38 / 51
37 甲源一刀流・後 勝負
しおりを挟む
新八は、御子神の喉元に向かって、鋭い突きを繰りだした。
(永倉め、先ほどの意趣返しか!)
その突きにあわせようと、御子神が竹刀を出した瞬間、新八が左の肘を曲げ、右肘を絞るように突きの軌道をかえた。
「むう……」
秀全が唸る。
御子神の竹刀は、突きを受け損ね、新八の突きが喉元ではなく、首筋に決まった。と、思った瞬間……。
御子神は、後ろに倒れこみながら、尻餅をつくように腰を落とし、新八の竹刀が、虚しく空を裂いた。
試合を観ていた誰もが、そのまま尻餅をつくかと思ったが、御子神は、ほとんどしゃがんだ姿勢に近い位置で、くるりとトンボを切りながら竹刀を薙ぎ、一回転して向き直った。
信じがたいことに、一回転して着地したときには、竹刀の先端を、ぴたりと新八につけていた。
「おおっ!」
試合を見守っていた村人たちから、感嘆の声があがった。
新八は、というと……追撃をかけることもなく身を引いて、素早く間合いをとっていた。
奇しくも歳三が、八郎に対して仕掛けた同じ、脛刈りの罠を、新八も見抜いたのだ。
「残念。乗らなかったか」
御子神が、邪悪な笑みを浮かべた。
「脛狙いが、見え見えだったぜ」
新八と御子神は、再び対峙する。
観ている村人たちは、試合がはじまったときには、興奮の面持ちだったが、いまは、むしろ青ざめた顔をしている。
ふたりは、お互いに相手の呼吸をはかる。耐えがたい緊張感が、あたりの空気を支配した。
唐突に、新八が仕掛けた。八双から竹刀を袈裟懸けにうつ。
その攻撃を御子神がはじく。
はじかれた竹刀を、くるりと廻すように、新八が御子神を、真っ向から斬りおろした。
その攻撃を読んでいたかのように、御子神がはじかれた竹刀を突きだし、新八の竹刀の軌道が外される。
体をかえ、新八がその突きを外し、同時に突きだされた竹刀を、下から跳ねあげる。
息つく暇もなく、ふたりの竹刀が何度も交差し、激しくはじけた。
目にも止まらぬ連撃に、村人たちは息をのみ、秀全和尚は、低く唸った。
そのとき、村人のひとりが、思わず頬に手をやった。どういうわけか、チクリと軽い痛みが走ったからだ。
「ひゃっ」
村人が小さな悲鳴をあげた。不審に思った秀全が、その顔を見ると、頬に長さ一寸ほどの浅い切り傷ができ、こすったせいで、べっとりと血がついていた。
「なんと……竹刀の破片か!」
この時代、竹刀は剣士自らが作るのが主流で、武具屋などで販売されはじめてはいたが、こだわりのある者ほど、自作する傾向が強かった。
全福寺の稽古で使用している竹刀は、北辰一刀流・玄武館で修行した田中が指図して、村の竹細工職人に作らせていた。
よく乾燥した良質の竹を使って丈夫に作られており、だから少々のうちあいで、ささくれるようなことなどは、あり得ない。
「なんという、凄まじいうちあいじゃ……」
思わず秀全の肌が粟だった。
うちあいは、まだ続いていた。
しかし、ふしぎなことに、ふたりの位置が、目まぐるしくかわり、瞬速の呼吸でうちあっているのにも関わらず、忙しない印象はなく、むしろ優雅にすら見える。
その理由は、ふたりの歩法にあった。
現在の剣道では、ボクシングなどのスポーツと同じように、床を蹴り、膝のバネとその反動で移動する。
ところが、新八も御子神も、地を蹴ることなく、摺り足で移動していたからだ。
摺り足というと、床を蹴る反動で動くのに比べ、遅い印象を受けるが、事実は逆である。
ふたりは、無足と呼ばれる、膝や腰を垂直落下させる運動を、前後左右の動きに転換する技術によって体をかえており、蹴る、ためる、という予備動作がないぶん、むしろ、物理的にも素早い体捌きをしていたのだ。
