18 / 51
17 強瀬村 秀全和尚
しおりを挟む
岩殿山は、大月宿の手前、強瀬という集落にあった。
険しい山ではなく、山頂に駱駝の背中のような、ふたつの瘤がある低い山である。
甲州道中を、小仏峠から与世、上野原、犬目、鳥沢と歩き、新八が強瀬に着いたのは、午後遅い刻限だ。
全福寺の境内は、山あいにあるわりには、開放的で明るいが、ひと気がなかった。
新八は、微かに人の声がきこえてくる社務所に向かう。
社務所からは、老成した声と、子どもたちの唱する声が、風に乗って、のんびりと響いてくる。
おそらく素読でも、しているのであろう。
(懐かしいな。師曰く、か……)
当時の日本人の教育水準、識字率の高さは、世界一であった。
職人や棒手振りなど、ロンドンならスラムに暮らし、文字などは、一生縁がないような職業の者ですら、論語を解し、読み本を楽しんでいたのだ。
当然、新八も、幼いころ四書五径を習わされたが、剣術に夢中で、ほとんど覚えていない。
然れどもその気質の禀
或いは齋しき能わず
是をもって皆その性の有する所を知って
これを全うするある能わざるなり
子どもたちが声を揃え、大学を素読する声が、かすかにきこえてくる。
素読というのは、文字通り論語、大学などを素読、つまり意味合いは考えず、読み上げるだけのものであるが、何度も読み返すうちに、ふしぎと、その意味がわかってくるものだ。
人の気質は、一人ひとり異なっているが、誰もが、もって生まれたその性質を、活かせるわけではない……と、いうような意味合いだろうと考えながら、社務所の陛に腰掛け、春の陽射しを浴びるうちに、新八は、いつの間にか、舟を漕ぎだした。
「――――し…もし、……お武家様」
「――ん、ああ……」
「そのような場所で、お休みになっては、風邪を召されますよ……」
起こされて、眼を開くと、五十年配ぐらいだろうか。穏やかな顔の僧侶が立っていた。住職の秀全である。
「はっ、いかん……つい、うとうとしてしまったらしい」
「は、ははは。――春眠不覚暁 處處啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少。ですな。
お武家様。先ほどから、拙僧を待たれていたようですが、なにかご用でも……」
「ああ……いけねえ。俺、いや拙者は、武者修行中の松前浪人、永倉新八と申します。じつは……」
と、茶店の婆さんからきいて、わざわざ、やってきたことを説明する。
「おくま婆さんめ。また、あることないこと吹聴しおって。まあ、うどん四人前は事実だが……」
「いや、拙者がうかがいたいのは、うどんではなく……」
「剣術のことですな……こんなところでは、話もできません。まあ、お入りください」
新八は、社務所のなかに通された。
きちんと文机が並べられており、寺子屋として使われているようだ。
壁には、子どもたちの書が飾られ、誰の手になるものか、強瀬の村を描いたへたくそな絵が掛かっていた。
「永倉殿は、武者修行中の身ということでしたな。となると、訊きたいのは、甲府の剣術道場について……でしょうかな」
「はい。おっしゃるとおりです」
「さよう……甲府には、勤番の直参が二百人ほどおる……」
甲府には、そのほかにも、代官所の役人や浪人、近隣の武田遺臣の郷士、剣術好きの百姓などが大勢いるので、その何倍もの剣術道場の、潜在的な需要があった。
なかでも、いちばん流行っているのが、秀全も通う、北辰一刀流の道場で、門弟は、軽く二百人は超えるというから、かなり大きな規模である。
その他にも、神道無念流、甲源一刀流、直心影流、心形刀流、などの剣術道場に、田宮流、長谷川英心流などの居合。気楽流、天神真楊流などの柔術と、多くの道場がある。とのことだった。
「拙者は、神道無念流、岡田十松門人なのですが、甲府にある当流の道場は、どういった……」
「師範は、新家なにがしとか申したの……たしか、三代目戸賀先熊太郎の門人じゃ」
戸賀先熊太郎は、神道無念流の流祖・福井兵衛門の門人。初代は武州に道場を構えていたが、三代目は、水戸藩に仕えたため、江戸から水戸に移住して弘道館師範役。
安政五年、再び江戸に出て、小石川舟河原橋畔に移転した。慶応元年没。
「なるほど。戸賀先師範の門人なら、腕にまちがいは、なさそうですね」
「ふむ。しかし、腕前はともかく、あそこの道場は、門人がいかんよ。荒くれ者が集まって、どうにもガラが悪い」
「ははあ……話によると甲州は、無頼の徒が多いとききましたが、まことでしたか」
「不本意だが、隠してもしかたない。真実の話じゃ。悪いことは言わん。あそこに行くのは、やめなされ」
やめろと言われても、そこに行くのが目的だ。とも言えず、新八は、話題を逸らすことにした。
「はあ。なるほど、よくわかりました……ところで、なぜご住職は、剣術の修行をなさっておられるのでしょうか?」
「剣禅一如……などと言っても、納得せぬだろうな」
「禅で強くなるなら、坊主は、みな達人だ……とは、俺の師匠の口癖です」
ふたりが揃って笑う。
秀全は、ふと、真面目な顔になり、
「拙僧が剣術をする理由……それは、未練にほかならない」
と、新八に言った。
「未練……で、ございますか」
「さよう。拙僧は、大身の直参旗本の家に生まれた……じゃが、齢《よわい》七歳にして、出家にだされたのじゃ」
「七歳で出家……」
「もちろん、まだ幼子に出家の意味など、わかろうはずもない。では、なぜ出家させられたのか……
それは、出家せねば、拙僧の命が危うかったからじゃ」
秀全が続ける。
「父は、千五百石と大身の旗本じゃが、特に目立つところもない、ごく普通の役方(文官。武官は番方)であった。
父がまだ、家督を継いで間もないころ、妻を迎えたが、そのとき母は、すでに腹に拙僧を宿していた。父は、それを承知で嫁に迎えたのじゃ……」
秀全の母親は、隣に住んでいた御家人の娘で、父とは幼なじみであった。
それが、さる大名家に行儀見習いにでたとき、藩主の手がついた。
当時の感覚ならば、大名家の藩主の手がついた。というのは、ある意味、慶事といってよい。
運がよければ、我が子が次期藩主に……などということが、ないとは、いえないからだ。
しかし、その娘にとって、懐妊は、災い以外の何物でもなかった。
懐妊ともなれば、側室になることが通例である。
実際に、そういう話も持ちあがっていたが、藩主の正室がそれを許さなかった。
正室は、さる大藩から、家格の低い家に輿入れしており、その経緯が、誇りをひどく傷つけていたのだ。
やたらに、プライドだけは高い正室が、自分以外の血筋の者が、藩を継ぐのは許せない、という理由で、娘は、三百両の手切れ金とともに、放逐されてしまった。
「――けっ、ひでえ話だ。どんな高貴なお血筋か知らねえが、金でなんとかなると思ってやがる。何様のつもりだ!」
新八は、本気で怒っている。この男、曲がったこと、卑怯なことが大嫌いなのだ。
「娘が放りだされた時点で、この話は、終わりのはずじゃった。ところが……」
正室は、現在でいうところの不妊症であった。いくら努力しても、体質的に、子どもができないのだ。
そこで、正室の連れてきた家来から、
「実家である大藩の親類から養子を迎えて……」
という、話が持ちあがったが、納得できないのが藩主の家臣たちだった。
これでは、実質的に乗っ取りである。家内が真っ二つに割れて、事態は、あわや、お家騒動の様相を呈してきた。
このとき、一躍脚光を浴びたのが、放逐された娘が産んだ子どもだった。
反側室派は、娘の子どもを、神輿に担ごうとしていた。
「母や、拙僧に、何度も刺客が差しむけられたそうじゃ。一度などは、乳母が危うく大怪我をするところじゃった」
「くそっ、俺がいたら、そんな性根の腐ったやつらは、みんな叩っ斬ってやるんだが……」
新八が、まるで、我がことのように憤慨した。
「拙僧の父は、真面目で善良な人間じゃったが、しょせん役方。暴力に対抗するすべなど、あろうはずもない」
「それで出家を……」
「うむ。僧籍に入ってしまえば、家督を継ぐことなぞ、できない相談じゃからな」
「それが、どう未練なんです?」
「もし、そのような騒動に、巻き込まれなかったらば、いまごろ拙僧は、直参旗本だったかもしれぬ……」
「しかし、それだけで、そんなにも武士になりたい……などと、思うものなのでしょうか?」
「いや、拙僧が武士に憧れを抱いたのは、そのあとの話じゃ」
「……?」
秀全は、出家のため、浅草今戸の潮江院という寺に入ることになった。落語家の初代・三笑亭可楽の墓所があることで知られる寺だ。
しかし、そういった事情を知らぬ正室派のものが、ひそかに刺客を放っていた。
父は、そのため、昔からの知り合いを、用心棒に雇った。
潮江院に入ってしまえば、秀全の出家が明らかになり、襲撃も熄むだろうが、それまでは、ひとときたりとも、油断はできなかったからだ。
浅草今戸は、今戸焼きなどで知られているように、江戸の郊外である。
待乳山聖天宮が見えてくるころには、田や畑ばかりで、あちこちに雑木林などがあり、刺客が襲いかかるには、絶好の場所だった。
父の友人の用心棒は、三十年配の無口な男で、着物には、継ぎなどがあたっているが、精悍な表情のせいか、貧乏臭くは見えない。
歩みぶりには、まったく油断が感じられず、手を引かれる秀全は、刺客が怖いなどとは、少しも思わなかった。
ふたりが、今戸橋の近くまできたときだった。
道ばたの松並木の下藪から、抜刀した屈強な浪人が三人、ふたりの前に立ちふさがった。
「この子は、これから出家するところだ。おぬしらが斬ったりせずとも、お家の跡を継ぐことはない。さあ、わかったら、刀を引きなさい!」
「すまぬな……我らは、ただ、雇い主に従うだけ。そこもとらの事情を考慮する権限はない」
「愚かな……」
先頭の浪人が、正眼に構えた刀を突きこんだ。
同時に、ひとりが後ろに回りこみ、退路を絶つ。
そのとき秀全は、用心棒の腰間から、一筋の閃光が煌めくのを見た。
先頭の浪人が、崩れ落ちた。
次の瞬間、抜きあげた刀が、きらり、きらりと閃き、ひと息のあいだに、残りのふたりが倒れる。
それは、まるで、名人の舞いのような、優雅で美しい動きだった。
三人を、斬ってたおした用心棒は、息ひとつ乱しておらず、
「さあ、ゆこう……潮江院は、もう目の前だ」
と、秀全の手を引いた。
秀全は、山門をくぐり、境内に入る。潮江院のなかでは、住職が待っていた。
用心棒は、秀全の手を離し、
「世の中は、なんと理不尽な。だが、親を恨むでないぞ。――よいか。強く生きるのだ」
そう言うと、踵を返して歩み去ってゆく。
秀全は、わけもなく涙が溢れる霞む目で、いつまでもその姿を見送っていた。
斎藤秀全。後の一諾斎である。
一諾斎は、甲陽鎮武隊として、甲州に向かう土方歳三に協力を請われ、僧籍を捨て新選組に参加。
流山、宇都宮、会津と転戦し、仙台にて、松本捨助とともに出頭。明治初年を、市村鉄之介とともに、佐藤彦五郎宅で過ごし、晩年は、多摩の地で教育に尽力し、尊敬を集めた。彼の創立した小学校は、いまも多摩の地に残る。
新選組に参加したのは、齢五十六。最後に彼は、立派な武士になったのだ。
険しい山ではなく、山頂に駱駝の背中のような、ふたつの瘤がある低い山である。
甲州道中を、小仏峠から与世、上野原、犬目、鳥沢と歩き、新八が強瀬に着いたのは、午後遅い刻限だ。
全福寺の境内は、山あいにあるわりには、開放的で明るいが、ひと気がなかった。
新八は、微かに人の声がきこえてくる社務所に向かう。
社務所からは、老成した声と、子どもたちの唱する声が、風に乗って、のんびりと響いてくる。
おそらく素読でも、しているのであろう。
(懐かしいな。師曰く、か……)
当時の日本人の教育水準、識字率の高さは、世界一であった。
職人や棒手振りなど、ロンドンならスラムに暮らし、文字などは、一生縁がないような職業の者ですら、論語を解し、読み本を楽しんでいたのだ。
当然、新八も、幼いころ四書五径を習わされたが、剣術に夢中で、ほとんど覚えていない。
然れどもその気質の禀
或いは齋しき能わず
是をもって皆その性の有する所を知って
これを全うするある能わざるなり
子どもたちが声を揃え、大学を素読する声が、かすかにきこえてくる。
素読というのは、文字通り論語、大学などを素読、つまり意味合いは考えず、読み上げるだけのものであるが、何度も読み返すうちに、ふしぎと、その意味がわかってくるものだ。
人の気質は、一人ひとり異なっているが、誰もが、もって生まれたその性質を、活かせるわけではない……と、いうような意味合いだろうと考えながら、社務所の陛に腰掛け、春の陽射しを浴びるうちに、新八は、いつの間にか、舟を漕ぎだした。
「――――し…もし、……お武家様」
「――ん、ああ……」
「そのような場所で、お休みになっては、風邪を召されますよ……」
起こされて、眼を開くと、五十年配ぐらいだろうか。穏やかな顔の僧侶が立っていた。住職の秀全である。
「はっ、いかん……つい、うとうとしてしまったらしい」
「は、ははは。――春眠不覚暁 處處啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少。ですな。
お武家様。先ほどから、拙僧を待たれていたようですが、なにかご用でも……」
「ああ……いけねえ。俺、いや拙者は、武者修行中の松前浪人、永倉新八と申します。じつは……」
と、茶店の婆さんからきいて、わざわざ、やってきたことを説明する。
「おくま婆さんめ。また、あることないこと吹聴しおって。まあ、うどん四人前は事実だが……」
「いや、拙者がうかがいたいのは、うどんではなく……」
「剣術のことですな……こんなところでは、話もできません。まあ、お入りください」
新八は、社務所のなかに通された。
きちんと文机が並べられており、寺子屋として使われているようだ。
壁には、子どもたちの書が飾られ、誰の手になるものか、強瀬の村を描いたへたくそな絵が掛かっていた。
「永倉殿は、武者修行中の身ということでしたな。となると、訊きたいのは、甲府の剣術道場について……でしょうかな」
「はい。おっしゃるとおりです」
「さよう……甲府には、勤番の直参が二百人ほどおる……」
甲府には、そのほかにも、代官所の役人や浪人、近隣の武田遺臣の郷士、剣術好きの百姓などが大勢いるので、その何倍もの剣術道場の、潜在的な需要があった。
なかでも、いちばん流行っているのが、秀全も通う、北辰一刀流の道場で、門弟は、軽く二百人は超えるというから、かなり大きな規模である。
その他にも、神道無念流、甲源一刀流、直心影流、心形刀流、などの剣術道場に、田宮流、長谷川英心流などの居合。気楽流、天神真楊流などの柔術と、多くの道場がある。とのことだった。
「拙者は、神道無念流、岡田十松門人なのですが、甲府にある当流の道場は、どういった……」
「師範は、新家なにがしとか申したの……たしか、三代目戸賀先熊太郎の門人じゃ」
戸賀先熊太郎は、神道無念流の流祖・福井兵衛門の門人。初代は武州に道場を構えていたが、三代目は、水戸藩に仕えたため、江戸から水戸に移住して弘道館師範役。
安政五年、再び江戸に出て、小石川舟河原橋畔に移転した。慶応元年没。
「なるほど。戸賀先師範の門人なら、腕にまちがいは、なさそうですね」
「ふむ。しかし、腕前はともかく、あそこの道場は、門人がいかんよ。荒くれ者が集まって、どうにもガラが悪い」
「ははあ……話によると甲州は、無頼の徒が多いとききましたが、まことでしたか」
「不本意だが、隠してもしかたない。真実の話じゃ。悪いことは言わん。あそこに行くのは、やめなされ」
やめろと言われても、そこに行くのが目的だ。とも言えず、新八は、話題を逸らすことにした。
「はあ。なるほど、よくわかりました……ところで、なぜご住職は、剣術の修行をなさっておられるのでしょうか?」
「剣禅一如……などと言っても、納得せぬだろうな」
「禅で強くなるなら、坊主は、みな達人だ……とは、俺の師匠の口癖です」
ふたりが揃って笑う。
秀全は、ふと、真面目な顔になり、
「拙僧が剣術をする理由……それは、未練にほかならない」
と、新八に言った。
「未練……で、ございますか」
「さよう。拙僧は、大身の直参旗本の家に生まれた……じゃが、齢《よわい》七歳にして、出家にだされたのじゃ」
「七歳で出家……」
「もちろん、まだ幼子に出家の意味など、わかろうはずもない。では、なぜ出家させられたのか……
それは、出家せねば、拙僧の命が危うかったからじゃ」
秀全が続ける。
「父は、千五百石と大身の旗本じゃが、特に目立つところもない、ごく普通の役方(文官。武官は番方)であった。
父がまだ、家督を継いで間もないころ、妻を迎えたが、そのとき母は、すでに腹に拙僧を宿していた。父は、それを承知で嫁に迎えたのじゃ……」
秀全の母親は、隣に住んでいた御家人の娘で、父とは幼なじみであった。
それが、さる大名家に行儀見習いにでたとき、藩主の手がついた。
当時の感覚ならば、大名家の藩主の手がついた。というのは、ある意味、慶事といってよい。
運がよければ、我が子が次期藩主に……などということが、ないとは、いえないからだ。
しかし、その娘にとって、懐妊は、災い以外の何物でもなかった。
懐妊ともなれば、側室になることが通例である。
実際に、そういう話も持ちあがっていたが、藩主の正室がそれを許さなかった。
正室は、さる大藩から、家格の低い家に輿入れしており、その経緯が、誇りをひどく傷つけていたのだ。
やたらに、プライドだけは高い正室が、自分以外の血筋の者が、藩を継ぐのは許せない、という理由で、娘は、三百両の手切れ金とともに、放逐されてしまった。
「――けっ、ひでえ話だ。どんな高貴なお血筋か知らねえが、金でなんとかなると思ってやがる。何様のつもりだ!」
新八は、本気で怒っている。この男、曲がったこと、卑怯なことが大嫌いなのだ。
「娘が放りだされた時点で、この話は、終わりのはずじゃった。ところが……」
正室は、現在でいうところの不妊症であった。いくら努力しても、体質的に、子どもができないのだ。
そこで、正室の連れてきた家来から、
「実家である大藩の親類から養子を迎えて……」
という、話が持ちあがったが、納得できないのが藩主の家臣たちだった。
これでは、実質的に乗っ取りである。家内が真っ二つに割れて、事態は、あわや、お家騒動の様相を呈してきた。
このとき、一躍脚光を浴びたのが、放逐された娘が産んだ子どもだった。
反側室派は、娘の子どもを、神輿に担ごうとしていた。
