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IDEA of IDENTITY
無知の知 一章一節
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奪われたのでも、与えられなかったのでもなかった。
完全なる存在である父に、よもや間違いだなどと、甚だ愚かな考えであったのだ。
私が心を恐れた。
生まれながらにして、他者への同調を拒んだのである。
「――夢を見るんです」
電灯を消した室内には闇が蔓延っていた。幻想的な炎の揺らめきが、ただ一つの道標であった。私達は、篝火に群がる虫けらのごとく、陽炎を頼りにこの場所にしがみついていた。向かいの男は、足を組み、悠然と座している。血の水を回す動作は退廃的で、蝋燭の光と相まって、まるで暗示を掛けられているような気になった。弁の立つ男であるから、あながち間違ってはいないかもしれないが。
それも相手が私でなければの話である。
「夢?」
男はグラスをテーブルに置いた。影が形を変える。
私は頷いた。
「はい」
亡者のような声がした。男が唸ったのだ。私は構わずに続ける。
「箱があるんです。目の前に。辺りは暗いような、明るいような。それでいて、その箱も真っ黒のような、真っ白のような。箱には一部の隙も無く蓋がしてあって、汚れも、破損も見られません。そんなのが何もない空間にぽつんと置いてあったら、当然、中を覗くじゃないですか。僕は躊躇なく歩み寄り、その箱を開けるわけです……中には何が入っていると思います?」
「猫の死体」
「そんな生半な物ではありませんよ。あるのは僕の死体です」
「……」
男は黙ってしまった。
「脈を計ったわけではないので、実際には生きているのか死んでいるのか判然としないのですが。とにかく、目を瞑り、呼吸を止めた僕が、丸くなっているわけです。その、箱の中に」
「棺か何かなのか?」
「いいえ。ほとんど真四角の、こんな小さいやつです。まあるいケーキでも入れるような」
私は手で箱の大きさを示して見せた。精々がニ十センチ四方だ。男は喉の奥で笑った。
「随分と縮んだようだな、お前は」
「それがね。知覚的には今と同じサイズなんです。覗いた時には、百六十八センチの僕なんですけど、じゃあ一歩引いて箱に焦点を当てると、やっぱりこのくらいの箱なんですね。そこはまあ、夢ですから。この程度の不合理はあり得る範疇かと」
「オレはお前が夢を見るほうが驚きだ」
そうなんです、と僕は頷いた。
「僕も驚いています。今まで僕は、主の夢を見ることはあっても、それ以外の事象に囚われることなどなかった。整理する記憶もないんでしょうね。寝る必要だって、厳密にはないんですから。にも拘わらず、同じ夢を繰り返し見てしまう」
「いつからだ」
「ここ一、二週間のことです。きっかけも理由も原因もわからないので、こうして相談を。僕の夢は、どう分析されるのでしょうか」
「そうだな」
男は痩せた指で下顎を撫でた。
目は細められ、眉間に深い谷ができる。
考えているのだ。考えることによって、自然とこうしたポーズを取る。仕草は考えるための道具ではあらず、脳の働きに付随するものだ。それが私には不思議でならない。私にとって、行為は学習の賜物だ。夢中になると口が開くとか、困り果てると眉尻が下がるとか。結果を示すための過程にすぎないのである。
感情の定義は難しく、在り処もわかっていないうちは明言することはできないが。
私には心がないのだと思う。
驚くことも、笑うことも、憐れむこともするけれど、それは経験による反射でしかなさそうだ。叱られた時は竦むものだ、贈り物は喜ぶものだと、私は知っているのである。
比べてどうだ。この男の人間らしいこと。人を元に創られた私などより、よっぽど予想のつかぬ生き物だ。
悪魔とは、皆、そうなのだろうか?