ひとしきりうちあいが続き、秀全が、ごくりと唾をのみこんだとき、ふたりは、急に間合いをとり、離れて向かいあった。
「ふふふっ、愉しいなあ。おい、そう思わないか?」
不意に新八が笑った。
「くっくっく……しかり。こんな気持ちは、久しぶりでござる」
御子神が、歓喜の表情でこたえる。
「仕上げだ。いくぜ!」
新八が表情を引き締め、竹刀を下段正眼につけた。
御子神が、再び陰剣の構えをとる。
このとき御子神は、心の底から歓喜を味わっていた。ゆうべ不本意な殺しをしたわだかまりは、完全に消えていた。
御子神は、全身全霊を懸け、みずからが斬られるかもしれない、極限の緊張感を求めている。
ゆうべのチンピラ殺しなどは、肌にたかった蚊を叩き潰すのと同じように、できれば避けたい事態だった。
といっても、もちろんそれは、道義的な意味ではない。
この命を懸けた緊張感こそ、御子神の求めてやまないものだった。
(思ったとおり永倉は、最高の獲物でござる……)
御子神は、この試合には、さほど期待していなかった。
どうせ竹刀のやりとりになるのは、わかりきっていたし、新八の様子見ができればそれでよい、とさえ思っていた。
命を懸けない勝負など、はなっから馬鹿にしていたからだ。
ところが新八は、平山に語ったとおり、この試合に、“棒っきれであろうと竹刀であろうと真剣と同じ気組”で挑んでいた。
その気組が、御子神に、真剣勝負と同様の、ぞくぞくするような、緊張と興奮をあたえていた。
「むっ」
新八は、低い気合いをかけると、下段につけた竹刀を、ゆっくりと振りかぶる。
神道無念流。得意の上段である。
御子神は、またしても陰剣に構え、じりじりと間合いを詰める。
拳を突きあげるように、大上段に構えた新八は、大地に根が生えたように、ぴくりとも動かない。
ふたりの間隔は、間境まで、あと一寸に迫っている。
間合いは魔合いである。わずか一寸に満たない遠近が、死命を左右する。
あと一寸遠ければ剣は届かず、一寸近いと斬りおろすことができなくなる。
その間境が、目前に近づいていた。
秀全を含めて、観ている者からは咳《しわぶき》ひとつもあがらない。誰もが息をつめ、憑かれたように、勝負の行方を追っていた。
「間境じゃ」
秀全が、つぶやいた瞬間。
「むっ!」
御子神が、無声の気合いをかけ、新八のがら空きの胴に斬りこんだ。
ほぼ同時に、体をかえながら、新八が真っ向から竹刀を振りおろす。
ふたりの竹刀が交差した。
「引き分け! 勝負なし!」
田中が宣告した。
新八の竹刀が、御子神の肩をうち、御子神の竹刀は、新八の脇腹を薙いでいた。
新八は呆然としていた。
(馬鹿な……たしかにやつは、間境を見切り損ねていた。あの間合いでは、ほんのわずか届かぬはず……)
ところが、間合いを見切ったはずの新八は、したたかに胴を斬られていた。
礼を終えると御子神は、竹刀を田中に返し、新八に向き直った。
「よい試合であった。永倉殿は、非凡な腕前でござる。敬服いたした」
「ああ。あんたもな……最後は、見事にしてやられた」
「ふふふっ。結句、相打ちでござったがの。永倉殿……ぜひとも、また死合おうぞ。――今度は、命を懸けて、真剣で」
新八が、うなずいた。
「では、御免」
一礼すると、御子神が踵をかえし、山門を出てゆく。
新八たちは、黙ってそれを見送った。
全福寺の門前の藪に潜みながら、捨五郎が苛立ちを募らせ、思わず舌打ちした。
(小頭は、剣術のこととなると、見境がなくなりやがる……)
四半刻ほど過ぎたとき、山門からようやく御子神が姿をあらわし、陛を降りてくるのが見えた。
御子神は道に出ると、捨五郎のいるあたりには一瞥もくれず、江戸の方向に歩きだす。
しばらくすると、かすかに藪を掻きわける音をたて、御子神が隣に腰をおろした。
