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37 甲源一刀流・後 勝負

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 新八は、御子神の喉元に向かって、鋭い突きを繰りだした。

(永倉め、先ほどの意趣返しか!)

 その突きにあわせようと、御子神が竹刀を出した瞬間、新八が左の肘を曲げ、右肘を絞るように突きの軌道をかえた。
「むう……」
 秀全が唸る。
 御子神の竹刀は、突きを受け損ね、新八の突きが喉元ではなく、首筋に決まった。と、思った瞬間……。
 御子神は、後ろに倒れこみながら、尻餅をつくように腰を落とし、新八の竹刀が、虚しく空を裂いた。
 試合を観ていた誰もが、そのまま尻餅をつくかと思ったが、御子神は、ほとんどしゃがんだ姿勢に近い位置で、くるりとトンボを切りながら竹刀を薙ぎ、一回転して向き直った。

 信じがたいことに、一回転して着地したときには、竹刀の先端を、ぴたりと新八につけていた。
「おおっ!」
 試合を見守っていた村人たちから、感嘆の声があがった。
 新八は、というと……追撃をかけることもなく身を引いて、素早く間合いをとっていた。
 奇しくも歳三が、八郎に対して仕掛けた同じ、脛刈りの罠を、新八も見抜いたのだ。
「残念。乗らなかったか」
 御子神が、邪悪な笑みを浮かべた。
「脛狙いが、見え見えだったぜ」

 新八と御子神は、再び対峙する。
 観ている村人たちは、試合がはじまったときには、興奮の面持ちだったが、いまは、むしろ青ざめた顔をしている。
 ふたりは、お互いに相手の呼吸をはかる。耐えがたい緊張感が、あたりの空気を支配した。

 唐突に、新八が仕掛けた。八双から竹刀を袈裟懸けにうつ。
 その攻撃を御子神がはじく。
 はじかれた竹刀を、くるりと廻すように、新八が御子神を、真っ向から斬りおろした。
 その攻撃を読んでいたかのように、御子神がはじかれた竹刀を突きだし、新八の竹刀の軌道が外される。
 体をかえ、新八がその突きを外し、同時に突きだされた竹刀を、下から跳ねあげる。
 息つく暇もなく、ふたりの竹刀が何度も交差し、激しくはじけた。
 目にも止まらぬ連撃に、村人たちは息をのみ、秀全和尚は、低く唸った。

 そのとき、村人のひとりが、思わず頬に手をやった。どういうわけか、チクリと軽い痛みが走ったからだ。
「ひゃっ」
 村人が小さな悲鳴をあげた。不審に思った秀全が、その顔を見ると、頬に長さ一寸ほどの浅い切り傷ができ、こすったせいで、べっとりと血がついていた。
「なんと……竹刀の破片か!」

 この時代、竹刀は剣士自らが作るのが主流で、武具屋などで販売されはじめてはいたが、こだわりのある者ほど、自作する傾向が強かった。
 全福寺の稽古で使用している竹刀は、北辰一刀流・玄武館で修行した田中が指図して、村の竹細工職人に作らせていた。
 よく乾燥した良質の竹を使って丈夫に作られており、だから少々のうちあいで、ささくれるようなことなどは、あり得ない。

「なんという、凄まじいうちあいじゃ……」
 思わず秀全の肌が粟だった。
 うちあいは、まだ続いていた。
 しかし、ふしぎなことに、ふたりの位置が、目まぐるしくかわり、瞬速の呼吸でうちあっているのにも関わらず、忙しない印象はなく、むしろ優雅にすら見える。
 その理由は、ふたりの歩法にあった。

 現在の剣道では、ボクシングなどのスポーツと同じように、床を蹴り、膝のバネとその反動で移動する。
 ところが、新八も御子神も、地を蹴ることなく、摺り足で移動していたからだ。
 摺り足というと、床を蹴る反動で動くのに比べ、遅い印象を受けるが、事実は逆である。
 ふたりは、無足と呼ばれる、膝や腰を垂直落下させる運動を、前後左右の動きに転換する技術によって体をかえており、蹴る、ためる、という予備動作がないぶん、むしろ、物理的にも素早い体捌きをしていたのだ。

 ひとしきりうちあいが続き、秀全が、ごくりと唾をのみこんだとき、ふたりは、急に間合いをとり、離れて向かいあった。
「ふふふっ、愉しいなあ。おい、そう思わないか?」
 不意に新八が笑った。
「くっくっく……しかり。こんな気持ちは、久しぶりでござる」
 御子神が、歓喜の表情でこたえる。
「仕上げだ。いくぜ!」
 新八が表情を引き締め、竹刀を下段正眼につけた。
 御子神が、再び陰剣の構えをとる。
 このとき御子神は、心の底から歓喜を味わっていた。ゆうべ不本意な殺しをしたわだかまりは、完全に消えていた。
 御子神は、全身全霊を懸け、みずからが斬られるかもしれない、極限の緊張感を求めている。
 ゆうべのチンピラ殺しなどは、肌にたかった蚊を叩き潰すのと同じように、できれば避けたい事態だった。

 といっても、もちろんそれは、道義的な意味ではない。
 この命を懸けた緊張感こそ、御子神の求めてやまないものだった。

(思ったとおり永倉は、最高の獲物でござる……)

 御子神は、この試合には、さほど期待していなかった。
 どうせ竹刀のやりとりになるのは、わかりきっていたし、新八の様子見ができればそれでよい、とさえ思っていた。
 命を懸けない勝負など、はなっから馬鹿にしていたからだ。
 ところが新八は、平山に語ったとおり、この試合に、“棒っきれであろうと竹刀であろうと真剣と同じ気組”で挑んでいた。
 その気組が、御子神に、真剣勝負と同様の、ぞくぞくするような、緊張と興奮をあたえていた。
「むっ」
 新八は、低い気合いをかけると、下段につけた竹刀を、ゆっくりと振りかぶる。
 神道無念流。得意の上段である。

 御子神は、またしても陰剣に構え、じりじりと間合いを詰める。
 拳を突きあげるように、大上段に構えた新八は、大地に根が生えたように、ぴくりとも動かない。
 ふたりの間隔は、間境まで、あと一寸に迫っている。
 間合いはである。わずか一寸に満たない遠近が、死命を左右する。
 あと一寸遠ければ剣は届かず、一寸近いと斬りおろすことができなくなる。

 その間境が、目前に近づいていた。
 秀全を含めて、観ている者からは咳《しわぶき》ひとつもあがらない。誰もが息をつめ、憑かれたように、勝負の行方を追っていた。
「間境じゃ」
 秀全が、つぶやいた瞬間。
「むっ!」
 御子神が、無声の気合いをかけ、新八のがら空きの胴に斬りこんだ。
 ほぼ同時に、体をかえながら、新八が真っ向から竹刀を振りおろす。
 ふたりの竹刀が交差した。

「引き分け! 勝負なし!」
 田中が宣告した。
 新八の竹刀が、御子神の肩をうち、御子神の竹刀は、新八の脇腹を薙いでいた。
 新八は呆然としていた。
(馬鹿な……たしかにやつは、間境を見切り損ねていた。あの間合いでは、ほんのわずか届かぬはず……)
 ところが、間合いを見切ったはずの新八は、したたかに胴を斬られていた。

 礼を終えると御子神は、竹刀を田中に返し、新八に向き直った。
「よい試合であった。永倉殿は、非凡な腕前でござる。敬服いたした」
「ああ。あんたもな……最後は、見事にしてやられた」
「ふふふっ。結句、相打ちでござったがの。永倉殿……ぜひとも、また死合おうぞ。――今度は、、真剣で」
 新八が、うなずいた。
「では、御免」
 一礼すると、御子神が踵をかえし、山門を出てゆく。
 新八たちは、黙ってそれを見送った。

 全福寺の門前の藪に潜みながら、捨五郎が苛立ちを募らせ、思わず舌打ちした。

(小頭は、剣術のこととなると、見境がなくなりやがる……)

 四半刻ほど過ぎたとき、山門からようやく御子神が姿をあらわし、きざはしを降りてくるのが見えた。
 御子神は道に出ると、捨五郎のいるあたりには一瞥もくれず、江戸の方向に歩きだす。
 しばらくすると、かすかに藪を掻きわける音をたて、御子神が隣に腰をおろした。
「小頭……悪い癖ですぜ」
「わかっておる。みなまで言うな。拙者の唯一の道楽だ」
「それよりも、話の続きです。今度の標的は……」
「うむ。和田村の大宮神社門前町の米穀問屋だ」
「でかい仕事ですか?」

「祐天の手下の調べと、地元ところの博徒によれば、千は堅いようだ」
「そいつは大仕事だ。腕が鳴りやす……しかし、かかった経費を差し引いても、これまでで都合、五千から六千は、稼いだことになりやす」
「しめて、五千と七百八十七両二分一朱でござる」
「あっしには、前から腑に落ちないんですが、攘夷のために、そんなにたくさんの、お宝がいるもんなんでござんすか?」
「捨五郎よ……清河先生は、水戸の攘夷党と、薩摩の過激分子にばかり、金をばら撒いているわけではござらん」

「あの下村めは、それでも足りぬとぬかしているそうで……」
 捨五郎が、苦々しく言った。
「しかたがなかろう。多くは、下士や郷士の冷や飯食い……養うには金がいる」
 やれやれと、いった調子で、御子神がこたえる。
「ところで――、とは、ほかにもお宝を? 与兵衛や松蔵が、分け前が少ないと、不平を洩らしています」
 与兵衛と松蔵は、新家の道場の裏手の小屋に潜んでいる、一味の者の名前である。
 御子神は、一瞬躊躇ったのち、捨五郎に向き直った。
「おぬしとは、名栗のお頭のころからの付き合いだから、話してもよかろう。よいか……このことは、他言無用と心得よ」

「承知しやした」
「清河先生は、いままで水戸や薩摩のはぐれ者、そして、勤王のこころざしある旗本を結びつけるのに、ちからを尽くしてきた。だがな……先ほども言ったとおり、多くは身分の低い家の次男、三男の冷や飯食いだ。過激な行動はとれようが、を動かす立場にはないし、そのちからもない」
「たしかに……」
「先生は、そういった草の根だけではなく、まつりごとに関わる者にも、ひそかに働きかけておるのだ」
「そりゃ、まことですか! では、幕閣に関わる者にまで……」
「さよう……名は言えぬが、将軍の側に仕える者や、松に平の名を持つ者に、使ったお宝は、二千ではきかぬ。先生のお考えは、拙者たちのような、無知蒙昧の徒などには、およびもつかぬ」
 清河には、後ろ楯になる藩もなければ、身分もなかった。そのような立場にある者が、要人に近づくには、金は必要不可欠な武器であった。

「こいつは驚きやした。清河先生は、恐ろしいお方でございますねえ……」
「さようさ。だからおぬしは、先生を信じて働くのだ。それが我らが、攘夷の魁となる道になる」
「へい。承知しやした。しかし、与兵衛や松蔵は、あっしと違い、腕前だけで雇った偸盗の類い。連中は尊皇攘夷の理想よりも、目先の金が目当ての下衆にすぎません」
 捨五郎は、藤田東湖とも交流のあった、安房の神官の息子なので、攘夷の意思が強かった。
「やつらの技術わざがなければ、仕事にならぬのが悩みの種よ……まあ今回は、少なくともひとり頭、五十は、分け前を与えねばなるまい」
「それだけくれてやれば、多少は不満もおさまりやしょう」

「だとよいがな。それでも不平を申すようなら……」
 御子神は、不気味な笑みを浮かべると、腰に差した三尺の大刀の柄を叩き。
「かわいそうだが、刀の錆びとなってもらうしかあるまい」
 と、言った。その声は、むしろ愉しげにきこえた。
 御子神は、名栗の文平一味にいたころからの仲間である捨五郎には、ある程度心を許しており、山岡や松岡、下村などにしか知らされていない秘密を教えた。
 しかし、最終的な目的のことは、話してはいなかった。それは、山岡ですら知らない秘密だった。
 その目的のことを、清河は「回天」と呼んでていた。

――回天、天地が回ること。

 すなわち、徳川幕府の転覆である。
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