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38 香取神道流 逆抜之太刀
しおりを挟む新八とおつるは予定どおり、強瀬に二泊すると、朝の七つ発ちで、八王子子安宿に向けて出発した。
八王子までは、約八里の道のりである。当時、急ぎの旅人は、一日十里を歩いた。山道であることを考慮しても、一日。女連れを想定しても、一日半といった行程だ。
おつるは、程久保村の山道に慣れており、新八とかわらぬ速さで歩くので、夕方には到着するであろう。
ふたりの出立を見届けると、捨五郎も旅籠をあとにする。老人の扮装なので歩みは遅い。
捨五郎は、しばらく新八たちの後を尾けていたが、杉林の続く脇道に逸れた。
その脇道は、十町ほど先で甲州道中と再び交わっている。捨五郎は、あたりを見回し、ひとがいないことを確認すると、素早く扮装を変えて、合流地点に向かってひた走る。
すっかり商人の姿になった捨五郎は、甲州道中に戻ると、ちらりと後ろを振り向き、はるか後ろに、新八たちふたりの姿をたしかめると、あとは一度も振り向くことなく、飛ぶような速さで、八王子に向かった。
行き先はわかっているので、先回りして、あとからくる新八たちを、待ちうけるつもりだった。
新八は出立以来、いや、昨日から不機嫌におし黙り、おつるとは、ほとんど口をきいていない。
ふたり連れだっての道中だけに、気詰まりな雰囲気に、おつるはいたたまれず、おろおろしている。
いまも昼食をどこで摂るのか尋ねたが、ああ、とか、うんとか、生返事がかえってくるばかりで、新八は、ぼんやりとした顔をしていた。
「あ、あの……永倉さま。一昨日の、わたくしの妄《みだ》りがましい行いを、怒ってらっしゃるのですか?」
「――ん、ああ?」
話をきいていないのか、新八は上の空である。
「永倉さま!」
思わず大声をだすと、新八は、ようやくおつるに目を向けた。
新八は、胸を衝かれた。おつるは、目を真っ赤に泣きはらし、涙が頬を伝わっている。
「いや、すまねえ……そんなつもりじゃないんだ」
「では、どうして何をきいても、上の空なのですか」
新八は、言葉に詰まった。
御子神との試合が、不可解な引き分けに終わったことに、新八は、こだわっていた。
しかし、それを上手く説明することができない。新八は、しどろもどろに語りだす。
「一昨日の夕方、全福寺で試合をした……腕前は、五分と五分。激しくうちあって、にらみ合いになった。だが俺は、落ちついていたし、相手の動きの起こりが、はっきりと読めた……」
さらに、試合を運ぶうちに、御子神の間合いは、寸分の狂いもなく捉えていた。
そして、御子神が仕掛けた。
御子神がうちこむ刹那、新八は、間合いを外し、上段から、必殺の一撃をうちおろした。
――が、しかし、新八の竹刀が、御子神をうつと同時に、御子神の竹刀もまた、新八を捉えていたのだ。
「俺の実力が下で、負けたのなら納得できる……
だけど、あのときの経緯は、どうにも得心がいかねえんだ」
「おっしゃることは、よくわかりませんが、わたくしに怒っていたのでは、ないのですね?」
「おつるさん。あんたに怒っているなんて、とんでもねえ誤解だ。俺が考えているのは、剣術のことだけさ」
新八のこたえに、おつるは、両手で顔をおさえると、小刻みに震えだした。
「お、おい、たのむよ。こんなところで泣くやつがあるか!」
新八の狼狽は、頂点に達した。
おつるの震えが激しくなり、小刻みに肩を揺らす。
「おい、勘弁してくれ、まったくあんたは……」
新八が、肩を抱くようになだめると、おつるは耐えきれず、ついに、くすくすと笑いだした。
「えっ、なんだ? 笑っているのか? おい、いったいどういう……」
「もうよいのです。わたくしの勘違いでした。永倉さま……どうかお赦しください」
わけもわからず、新八が呆気にとられていると、
「お騒がせいたしました。もう大丈夫です。さあ、八王子までは、あとひと息。永倉さま。急ぎましょう」
「おい、なんだよ、ちゃんと説明してくれなきゃ、わかんないぜ」
新八の言葉を、きいているのか、いないのか、おつるは、さっさと歩きだす。
「ちぇ、これだから女はめんどくせぇ……」
ぶつぶつ言いながら、新八は、あわてておつるの後を追った。
甲州道中を西から来ると、八王子千人町で、陣場道(案下道)と合流している。その追分をすぎると、そこは八木宿である。
追分の近くにある茶店では、堅気の商人の姿をした捨五郎が、のんびりとお茶を飲んでいた。
千人町は、千人同心の組屋敷が並ぶ、城下町ではない宿場には珍しい、武家屋敷の町並みが続く。
八木宿の外れの茶店からは、千人町が見渡せる。夕方なので、甲州方面に向かう者は、農夫など近隣の者ばかりで、旅人は少ない。
それとは反対に捨五郎の前を、横山宿方面に向かう旅人が通りすぎてゆく。
茶店に腰を落ちつけて半刻あまり。ようやく待ちびとがあらわれ、捨五郎は、残ったお茶を飲みほした。
「はて……?」
捨五郎は、ふたりの様子に、違和感を覚えた。
朝方、大月で見かけたときは、なにやらぎくしゃくして見えたふたりが、まるで本物の夫婦のような雰囲気なのだ。
といっても、仲睦まじく語りあっているわけでもなく、悠々と歩む新八の後ろを、おつるが黙々と歩いているだけである。
首をかしげながら、捨五郎は、再びふたりに先行して、目的地の子安村に向かって歩きだした。
子安宿は、八王子の中心部である横山宿の南側にあった。八王子十五宿のひとつに数えられてはいるが、すぐに甲州道中から外れるため、場末の雰囲気が漂っている。
甲州道中をはずれると、町屋は野猿峠に向かう小野路道沿いにあるだけで、家並みの裏には、広々とした田畑が広がっている。
地名が、子安村にかわった先の、山田川のほとりにある荒物屋で道を尋ねると、捨五郎は、百姓代の村松家に向かう。
村松家は、わりと大きな茅葺きの家だったが、くたびれたように軒が傾き、破れた障子を不器用に修復しているところをみると、あまり裕福ではなさそうだ。
捨五郎は、道をはさんだ反対側にある、うち棄てられた物置小屋に、素早く忍びこみ、新八とおつるの到着を待った。
ほどなくして、ふたりがあらわれ、なにやら話していたが、新八が踵を返すと、おつるは、深々と頭を下げた。
(なんだ……あっさりしたもんだな。できていると思ったのは、俺の勘違いか……)
おつるが家のなかに入ったことをたしかめると、捨五郎の役目は終わった。あとの始末は、祐天の子分がつけるだろう。
捨五郎は、物置小屋を出て、来た道を引き返し、甲府に向かって歩きだした。
陽は傾き、西の空が赤く染まっていた。じきに木戸が閉まる。今夜は八王子か小仏宿に泊まるしかなさそうだった。
新八は、村松家をあとにして、八木宿の名主宅に立ち寄り、経緯を説明すると、千人町の増田蔵六の道場へ足を向ける。上野宿の刻の鐘が、七つを知らせ鳴り響いていた。
蔵六の道場は、門人が畑仕事を終えてからはじまる。新八が玄関に入ると、日暮れ刻にも関わらず、竹刀をうちあう音や気合い声が、にぎやかに響いていた。
「おおっ、新八。早かったな。もう甲府から戻ったのか」
蔵六が、にこやかに新八を出迎えた。
「師範。またお世話になります」
冴えない新八の顔色に、蔵六が怪訝な表情を浮かべる。
「ふん……なにやら悩んでいるようじゃな。まあよい。足をすすいだら、奥の六畳に来なさい」
ぶっきらぼうに、そう言い残すと、蔵六は踵を返し、奥の客間に向かった。
「座れ」
新八が客間に入ると、いきなり蔵六が言った。
蔵六の前に座ると。大きな素焼きの猪口を突きだし徳利から、なみなみと酒を注ぐ。
「呑め」
言われるままに、新八は、一気に酒をのみほした。
「おまえ、負けたな」
「――!! なぜそれを……」
「ばかめ。おまえのそのしけた面を見れば一目瞭然じゃ……話してみろ」
「はっ」
頭を下げると、新八は試合の経過を、こと細かく説明した。話が最後の段にさしかかると、
「ふうむ……」
猪口を手に、蔵六が考えこむ素振りを見せ、しばらく天井を見あげていたが、一気に酒をあおり口をひらいた。
「新八……おまえは、なぜ相打ちになったと考えておる?」
「正直、わかりません。俺は、試合の途中で、たしかにやつの間合いを、見切ったはずです……最後の攻撃の起こりも、はっきりと読んでいました。
でも、届くはずのない、やつの竹刀は、したたかに俺の胴を捉えていたんです」
新八が珍しく消えいるような声でそう話すと、蔵六は、いきなり笑いだした。
「はははっ、おい新八。試合は、竹刀でやったのであろう。ならば、くよくよする必要はない」
「どういう意味でしょうか」
「その御子神とかいうやつ。勝ちをあせったのじゃ。いや……違うな。己が負けるのが、耐えられなかったのじゃ」
「竹刀でも棒っきれでも、気組を持って戦えば、それは真剣と同じ……それを教えてくれたのは、師範じゃないですか」
蔵六の言葉に、新八が反発した。
「勘違いするな。そうではない。おそらくやつは、同じ相手には、二度と使えぬ技を使ったのじゃ……
新陰流の九箇之太刀。あるいは、香取神道流の逆抜之太刀と同じような技をな」
「……?」
「新八。我が流祖、近藤内蔵助は、いかなる流派を修行して、天然理心流を創ったか、知っておろう」
「天真正伝香取神道流です」
「そうじゃ。その香取神道流には、逆抜之太刀という技がある」
蔵六は、そう言って立ちあがると、刀をとり腰に差す。新八は、怪訝な表情でそれを見つめた。
「刀を差して、おまえも立つのじゃ」
言われたとおり、新八が刀を腰に差して、蔵六の前に立った。蔵六は、うなずくと、わずかに腰を落とし、
「よく見ておれ」
と、言った。
蔵六は、だらりと両手を拡げ、刀を抜く右手をぶらぶらさせるが、柄に手をかける素振りは、まったく見せない。
新八が戸惑いを見せていると……。
蔵六は、右手を柄に伸ばすことなく、一瞬で刀を抜き、気付いたときには、新八の脇に、ぴたりと刀がつけられていた。
「えっ、――いったいどうやって!?」
「これが、香取神道流・逆抜之太刀。常識で考えると、刀は右手で抜くものじゃ……
ところが逆抜之太刀は、左手で柄をとり、鍔を回しながら、そのまま左手で抜く」
馬上でもないかぎり、刀は刃を上に、つまり、反りを上に向けて差している。
この差し方だと刀を抜き、抜いた刀の軌道は、いったん上に向かい、そこから斬り下ろさねば、相手を斬ることはできない。
逆抜之太刀は、右手を使わず、左手で抜きながら鍔を回し、あとから右手を添えることで、斬り下ろす工程を省き、上に向ける動作だけで、相手を斬ることができた。
「そやつが使った技がこれ、というわけではない。じゃが、こうした奇手を使えるのは、一度だけ。真剣勝負なら、一度でじゅうぶんだからの」
「……?」
「わしは、その試合を見てはおらぬ。だからそやつが、どのような技を使ったのか……などは、わかるはずもない。
じゃが、おまえと同格の相手が、おまえには、見えない技を使った……
手が伸びるか、あるいは妖術使いでもないかぎり、常識の裏をかいた技を使った。と、考えるしかなかろう」
「しかし俺は、その技が、どのようなものなのか、看てとることができませんでした」
「じゃが、相手にそういう技があることはわかった。これが真剣勝負ならば、看てとれなかったおまえの負けじゃ。
しかし、竹刀の勝負には次がある。看てとれなかったとしても、そういう技がある……と、あらかじめ知っておれば、それを想定して、戦えばよいだけの話じゃ」
「なるほど……」
「つまり、やつは、手の内を見せてしまったのじゃ。よほどあせっていたに、ちがいない」
蔵六のおかげで、少し気が楽にはなったが、はたして御子神と真剣でわたりあったとき、その技をかわせるのか、一抹の不安は拭えなかった。
「心配するな。おまえは、わしが鍛えてやる」
新八の不安を見抜いたように、蔵六が言った。
「わしには、おそらくこうだ、という答えがあるが、決めつけるのは危ない。じゃから一言だけ言っておく。そやつの技は、間合いに関係しておる。新八……間合いを考えろ」
新八は黙って頭を下げた。
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