――いや。
きっと彼は、地上に住む生きとし生けるものの中でも、一倍に繊細なのだ。
――愛の名を冠する天使、か。
その名に恥じぬ深き情をもった、堕ちた天使。
羨ましくはない。だが、この男と共に暮らす理由は、彼の在り方にあるように思う。
ならば貴方のほうはどうなのだろうかと。
なぜ、こんな信仰の薄れた、餌もない世界の片隅に住みついてしまったのかと。
柄にもなく、他者のことなどを考えた。
男は熟考の後、最低限の身振り手振りを交えながら、見解を述べた。
「まず、箱についてだが。形や状態で含まれる意味は変わるわけだが、総じて箱の夢は秘密や可能性を表す。男性の場合、性愛の対象とも捉えられるな」
「人外にも当てはまりますか。これでも天使の端くれなのですが」
「他は知らないがお前にはぴったりだろう。なにせ、男をモデルにしているのだから」
「……そうですね」私は笑ってみせた。「では私は、私を求めているということになるのでしょうか」
「そう急くな。ここで重要になるのは、箱の状態だ。蓋は閉まっていたんだな?」
「はい」
「傷はないと」
「綺麗なものでした」
「そしてお前は箱を開けるんだ」
「その通りです」
「であれば、表されるのは、性愛もしくは愛情に対する強い想いや願望。合わせて秘密の暴露、といったところか」
「欲求不満ということですか? そりゃ間違っていないですけど……」
「年中が発情期だものな、お前は」
「ちょっと短絡的すぎません? まあ、箱といえば何かを入れておく物という認識は、共通了解として成立しているのでしょうが」
「今のは分析というよりも診断の類だな。そうそうヨセフのようにはいかんし――あれは託宣に近いがね。ある精神分析学の権威に言わせれば、人間の根源は全て性に結び付いているものらしいが。どうだろうな。真意は創造神に訊ねねばわからん。しかし、深層意識などそう難しいものではないと思う。エスだ超自我だと言ったところで、結局、処理しているのはこの脳だ。そして脳というものは五感を通して世界を認識しているわけだ。好悪は抜きにして、この五感というやつはそれほど個人差はないんだな。甘いのが好きだとしても嫌いだとしても、甘いことに変わりはないだろう」
「甘いを辛いと感じる人もいるかもしれませんよ」
「それはただのバグだ。然るべき医療機関にかかることをお勧めする」
男は一蹴した。
「人格を形成するのは環境の仕事だとオレは思っている。明るく前向きな人間は、明るく前向きな人間として育つ状況にいただけのことなのだ。人間の感性は場所と経験に大きく左右される。例えば、狭く集落を形成してきた民族であれば、特異な慣習を発現する事例もあるだろうが。この国で生きる人間に関しては、それほど物の価値において世界と差はないよ。ここを訪れる……なんだ、お前のサンプルか? 彼らもこの国の常識の中でその人格を培ってきたわけだ。そして、その彼らを通して人間を学んできたお前の根底にも、この国、ひいては世界の社会通念が横たわっているはずだ。要は、お前にも一般常識は当てはまるぞということだ。定石や大衆論を侮ってはいかんよ。普遍を目指すお前は特にね」
「そう言われると、どうにも……じゃあやっぱり、僕は性欲を持て余しているだけなんですかねえ」
発散しているんだけどなあ、と私はぼやいた。
男はつまみに作った木の実を手に取ると、大して興味もなさそうに指の間で転がした。
「お前自身はどう思うんだ。その夢を見ることについて」
私は炎を見つめた。
前提。イメージ。常識。一般論。通念――そういったものを、私は手当たり次第に取り込んできた。当たり前の認識。当たり前の反応。
でも――何かが違うのだ。
優しいことと、優しくすることは違うように。
人間と、人間であることは、きっと違う。
――何が足りない。
何かが惜しい。
そして、その掛け違いは、私を人と大きく分け隔てている。
心がない、欠けていると、私はよく口走るけれど。
ならば心とは何であるかを――心無い私は知り得ないのである。
いっそ訊ねてしまえば、この男辺りならあっさりと答えてくれそうなものだが。私はなぜか、そうは訊かなかった。代わりに、夢とはどういうものなのかを問うた。
「抑圧された欲望を映す鏡、と、とあるユダヤ人は言った」
「夢を見るのは、押し込めている感情があるから?」
「夢は放っておいても見るものだ。肝要なのは内容だよ、イッシュ」
「だって、僕は夢に見るほどの激情を抱いた覚えがないんです」
「自覚がないから無意識と呼ばれるのだろ」
「完全な人間にとってはそうかもしれませんがね。そもそも僕には大した情動は与えられていないんだ」
「感情はあるだろう。ただ他に寄せられないだけだ。それに、もしかしたら持っているのかもしれないぞ。無いと思い込んでいるだけで」
「僕に共感能力が? 喉から手が出るほど欲しいものが、実は足元に落ちているというんですか」
「喉から手と来たか。その欲は立派な激情だと思うんだがねえ」
「揚げ足を取らないでいただきたい」
私は口を尖らせた。
「しかし……私が自分の完成を求めているのは、本当です」僅かの間が空いた。「……そういう、ことなのですか? 僕は、より強く、より鮮明に、人間の感性を欲している?」
「識ることは時として愛することと定義される。悪い推察ではないだろう」
「だとしたら……なぜ、殺す必要があったんだろう」
ほとんど独白であった。男はそれに耳聡く反応した。
「殺す? 箱の中身を死体だと仮定するということか」
「違います。僕は、僕を殺してしまうんです」
「は?」
「え? だから――」
「待て」男は手の平をこちらに見せた。「待て、一旦黙れ……順序立てて説明してもらおうか。そのためにはオレの質問にだけ答えるんだ。お前が? その箱の中の死体らしきものを作ったということか」
「いいえ。僕を殺すのは、箱を開けた後です」
「――死んでいる自分を、殺したと」
「正確には死んでいると思われる僕を、ですが。概ねそうなりますね」
「どうやって?」
「こう、首に手を添えて、骨を」
「折ったのか。なぜ」
「わかりません。その時は、そうするべきだと思うんです」
「お前は……」男は言い淀んだ。「お前である自覚が、あるわけだな? その、夢の中において」
「あります。僕は僕の意志でもって、僕の死体らしきものを殺すのです」
「夢の続きがあったわけだ――そういうのは早くに言ってほしいものだな。だがしかし、そうか……自分で自分を殺す……決して悪い意味ではない。自殺と捉えるのは早計だ。何か、変化が起きているのかもな。お前の、シャドウに」
「……僕が、無意識下で変化している……?」
うん、と男は頷いた。
「潜在意識と自我が衝突しているわけだ。どのくらいの頻度で見るんだ、その夢は」
「ほとんど毎日のように」
「なら今も戦っているんだな。思い当たる節はないのか。愛や、秘密。脱却したい自己。打ち破りたい欲望。訪れを待ち望む成功」
「……」
悩んだ末、私は両の掌を男に向けた。降参、という記号。意思表示である。
「特に覚えはありませんねえ。ああでも、強いて言うなら――」
人格形成に影響を及ぼすのは、環境という話だった。
一つ、私を取り巻く事象に大きく変化した事柄がある。
私の目は、炎の揺らめきに、とある少年の艶めかしい肢体のうねりをなぞらえていた。
「……当てられたかな」
「何に?」
「あの子の繊細さにですよ」
悪魔は口元だけで笑った。
「お前ほどの図太い神経の持ち主がか? 斧をかけたって、刃のほうがこぼれるだろうに」
「否定はしませんよ。でも、夢を見るようになったのは事実ですから」
「疑っちゃあいないがね。お前がこんなふうに心情を吐露するのは珍しい。自分で考えている以上に、参っているのかもしれないな」
気を付けることだ、と男は意味深長に言った。私は解せない。
「何にです。聞く限りでは、あまり問題があるようには思えません。欲望に呑み込まれるようなヘマはしませんし、見方によってはとっくに溺れています」
「はは。同意しよう。オレもお前の持つ自己同一性の強靭さは信頼しているんだ。……だがね。オレが危惧しているのは、認知機能のずれだ」
「ずれ」
「そう。最初にお前も言っただろう。それらは夢の中の出来事だ。認知世界に社会通念が罷り通るはずはない。先のような外から分析する場合とは別だ。夢の中では常識は捨て去られている。視点によって箱が大きさを変えるように、不条理と理不尽が売りだとすれば、逆である可能性が出てくるわけだ。箱の中にいるのは――殺されるのは、自我のほうかもしれないぞ」
全知全能の存在は、唯一のみなのだ。
そう言って、男は散々弄んでいた木の実を口に放り込んだ。
完全なる存在である父に、よもや間違いだなどと、甚だ愚かな考えであったのだ。
私が心を恐れた。
生まれながらにして、他者への同調を拒んだのである。
「――夢を見るんです」
電灯を消した室内には闇が蔓延っていた。幻想的な炎の揺らめきが、ただ一つの道標であった。私達は、篝火に群がる虫けらのごとく、陽炎を頼りにこの場所にしがみついていた。向かいの男は、足を組み、悠然と座している。血の水を回す動作は退廃的で、蝋燭の光と相まって、まるで暗示を掛けられているような気になった。弁の立つ男であるから、あながち間違ってはいないかもしれないが。
それも相手が私でなければの話である。
「夢?」
男はグラスをテーブルに置いた。影が形を変える。
私は頷いた。
「はい」
亡者のような声がした。男が唸ったのだ。私は構わずに続ける。
「箱があるんです。目の前に。辺りは暗いような、明るいような。それでいて、その箱も真っ黒のような、真っ白のような。箱には一部の隙も無く蓋がしてあって、汚れも、破損も見られません。そんなのが何もない空間にぽつんと置いてあったら、当然、中を覗くじゃないですか。僕は躊躇なく歩み寄り、その箱を開けるわけです……中には何が入っていると思います?」
「猫の死体」
「そんな生半な物ではありませんよ。あるのは僕の死体です」
「……」
男は黙ってしまった。
「脈を計ったわけではないので、実際には生きているのか死んでいるのか判然としないのですが。とにかく、目を瞑り、呼吸を止めた僕が、丸くなっているわけです。その、箱の中に」
「棺か何かなのか?」
「いいえ。ほとんど真四角の、こんな小さいやつです。まあるいケーキでも入れるような」
私は手で箱の大きさを示して見せた。精々がニ十センチ四方だ。男は喉の奥で笑った。
「随分と縮んだようだな、お前は」
「それがね。知覚的には今と同じサイズなんです。覗いた時には、百六十八センチの僕なんですけど、じゃあ一歩引いて箱に焦点を当てると、やっぱりこのくらいの箱なんですね。そこはまあ、夢ですから。この程度の不合理はあり得る範疇かと」
「オレはお前が夢を見るほうが驚きだ」
そうなんです、と僕は頷いた。
「僕も驚いています。今まで僕は、主の夢を見ることはあっても、それ以外の事象に囚われることなどなかった。整理する記憶もないんでしょうね。寝る必要だって、厳密にはないんですから。にも拘わらず、同じ夢を繰り返し見てしまう」
「いつからだ」
「ここ一、二週間のことです。きっかけも理由も原因もわからないので、こうして相談を。僕の夢は、どう分析されるのでしょうか」
「そうだな」
男は痩せた指で下顎を撫でた。
目は細められ、眉間に深い谷ができる。
考えているのだ。考えることによって、自然とこうしたポーズを取る。仕草は考えるための道具ではあらず、脳の働きに付随するものだ。それが私には不思議でならない。私にとって、行為は学習の賜物だ。夢中になると口が開くとか、困り果てると眉尻が下がるとか。結果を示すための過程にすぎないのである。
感情の定義は難しく、在り処もわかっていないうちは明言することはできないが。
私には心がないのだと思う。
驚くことも、笑うことも、憐れむこともするけれど、それは経験による反射でしかなさそうだ。叱られた時は竦むものだ、贈り物は喜ぶものだと、私は知っているのである。
比べてどうだ。この男の人間らしいこと。人を元に創られた私などより、よっぽど予想のつかぬ生き物だ。
悪魔とは、皆、そうなのだろうか?
――いや。
きっと彼は、地上に住む生きとし生けるものの中でも、一倍に繊細なのだ。
――愛の名を冠する天使、か。
その名に恥じぬ深き情をもった、堕ちた天使。
羨ましくはない。だが、この男と共に暮らす理由は、彼の在り方にあるように思う。
ならば貴方のほうはどうなのだろうかと。
なぜ、こんな信仰の薄れた、餌もない世界の片隅に住みついてしまったのかと。
柄にもなく、他者のことなどを考えた。
男は熟考の後、最低限の身振り手振りを交えながら、見解を述べた。
「まず、箱についてだが。形や状態で含まれる意味は変わるわけだが、総じて箱の夢は秘密や可能性を表す。男性の場合、性愛の対象とも捉えられるな」
「人外にも当てはまりますか。これでも天使の端くれなのですが」
「他は知らないがお前にはぴったりだろう。なにせ、男をモデルにしているのだから」
「……そうですね」私は笑ってみせた。「では私は、私を求めているということになるのでしょうか」
「そう急くな。ここで重要になるのは、箱の状態だ。蓋は閉まっていたんだな?」
「はい」
「傷はないと」
「綺麗なものでした」
「そしてお前は箱を開けるんだ」
「その通りです」
「であれば、表されるのは、性愛もしくは愛情に対する強い想いや願望。合わせて秘密の暴露、といったところか」
「欲求不満ということですか? そりゃ間違っていないですけど……」
「年中が発情期だものな、お前は」
「ちょっと短絡的すぎません? まあ、箱といえば何かを入れておく物という認識は、共通了解として成立しているのでしょうが」
「今のは分析というよりも診断の類だな。そうそうヨセフのようにはいかんし――あれは託宣に近いがね。ある精神分析学の権威に言わせれば、人間の根源は全て性に結び付いているものらしいが。どうだろうな。真意は創造神に訊ねねばわからん。しかし、深層意識などそう難しいものではないと思う。エスだ超自我だと言ったところで、結局、処理しているのはこの脳だ。そして脳というものは五感を通して世界を認識しているわけだ。好悪は抜きにして、この五感というやつはそれほど個人差はないんだな。甘いのが好きだとしても嫌いだとしても、甘いことに変わりはないだろう」
「甘いを辛いと感じる人もいるかもしれませんよ」
「それはただのバグだ。然るべき医療機関にかかることをお勧めする」
男は一蹴した。
「人格を形成するのは環境の仕事だとオレは思っている。明るく前向きな人間は、明るく前向きな人間として育つ状況にいただけのことなのだ。人間の感性は場所と経験に大きく左右される。例えば、狭く集落を形成してきた民族であれば、特異な慣習を発現する事例もあるだろうが。この国で生きる人間に関しては、それほど物の価値において世界と差はないよ。ここを訪れる……なんだ、お前のサンプルか? 彼らもこの国の常識の中でその人格を培ってきたわけだ。そして、その彼らを通して人間を学んできたお前の根底にも、この国、ひいては世界の社会通念が横たわっているはずだ。要は、お前にも一般常識は当てはまるぞということだ。定石や大衆論を侮ってはいかんよ。普遍を目指すお前は特にね」
「そう言われると、どうにも……じゃあやっぱり、僕は性欲を持て余しているだけなんですかねえ」
発散しているんだけどなあ、と私はぼやいた。
男はつまみに作った木の実を手に取ると、大して興味もなさそうに指の間で転がした。
「お前自身はどう思うんだ。その夢を見ることについて」
私は炎を見つめた。
前提。イメージ。常識。一般論。通念――そういったものを、私は手当たり次第に取り込んできた。当たり前の認識。当たり前の反応。
でも――何かが違うのだ。
優しいことと、優しくすることは違うように。
人間と、人間であることは、きっと違う。
――何が足りない。
何かが惜しい。
そして、その掛け違いは、私を人と大きく分け隔てている。
心がない、欠けていると、私はよく口走るけれど。
ならば心とは何であるかを――心無い私は知り得ないのである。
いっそ訊ねてしまえば、この男辺りならあっさりと答えてくれそうなものだが。私はなぜか、そうは訊かなかった。代わりに、夢とはどういうものなのかを問うた。
「抑圧された欲望を映す鏡、と、とあるユダヤ人は言った」
「夢を見るのは、押し込めている感情があるから?」
「夢は放っておいても見るものだ。肝要なのは内容だよ、イッシュ」
「だって、僕は夢に見るほどの激情を抱いた覚えがないんです」
「自覚がないから無意識と呼ばれるのだろ」
「完全な人間にとってはそうかもしれませんがね。そもそも僕には大した情動は与えられていないんだ」
「感情はあるだろう。ただ他に寄せられないだけだ。それに、もしかしたら持っているのかもしれないぞ。無いと思い込んでいるだけで」
「僕に共感能力が? 喉から手が出るほど欲しいものが、実は足元に落ちているというんですか」
「喉から手と来たか。その欲は立派な激情だと思うんだがねえ」
「揚げ足を取らないでいただきたい」
私は口を尖らせた。
「しかし……私が自分の完成を求めているのは、本当です」僅かの間が空いた。「……そういう、ことなのですか? 僕は、より強く、より鮮明に、人間の感性を欲している?」
「識ることは時として愛することと定義される。悪い推察ではないだろう」
「だとしたら……なぜ、殺す必要があったんだろう」
ほとんど独白であった。男はそれに耳聡く反応した。
「殺す? 箱の中身を死体だと仮定するということか」
「違います。僕は、僕を殺してしまうんです」
「は?」
「え? だから――」
「待て」男は手の平をこちらに見せた。「待て、一旦黙れ……順序立てて説明してもらおうか。そのためにはオレの質問にだけ答えるんだ。お前が? その箱の中の死体らしきものを作ったということか」
「いいえ。僕を殺すのは、箱を開けた後です」
「――死んでいる自分を、殺したと」
「正確には死んでいると思われる僕を、ですが。概ねそうなりますね」
「どうやって?」
「こう、首に手を添えて、骨を」
「折ったのか。なぜ」
「わかりません。その時は、そうするべきだと思うんです」
「お前は……」男は言い淀んだ。「お前である自覚が、あるわけだな? その、夢の中において」
「あります。僕は僕の意志でもって、僕の死体らしきものを殺すのです」
「夢の続きがあったわけだ――そういうのは早くに言ってほしいものだな。だがしかし、そうか……自分で自分を殺す……決して悪い意味ではない。自殺と捉えるのは早計だ。何か、変化が起きているのかもな。お前の、シャドウに」
「……僕が、無意識下で変化している……?」
うん、と男は頷いた。
「潜在意識と自我が衝突しているわけだ。どのくらいの頻度で見るんだ、その夢は」
「ほとんど毎日のように」
「なら今も戦っているんだな。思い当たる節はないのか。愛や、秘密。脱却したい自己。打ち破りたい欲望。訪れを待ち望む成功」
「……」
悩んだ末、私は両の掌を男に向けた。降参、という記号。意思表示である。
「特に覚えはありませんねえ。ああでも、強いて言うなら――」
人格形成に影響を及ぼすのは、環境という話だった。
一つ、私を取り巻く事象に大きく変化した事柄がある。
私の目は、炎の揺らめきに、とある少年の艶めかしい肢体のうねりをなぞらえていた。
「……当てられたかな」
「何に?」
「あの子の繊細さにですよ」
悪魔は口元だけで笑った。
「お前ほどの図太い神経の持ち主がか? 斧をかけたって、刃のほうがこぼれるだろうに」
「否定はしませんよ。でも、夢を見るようになったのは事実ですから」
「疑っちゃあいないがね。お前がこんなふうに心情を吐露するのは珍しい。自分で考えている以上に、参っているのかもしれないな」
気を付けることだ、と男は意味深長に言った。私は解せない。
「何にです。聞く限りでは、あまり問題があるようには思えません。欲望に呑み込まれるようなヘマはしませんし、見方によってはとっくに溺れています」
「はは。同意しよう。オレもお前の持つ自己同一性の強靭さは信頼しているんだ。……だがね。オレが危惧しているのは、認知機能のずれだ」
「ずれ」
「そう。最初にお前も言っただろう。それらは夢の中の出来事だ。認知世界に社会通念が罷り通るはずはない。先のような外から分析する場合とは別だ。夢の中では常識は捨て去られている。視点によって箱が大きさを変えるように、不条理と理不尽が売りだとすれば、逆である可能性が出てくるわけだ。箱の中にいるのは――殺されるのは、自我のほうかもしれないぞ」
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