし騒ぎになった場合、いかにも事件の現場に駆けつけてきたふりを装い、上手く誤魔化すのが、鍋辰の役目だ。
佐渡守は、部屋から高みの見物である。
山口は、目を覚ますと、枕元に置いた刀を引き寄せ、鯉口を切った。
(明らかな殺気……ふたり、いや三人か……)
横では女が、安らかな寝息をたてて眠っている。
どこかに匿いたいが、その余裕は、なさそうだ。
山口は、気付くのが遅れた自分を罵った。
そのとき、いきなり戸が打ち破られ、抜刀したふたりの浪人が飛びこんできた。
ふたりは、山口がすでに刀を抜いて、待ちうけていたことに、愕然としたが、勢いは止まらない。
ひとりが、猛然と突きを入れる。
――が、山口は、横に転がりながら、難なくそれをかわし、男の脇を斬り裂いた。
「ぐえっ!」
倒れた男を無視して、もうひとりの浪人が、首を薙ごうと、刀を横に払い、それを、山口が弾き飛ばして火花が散った。
「ひっ!」
女が低い悲鳴をあげ、庭から逃げようと障子を開けたとたん、
「――きゃっ」
断末魔の声をあげ、ばたりと倒れ、あたりに血が飛び散る。
様子をうかがっていた、取り巻きの男が、庭から飛びこみ、女を斬ったのだ。
浪人は立て続けに、山口に鋭い突きを繰りだすが、ことごとくが、よけられ、弾かれる。
焦った浪人の振りかぶった刀が柱に当たり、一瞬、攻撃に間ができた。
「やっ!」
その隙を見逃す山口ではない。浪人は、喉を貫かれ、ごぼごぼと血を巻き散らしながら倒れこんだ。
取り巻きの男は、形勢不利とみて、あわてて逃げようとしたが、山口は、倒れた浪人の刀を奪うと、その背中に投げつけた。
首筋を狙った刀は大きく的を外れ、男の腰に刺さり、男が悲鳴をあげながら畳に尻をついた。
「ま、待て、俺は、命令されてやっただけだ……た、助けてくれ」
山口は、男の顔を見て、命令したやつの見当はついたが、その名前が知りたかった。
「誰の命令だ?」
「ほ、本多佐渡守だ……」
「――で、そいつは、いまどこにいるんだ?」
「向かいの居酒屋の二階から見ているはずだ」
「わかった」
「助けてくれるのか?」
山口は、息絶えた女を、ちらりと見て、
「おぬし……本気で言ってるのか?」
無造作に男の胸を突き刺した。
そこに、入り口から鍋辰が顔をだし、
「先生がた。片付きましたか? 両隣には、捕物だから、顔をだすんじゃねえと脅して……」
と、早口でまくし立てたところで、山口に気付き、ぎょっと固まった。
「あわわ、わ……」
そして、走りだした瞬間には、山口の投げた刀が、今度はしっかり首筋に突き立っていた。
即死した鍋辰には一瞥もくれず、もう一度、血塗れで琴切れている女に視線を向けると、山口は、赦せ。と、小さくつぶやいた。
山口は、怒っていた。
頭の芯が痺れ、血の気がひいて、身体じゅうが震えるような激しい怒りだ。
その怒りは、この男たちよりも、むざむざ女を死なせてしまった、自分への怒りであった。
矢場の女と、御家人の息子が結ばれるはずもないし、その前に、この女を、愛していたかどうかも定かではない。
だが、女が、どれほど荒んだ生活の救いになってくれていたのか、今さらながらに気付き、それに愕然としていた。
(――そして、この女を死なせてしまったのは、俺の油断からだ)
山口は、居酒屋に向かって走りだした。
障子の隙間から、外の様子をうかがっていた本多佐渡守は、物音が絶えたのに、浪人が長屋から出てこないことを不審に思った。
しかし、差し向けたのは、腕利きのふたりである。さらに、取り巻きの男と岡っ引きまでいるのだ。
万が一にも失敗するとは思えなかった。
そのとき、長屋のなかの様子をうかがっていた岡っ引きが、あわてて走りだすのが見えた。
と、思ったら、首筋に刀が刺さり、地面に倒れる。
襲撃の失敗をさとった佐渡守は、脱兎の勢いで部屋を出ると、階段を駆け降りるが、足がもつれて尻を打ちながら転落した。
激しい痛みに呻いていると、目の前には、いつの間にか、あの男が立っていた。
「ま、待ってくれ、これは何かの間違いだ……か、金か? 金ならいくらでもだす。いまは、これしかないが、ほら」
懐から切り餅をふたつ取りだし、山口に突きだす。男たちへの報酬のため用意した五十両だ。
山口は、冷ややかに笑い、
「そうか。くれるものなら、もらっておこう……」
小判を奪うと懐に入れた。
「――どうせ、あの世では、使い道がないだろうからな」
「ま、待ってくれ、屋敷にかえれば、もっ」
佐渡守の言葉は、そこで途絶えた。
抜く手も見せぬ速さで抜刀し、山口が頸動脈を跳ね斬ったからだ。
長い吐息をつくと、山口は、刀を指先でくるりと回し、きぃーんと、音をたてて納刀した。
女の仇は討ったが、胸の奥に、澱のように沈んだ、行き場のない怒りを、山口は、もてあましていた。
入江町に住む前澤慎之助のもとを、山口が訪ねたのは、もう、夜が明けようかという時刻だった。
本所の町には、早出の職人や、下総からでてきた物売りなどが、ちらほら歩いている。
前澤は、朝早くから起こされて、不機嫌な顔をしていた。
「なんだ、こんな朝っぱらから……」
と、そこまで言って、口をつぐむ。
山口の身体にまとわりついている、なんとも言いようのない虚無感と、血腥い気配に気付いたからだ。
「五人殺った……誰にも見られてはいないとは思うが、念のため江戸から逃けるつもりだ。例の男の件、手伝えなくてすまんな」
山口は、蕎麦屋が下っ引きだったことに気付いていない。
「ちょっと待て、おまえ……五人は、ただ事じゃねえぞ。いったい何があった?」
山口は、簡潔に経緯を話した。
「ふうむ、こないだの切見世の酔っぱらいか。まあ、死んだのは自業自得だな……だが、例の男の件なら、どちらにせよ、しばらくは、お預けだ」
「どういうことだ?」
「ふん、昨日、政吉が知らせてきた……あの野郎、欠落して、武者修行の旅にでたそうだ」
それをきいて、山口がくすりと笑った。
「今どき武者修行だと? それも、わざわざ欠落までして……そいつは、とんだ大馬鹿野郎だな」
「ああ、まったくだ。どうやら俺たちと同じ、はぐれ者のようだ」
「おもしろい……ますますそいつが斬りたくなった」
「そんなことより、おまえ、これからどうするんだ?」
「久しぶりに、安次郎のところにでも、顔を出そうかと思っている」
「ふふふ。安次郎か……あやつも、甲府で退屈を持て余しているだろうからな……」
安次郎とは、山口たちの遊び仲間で、以前は、よくつるんで、本所あたりを肩で風を切っていた御家人の不良息子、倉本安次郎のことである。
安次郎は、家督を継いだあとも素行が改まらず、酒と喧嘩が原因で、甲府勤番を申しつけられてしまった。
甲府勤番は、一種の懲罰人事で、これを言い渡された幕臣は、もはや改易寸前で、あとがなかった。
「とりあえず、一年ぐらい様子を見て、ほとぼりが冷めたら、また江戸に舞い戻るつもりだ」
「ちょっと待て。甲府か。俺もいっしょに行くぞ。安次郎にも久しぶりに会ってみたいしな……」
「ふん。おまえなら、わざわざ行かなくても、そのうち甲府勤番の沙汰が下りそうだがな……」
山口が鼻で笑う。
「馬鹿野郎。縁起でもねえことを言うな。もっとも俺は次男坊だ。たとえ甲府勤番でも、家督を継げればめっけもんだが……」
「おい。行くのなら、さっさと支度しろ。もう七つを回ったぞ」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
前澤は、あわてて旅支度をはじめる。あたりは、うっすらと明るくなり、一日が始まろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる