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21 真剣勝負

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 秀全和尚に引きとめられるまま強瀬村に、二泊したので、新八が甲府に着いたのは、山口と前澤の二日あとである。
 新八は柳町宿で、新家の道場の場所をたしかめると、立ち寄ることなく、緑町の北辰一刀流・熊田道場へ向かった。
 秀全の勧めもあり、道場主の熊田一心斎という剣客に、興味があったからだ。
 熊田は信州浪人で、千葉周作の門人。もともと、梶派一刀流の免許皆伝という下地があり、周作に入門すると、わずか一年で免許皆伝となった。
 しかし、その二年後には、甲府に道場を開いたため、江戸ではほとんど知られていない。その腕前は、秀全によると、周作を凌ぐといわれた天才、千葉栄次郎に、匹敵するほどの技量だそうである。

 道場は、緑町の外れにあった。唐破風屋根の玄関を備えた造りの立派な建物で、前に立つと、竹刀を打ちあう音や、気合い声がきこえてくる。
 案内を乞い、秀全からの添え状を手渡すと、新八は、客間に通された。
「お待たせいたした」
 あらわれたのは、つるりとした頭に、小さな髷を乗せた、まったく風采のあがらない、いたって普通の老人だった。
 これが以前の新八なら、侮ったかもしれないが、同じように田舎臭い年寄りに見えた増田蔵六が、凄まじい力量だったことを踏まえて、ひととおり挨拶をしながら、熊田をよく観察すると、

(この爺さんも喰わせものだな。よろよろ歩いているように見せかけてはいるが、頭は少しも上下していない……)

 たちまちその技量を見抜き、無意識に身体を緊張させた。
「ふふふっ、そんなに固くならんでもよい。わしは何も、いきなりとって喰ったりなぞせぬ」
 熊田は、座って茶を一服すると、にやりと笑い、新八に言った。
「申し訳ありません。先日、八王子横山宿で年寄りに、えらい目にあわされたので、つい……」
「なに、八王子だと? ははあ……おぬし、蔵六の爺いと、試合でもしたか」
「増田師範を、ご存知なのですか?」
「知ってるも何も……あやつとは、二度勝負をしたことがある」
 新八は驚いた。府中の猿屋の隠居の件といい、若いころの蔵六は、よほど血の気が多いたちらしい。
「勝負ですか……どちらが勝ったのでしょうか?」
 思わず新八が身を乗りだす。
「ふ、ふふ……知りたいか? わしがまだ玄武館にいたころの話だ。ある日、増田蔵六は、ふらりと、お玉が池の玄武館にやってきて……」

「――たのもう。拙者、武州八王子在、天然理心流・増田蔵六と申す。一手、ご教授願いたい」
 と、試合を挑んできた。道場破りである。
 そのとき周作は、水戸家・下屋敷の稽古に出向いていたため留守だった。
 玄武館は、他流試合を断るどころか、むしろ歓迎していた。
 千葉道場は層が厚い上に、腕達者が揃っている。
 今までに、成す術もなく破られたことは、一度もない。
 強いて苦戦した例をあげれば、五尺という、馬鹿らしく長い竹刀をひっさげて、江戸中の道場を荒らしまくった、筑後柳川藩の大石進と周作が、引き分けたことぐらいだろうか。
 そのさい、周作が漬物樽の蓋を鍔にして、大石の突きを防いだ……。
 などという、馬鹿馬鹿しい話があるが、もちろん講釈師が、張り扇で叩きだしたフィクションであろう。

 蔵六は、試合を申し込むと、たちまち五人の門弟を、鮮やかに一撃で降した。
 あまりに見事な試合ぶりに、玄武館に衝撃が走った。
 蔵六の攻撃は、いずれも、あえて先に撃たせ、それに合わせた後の先の技であった。
 その試合を見て、天然理心流などという、無名の流儀に、このような使い手がいたことに、熊田は戦慄を覚えていた。

 蔵六は、常に下段晴眼。
 相手が打ちこむタイミングに合わせ、一歩前に出ながら、下から竹刀を跳ねあげると、気づいたときには、その竹刀が、相手の面を押さえこむように捉えていた。

(ははあ、龍尾剣の応用だな)

 新八は、すぐに思いあたった。
「わしは試合を見て、対策を練る余裕があった。卑怯と思うかも知れんが、最初から手の内を晒したのが、やつの油断……と、自信満々で、やつに挑んだ」
 熊田は、正眼から素早い突きをだした。
 蔵六が、それを跳ねあげ、面撃ちにくるのは、想定の上だ。
 ところが……。
 蔵六はその突きを、腕をくるりと回すようなかたちで竹刀を逸らし、熊田の肩先に、ずしりと重い一撃をあびせた。

(――それは、車輪剣!)

 新八は、その技を、蔵六に習っていた。
 しかし熊田は、それより一瞬早く、手首を返し、外された竹刀を回すように、蔵六の胴を叩いた。
「――お見事! 一本、頂戴しました」
 熊田が動揺していると、驚いたことに、蔵六が、さっさと自分の負けを宣告した。
 たしかに、熊田の竹刀は、一瞬早く蔵六の胴を払っていた。しかし……。
 見学していた門弟たちから、喝采がおこる。
 当事者以外には、勝敗がはっきりとはわからない、きわどいタイミングであった。
 熊田が戸惑っているうちに、蔵六は、
「拙者のおよぶところではない。完敗でござる」
 深々と一礼すると、まだ呆然としている熊田を残し、さっさと玄武館を立ち去った。

(やつの撃ちこみは、一瞬遅れた……だが、これが真剣ならば、わしの撃ちこみは、やつに、かすり傷を負わせた程度。ならば結果は……)

 熊田には、はっきりとわかっていた。――この勝負は、だ。と、いうことが。

「それが、最初のたちあいであった。それから二年後……わしは、甲府に道場を開くことになっておったが、蔵六との試合のことが、喉に刺さった小骨のように、気になってしかたがなかった」
「それで、二度めのたちあいは……」
「わしは、八王子千人町におもむき、蔵六に、真剣勝負を申し入れた。もし、負けて生き恥を晒したら、その場で腹を切る覚悟だった……」
 新八は、ごくりと唾を飲みこんだ。
 蔵六の道場は、場末とはいえ、繁華な八王子にある。ひと目につかぬように、勝負は、歩いてすぐの番場の裏手にある、浅川の河原で行うことになった。

 それは、真夏のことであった。
 ふたりは刀を抜くと、河原に立ち、無言で向かいあう。
 土手の補強に植えられた柳からは、耳障りな蝉時雨が鳴り響いていたが、ふたりの耳には届いていなかった。
 真夏の強い日射しを浴びて、汗がしたたるが、どちらも動かない。

 どれだけそうしていたのか、熊田は、まったく覚えていなかった。
 しかし、真上にあった太陽は、勢いを失い、河原には長い影が伸びている。
 いつの間にか、蝉時雨がひぐらしの声にかわっていた。
「もう終わりにせぬか……」
 蔵六が唐突に口をひらいた。
 熊田は、長いため息をつくと、それにこたえる。
「承知した。どうやら拙者は、またしても貴殿には、勝てなかったようだ……」
「いや、この勝負。わしの負けじゃ。わしにはまだ、いま、ここで死ぬ覚悟は、できておらん」
「…………」
「どうやらおぬしは、わしと刺し違えるつもりらしい……見事な覚悟じゃ」
「しかし、勝負は……」
「なにも刀で斬りむすぶだけが勝負ではない。我が流儀では、気組というものを重んじる。おぬしと刺し違える覚悟が決められなかった、わしの負けじゃ」
 蔵六の言葉に、熊田が、ようやく緊張をといた。

――常在戦場。新八は、蔵六の言葉を噛みしめていた。

(剣術は、まだまだ奥が深い……)

 その日は、軽く稽古を済ませ、新八は緑町の旅籠に宿をとった。
 府中で一泊したあとは、蔵六の道場で居候をきめこみ、その後、笹子峠越えに難儀して、甲州道中が秩父道と交差する栗原宿に一泊。すでにふた月以上武者修行をしていたが、宿に泊まるのは、これが三度めだった。
 だから、茶店などで食事をする以外、新八は、ほとんど金を使っていない。
 それどころか、蔵六や、兄弟子の松岡新三郎の道場を去るときに、餞別をもらったので所持金は、減るどころか、かえって少し増えていた。

(それに、いちばん高くついた、うどんは、トシさんにおごってもらったしな)

 新八は部屋に寝転び、天井を見ながら、威勢のいい武州訛りの歳三を思いだし、微笑を浮かべていたが、なんとなく、外の空気にあたりたくなり、むくりと起きあがった。
 旅籠を出ると、雑踏に惹かれるように、飲み屋がならぶ横丁に向かって歩きだした。
 武者修行にでて以来、剣術漬けの毎日で、江戸の下町育ちの新八は、にぎやかな町が恋しくなっていたのだ。

 まだ日暮れ前にも関わらず、町は、酔客でにぎわっている。
 後輩の野口が言ったとおり、たしかに甲府の町には、やくざ者が目立った。
 ぶらぶらと歩く新八に向かって、辻々にたむろしたチンピラたちが、鋭い視線を送る。
 それには取り合わず、新八は、とぼけた表情で歩く。
 下町で遊び人をしていると、店の佇まいを見ただけで、その店がよい店か悪い店か、わかるようになる。

 新八は、『とうふや』という屋号の居酒屋に、ふらりと入った。
 とうふやは、そっけないほど飾り気のないシンプルな外観だが、よく見ると店の前は、塵ひとつなく掃き清められていた。
 こういう店が、はずれだったためしがない。
「いらっしゃいまし」
 頭に白い手拭いを巻いた店主と、店の小女が挨拶した。
「邪魔するぜ……とりあえず、熱いのを一本つけて、つまみを適当に、みつくろってくれ」
「へい。承知いたしました」
 新八は、素早く店内を見回し、奥にすすむと、板場の横の席についた。
 それを見た店主が、あわてて声をかける。
「お武家様。そちらは常連さんが座る席なので……」
「気にするな。その常連がきたら、文句を言わず席をかえる」
「へえ……しかし……」
「なに。おぬしに迷惑はかけぬ。――もし、そやつが、つべこべ吐かすようならば……」
 新八は、とぼけた表情を一変させ、刀の柄を叩いた。
 店主は、まだ何か言いたそうだったが、新八が纏う危険な匂いに、黙って奥にひっこんだ。

「わがままを言ってすまぬな。なに、常連がきたら、本当に譲るから心配するな」
 新八は、己を誇示するために、その席を選んだわけではなかった。
 店や宿屋などに入ったときの、いつもの習慣で、不意に襲撃された場合、いちばん反撃しやすく、なおかつ逃走しやすい場所に、居場所を選んだにすぎない。
 たしなみ程度で、少しばかり武芸をかじったものならばともかく、こうした心得は、当時の武芸者にとっては、常識であった。
 幕末の会津に生まれ、昭和まで生きた、大東流合気柔術の武田惣角などは、宿屋に泊まるときは、まず逃走経路を確認するまでは、決して部屋に入らなかったそうだ。

 酒の肴がやってきて、新八は、はじめて店の名前のという店の意味に思いあたった。
 だされた肴が、豆腐の味噌田楽に、豆腐と卵をだしで炒りつけ、細切りのねぎと人参を入れた、炒り豆腐と、とうふづくしだったからだ。
「――旨い」
 ひと口食べて、思わず新八がつぶやくと、店主が黙ってうなずいた。
 新八は、ちびちびと飲みながら田楽を食べる。味噌に工夫があるらしく、ほのかに胡桃の風味を感じた。
 二合ほどのんだとき、戸が開き、ひとりの男が入ってきた。

 異様な男であった。
 男は背が低い。身長は、五尺に満たないであろう。
 しかし、小男のくせに、腰に差した刀が、異常に長い。あと、ほんの少し長ければ、鐺が地面を摺りそうだった。
 そして、何よりも異様なのは、店の小女と、さしてかわらぬ矮躯わいくの上に、整った役者のような、秀麗な顔が乗っていることだった。

 この男、御子神紋多である。
 御子神は、新八に目を向けると、にやりと笑い、軽く頭を下げた。
 新八が会釈を返し、卓の上の小皿と徳利を脇にどかし、御子神に席を譲ろうと立ちあがりかけると、
「あいや、そのまま。拙者に遠慮することはござらん。そこで続けてくだされ」
「いや、店の親父に、常連がきたら席を譲ると確約している。そこもとこそ、遠慮なさらず、どうかお座りください」
「ふふっ、律儀なひとだ。では、遠慮なく」
 新八が席を譲り、隣の卓に移ると、御子神は店主に、
「こちらのお方に、拙者の勘定で、一本つけてくれ」
 と、言った。
「かたじけない。馳走になる」
 店主が徳利を置くと、新八は、御子神に軽く会釈する。

 御子神は、相変わらず不気味な笑みを浮かべながら、新八に向かって口を開いた。
「貴殿が、この席を所望したのは、ここが、いちばん地の理を得ていたから……違いますか? そして、貴殿は、かなり剣術の修行をつんでいる」
「なぜ、それが?」
びんには面擦れ。そしてその目付き、立ちあがる動作……一目瞭然であろう」

 通常、ひとが立つときには、一旦、重心を前にずらし、その反動で立ちあがる。
 指一本で、椅子に座った相手の額を抑えて、立ちあがらせないようにする芸は、この原理を利用したものである。
 ところが新八は、一旦、重心をずらしたりせず、一挙動で、よどみなく立ちあがった。
 これは、なかなかできることではない。

 誰かが指一本で、いや、力いっぱい手のひらで抑えつけたとしても、新八は、難なく立ちあがったにちがいない。
 御子神は、それを見逃すような男ではなかった。
「お察しのとおり、神道無念流を少々……」
「やはり、な。神道無念流というと、練兵館でございますかな?」
「いや、撃剣館だ」
「なるほど、岡田十松師範の……申し遅れたが、拙者、房州浪人・御子神紋多と申す者。以後、お見知りおきを」
「承った。俺は、松前浪人、永倉新八」
「ところで永倉殿。貴殿の腕を見込んで、ひとつ儲け話があるのだが……」
「すまんな。俺はいま、金には困っていない。用心棒か、なにか知らねえが、ほかをあたってくれ」

 そう言いながら、新八は卓に勘定を置いた。
「さようでござるか……それは残念。しかし永倉殿。貴殿とは、またどこかで、顔をあわせるような気がしてならん。そのときは、よしなに」
「ああ、こちらこそ、よろしくたのむ」
 ぶっきらぼうに言うと、新八が店を出ようと立ちあがる。
 食器を片付けにやってきた店主が、新八が置いた勘定を見て、目を丸くした。
「お武家様、こんなに頂いては! いま、釣りを用意いたします」
「心付けだ。取っておけ。それと、御子神殿に、俺の勘定から熱いのを一本つけてくれ」
「あっ、お待ちを……」

 店主がそう言ったときには、新八の姿は、すでになかった。
 御子神は、新八を見送りながら、悪鬼のような笑みを浮かべ、嬉しくてたまらないような声で、
「前澤といい、永倉といい、じつに美味うまそうなやつらだ。いずれ、ふたりとも、拙者の剣で……」
 と、不気味につぶやいた。
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