「小頭……悪い癖ですぜ」
「わかっておる。みなまで言うな。拙者の唯一の道楽だ」
「それよりも、話の続きです。今度の標的は……」
「うむ。和田村の大宮神社門前町の米穀問屋だ」
「でかい仕事ですか?」
「祐天の手下の調べと、地元の博徒によれば、千は堅いようだ」
「そいつは大仕事だ。腕が鳴りやす……しかし、かかった経費を差し引いても、これまでで都合、五千から六千は、稼いだことになりやす」
「しめて、五千と七百八十七両二分一朱でござる」
「あっしには、前から腑に落ちないんですが、攘夷のために、そんなにたくさんの、お宝がいるもんなんでござんすか?」
「捨五郎よ……清河先生は、水戸の攘夷党と、薩摩の過激分子にばかり、金をばら撒いているわけではござらん」
「あの下村めは、それでも足りぬとぬかしているそうで……」
捨五郎が、苦々しく言った。
「しかたがなかろう。多くは、下士や郷士の冷や飯食い……養うには金がいる」
やれやれと、いった調子で、御子神がこたえる。
「ところで――ばかりでない、とは、ほかにもお宝を? 与兵衛や松蔵が、分け前が少ないと、不平を洩らしています」
与兵衛と松蔵は、新家の道場の裏手の小屋に潜んでいる、一味の者の名前である。
御子神は、一瞬躊躇ったのち、捨五郎に向き直った。
「おぬしとは、名栗のお頭のころからの付き合いだから、話してもよかろう。よいか……このことは、他言無用と心得よ」
「承知しやした」
「清河先生は、いままで水戸や薩摩のはぐれ者、そして、勤王のこころざしある旗本を結びつけるのに、ちからを尽くしてきた。だがな……先ほども言ったとおり、多くは身分の低い家の次男、三男の冷や飯食いだ。過激な行動はとれようが、まつりごとを動かす立場にはないし、そのちからもない」
「たしかに……」
「先生は、そういった草の根だけではなく、まつりごとに関わる者にも、ひそかに働きかけておるのだ」
「そりゃ、まことですか! では、幕閣に関わる者にまで……」
「さよう……名は言えぬが、将軍の側に仕える者や、松に平の名を持つ者に、使ったお宝は、二千ではきかぬ。先生のお考えは、拙者たちのような、無知蒙昧の徒などには、およびもつかぬ」
清河には、後ろ楯になる藩もなければ、身分もなかった。そのような立場にある者が、要人に近づくには、金は必要不可欠な武器であった。
「こいつは驚きやした。清河先生は、恐ろしいお方でございますねえ……」
「さようさ。だからおぬしは、先生を信じて働くのだ。それが我らが、攘夷の魁となる道になる」
「へい。承知しやした。しかし、与兵衛や松蔵は、あっしと違い、腕前だけで雇った偸盗の類い。連中は尊皇攘夷の理想よりも、目先の金が目当ての下衆にすぎません」
捨五郎は、藤田東湖とも交流のあった、安房の神官の息子なので、攘夷の意思が強かった。
「やつらの技術がなければ、仕事にならぬのが悩みの種よ……まあ今回は、少なくともひとり頭、五十は、分け前を与えねばなるまい」
「それだけくれてやれば、多少は不満もおさまりやしょう」
「だとよいがな。それでも不平を申すようなら……」
御子神は、不気味な笑みを浮かべると、腰に差した三尺の大刀の柄を叩き。
「かわいそうだが、刀の錆びとなってもらうしかあるまい」
と、言った。その声は、むしろ愉しげにきこえた。
御子神は、名栗の文平一味にいたころからの仲間である捨五郎には、ある程度心を許しており、山岡や松岡、下村などにしか知らされていない秘密を教えた。
しかし、最終的な目的のことは、話してはいなかった。それは、山岡ですら知らない秘密だった。
その目的のことを、清河は「回天」と呼んでていた。
――回天、天地が回ること。
すなわち、徳川幕府の転覆である。
(永倉め、先ほどの意趣返しか!)
その突きにあわせようと、御子神が竹刀を出した瞬間、新八が左の肘を曲げ、右肘を絞るように突きの軌道をかえた。
「むう……」
秀全が唸る。
御子神の竹刀は、突きを受け損ね、新八の突きが喉元ではなく、首筋に決まった。と、思った瞬間……。
御子神は、後ろに倒れこみながら、尻餅をつくように腰を落とし、新八の竹刀が、虚しく空を裂いた。
試合を観ていた誰もが、そのまま尻餅をつくかと思ったが、御子神は、ほとんどしゃがんだ姿勢に近い位置で、くるりとトンボを切りながら竹刀を薙ぎ、一回転して向き直った。
信じがたいことに、一回転して着地したときには、竹刀の先端を、ぴたりと新八につけていた。
「おおっ!」
試合を見守っていた村人たちから、感嘆の声があがった。
新八は、というと……追撃をかけることもなく身を引いて、素早く間合いをとっていた。
奇しくも歳三が、八郎に対して仕掛けた同じ、脛刈りの罠を、新八も見抜いたのだ。
「残念。乗らなかったか」
御子神が、邪悪な笑みを浮かべた。
「脛狙いが、見え見えだったぜ」
新八と御子神は、再び対峙する。
観ている村人たちは、試合がはじまったときには、興奮の面持ちだったが、いまは、むしろ青ざめた顔をしている。
ふたりは、お互いに相手の呼吸をはかる。耐えがたい緊張感が、あたりの空気を支配した。
唐突に、新八が仕掛けた。八双から竹刀を袈裟懸けにうつ。
その攻撃を御子神がはじく。
はじかれた竹刀を、くるりと廻すように、新八が御子神を、真っ向から斬りおろした。
その攻撃を読んでいたかのように、御子神がはじかれた竹刀を突きだし、新八の竹刀の軌道が外される。
体をかえ、新八がその突きを外し、同時に突きだされた竹刀を、下から跳ねあげる。
息つく暇もなく、ふたりの竹刀が何度も交差し、激しくはじけた。
目にも止まらぬ連撃に、村人たちは息をのみ、秀全和尚は、低く唸った。
そのとき、村人のひとりが、思わず頬に手をやった。どういうわけか、チクリと軽い痛みが走ったからだ。
「ひゃっ」
村人が小さな悲鳴をあげた。不審に思った秀全が、その顔を見ると、頬に長さ一寸ほどの浅い切り傷ができ、こすったせいで、べっとりと血がついていた。
「なんと……竹刀の破片か!」
この時代、竹刀は剣士自らが作るのが主流で、武具屋などで販売されはじめてはいたが、こだわりのある者ほど、自作する傾向が強かった。
全福寺の稽古で使用している竹刀は、北辰一刀流・玄武館で修行した田中が指図して、村の竹細工職人に作らせていた。
よく乾燥した良質の竹を使って丈夫に作られており、だから少々のうちあいで、ささくれるようなことなどは、あり得ない。
「なんという、凄まじいうちあいじゃ……」
思わず秀全の肌が粟だった。
うちあいは、まだ続いていた。
しかし、ふしぎなことに、ふたりの位置が、目まぐるしくかわり、瞬速の呼吸でうちあっているのにも関わらず、忙しない印象はなく、むしろ優雅にすら見える。
その理由は、ふたりの歩法にあった。
現在の剣道では、ボクシングなどのスポーツと同じように、床を蹴り、膝のバネとその反動で移動する。
ところが、新八も御子神も、地を蹴ることなく、摺り足で移動していたからだ。
摺り足というと、床を蹴る反動で動くのに比べ、遅い印象を受けるが、事実は逆である。
ふたりは、無足と呼ばれる、膝や腰を垂直落下させる運動を、前後左右の動きに転換する技術によって体をかえており、蹴る、ためる、という予備動作がないぶん、むしろ、物理的にも素早い体捌きをしていたのだ。
ひとしきりうちあいが続き、秀全が、ごくりと唾をのみこんだとき、ふたりは、急に間合いをとり、離れて向かいあった。
「ふふふっ、愉しいなあ。おい、そう思わないか?」
不意に新八が笑った。
「くっくっく……しかり。こんな気持ちは、久しぶりでござる」
御子神が、歓喜の表情でこたえる。
「仕上げだ。いくぜ!」
新八が表情を引き締め、竹刀を下段正眼につけた。
御子神が、再び陰剣の構えをとる。
このとき御子神は、心の底から歓喜を味わっていた。ゆうべ不本意な殺しをしたわだかまりは、完全に消えていた。
御子神は、全身全霊を懸け、みずからが斬られるかもしれない、極限の緊張感を求めている。
ゆうべのチンピラ殺しなどは、肌にたかった蚊を叩き潰すのと同じように、できれば避けたい事態だった。
といっても、もちろんそれは、道義的な意味ではない。
この命を懸けた緊張感こそ、御子神の求めてやまないものだった。
(思ったとおり永倉は、最高の獲物でござる……)
御子神は、この試合には、さほど期待していなかった。
どうせ竹刀のやりとりになるのは、わかりきっていたし、新八の様子見ができればそれでよい、とさえ思っていた。
命を懸けない勝負など、はなっから馬鹿にしていたからだ。
ところが新八は、平山に語ったとおり、この試合に、“棒っきれであろうと竹刀であろうと真剣と同じ気組”で挑んでいた。
その気組が、御子神に、真剣勝負と同様の、ぞくぞくするような、緊張と興奮をあたえていた。
「むっ」
新八は、低い気合いをかけると、下段につけた竹刀を、ゆっくりと振りかぶる。
神道無念流。得意の上段である。
御子神は、またしても陰剣に構え、じりじりと間合いを詰める。
拳を突きあげるように、大上段に構えた新八は、大地に根が生えたように、ぴくりとも動かない。
ふたりの間隔は、間境まで、あと一寸に迫っている。
間合いは魔合いである。わずか一寸に満たない遠近が、死命を左右する。
あと一寸遠ければ剣は届かず、一寸近いと斬りおろすことができなくなる。
その間境が、目前に近づいていた。
秀全を含めて、観ている者からは咳《しわぶき》ひとつもあがらない。誰もが息をつめ、憑かれたように、勝負の行方を追っていた。
「間境じゃ」
秀全が、つぶやいた瞬間。
「むっ!」
御子神が、無声の気合いをかけ、新八のがら空きの胴に斬りこんだ。
ほぼ同時に、体をかえながら、新八が真っ向から竹刀を振りおろす。
ふたりの竹刀が交差した。
「引き分け! 勝負なし!」
田中が宣告した。
新八の竹刀が、御子神の肩をうち、御子神の竹刀は、新八の脇腹を薙いでいた。
新八は呆然としていた。
(馬鹿な……たしかにやつは、間境を見切り損ねていた。あの間合いでは、ほんのわずか届かぬはず……)
ところが、間合いを見切ったはずの新八は、したたかに胴を斬られていた。
礼を終えると御子神は、竹刀を田中に返し、新八に向き直った。
「よい試合であった。永倉殿は、非凡な腕前でござる。敬服いたした」
「ああ。あんたもな……最後は、見事にしてやられた」
「ふふふっ。結句、相打ちでござったがの。永倉殿……ぜひとも、また死合おうぞ。――今度は、命を懸けて、真剣で」
新八が、うなずいた。
「では、御免」
一礼すると、御子神が踵をかえし、山門を出てゆく。
新八たちは、黙ってそれを見送った。
全福寺の門前の藪に潜みながら、捨五郎が苛立ちを募らせ、思わず舌打ちした。
(小頭は、剣術のこととなると、見境がなくなりやがる……)
四半刻ほど過ぎたとき、山門からようやく御子神が姿をあらわし、陛を降りてくるのが見えた。
御子神は道に出ると、捨五郎のいるあたりには一瞥もくれず、江戸の方向に歩きだす。
しばらくすると、かすかに藪を掻きわける音をたて、御子神が隣に腰をおろした。
「小頭……悪い癖ですぜ」
「わかっておる。みなまで言うな。拙者の唯一の道楽だ」
「それよりも、話の続きです。今度の標的は……」
「うむ。和田村の大宮神社門前町の米穀問屋だ」
「でかい仕事ですか?」
「祐天の手下の調べと、地元の博徒によれば、千は堅いようだ」
「そいつは大仕事だ。腕が鳴りやす……しかし、かかった経費を差し引いても、これまでで都合、五千から六千は、稼いだことになりやす」
「しめて、五千と七百八十七両二分一朱でござる」
「あっしには、前から腑に落ちないんですが、攘夷のために、そんなにたくさんの、お宝がいるもんなんでござんすか?」
「捨五郎よ……清河先生は、水戸の攘夷党と、薩摩の過激分子にばかり、金をばら撒いているわけではござらん」
「あの下村めは、それでも足りぬとぬかしているそうで……」
捨五郎が、苦々しく言った。
「しかたがなかろう。多くは、下士や郷士の冷や飯食い……養うには金がいる」
やれやれと、いった調子で、御子神がこたえる。
「ところで――ばかりでない、とは、ほかにもお宝を? 与兵衛や松蔵が、分け前が少ないと、不平を洩らしています」
与兵衛と松蔵は、新家の道場の裏手の小屋に潜んでいる、一味の者の名前である。
御子神は、一瞬躊躇ったのち、捨五郎に向き直った。
「おぬしとは、名栗のお頭のころからの付き合いだから、話してもよかろう。よいか……このことは、他言無用と心得よ」
「承知しやした」
「清河先生は、いままで水戸や薩摩のはぐれ者、そして、勤王のこころざしある旗本を結びつけるのに、ちからを尽くしてきた。だがな……先ほども言ったとおり、多くは身分の低い家の次男、三男の冷や飯食いだ。過激な行動はとれようが、まつりごとを動かす立場にはないし、そのちからもない」
「たしかに……」
「先生は、そういった草の根だけではなく、まつりごとに関わる者にも、ひそかに働きかけておるのだ」
「そりゃ、まことですか! では、幕閣に関わる者にまで……」
「さよう……名は言えぬが、将軍の側に仕える者や、松に平の名を持つ者に、使ったお宝は、二千ではきかぬ。先生のお考えは、拙者たちのような、無知蒙昧の徒などには、およびもつかぬ」
清河には、後ろ楯になる藩もなければ、身分もなかった。そのような立場にある者が、要人に近づくには、金は必要不可欠な武器であった。
「こいつは驚きやした。清河先生は、恐ろしいお方でございますねえ……」
「さようさ。だからおぬしは、先生を信じて働くのだ。それが我らが、攘夷の魁となる道になる」
「へい。承知しやした。しかし、与兵衛や松蔵は、あっしと違い、腕前だけで雇った偸盗の類い。連中は尊皇攘夷の理想よりも、目先の金が目当ての下衆にすぎません」
捨五郎は、藤田東湖とも交流のあった、安房の神官の息子なので、攘夷の意思が強かった。
「やつらの技術がなければ、仕事にならぬのが悩みの種よ……まあ今回は、少なくともひとり頭、五十は、分け前を与えねばなるまい」
「それだけくれてやれば、多少は不満もおさまりやしょう」
「だとよいがな。それでも不平を申すようなら……」
御子神は、不気味な笑みを浮かべると、腰に差した三尺の大刀の柄を叩き。
「かわいそうだが、刀の錆びとなってもらうしかあるまい」
と、言った。その声は、むしろ愉しげにきこえた。
御子神は、名栗の文平一味にいたころからの仲間である捨五郎には、ある程度心を許しており、山岡や松岡、下村などにしか知らされていない秘密を教えた。
しかし、最終的な目的のことは、話してはいなかった。それは、山岡ですら知らない秘密だった。
その目的のことを、清河は「回天」と呼んでていた。
――回天、天地が回ること。
すなわち、徳川幕府の転覆である。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる