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20 新家粂太郎

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 結局、新八は、甲府には向かわず、夜になっても強瀬の全福寺にいた。
 秀全和尚が、江戸者の新八の来訪を喜び、引き留めたからだ。
 和尚の話は、たいへんおもしろく、新八は、すっかり引きこまれ、そうこうしているうちに、檀家の者で剣術をするものが、集まりはじめ、稽古がはじまった。

 強瀬から道場のある甲府までは、毎日通えるような距離ではないので、このあたりの集落で、剣術を習う十数名の者は、全福寺に集まって稽古していたのだ。
 この村には、かつて千葉周作の玄武館にいたという、田中金兵衛という四十年配の浪人がいて、その男が皆に稽古をつけている。
 稽古は、思ったより本格的で、はじめは見学していた新八も、こうなると剣術好きの血が騒ぎだし、いつの間にか稽古に参加していた。
 そして気づいたら、すっかり夜になってしまい、秀全和尚の勧めもあり、全福寺に宿泊することになった。

 客間に通された新八は、秀全和尚と夕食を共にした。献立は、もちろん精進料理だったが、新八には、檀家から寄進された酒が、特別に供された。
「和尚殿。わざわざ気をつかっていただき、かたじけない」
 新八が、あまり申し訳なさそうには見えない表情で言った。
「なに。わしは般若湯は、たしなまんので、寄進されても料理に使うだけ……遠慮せず、どんどんやってくだされ」

「それにしても、和尚殿の剣術が本格的なのには、驚かされました。北辰一刀流は、こちらに来てから習得されたのでしょうか?」
「さよう……この寺にやってきたら、たまたま甲府の檀家の店子に、北辰一刀流の道場があっての。何度か訪れているうちに、誘われて入門したのじゃ」
「先ほど、お話をうかがった、甲府緑町にある熊田道場ですね」
「新八さんも甲府にゆくのなら、柄の悪い神道無念流の新家道場よりも、流儀はちがっても、そちらを訪ねなされ」
「道場の熊田師範は、千葉周作先生の直弟子なのでしょうか?」
「うむ。先ほど稽古にきていた、田中さんの兄弟子にあたる、たいへん立派な人物じゃ。教えを受ければ、かならずや得るものがあるじゃろう」
「はい。ぜひ伺いたいと思います」
 新八が本心から言った。

「ところで、新八さん。先ほど拙僧に、なぜ剣術の修行をはじめたのか……と、尋ねたが、新八さんは、なんのために剣術を修行しておるのかな?」
「それは……誰よりも強くなるためです」
「ほう……誰よりも、な。しかし、強くなることに、どんな意味があるのかな?」
「俺には、難しいことは、わかりません……ただ、誰にも負けたくないし、剣術をもって、世の中を、わたってゆきたいと思っています」
「ふふふ……それは、ある意味、迷いがなくてよいが……
しかし、強くなるということは、それだけ、己れの行動に規律がなければ、ただの暴力に、なりはしないかの」
「気障りな言い方かもしれませんが、俺は、いつも弱い者の味方でありたいと思っています」
「うむ。見上げた心意気じゃ。しかし、この先いつか、必ず己れの信念が試されるときがくるじゃろう。
己の剣をどう活かすのか、それを頭の隅で、常に問い続けなさい」

「はい。そうします」
「そして、もうひとつ。世の中は、すべてがはっきりと、白黒で片がつくわけではない……ということを、心に置いておきなされ」
「それは、どういうことでしょうか?」
「新八さん。あんたは、こう、と決めたら脇目も振らず、まっすぐに突き進む。じゃが……頑固で意固地なのと、“己れの信念を曲げずに生きる”ことは、違う……ということだ。
ぶれないのはよいことだが、物事に柔軟に対応することも覚えるのじゃ。
――それは、剣術の極意でもある」
「やっぱり俺は、単純すぎますかね……」
「じゃが、そこが新八さんの良いところでもある。ただし、頑なになりすぎてはいかん……ということじゃな。道は、決してひとつではない」

 たしかに、新八は猪突猛進。こうすると決めたら、ひたすら脇目も振らずにすすんできた。
 なにしろ武者修行のため、欠落までしてしまったのだ。
「わかりました。肝に命じておきます」
「ところで、千葉周作言うところの、北辰一刀流の極意をご存じかな?」
「いえ。知りません……」
「――夫剣者瞬息心気力一致(それ、けんは、しゅんそく、しんきりょく、いっち)」
「むずかしいですね」
「いや、簡単なことじゃよ。
『心』とは、敵を広く一体に見ること。『気』とは、どこを攻撃しようかと思うこと。そして、それを実際に行うのが『力』……
このが一致したとき、はじめて剣は活きるのじゃ」
「なるほど……」
 新八はそれが、増田蔵六に授けられた、天然理心流の気、剣、体の一致。という教えと同じだと気づいた。

「俺は、いままで、ひたすら剣を実践することしか考えていませんでした。百の理屈より、この身体が覚えた実技がすべてだと……」
「それは、決して間違いではない。じゃが、そのことを知るのと、知らぬのでは、天地の差があるということじゃ」
「これからは、心して修行したいと思います」
「ふふふっ……などと、偉そうなことが言えるほど、拙僧の剣術は、たいしたことがないがの」
「和尚殿は、厳しい仏門の修行を重ねただけあって、そのお言葉には、重みがあります」
「ただし、それができるか否かは、別問題じゃがな……拙僧などは、教え導くのが仕事じゃが、そういう自分は、日々迷い、惑い、苦しむことばかりじゃ」

「和尚殿でも、迷い惑うものなのですか……厳しい修行を経た僧侶というのは、てっきり煩悩などは、ないものかと……」
「それは、違う。この世に生まれ、なにも悩まず、なにも惑わなかったら、それはもう、ひととは呼べまい……
じゃが、それでも道を逸れたりせぬよう、精進するのが、ひとというものよ」
 新八は、自分よりはるかに歳上の、しかも僧侶が、同じように悩み苦しむ……ということに、一種の衝撃を受けていた。
 しかし、それと同時に、秀全という男に、非常な親しみを覚えてもいた。
「まあ、固い話はこれまで。気分のよい夜じゃ。まあ一献……」
 自分だけ酒を飲むことに、多少の後ろめたさを感じつつ、新八は、勧められるまま、酒を飲みほした。

 新八が秀全と一献傾けていたころ……。
 甲府柳町にある剣術道場でも、ふたりの男が酒を飲んでいた。
 ひとりは、道場主の新家粂太郎である。
 新家は、切れ長の目をした優男で、どこか育ちの良さそうな雰囲気をかもしているが、目付きには、心なしか暗いものがあった。
 もうひとりの男は、病的に痩せている。
 浅黒い顔に、野生の獣のような精悍さがみなぎっているが、左目に革の眼帯をしていた。
 どうやら片目が見えないらしい。

「おい、粂太郎……あの用心棒を斬ったのは、まずかったな。ひと死にがでれば、八州廻りも本腰をいれる」
 眼帯の男が、皮肉な口調で言った。
「わかっておる。今朝、頭領にも言われた……しばらく水戸で頭を冷やせとな。
だが、しかたがなかったのだ。やつとは、青梅宿の道場で、以前顔を合わせたことがある。やつも気づいていたようだ……それよりも、仲間がふたり殺られたのが痛い」
「今回は、祐天が助っ人をよこしてきたのだろう」
「いつまでも、助っ人に頼るわけにはいかぬ……」
「まあな……ところで、頭領は、もう発ったのか?」
「ああ、清河先生のところへ、行くと言っていた。そういうお前はどうするのだ」

「老中の安部が死んで、堀田が老中主座についたが、開国論の井伊との争いは、きわどいところだ……その行方が決まるまで、少しも油断はできぬ。しばらくは、江戸で情報を集める」
「清河先生のところへは?」
「おぬしも、頭領も、清河先生なぞと呼んでいるが、俺はどうも、あの男が気に喰わん……俺は、勝手にやらせてもらおう」

 ふたりが密談していると、部屋の外から声がかかった。
「もし……旦那様。御子神様がいらっしゃいました」
 このような道場には、似つかわしくない、優しげな女の声だ。
 御子神ときいて、新家の眉間に皺が寄る。
「わかった。通せ」
「けっ、早速、清河の走狗いぬが、きやがった」
 眼帯の男が、苦々しく言った。
「とはいえ、この仕事は、やつがおらねば、なりたたん」
「俺たちは、まともな侍だ。やつのように、盗人の技術《わざ》は、持ち合わせておらぬからな……」

 しばらくすると、御子神紋多が姿をあらわした。
 相変わらず、整った顔に、気味の悪い笑顔を浮かべている。
「さっき、祐天の賭場で、ひとり良さげな男に声をかけた。話に乗ってくれば、明日この道場にくるはずだ……」
「ほう。新しい仲間か……どんなやつなのだ?」
「ありゃあ、江戸の御家人崩れでござるな。見るからに悪党面だが、剣術は、かなり使うであろう」
「そいつは使えそうだな。祐天に助っ人をたのむと、高くつく……それでなくとも、あの博徒は、がめつくていかん」
 眼帯の男が、吐き捨てるように言った。どうやらこの男は、のべつなにかに噛みついていないと、気がすまないようだ。

 御子神は、口元を歪め、
「ふふ、ふ……どうやら祐天は、甲州の博徒仲間から、三井の卯吉の件で、総すかんを喰らって、かなり焦っているようだ。
早いうちに縁を切るか、こっそり殺ってしまったほうが、よいかも知れぬな……」
 と、言った。
 その顔は、たしかに笑顔だったが、いい知れぬ妖気が漂っており、何度も修羅場をくぐった新家ですら、背筋に寒気が走った。
「しかし、やつがネタを仕入れてくれなければ、獲物を選ぶのにも苦労するからな」
「たしかに、そういう意味では、役に立つ男ではある。まあ、邪魔になったら拙者が斬る。あやつは、斬り甲斐がありそうだ」
 御子神は、楽しそうに、くつくつと笑った。
 眼帯の男が、片方しかない目で睨みつけるが、御子神の笑いは止まらなかった。

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