記憶を運ぶ折畳み式ボート

房吉

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第1章 タイタニック編(1912年4月13日~)

第1話 目覚めの夜

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静かだった。

折畳み式救命ボートC号の私は、タイタニック号の右舷の船首側、ブリッジの近くにあるボートデッキで揺れながら、初めて「わたし」という感覚に目覚めていた。

「……あれ?」

突然の違和感に戸惑う。今まで何も考えることなく、ただそこにあった私が、急に考えられるようになった。

「どうして私は……考えているの?」

自分の木材がぎしりと音を立てる。まるで体の一部が動いたような感覚。

「木でできた私が、なぜ考えることができるの?」

理解できなかった。でも確かに、私は「私」を感じていた。



船内からは豪華なシャンデリアの光が漏れ、甲板には月明かりが落ちている。

ロープに縛られた私の体は、波の動きに合わせてわずかに揺れていた。初めて感じる波の感触。不思議なことに、怖くはなかった。むしろ心地よい。

「私はずっとここにいたのかしら?」

記憶を探ってみるが、「目覚める」前の記憶はぼんやりとしていた。造船所でつくられ、この船に運ばれてきたことは覚えている。でも、それは「私」という意識がなかった頃の、どこか遠い記憶。

ブリッジからは船員たちの声が聞こえる。

「進路・速度、このままを維持せよ」

「はい、スミス船長。現在の速度を維持します」
船長らしき男性が命令を出している。すべてが平和で、どこか眠たいような時間。

「船って、大きいのね」

自分が船の何百分の一にも満たない小ささであることを実感する。タイタニックは、最新鋭の巨大客船。私はその救命ボートの一つに過ぎない。

「私の役割って何だろう?」

漠然と考えていると、甲板に若いカップルが現れた。

「ローズ、どうだい?三等船室もなかなか楽しかったろう?」

「ええ!あれがアイリッシュダンスっていうのね!とっても楽しかったわ。連れてきてくれてありがとう、ジャック」

カップルはダンスの後だろうか、とてもハイテンションで楽しそうにしていた。

彼らは私の近くの手すりにもたれかかり、星空を見上げている。女性の手には、何か光るものが——きっと高級な宝石なのだろう。

彼らの笑い声が夜空に響く。その幸せそうな表情を見て、私は自分の存在意義をぼんやりと感じた。



(もしものときに、人を守る。それが私の役目なのね)

そう思った瞬間、不思議なことが起きた。

「こんばんは、小さな私」

誰かの声が聞こえた。でも、甲板には若いカップル以外誰もいない。

「え?誰?」

「私よ、タイタニック」

声の主は見えないのに、確かに聞こえる。

「タイタニック……船?」

「ええ、あなたが乗っている私自身よ」

信じられない。巨大な船が、私に話しかけているなんて。

「どうして話せるの?」

「さあ?どうしてあなたが考えられるのと同じことかしら」

タイタニックの声は華やかで明るく、少し上品な響きがあった。

「あなた、目覚めたのね。折畳み式C号。でも、C号なんてちょっと味気ない名前ね……。そうだわ、あなたは、シーラと呼ぶことにするわ。どうかしら?」

「シーラ……素敵な名前ね。とても気に入ったわ」

タイタニックの優しい声に、私は安心した。名前をもらえるなんて、嬉しい気持ちでいっぱいになった。

「シーラ、私の一部から生まれた、小さな妹みたいなものよ」

「妹……」

その言葉が胸に染みた。初めて感じる「家族」という絆。

「船って、みんな話せるの?」

「いいえ、全員ではないわ。目覚める者もいれば、ずっと眠ったままの者もいる」

「ボートも同じなの?」

「ええ。あなたは特別よ、シーラ。自分を自覚するボートはとても珍しい」

特別だなんて、照れくさい。でも、なんだか誇らしい気持ちにもなった。

「タイタニック、私の役割は何?」

「もしもの時に、人を守ること。でも、そんな日は来ないわ」

タイタニックの声は自信に満ちていた。

「だって私は、人間が作った中で最も安全な船なのだから」



「そう……でも私、なんだか心配」

「心配する必要なんてないわ。あなたは一生、このデッキで日光浴をしているだけでいいの」
そんな会話をしていると、夜空に満天の星が輝いていることに気がついた。

「あの星、とてもきれいね」

「北大西洋の夜空は格別よ。陸地の灯りから離れると、こんなにも星が近く感じるの」

タイタニックの声は穏やかで、少し夢見るような調子だった。



「でも、海の上って不安じゃないの?大きな波とか、嵐とか」

「私は大丈夫よ。46,000トンの鋼鉄の体があれば、どんな波も恐れることはないわ」

その自信は、少し過剰なようにも感じたけれど、彼女を信じたかった。

「あなたには姉妹がいるって本当?」

「ええ、お姉さんのオリンピックと、まだ建造中の妹ブリタニック。私たちは三姉妹船なの」

「会ってみたいわ」

「きっといつか会えるわ。特にオリンピックはあなたを気に入ると思う」



「オリンピックはどんな船なの?」

「とても頼もしいお姉さんよ。もう1年以上も大西洋を渡り続けている。私より少し小さいけれど、とても堂々としているわ」

タイタニックの声には、姉への敬愛が滲んでいた。

「そして、ブリタニックは?」

「まだ建造中だけど、私たち姉妹の中で一番大きくなるの。今頃、造船所でゆっくりと形を作られているわ」

私は、タイタニックを通じて彼女の家族のことを知り、心が温かくなった。

私にも、いつか会える家族がいる。

その頃、甲板のカップルが別の場所へ移動していった。下の客室からは陽気なダンス音楽が流れ、上の甲板には星明かりが降り注いでいた。

海の静けさと、船内の賑わい。その対比が、どこか不思議な気分にさせる。

「人間って、毎日こんなに楽しそうなの?」

「ここは特別よ。週に一度のダンスパーティーだから。みんな最高の時間を過ごしているわ」

タイタニックの声には誇りが満ちていた。

「私の役目は、人々に喜びを運ぶこと。ニューヨークまでの4日間を、一生の思い出にするの」

「素敵ね……」

私の役目は違う。非常時のための存在。でも、その時が来ないことを願う。



「シーラ、眠らないの?」

「船やボートも眠るの?」

「ええ、時々。特に何も起きない夜は」

タイタニックの声が優しく囁く。

「どうやって眠るの?」

「ただ、意識を休めるだけよ。波の音を聞きながら、星を見つめて……」

私もそうしてみることにした。木の体をリラックスさせ、意識を緩める。

「おやすみ、シーラ。明日も素敵な一日よ」

「おやすみ、タイタニック」

私は初めて「眠り」というものを体験した。

波の音と、遠くの音楽を子守唄に。

星空の下、ゆったりと揺れながら。

そして考えた——これからの日々はどんな風に過ぎていくのだろう?と。

タイタニックとともに大西洋を渡り、いつか姉妹船にも会える。そんな未来を想像しながら、私は眠りに落ちた。
木の身体にとって初めての夢の世界へ。
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