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16 小仏峠・後 龍尾剣
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やくざ者にとり囲まれた商人は、恫喝されても、どこ吹く風で平然としていた。
口許には、うすら笑いすら、うかべている。
「おい、ゴロツキっての俺たちのことか!」
「おめえら、面だけじゃなくて、頭も悪いのか? ほかに誰がいるってんだ」
「なめるな、若造!」
額の傷の男は、怒鳴りながら、長脇差を抜き、残りのふたりも、それにならった。
「おい。俺が抜いたら、てめえら残らずお陀仏だぜ……まあ、可哀想だから、お情けで、飛車角落ちで相手になってやろう」
商人は、腰の長脇差を抜かず、荷物にくくりつけていた、竹刀を手にとった。
「竹刀だと……ふざけるなっ!!」
額の傷の男が、いきなり斬りかかった。
「――へえ」
新八は、それを見て、かえって感心してしまった。男に、まったく躊躇がなかったからだ。
普通は、やくざが堅気を傷つけてしまった場合、ましてや、殺してしまえば、それは、すなわち凶状持ちになり、居場所を失うことになる。
それなのに、ためらいなく殺しにかかったということは、自分は、甲州では捕まらない。と、自信を持っているからに、ほかならない。
(なるほど。野口の言うとおり、甲州は、なかなか楽しい場所らしい……)
喧嘩沙汰には慣れているらしく、その太刀筋は、侮れない鋭さであったが、商人は、竹刀を構えたまま左足を引き、身体を横にすることで、難なくかわした。
「げふっ」
かわりに、斬りかかった額に傷の男が、咳こむような声をだして、膝をつき地面にうずくまった。
残ったふたりは、何が起きたのかわからず、気を呑まれたように、呆然と突っ立っている。
(やはりな……見事な体さばきだ)
新八には、はっきりと見えていた。
商人は、体をかわすだけではなく、ほんの半歩ばかり前に足をすすめていた。
そこに、男が斬りかかったので、特に突いたわけでもないのに、間合いが縮まり結果として、男の脇腹に、竹刀が突きこまれたのだ。
「さあ、次は、てめえらだ。――なんなら、ふたり、同時にかかってきてもいいぜ」
商人が、不敵な笑みを浮かべた。
「て、てめえ……商人のなりをしていやがるが、堅気じゃねえな……」
「――おい、富。これはいったい、なんの騒ぎだ」
そこに、いきなり声がかかった。
声をかけたのは、道中合羽に三度笠の渡世人が三人と、浪人者がひとり。
「素人相手に、なにをぐずぐず手こずっていやがる。さっさと片付けろ」
先頭にいた渡世人が言った。
三度笠から覗く顔は、陽に焼けて深い皺が刻まれており、チンピラ三人とは、明らかに貫禄が違う。
「だ、代貸……」
加勢があらわれたことで、六対一。残ったふたりの表情に、勢いが戻った。
「――よお、大変だなあ、薬屋。よかったら、助っ人しようか?」
それまで、黙って見ていた新八が、商人に声をかけた。
「余計なお世話だ……と、言いたいところだが、こう、次から次へと、蠅みたいに湧いてくるんじゃあ、キリがねえ。何人か引き受けてくれると助かる」
「よし。引き受けた! なあに、謝礼は、うどんを奢ってくれればそれでいい」
そう言いながら、新八も竹刀をとって、三人の渡世人に向かって、歩み寄り、八双に構え、
「さあ、いいぜ。かかってきな」
と、朗らかに笑った。
「ふざけるな! くたばれっ!」
先頭の、代貸とよばれていた貫禄のある渡世人は、長脇差を抜くと、新八に斬りかかった。
その瞬間、新八の竹刀が、袈裟懸けに振りおろされた。
「ぎゃっ!」
竹刀とはいえ、防具なしで首筋の急所を強打され、代貸と呼ばれた男が、悶絶する。
新八は、まったく歩みを止めず、次の一歩と同時に、袈裟懸けに振りおろした竹刀を、そのまま斜めに振りあげる。
ふたりめの男は、長脇差を抜こうとして果たせず、新八の竹刀に脇腹を叩かれ、その場に崩れ落ちた。
新八は、止まる気配を見せず、振りあげた竹刀で、三人めの顔面を、押しつけるように強打すると、その男は、白眼を剥いて失神した。
男は、柄に手をかけたばかりだった。新八の行動が、あまりにも唐突で、反応しきれなかったのだ。
――天然理心流・龍尾剣。
竹刀剣術の隆盛とともに、変わってしまったのが、この面打ちであろう。
江戸も中期までは、面打ちといえば、刀を上から打ち下ろしたりせず、顔面を押し斬りするのが主流だった。
そうしなければ、乱戦の場合、振りあげたぶんだけ攻撃が遅れるし、相手が兜や鉢金をつけていた場合、致命傷をあたえるのが、困難だからだ。
しかし、竹刀剣術が流行すると、そうした戦場における実用的な手法は、すっかり忘れ去られ、見た目が派手な、打ち下ろす面打ちに変わっていった。
もちろん、新八が剣術をはじめたころには、もうすでに、竹刀剣術の全盛期である。
しかし、増田蔵六に、ふた月ばかり稽古をつけてもらい、すっかり古式の形が身についていた。
三人めが気絶すると、残りは、浪人者がひとり。
勢いにまかせて、新八は、浪人者に歩み寄ろうとしたが、ぴたり、と立ち止まった。
その浪人者には、いささかの殺気もない。
目の前で、次々と連れが倒されたというのに、眉ひとつ動かすことなく、端然と立ったまま、新八と目が合うと、微笑を浮かべた。
「さて……あんたもやるかい?」
新八が訊いた。
「いや。遠慮しておこう。おぬしらふたりとやっては、十にひとつも勝ち目はなかろう」
「冷てえな。仲間が痛めつけられたっていうのによ」
いつの間にか、残りふたりを倒した商人が、新八の横に立っていた。
浪人者は、朗らかに笑った。
「仲間? 勘違いするな……たまたま麓で行きあって、道連れになっただけにすぎぬ」
そう言うと、
「では、御免こうむる」
男は駒木野関の方向に向かって、悠然と歩き去る。
新八と商人は、黙ってそれを見送った。
「行かせちまって、いいのかい?」
しばらくして、商人がぽつりと言うと、新八は、長いため息を吐いた。
「その方がいいのさ……」
「どういう意味だ?」
「あの野郎とやったら、どっちが勝つにしろ、まちがいなく、命のやり取りになるってことだ」
「あいつ、そんなに強いのか?」
「ああ。竹刀のまま、一歩踏みだしていたら、こちらがあの世行きだった」
「それで立ち止まったのか……」
商人が浪人者に目をやるが、小さくなった後ろ姿が、春の霞みに溶けこんでゆくところだった。
「おい。うどんの約束だ。茶店に行こうぜ……もう、茹であがる頃合いだろう」
「ああ、好きなだけ食ってくれ。ところで、あんたの名前は?」
「松前浪人。永倉新八。――おぬしは?」
「おっと、いけねえ。名乗りがまだだった。俺は、武州多摩郡石田村。
――土方歳三だ」
茶店では、新八が黙々と、無心にうどんを食べている。
歳三は呆れ顔で、黙ってそれを眺めていた。
なにしろ、最初に三人前平らげた挙げ句、さらに、もう一人前追加したのだから、無理もない。
「新八つぁん。よく食うねえ」
「ああ、江戸ではあんまり、うどんなんて食わないからな……」
「俺は、うどんなんて、食い飽きたけどね」
現在からは、考えられないことだが、武州から甲州にかけて、当時は、小麦が主食であった。
武州には「武蔵野うどん」、甲州に「ほうとう」、秩父に「にぼと」として、その名残が残っている。
それは、日野三千石といわれた、豊かな穀倉地帯に暮らす者も例外ではなく、お大尽といわれた歳三の家でも、米の飯などは、たまに夕食にでるぐらいで、普段は、うどんを食べていたのだ。
当時、武州では、「かて」「かてうどん」などと呼ばれ、それは、文字通り日々の糧に他ならなかった。
「これが、ツルツルと、いくらでも入るから、始末に負えねえ」
「ところで……あの龍尾剣。いったい、誰から習ったんだい?」
「驚いた。トシさん。よく龍尾剣だってわかったな」
「俺は、多摩の生まれ……天然理心流の本場だぜ。でも、新八つぁんは、江戸っ子だ。
市ヶ谷甲良屋敷の試衛館のほかに、道場はないのに、そこでは新八つぁんとは、一度もお目にかかったことがないからな」
「習ったのは、千人同心の増田蔵六師範からだ」
「なるほど……そうじゃあないかと思ったぜ。あの見事な気組は、蔵六師範そのものだ」
「なあに、本来、俺は神道無念流。まだまださ……トシさんも、天然理心流を?」
「ああ。正式に入門したわけじゃないが、近藤周助師範と、日野宿名主の義理の兄貴からね」
「日野っていうと、甲州道中の宿場だな。石田村ってのは、日野に近いのかい?」
「日野宿から少し南寄り。浅川をわたれば高幡不動。反対に、多摩川をわたれば、右が谷保村、左が柴崎村さ」
「柴崎村……!」
新八の箸が止まり、歳三のことを、まじまじと見つめた。
「なあ、つかぬことを訊くが、ふた月ぐらい前に、三味線堀の賭場で喧嘩しなかったか?」
「なんで知ってる?」
歳三の目が細められる。
あの冷ややかな、肉食獣の目だった。
「ふふふ。まさか、こんなところで、出会うとはな……」
「どういう意味だ?」
「トシさん……あんたが喧嘩した相手は、俺の仲間で、太吉ってやつだ」
「仲間……今さら意趣返しか?」
「勘違いするな。やつは、別にトシさんに、恨みなんて持ってやしないさ。終わったら、喧嘩のことは、さっぱり水に流すのが江戸っ子だ」
「なら、なぜそんなことを……」
「ほかでもねえ。そんときトシさんが使った技に、興味があるのさ」
「そういうことか……あれは、俺が自分で考えた技だ。特別に教えてやろうか?」
「いや、それじゃあ、意味がねえ。俺は、気になってしかたないんで、ずっと考えていたんだ……
あの間合いで、抜き打ちに太ももを斬るのは、容易じゃあねえはずだ」
「そう……普通のやり方じゃ、絶対に無理だね。だが、俺の技は、そこに、ひと工夫くわえたのさ。それは……」
「待て!」
新八が、あわてて止めた。
「その先を言うな……もう少しで、思いつきそうなんだ」
歳三は、新八の真剣な表情を見て可笑しくなった。
「よし。じゃあ、こうしよう。今度会ったときまで、お預けにして、もし、新八つぁんが謎を解いたら、またうどんを奢ろうじゃねえか」
「わかった……約束だぜ。謎が解けたら、うどんを腹いっぱいご馳走だ」
「承った。男に二言はねえ」
歳三が茶店をあとにしても、新八は、しばらく座っていた。
さすがに食べ過ぎて、動くことができなかったのだ。
「あれまあ、お侍さん。食べなすったねえ……」
そこに、茶店の婆さんが、食器を下げにやってきた。
「あんたのうどんは、旨かったぜ……甲州道中でいちばんだ」
「嬉しいねえ。もっと食べるかね?」
「いや、さすがに腹いっぱいだ。もう、動けねえ……」
「剣術遣いは、よく食べること……四人前を食べたのは、お侍さんと、全福寺の秀全和尚様ぐらいだよ」
「誰だい、その秀全和尚って」
「大月宿の裏手にある、岩殿山の全福寺の和尚さんさね。剣術好きの変わり者だ」
「へえ……お寺の和尚のくせに、剣術好きなのか。そいつは、たしかに変わり者だ」
「檀家回りに、甲府に行くときも竹刀を担いで、ここいらじゃあ、知らねえやつはいねえだよ」
「その和尚さんは、甲府まで剣術を、習いに行ってるのか」
「へえ。なんでも、北辰一刀流の目録持ちだそうですよ」
「はっはっは。そいつは愉快な和尚さんだ。婆さん。詳しく教えてくれ」
新八は、その和尚を訪ねる気になっていた。
剣術好き、というところにも興味をひかれたが、なによりも、甲府の剣術道場の事情を、よく知っていそうだからである。
茶店の婆さんから、全福寺の場所を訊きだすと、新八は、早速大月宿の方に向かって歩きだした。
口許には、うすら笑いすら、うかべている。
「おい、ゴロツキっての俺たちのことか!」
「おめえら、面だけじゃなくて、頭も悪いのか? ほかに誰がいるってんだ」
「なめるな、若造!」
額の傷の男は、怒鳴りながら、長脇差を抜き、残りのふたりも、それにならった。
「おい。俺が抜いたら、てめえら残らずお陀仏だぜ……まあ、可哀想だから、お情けで、飛車角落ちで相手になってやろう」
商人は、腰の長脇差を抜かず、荷物にくくりつけていた、竹刀を手にとった。
「竹刀だと……ふざけるなっ!!」
額の傷の男が、いきなり斬りかかった。
「――へえ」
新八は、それを見て、かえって感心してしまった。男に、まったく躊躇がなかったからだ。
普通は、やくざが堅気を傷つけてしまった場合、ましてや、殺してしまえば、それは、すなわち凶状持ちになり、居場所を失うことになる。
それなのに、ためらいなく殺しにかかったということは、自分は、甲州では捕まらない。と、自信を持っているからに、ほかならない。
(なるほど。野口の言うとおり、甲州は、なかなか楽しい場所らしい……)
喧嘩沙汰には慣れているらしく、その太刀筋は、侮れない鋭さであったが、商人は、竹刀を構えたまま左足を引き、身体を横にすることで、難なくかわした。
「げふっ」
かわりに、斬りかかった額に傷の男が、咳こむような声をだして、膝をつき地面にうずくまった。
残ったふたりは、何が起きたのかわからず、気を呑まれたように、呆然と突っ立っている。
(やはりな……見事な体さばきだ)
新八には、はっきりと見えていた。
商人は、体をかわすだけではなく、ほんの半歩ばかり前に足をすすめていた。
そこに、男が斬りかかったので、特に突いたわけでもないのに、間合いが縮まり結果として、男の脇腹に、竹刀が突きこまれたのだ。
「さあ、次は、てめえらだ。――なんなら、ふたり、同時にかかってきてもいいぜ」
商人が、不敵な笑みを浮かべた。
「て、てめえ……商人のなりをしていやがるが、堅気じゃねえな……」
「――おい、富。これはいったい、なんの騒ぎだ」
そこに、いきなり声がかかった。
声をかけたのは、道中合羽に三度笠の渡世人が三人と、浪人者がひとり。
「素人相手に、なにをぐずぐず手こずっていやがる。さっさと片付けろ」
先頭にいた渡世人が言った。
三度笠から覗く顔は、陽に焼けて深い皺が刻まれており、チンピラ三人とは、明らかに貫禄が違う。
「だ、代貸……」
加勢があらわれたことで、六対一。残ったふたりの表情に、勢いが戻った。
「――よお、大変だなあ、薬屋。よかったら、助っ人しようか?」
それまで、黙って見ていた新八が、商人に声をかけた。
「余計なお世話だ……と、言いたいところだが、こう、次から次へと、蠅みたいに湧いてくるんじゃあ、キリがねえ。何人か引き受けてくれると助かる」
「よし。引き受けた! なあに、謝礼は、うどんを奢ってくれればそれでいい」
そう言いながら、新八も竹刀をとって、三人の渡世人に向かって、歩み寄り、八双に構え、
「さあ、いいぜ。かかってきな」
と、朗らかに笑った。
「ふざけるな! くたばれっ!」
先頭の、代貸とよばれていた貫禄のある渡世人は、長脇差を抜くと、新八に斬りかかった。
その瞬間、新八の竹刀が、袈裟懸けに振りおろされた。
「ぎゃっ!」
竹刀とはいえ、防具なしで首筋の急所を強打され、代貸と呼ばれた男が、悶絶する。
新八は、まったく歩みを止めず、次の一歩と同時に、袈裟懸けに振りおろした竹刀を、そのまま斜めに振りあげる。
ふたりめの男は、長脇差を抜こうとして果たせず、新八の竹刀に脇腹を叩かれ、その場に崩れ落ちた。
新八は、止まる気配を見せず、振りあげた竹刀で、三人めの顔面を、押しつけるように強打すると、その男は、白眼を剥いて失神した。
男は、柄に手をかけたばかりだった。新八の行動が、あまりにも唐突で、反応しきれなかったのだ。
――天然理心流・龍尾剣。
竹刀剣術の隆盛とともに、変わってしまったのが、この面打ちであろう。
江戸も中期までは、面打ちといえば、刀を上から打ち下ろしたりせず、顔面を押し斬りするのが主流だった。
そうしなければ、乱戦の場合、振りあげたぶんだけ攻撃が遅れるし、相手が兜や鉢金をつけていた場合、致命傷をあたえるのが、困難だからだ。
しかし、竹刀剣術が流行すると、そうした戦場における実用的な手法は、すっかり忘れ去られ、見た目が派手な、打ち下ろす面打ちに変わっていった。
もちろん、新八が剣術をはじめたころには、もうすでに、竹刀剣術の全盛期である。
しかし、増田蔵六に、ふた月ばかり稽古をつけてもらい、すっかり古式の形が身についていた。
三人めが気絶すると、残りは、浪人者がひとり。
勢いにまかせて、新八は、浪人者に歩み寄ろうとしたが、ぴたり、と立ち止まった。
その浪人者には、いささかの殺気もない。
目の前で、次々と連れが倒されたというのに、眉ひとつ動かすことなく、端然と立ったまま、新八と目が合うと、微笑を浮かべた。
「さて……あんたもやるかい?」
新八が訊いた。
「いや。遠慮しておこう。おぬしらふたりとやっては、十にひとつも勝ち目はなかろう」
「冷てえな。仲間が痛めつけられたっていうのによ」
いつの間にか、残りふたりを倒した商人が、新八の横に立っていた。
浪人者は、朗らかに笑った。
「仲間? 勘違いするな……たまたま麓で行きあって、道連れになっただけにすぎぬ」
そう言うと、
「では、御免こうむる」
男は駒木野関の方向に向かって、悠然と歩き去る。
新八と商人は、黙ってそれを見送った。
「行かせちまって、いいのかい?」
しばらくして、商人がぽつりと言うと、新八は、長いため息を吐いた。
「その方がいいのさ……」
「どういう意味だ?」
「あの野郎とやったら、どっちが勝つにしろ、まちがいなく、命のやり取りになるってことだ」
「あいつ、そんなに強いのか?」
「ああ。竹刀のまま、一歩踏みだしていたら、こちらがあの世行きだった」
「それで立ち止まったのか……」
商人が浪人者に目をやるが、小さくなった後ろ姿が、春の霞みに溶けこんでゆくところだった。
「おい。うどんの約束だ。茶店に行こうぜ……もう、茹であがる頃合いだろう」
「ああ、好きなだけ食ってくれ。ところで、あんたの名前は?」
「松前浪人。永倉新八。――おぬしは?」
「おっと、いけねえ。名乗りがまだだった。俺は、武州多摩郡石田村。
――土方歳三だ」
茶店では、新八が黙々と、無心にうどんを食べている。
歳三は呆れ顔で、黙ってそれを眺めていた。
なにしろ、最初に三人前平らげた挙げ句、さらに、もう一人前追加したのだから、無理もない。
「新八つぁん。よく食うねえ」
「ああ、江戸ではあんまり、うどんなんて食わないからな……」
「俺は、うどんなんて、食い飽きたけどね」
現在からは、考えられないことだが、武州から甲州にかけて、当時は、小麦が主食であった。
武州には「武蔵野うどん」、甲州に「ほうとう」、秩父に「にぼと」として、その名残が残っている。
それは、日野三千石といわれた、豊かな穀倉地帯に暮らす者も例外ではなく、お大尽といわれた歳三の家でも、米の飯などは、たまに夕食にでるぐらいで、普段は、うどんを食べていたのだ。
当時、武州では、「かて」「かてうどん」などと呼ばれ、それは、文字通り日々の糧に他ならなかった。
「これが、ツルツルと、いくらでも入るから、始末に負えねえ」
「ところで……あの龍尾剣。いったい、誰から習ったんだい?」
「驚いた。トシさん。よく龍尾剣だってわかったな」
「俺は、多摩の生まれ……天然理心流の本場だぜ。でも、新八つぁんは、江戸っ子だ。
市ヶ谷甲良屋敷の試衛館のほかに、道場はないのに、そこでは新八つぁんとは、一度もお目にかかったことがないからな」
「習ったのは、千人同心の増田蔵六師範からだ」
「なるほど……そうじゃあないかと思ったぜ。あの見事な気組は、蔵六師範そのものだ」
「なあに、本来、俺は神道無念流。まだまださ……トシさんも、天然理心流を?」
「ああ。正式に入門したわけじゃないが、近藤周助師範と、日野宿名主の義理の兄貴からね」
「日野っていうと、甲州道中の宿場だな。石田村ってのは、日野に近いのかい?」
「日野宿から少し南寄り。浅川をわたれば高幡不動。反対に、多摩川をわたれば、右が谷保村、左が柴崎村さ」
「柴崎村……!」
新八の箸が止まり、歳三のことを、まじまじと見つめた。
「なあ、つかぬことを訊くが、ふた月ぐらい前に、三味線堀の賭場で喧嘩しなかったか?」
「なんで知ってる?」
歳三の目が細められる。
あの冷ややかな、肉食獣の目だった。
「ふふふ。まさか、こんなところで、出会うとはな……」
「どういう意味だ?」
「トシさん……あんたが喧嘩した相手は、俺の仲間で、太吉ってやつだ」
「仲間……今さら意趣返しか?」
「勘違いするな。やつは、別にトシさんに、恨みなんて持ってやしないさ。終わったら、喧嘩のことは、さっぱり水に流すのが江戸っ子だ」
「なら、なぜそんなことを……」
「ほかでもねえ。そんときトシさんが使った技に、興味があるのさ」
「そういうことか……あれは、俺が自分で考えた技だ。特別に教えてやろうか?」
「いや、それじゃあ、意味がねえ。俺は、気になってしかたないんで、ずっと考えていたんだ……
あの間合いで、抜き打ちに太ももを斬るのは、容易じゃあねえはずだ」
「そう……普通のやり方じゃ、絶対に無理だね。だが、俺の技は、そこに、ひと工夫くわえたのさ。それは……」
「待て!」
新八が、あわてて止めた。
「その先を言うな……もう少しで、思いつきそうなんだ」
歳三は、新八の真剣な表情を見て可笑しくなった。
「よし。じゃあ、こうしよう。今度会ったときまで、お預けにして、もし、新八つぁんが謎を解いたら、またうどんを奢ろうじゃねえか」
「わかった……約束だぜ。謎が解けたら、うどんを腹いっぱいご馳走だ」
「承った。男に二言はねえ」
歳三が茶店をあとにしても、新八は、しばらく座っていた。
さすがに食べ過ぎて、動くことができなかったのだ。
「あれまあ、お侍さん。食べなすったねえ……」
そこに、茶店の婆さんが、食器を下げにやってきた。
「あんたのうどんは、旨かったぜ……甲州道中でいちばんだ」
「嬉しいねえ。もっと食べるかね?」
「いや、さすがに腹いっぱいだ。もう、動けねえ……」
「剣術遣いは、よく食べること……四人前を食べたのは、お侍さんと、全福寺の秀全和尚様ぐらいだよ」
「誰だい、その秀全和尚って」
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「へえ……お寺の和尚のくせに、剣術好きなのか。そいつは、たしかに変わり者だ」
「檀家回りに、甲府に行くときも竹刀を担いで、ここいらじゃあ、知らねえやつはいねえだよ」
「その和尚さんは、甲府まで剣術を、習いに行ってるのか」
「へえ。なんでも、北辰一刀流の目録持ちだそうですよ」
「はっはっは。そいつは愉快な和尚さんだ。婆さん。詳しく教えてくれ」
新八は、その和尚を訪ねる気になっていた。
剣術好き、というところにも興味をひかれたが、なによりも、甲府の剣術道場の事情を、よく知っていそうだからである。
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歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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