「母や、拙僧に、何度も刺客が差しむけられたそうじゃ。一度などは、乳母が危うく大怪我をするところじゃった」
「くそっ、俺がいたら、そんな性根の腐ったやつらは、みんな叩っ斬ってやるんだが……」
新八が、まるで、我がことのように憤慨した。
「拙僧の父は、真面目で善良な人間じゃったが、しょせん役方。暴力に対抗するすべなど、あろうはずもない」
「それで出家を……」
「うむ。僧籍に入ってしまえば、家督を継ぐことなぞ、できない相談じゃからな」
「それが、どう未練なんです?」
「もし、そのような騒動に、巻き込まれなかったらば、いまごろ拙僧は、直参旗本だったかもしれぬ……」
「しかし、それだけで、そんなにも武士になりたい……などと、思うものなのでしょうか?」
「いや、拙僧が武士に憧れを抱いたのは、そのあとの話じゃ」
「……?」
秀全は、出家のため、浅草今戸の潮江院という寺に入ることになった。落語家の初代・三笑亭可楽の墓所があることで知られる寺だ。
しかし、そういった事情を知らぬ正室派のものが、ひそかに刺客を放っていた。
父は、そのため、昔からの知り合いを、用心棒に雇った。
潮江院に入ってしまえば、秀全の出家が明らかになり、襲撃も熄むだろうが、それまでは、ひとときたりとも、油断はできなかったからだ。
浅草今戸は、今戸焼きなどで知られているように、江戸の郊外である。
待乳山聖天宮が見えてくるころには、田や畑ばかりで、あちこちに雑木林などがあり、刺客が襲いかかるには、絶好の場所だった。
父の友人の用心棒は、三十年配の無口な男で、着物には、継ぎなどがあたっているが、精悍な表情のせいか、貧乏臭くは見えない。
歩みぶりには、まったく油断が感じられず、手を引かれる秀全は、刺客が怖いなどとは、少しも思わなかった。
ふたりが、今戸橋の近くまできたときだった。
道ばたの松並木の下藪から、抜刀した屈強な浪人が三人、ふたりの前に立ちふさがった。
「この子は、これから出家するところだ。おぬしらが斬ったりせずとも、お家の跡を継ぐことはない。さあ、わかったら、刀を引きなさい!」
「すまぬな……我らは、ただ、雇い主に従うだけ。そこもとらの事情を考慮する権限はない」
「愚かな……」
先頭の浪人が、正眼に構えた刀を突きこんだ。
同時に、ひとりが後ろに回りこみ、退路を絶つ。
そのとき秀全は、用心棒の腰間から、一筋の閃光が煌めくのを見た。
先頭の浪人が、崩れ落ちた。
次の瞬間、抜きあげた刀が、きらり、きらりと閃き、ひと息のあいだに、残りのふたりが倒れる。
それは、まるで、名人の舞いのような、優雅で美しい動きだった。
三人を、斬ってたおした用心棒は、息ひとつ乱しておらず、
「さあ、ゆこう……潮江院は、もう目の前だ」
と、秀全の手を引いた。
秀全は、山門をくぐり、境内に入る。潮江院のなかでは、住職が待っていた。
用心棒は、秀全の手を離し、
「世の中は、なんと理不尽な。だが、親を恨むでないぞ。――よいか。強く生きるのだ」
そう言うと、踵を返して歩み去ってゆく。
秀全は、わけもなく涙が溢れる霞む目で、いつまでもその姿を見送っていた。
斎藤秀全。後の一諾斎である。
一諾斎は、甲陽鎮武隊として、甲州に向かう土方歳三に協力を請われ、僧籍を捨て新選組に参加。
流山、宇都宮、会津と転戦し、仙台にて、松本捨助とともに出頭。明治初年を、市村鉄之介とともに、佐藤彦五郎宅で過ごし、晩年は、多摩の地で教育に尽力し、尊敬を集めた。彼の創立した小学校は、いまも多摩の地に残る。
新選組に参加したのは、齢五十六。最後に彼は、立派な武士になったのだ。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる