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Capture01
01-009 物資を求めて
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ゾンビに噛まれると、凶暴化ウイルスに感染する確率が高い。ゾンビの多くは、凶暴化ウイルスの発症後に死亡し、ゾンビ化している。
凶暴化ウイルスの感染歴があるゾンビが、感染歴のないゾンビを引っ掻いただけでも、凶暴化ウイルスは伝播する。すでに死んでいるので発症はしないが、人を噛んだり引っ掻けば凶暴化ウイルスに感染する。
凶暴化ウイルスに感染しても、発症前ならば狂犬病ワクチンに効果がある。だが、絶対ではない。しかも、効果の有無は経験則でしかない。
益子真琴と加納千晶は、凶暴化ウイルスに対する狂犬病ワクチンの効果を科学的に確かめる必要性を議論している。
しかし、2人の議論には終わりがなかった。
仮説を立証する機材がない以上、2人の議論は空論に過ぎない。
夕食時、真琴と千晶がまた同じ会話を始める。それを聞いていた陽咲が「調べてみればいいじゃん」と言い放つ。もちろん悪気などない。
そう言われても簡単ではないし、生命がけになる。
健太が「真琴先生、どうやったら調べられる? どこに行けば調べられる?」と尋ねる。
真琴は沈黙したが、千晶が答える。
「確実じゃないけど、県庁がある駐屯地の隣りに警察の施設があるんだ。そこに、科学捜査研究所がある。科捜研ならできるかも……」
真琴が賛成する。
「狂犬病ウイルスは、界面活性剤や消毒用アルコールで簡単に不活化できるから、処置さえすれば大丈夫ね。
用心のため防護服がいる。
健太くん、用意できる?」
健太が怒る。
「何で、俺に振るんだ!
こういうことは、良平だろう」
千晶が健太に迫る。
「健太くん次第だよ。
ゾンビの真っ只中で1週間、建物を守り切るのは簡単じゃない。
健太くんができないなら、誰にもできないよ」
健太は考えた。
「俺にはできないが、できるヤツを知っている」
陽咲が声を上げる。
「わかったぁ~!
街の子たちぃ~!」
良平は、陽咲の意見は正しいと感じた。
「そうだね。
街の彼らに連絡してみよう。
いい方法を知っているかもしれない」
重要な通信は、自衛隊の無線を使うようにしている。広帯域多目的無線機は、街の子たちにも渡してある。高原は、広帯域多目的無線機携帯用Ⅰ型を空港から譲り受けていた。
高原は、空港や合流点との通信にこれを使っている。
高原から街の子たちへの呼びかけは、1時間ほど応答がなかった。
「何だぉ~」
ぶっきらぼうな応答に健太は笑ってしまう。
「俺は、高原の真崎健太だ。
教えてもらいたいことがある。
それほど、小さくもない建物からゾンビを誘き出し、1週間、ゾンビが近付かないようにする方法が知りたい」
「んなこと、教えねぇよ」
「教えてくれ。
教えてくれたら、ゾンビに噛まれても死なない方法を教えてやる」
「バァ~カ、そんな方法ねぇよ」
「いや、実際に回復した例がある。
真琴先生が試した」
「おまえ、真琴先生の仲間かぁ?」
「あぁ、そうだ」
「なぜ、最初に言わねぇんだ。
これから仲間と相談する。
こっちから連絡する」
県庁がある街への遠征隊は、当初の計画とは異なり小規模な部隊ではなくなった。
高原から4、空港も4、合流点が2、街の子たちはなんと10を出してきた。街の子たちに関しては、空港がアイスクリーム、合流点がメロンで釣ったことも理由なのだが……。
街の子たちの経験的対処法には、感心させられる。ゾンビはアスファルトの補修工事で使う転圧機で誘き出せる。周辺からも呼ぶが、自走させるとついていく。
建物の外で、動かせば屋外に出てくる。周辺に人がいても、気付かれることはない。
また、ゾンビは特定の周波数を嫌う。いわゆるモスキート音だ。これを知ったのは偶然らしい。高周波音発生装置を使えば、ゾンビの侵入を防げる。
彼らは犠牲を払いながら、これらを学んだ。
健太は彼らに敬服したし、空港の大人たち、合流点の研究者たちも子供だと見下しはしない。
空港での全体会議のために、砂倉裕子は手に入る材料でパウンドケーキを焼いた。
空港はソフトクリームメーカーで作ったカップに入れたソフトクリーム、合流点は大量のメロンを用意した。
街の子たちは、いまでは滅多に食べることができない食の数々を必死に口へ運んでいる。
高原と空港は軽装甲機動車と2トンパネルトラック、合流点は軽装甲機動車とブッシュマスターを出すことになった。
トラックは、街で得た物資を輸送するためだ。
街の子たちが指示した集合場所は、何と市役所前の大きな公園だった。ここに高周波音発生装置を設置して、ゾンビが近付かないようにしていた。
彼らを指揮しているのはリーダーである安西琢磨ではなく、アラックと呼ばれている10歳代の女性だった。
彼女は、高原、空港、合流点との交流に積極的なようだが、この点が琢磨とは違っていた。ただ、琢磨はアラックの行動に対して、直接的な反対はしなかった。
アラックは、街の子たちの中に一定の勢力を持つ派閥を形成している。健太は、街の子たちは分裂の危機にあるのではないかと感じた。
健太は驚いている。遠征に積極的なのはアラックで、安西琢磨は消極的。アラックは陽気で物怖じしないが、安西琢磨は壊れた眼鏡を手放さない陰気な男。インテリ風と言えば聞こえはいいが、実際は暗い雰囲気だ。
アラックは体形を含めてアスリートタイプ、琢磨はオタク系だ。
第一印象がいいのは、断然アラックだ。
遠征隊に抜擢されたメンバーは、そのオタク眼鏡に近い面々だった。この遠征隊メンバーのリーダー格が陽人という男の子で、ボソッと健太に言った。
「この遠征で俺たちの何人かが死ねば、街はアラックのものだ」
健太は「縄張り争いをしているときじゃないだろう!」と少し声に怒気を込めたが、リーダー格は「琢磨もそう言ってるけどね」と自嘲気味に笑った。
健太は「誰も死なせない。真琴先生にそう約束した」と伝える。だが、リーダー格は健太の言葉を信じていないことは、素振りから明らかだった。
もちろん、アラックは命じるだけで、遠征に参加しない。
自衛隊の駐屯地と警察の施設はすぐにわかった。郊外であることから、ゾンビの数は多くない。だが、屋内にもいる。
街の子たちの作戦は見事だった。かなり離れた、路上に転圧機を置いて、自走しないようにガードレールとロープで結び、盛大に稼働させる。
生きている人は近くにいても大丈夫で、注意としては振動が伝わりにくい土の上にいること。畑や田んぼの中に立っていれば、安全だ。
健太が驚いていると、12歳くらいの男の子が「建物内に閉じ込められていなければ、全部出てくるよ」と微笑んだ。
最初に稼働した転圧機は10分ほどで止まった。これ以上動くだけの燃料を入れていないのだ。それと、10分を超えると遠方からも呼んでしまう。
2台目の転圧機は、自走して市街方向に向かっていく。軽装甲機動車にゆっくりと引かれて、順調に走って行く。
その転圧機に誘われて、ゾンビが離れていく。
健太と莉子が警察の施設に突入。屋外に出られなかったゾンビ2体を弓とクロスボウで始末する。
死体を片付け、真琴を始めとする調査チームが建物内に入る。
それ以外のメンバーの半分は、建物の防衛。残り半分は、自衛隊と警察の建物に物資が残っていないか調べる。
あの突発的状況でも、警察と自衛隊は組織的に行動したようだ。駐車場にはたくさんの乗用車が残されている。おそらく、近隣住民と、警察や自衛隊の関係者が乗ってきたものだろう。
警察と自衛隊の車輌は、まったく残っていない。武器と弾薬、食料や毛布などの物資もない。運び出せるものは、すべて運んでいった。
予想していたが、落胆する。
「俺たちの街の自衛隊も同じだった」
健太の隣りにいた男の子が言った。続けて「市役所とかのほうがあるよ。図書館の地下とかに食べ物があることも多いんだ」と説明する。
「でも、地下は怖いよ。逃げ道がないから」
その通りだと、健太は思った。地下には入りたくない。
だが、自衛隊はすべてを持ち去ったわけではない。クルマに積みきれず、残置したものも多い。
例えば、テントなど。一部を残している。家型やドーム型の大型テントが残されている。
「これを運ぶぞ」
今回の遠征の目的には、こういった簡易施設の調達があった。
さらに、近くにあるテント倉庫の工場も調べる。運び出せる小型は拝借したが、航空機格納用とかスポーツ施設用とかの大型はどうすることもできない。運び出すには、大型トラックが必要だ。
これは諦める。
街の子たちが求めている物資は、食料だ。今回の遠征では、缶詰の確保を最大の目標としていた。行政の備蓄倉庫は市内中心部にあり、ここに突入することはほぼ不可能。
結局は、コンビニやスーパーを漁るしかないのだ。店内だけでなく、バックヤードを調べる必要がある。
この地道な作業を、到着翌日から始める。
健太は「必ず2人以上で行動しろ。単独行動はするな」と指示。この指示は忠実に守られた。
若年者は単独行動をしがちだが、そういった行動傾向のある子供はとっくに死んでいる。幸運に恵まれ、用心深いものだけが、生き残る。
「先生どう?」
5日目の朝、健太が真琴に尋ねる。いくら無音を貫いても、ゾンビは気付いている。徐々に集まりだしたのだ。
モスキート音はゾンビの接近を阻害する効果がある反面、一部の年少者にも効果があった。
健太も影響を受けている。
「効果はある。これは確実。少量で効果がある。だけどもっと調べたいから、できるだけたくさんの機材を持っていきたい」
真琴の発言に、健太は???となる。
「持っていく?
トラック2台は満杯だよ」
真琴は動じない。
「大きいトラック、どこかから調達してきて!」
すでに、警察施設の敷地外に出ることは、危険だった。ゾンビの密度が高まっているのだ。人の活動がゾンビを誘う。
健太は、隣接する駐屯地に残されている民間トラックから動きそうなものを見つけるしかなかった。
非常に近接して止められているから、数は多いが動かせるクルマは限られる。
アルミ波板の中型パネルトラックを見つける。幸運にもリフトゲート付きだ。ここのクルマはすべてキー付き。
バッテリーを取り替え、タイヤにエアを入れて、音を立てないように、警察の施設に向かう。
ゾンビは気付いている。鉄製の引き戸ゲートを長時間かけて開けてあり、トラックが入ると信じられないほどゆっくりと閉じる。
振動は禁物だ。
真琴たちは、近くの病院やクリニックから、小型レントゲン、超音波診断装置、内視鏡などの医用機械を確保している。これらも、持って帰るとか。
健太は頭と胃が痛くなってきた。
街の子たちは食い意地だけだが、真琴や千晶は知の探求にも貪欲。
世界が、ゾンビで満ちているというのに。
高原の最大の欠点は、恒久的建造物がほとんどないこと。工事現場用ユニットハウスが2棟、ダム湖から移動したトレーラーハウスが6棟、キャンピングカー1台、ラウンジマイクロバス1台が住居のすべてだった。
この状況で、益子真琴と加納千晶は、病院兼ウイルス研究所の設置を提案してきた。
桂木良平は趣旨には賛成だが、頭を抱える。
使っていない建物ならば、いくらでもある空港や河川合流点とは決定的に異なるのだ。
それと冬期の寒さは尋常ではなく、断熱が十分でないユニットハウスでは耐えられないほど。
良平が出した結論は「あと2棟、トレーラーを引っ張ってこよう」だった。
ダム湖には多くの恒久的家屋があるが、ここは防衛には適していない。このコロニーが全滅した理由でもある。湖周辺でゾンビ化した死人は多くが山を下ったが、一部は残っている。
こういった行動の差が起こる理由はわかっていない。
陽人には残された時間がなかった。七美を高原に連れていかなければならない。
アラックは陽人に「生まれたらすぐ殺せ」と命じた。
そんなことをしたら七美が壊れてしまうし、陽人にはできない。逃げるしかないが、陽人はクルマの運転に自信がない。それに、動く軽自動車をアジトの近くに用意しておくことは難しい。
七美は長距離を素早く動けない。適度な距離に、ピザ屋の3輪バイクを放置しておいた。スターターは動かないようにしてあるが、キックでスタートできる。荷台のトランクは外してあり、2人乗りができるようにしてある。彼女を荷台に横向きに座らせる。
埃を一切払わず、放置された3輪スクーターにしか見えない。
「明け方、ここを出る」
「陽人、どうして?」
「アラックは、俺たちを邪魔だと思っている」
「そんなことは、知ってるよ。
でも、ここにいれば安全だよ」
「それは、違うんだ。
七美、アラックはもっとひどいことを考えている」
七美が小首をかしげる。
陽人は、少し考える。だが、もう時間がない。
「赤ちゃんが生まれたら、すぐに殺せと言われている」
七美が絶句する。
「どうして?」
泣き声だ。
「赤ちゃんは泣くだろ。ゾンビを呼ぶ。
だからだ」
「陽人は平気なの?」
「平気なわけじゃない。
だから逃げるんだ」
「どこに?」
陽人は答えなかった。
アジトは小さなビルの地下駐車場にあった。ここにトイレはない。
早朝、七美はトイレに行く素振りで、1階に上がった。裏口の鉄扉を開け、外に出る。凍えるほど寒くはないが、すでに秋の気配だ。
陽人に指示された場所まで歩く。
陽人は待っていた。
「これを着て」
陽人が七美にダッフルコートを渡す。七美が驚く、こんな厚手のコートを着る気候じゃない。
だが、肌寒いので着る。
いくつかの路地を曲がる。
道路脇のアスファルトに置かれている、3輪バイクのトランクを開ける。
「スニーカーとジャージ。
早く着るんだ」
七美は、ゾンビが現れないか心配している。
「荷台に横向きに座って」
陽人が荷台に座布団を取り付け、七美が座る。七美の不安げな目が、陽人の心を痛めつける。
スタンドが跳ね上がるとき、嫌な音がする。こういう音はゾンビを呼ぶ。
陽人は痛む右脚を庇わずに、3輪バイクを押す。ここでエンジンをかければ、アラックたちに気付かれるかもしれないし、ゾンビにも知られることになる。
陽人は南に向かってバイクを1キロ押し、キックでエンジンを始動する。キックは2度失敗するが、3度目でかかる。
陽人の横に立つ七美は不安そうだ。スタンドを倒し、陽人が七美に「乗って」と促す。
「この支柱を握っていて、飛ばさないから」
陽人がキャノピー後端の支柱を七美に握らせる。
七美が「どこに行くの?」と尋ね、陽人は「高原だ。高原には真琴先生や千晶先生がいる。七美を助けてくれる」と断言する。
七美は、その2人の名を初めて聞いた。遠征隊は全員が無事に戻ってきたが、遠征中に見聞きしたことは一切話さなかった。
理由は、高原、空港、合流点のスパイだと疑われたら、アラックに何をされるかわからないからだ。
七美が「その人は誰なの?」と尋ねると、陽人はウソをついた。
「お医者さんだ」
七美が驚く。
「お医者さんがいるの?」
陽人は曖昧に「あぁ」と答えた。あまり突っ込まれるとばれるかもしれない、と少し焦る。七美の両親は医師だったからだ。
西に向かって4キロ走り、市街から抜ける。周囲は放棄された田畑。所々に民家がある。
さらに西へ4キロ進み、進路を南に変える。西の山地に沿って15キロ進み、ここでガソリンの調達をする。
七美は驚いていた。陽人の汚れたデイパックには、必要な道具・工具がすべて入っているからだ。足踏み式の空気入れまで持っている。
クルマのタンクからガソリンを抜くためのホースもある。路上放置車からガソリンを抜き取り、直接3輪バイクに移す。口の中にガソリンが入ったので気持ち悪い。
ペットボトルの水で、口をすすぐ。
「こんなところにもゾンビはいる。
早く離れよう」
そう言った矢先に、進行方向南側の民家からゾンビ4体が姿を現す。
陽人は大胆な行動に出る。南に向かってやや傾斜している道路を利用して、エンジンを切ったまま惰性でゾンビのほうに向かったのだ。
彼の経験則では、ゾンビはより近くにある振動を好む。
バイクを走らせながら、空き缶を路上に投げ捨てる。ゾンビが空き缶とアスファルトが接触する音、正確には空気の震動に一瞬だけ注意を向け、その隙間を縫うように南へ向かう。
ゾンビをかわすと、修理したスターターでエンジンをかける。
6キロ南下し、2.5キロ西進。3.5キロの丘陵を縫う道を選んで、3.5キロ南下する。
陽人は琢磨の最側近である自分が姿を消せば、アラックが追跡を仕掛けると確信していた。だが、高原に向かうとは思っていないはず。逃げ込むなら、一番近い空港だと考えていると予想している。
アラックの仲間は知恵者がほとんどいない。粗暴ではないが、観察力や洞察力に欠ける。
しかも、妊婦を連れているのだ。高原に向かうとは考えていないはず。
合流点は暴力的ではないので、アラックは脅しやすい。空港は凶暴な大人が多いので、逃げ込むなら空港だろう。
陽人でもそう考える。
だから、裏をかいた。一番遠くて、場所さえ判然としない高原を選ぶとはアラックの側近たちは考えない。
それと、陽人はゾンビ事変前のことだが、父親と馬乳峠から高原に向かったことがある。うろ覚えではあるが、道を覚えている。
一本道の林道だった。林道の入口を見失わなければ、ダートを3キロほど走れば高原にたどり着ける。
「寒い?」
「うん、少し……」
緊張からか七美は疲れていた。ダム湖の湖面は穏やかで、ゾンビの姿はない。
だが、七美が恐れているのはゾンビではなく、アラックと彼女の側近たちだ。
陽人がタオルケットを出す。季節外れだが寒さしのぎにはなる。
「コートの下で、身体に巻くんだ」
七美はコートを脱ぎ、バスタオルのように身体に巻き付ける。そして、再びコートを着る。
湖畔に沿って5キロ進み、馬乳峠に向かうため右折する。
小さな集落の中を突っ切るが、こういう場所は危険だ。ゾンビが不意に出てくることがあり、油断できない。早く抜けたいが、用心して速度を落とす。
馬乳峠までは順調だった。
林道の入口はわかりにくいが、馬乳峠からであることははっきりしている。注意深く観察する。
道は擬装されていた。高原の人たちがやったことだ。
それと、道は意外なほど整備されている。頻繁に使われている証拠だ。
七美が心配そうな顔をする。
「舗装してないよ」
「林道だからね。
3キロくらい走れば、高原だ。
もうすぐだよ」
七美は疲れていた。極度の緊張から、気分が悪かった。だが、陽人にそれを言ってはいけない気がした。
「うん」
道の擬装を元に戻し、3輪スクーターが走り出す。
「金堂峠よりはマシだな」
健太の嫌味を良平が受け流す。確かに馬乳峠経由のほうが、総距離は短いし、林道区間は大幅に短い。
だが、長大なトレーラーが通れる道ではない。ちょっとしたカーブで立ち往生してしまう。
修理のために持ち込まれたと思われる、自動車整備工場の裏手にあったフルクローラーの農業トラクターは強引にハウストレーラーを牽引しようと足掻いている。
左後輪が雨で削れた路面の溝に落ち込んでいるのだ。
移動中のハウストレーラーは2棟。先頭がスタックしている。
路面整備の手間を省いたツケが回ってきたのだ。
「七美、どうしよう。
家が道を塞いでいる!」
七美は、左向き横座りしていた。このほうが落ち着くからだ。首を動かせば、陽人の背中と前方が見える。
「どうして、家が道にあるの?」
このとき、七美の疲労は極に達していた。
陽人は何をどう理解していいのかわからず、警戒を怠ってしまい、衝動的にハウストレーラーに近付く。
「おう、陽人じゃないか!
何してるんだ?
うしろのぐったりしたお姉ちゃんは誰だ?」
陽人が振り返ると、七美が荒い息をしている。
「七美どうしたの?」
「陽人……」
良平がトラクターを降りて、最後尾にやって来た。陽人と七美を見て驚く。
「健太、この子たち誰!」
健太が説明。
「街の陽人だ。
で、おまえ、ここで何をしているんだ?」
「高原に七美を連れて行こうと思って」
陽人は泣き出しそうだった。
美保が来た。
「あなた、お腹が大きいの?」
健太が「失礼だろう!」と美保を非難すると、美保は「バカじゃないの。赤ちゃんよ」と健太をなじる。
その後はパニックだ。気分の悪そうな妊婦を前に、誰もがオロオロするばかり。
七美に手を貸して、歩いて最前部まで行き、軽バンに乗せて高原に連れて行く。
陽人は期待を裏切られていた。
真琴と千晶が何とかしてくれるはずが、2人は呆然としている。
七美を介抱しているのは会ったことのない女性。
「ベッドの用意をして!
部屋を暖かくするの!」
陽人もどうしたらいいかわからない。
自然と意識が遠くなる。
陽人の手足は拘束されていた。服は脱がされている。
会ったことのないおじさんが「いつ噛まれた」と尋ねる。
「一昨日の夕方……」
「40時間から44時間か……」
千晶が「先生、どいてください」と益子則之をベッドの脇からどかす。
「発症前だから、効くかもしれない」
陽人はおとなしく注射される。
「千晶先生、俺、死ぬと思う。そのときは、ゾンビになる前に殺して」
陽人は過去数カ月、自分の食べる量を減らして、七美に与えていた。もともと量が十分ではない食料は、陽人を徐々に衰弱させていた。
七美は妊娠に怯え、自分のことだけで一杯いっぱいだった。陽人の衰弱には気付いていなかった。
遠征前は極端に減らし、七美に「余分な食料だ」と残してきた。
もし、ふんだんに食べられる遠征がなければ、陽人は明確に栄養失調状態に陥っていた。
容体は、七美よりも陽人のほうが深刻だ。高原に到着した夜には38度の熱を出し、4日間に渡って38.5度前後の発熱に苦しむ。
これが凶暴化への変容の前段階なのか、狂犬病ワクチンの副反応なのかがわからなかった。
益子真琴と加納千晶は常時拳銃を携帯して、陽人を治療・看護した。
2人の回復を待つしか高原の面々にはすることがないのだが、則之が「ベビー用品はどうする?」と尋ねると、良平が「ベビーベッドとベビーカーがいるよね」と言い、鬼丸莉子が「それよりも紙おむつだよ」と応じた。
すると、次々と名案・珍案が飛び出し、物資調達の手段に話題が移る。
羽月美保が「赤ちゃんが生まれるなんて、あり得ないよね」と言うと、畠山洋介が「希望だよ。俺たちの」と答える。
真田沙耶が「赤ちゃん、いつ生まれるの?」と尋ね、神崎百花が「来月だよ」と教える。
深刻な状況だが、全員があえて前向きな会話を心がけていた。
良平は想定外の物資補給をどうするか、思いを巡らせていた。
凶暴化ウイルスの感染歴があるゾンビが、感染歴のないゾンビを引っ掻いただけでも、凶暴化ウイルスは伝播する。すでに死んでいるので発症はしないが、人を噛んだり引っ掻けば凶暴化ウイルスに感染する。
凶暴化ウイルスに感染しても、発症前ならば狂犬病ワクチンに効果がある。だが、絶対ではない。しかも、効果の有無は経験則でしかない。
益子真琴と加納千晶は、凶暴化ウイルスに対する狂犬病ワクチンの効果を科学的に確かめる必要性を議論している。
しかし、2人の議論には終わりがなかった。
仮説を立証する機材がない以上、2人の議論は空論に過ぎない。
夕食時、真琴と千晶がまた同じ会話を始める。それを聞いていた陽咲が「調べてみればいいじゃん」と言い放つ。もちろん悪気などない。
そう言われても簡単ではないし、生命がけになる。
健太が「真琴先生、どうやったら調べられる? どこに行けば調べられる?」と尋ねる。
真琴は沈黙したが、千晶が答える。
「確実じゃないけど、県庁がある駐屯地の隣りに警察の施設があるんだ。そこに、科学捜査研究所がある。科捜研ならできるかも……」
真琴が賛成する。
「狂犬病ウイルスは、界面活性剤や消毒用アルコールで簡単に不活化できるから、処置さえすれば大丈夫ね。
用心のため防護服がいる。
健太くん、用意できる?」
健太が怒る。
「何で、俺に振るんだ!
こういうことは、良平だろう」
千晶が健太に迫る。
「健太くん次第だよ。
ゾンビの真っ只中で1週間、建物を守り切るのは簡単じゃない。
健太くんができないなら、誰にもできないよ」
健太は考えた。
「俺にはできないが、できるヤツを知っている」
陽咲が声を上げる。
「わかったぁ~!
街の子たちぃ~!」
良平は、陽咲の意見は正しいと感じた。
「そうだね。
街の彼らに連絡してみよう。
いい方法を知っているかもしれない」
重要な通信は、自衛隊の無線を使うようにしている。広帯域多目的無線機は、街の子たちにも渡してある。高原は、広帯域多目的無線機携帯用Ⅰ型を空港から譲り受けていた。
高原は、空港や合流点との通信にこれを使っている。
高原から街の子たちへの呼びかけは、1時間ほど応答がなかった。
「何だぉ~」
ぶっきらぼうな応答に健太は笑ってしまう。
「俺は、高原の真崎健太だ。
教えてもらいたいことがある。
それほど、小さくもない建物からゾンビを誘き出し、1週間、ゾンビが近付かないようにする方法が知りたい」
「んなこと、教えねぇよ」
「教えてくれ。
教えてくれたら、ゾンビに噛まれても死なない方法を教えてやる」
「バァ~カ、そんな方法ねぇよ」
「いや、実際に回復した例がある。
真琴先生が試した」
「おまえ、真琴先生の仲間かぁ?」
「あぁ、そうだ」
「なぜ、最初に言わねぇんだ。
これから仲間と相談する。
こっちから連絡する」
県庁がある街への遠征隊は、当初の計画とは異なり小規模な部隊ではなくなった。
高原から4、空港も4、合流点が2、街の子たちはなんと10を出してきた。街の子たちに関しては、空港がアイスクリーム、合流点がメロンで釣ったことも理由なのだが……。
街の子たちの経験的対処法には、感心させられる。ゾンビはアスファルトの補修工事で使う転圧機で誘き出せる。周辺からも呼ぶが、自走させるとついていく。
建物の外で、動かせば屋外に出てくる。周辺に人がいても、気付かれることはない。
また、ゾンビは特定の周波数を嫌う。いわゆるモスキート音だ。これを知ったのは偶然らしい。高周波音発生装置を使えば、ゾンビの侵入を防げる。
彼らは犠牲を払いながら、これらを学んだ。
健太は彼らに敬服したし、空港の大人たち、合流点の研究者たちも子供だと見下しはしない。
空港での全体会議のために、砂倉裕子は手に入る材料でパウンドケーキを焼いた。
空港はソフトクリームメーカーで作ったカップに入れたソフトクリーム、合流点は大量のメロンを用意した。
街の子たちは、いまでは滅多に食べることができない食の数々を必死に口へ運んでいる。
高原と空港は軽装甲機動車と2トンパネルトラック、合流点は軽装甲機動車とブッシュマスターを出すことになった。
トラックは、街で得た物資を輸送するためだ。
街の子たちが指示した集合場所は、何と市役所前の大きな公園だった。ここに高周波音発生装置を設置して、ゾンビが近付かないようにしていた。
彼らを指揮しているのはリーダーである安西琢磨ではなく、アラックと呼ばれている10歳代の女性だった。
彼女は、高原、空港、合流点との交流に積極的なようだが、この点が琢磨とは違っていた。ただ、琢磨はアラックの行動に対して、直接的な反対はしなかった。
アラックは、街の子たちの中に一定の勢力を持つ派閥を形成している。健太は、街の子たちは分裂の危機にあるのではないかと感じた。
健太は驚いている。遠征に積極的なのはアラックで、安西琢磨は消極的。アラックは陽気で物怖じしないが、安西琢磨は壊れた眼鏡を手放さない陰気な男。インテリ風と言えば聞こえはいいが、実際は暗い雰囲気だ。
アラックは体形を含めてアスリートタイプ、琢磨はオタク系だ。
第一印象がいいのは、断然アラックだ。
遠征隊に抜擢されたメンバーは、そのオタク眼鏡に近い面々だった。この遠征隊メンバーのリーダー格が陽人という男の子で、ボソッと健太に言った。
「この遠征で俺たちの何人かが死ねば、街はアラックのものだ」
健太は「縄張り争いをしているときじゃないだろう!」と少し声に怒気を込めたが、リーダー格は「琢磨もそう言ってるけどね」と自嘲気味に笑った。
健太は「誰も死なせない。真琴先生にそう約束した」と伝える。だが、リーダー格は健太の言葉を信じていないことは、素振りから明らかだった。
もちろん、アラックは命じるだけで、遠征に参加しない。
自衛隊の駐屯地と警察の施設はすぐにわかった。郊外であることから、ゾンビの数は多くない。だが、屋内にもいる。
街の子たちの作戦は見事だった。かなり離れた、路上に転圧機を置いて、自走しないようにガードレールとロープで結び、盛大に稼働させる。
生きている人は近くにいても大丈夫で、注意としては振動が伝わりにくい土の上にいること。畑や田んぼの中に立っていれば、安全だ。
健太が驚いていると、12歳くらいの男の子が「建物内に閉じ込められていなければ、全部出てくるよ」と微笑んだ。
最初に稼働した転圧機は10分ほどで止まった。これ以上動くだけの燃料を入れていないのだ。それと、10分を超えると遠方からも呼んでしまう。
2台目の転圧機は、自走して市街方向に向かっていく。軽装甲機動車にゆっくりと引かれて、順調に走って行く。
その転圧機に誘われて、ゾンビが離れていく。
健太と莉子が警察の施設に突入。屋外に出られなかったゾンビ2体を弓とクロスボウで始末する。
死体を片付け、真琴を始めとする調査チームが建物内に入る。
それ以外のメンバーの半分は、建物の防衛。残り半分は、自衛隊と警察の建物に物資が残っていないか調べる。
あの突発的状況でも、警察と自衛隊は組織的に行動したようだ。駐車場にはたくさんの乗用車が残されている。おそらく、近隣住民と、警察や自衛隊の関係者が乗ってきたものだろう。
警察と自衛隊の車輌は、まったく残っていない。武器と弾薬、食料や毛布などの物資もない。運び出せるものは、すべて運んでいった。
予想していたが、落胆する。
「俺たちの街の自衛隊も同じだった」
健太の隣りにいた男の子が言った。続けて「市役所とかのほうがあるよ。図書館の地下とかに食べ物があることも多いんだ」と説明する。
「でも、地下は怖いよ。逃げ道がないから」
その通りだと、健太は思った。地下には入りたくない。
だが、自衛隊はすべてを持ち去ったわけではない。クルマに積みきれず、残置したものも多い。
例えば、テントなど。一部を残している。家型やドーム型の大型テントが残されている。
「これを運ぶぞ」
今回の遠征の目的には、こういった簡易施設の調達があった。
さらに、近くにあるテント倉庫の工場も調べる。運び出せる小型は拝借したが、航空機格納用とかスポーツ施設用とかの大型はどうすることもできない。運び出すには、大型トラックが必要だ。
これは諦める。
街の子たちが求めている物資は、食料だ。今回の遠征では、缶詰の確保を最大の目標としていた。行政の備蓄倉庫は市内中心部にあり、ここに突入することはほぼ不可能。
結局は、コンビニやスーパーを漁るしかないのだ。店内だけでなく、バックヤードを調べる必要がある。
この地道な作業を、到着翌日から始める。
健太は「必ず2人以上で行動しろ。単独行動はするな」と指示。この指示は忠実に守られた。
若年者は単独行動をしがちだが、そういった行動傾向のある子供はとっくに死んでいる。幸運に恵まれ、用心深いものだけが、生き残る。
「先生どう?」
5日目の朝、健太が真琴に尋ねる。いくら無音を貫いても、ゾンビは気付いている。徐々に集まりだしたのだ。
モスキート音はゾンビの接近を阻害する効果がある反面、一部の年少者にも効果があった。
健太も影響を受けている。
「効果はある。これは確実。少量で効果がある。だけどもっと調べたいから、できるだけたくさんの機材を持っていきたい」
真琴の発言に、健太は???となる。
「持っていく?
トラック2台は満杯だよ」
真琴は動じない。
「大きいトラック、どこかから調達してきて!」
すでに、警察施設の敷地外に出ることは、危険だった。ゾンビの密度が高まっているのだ。人の活動がゾンビを誘う。
健太は、隣接する駐屯地に残されている民間トラックから動きそうなものを見つけるしかなかった。
非常に近接して止められているから、数は多いが動かせるクルマは限られる。
アルミ波板の中型パネルトラックを見つける。幸運にもリフトゲート付きだ。ここのクルマはすべてキー付き。
バッテリーを取り替え、タイヤにエアを入れて、音を立てないように、警察の施設に向かう。
ゾンビは気付いている。鉄製の引き戸ゲートを長時間かけて開けてあり、トラックが入ると信じられないほどゆっくりと閉じる。
振動は禁物だ。
真琴たちは、近くの病院やクリニックから、小型レントゲン、超音波診断装置、内視鏡などの医用機械を確保している。これらも、持って帰るとか。
健太は頭と胃が痛くなってきた。
街の子たちは食い意地だけだが、真琴や千晶は知の探求にも貪欲。
世界が、ゾンビで満ちているというのに。
高原の最大の欠点は、恒久的建造物がほとんどないこと。工事現場用ユニットハウスが2棟、ダム湖から移動したトレーラーハウスが6棟、キャンピングカー1台、ラウンジマイクロバス1台が住居のすべてだった。
この状況で、益子真琴と加納千晶は、病院兼ウイルス研究所の設置を提案してきた。
桂木良平は趣旨には賛成だが、頭を抱える。
使っていない建物ならば、いくらでもある空港や河川合流点とは決定的に異なるのだ。
それと冬期の寒さは尋常ではなく、断熱が十分でないユニットハウスでは耐えられないほど。
良平が出した結論は「あと2棟、トレーラーを引っ張ってこよう」だった。
ダム湖には多くの恒久的家屋があるが、ここは防衛には適していない。このコロニーが全滅した理由でもある。湖周辺でゾンビ化した死人は多くが山を下ったが、一部は残っている。
こういった行動の差が起こる理由はわかっていない。
陽人には残された時間がなかった。七美を高原に連れていかなければならない。
アラックは陽人に「生まれたらすぐ殺せ」と命じた。
そんなことをしたら七美が壊れてしまうし、陽人にはできない。逃げるしかないが、陽人はクルマの運転に自信がない。それに、動く軽自動車をアジトの近くに用意しておくことは難しい。
七美は長距離を素早く動けない。適度な距離に、ピザ屋の3輪バイクを放置しておいた。スターターは動かないようにしてあるが、キックでスタートできる。荷台のトランクは外してあり、2人乗りができるようにしてある。彼女を荷台に横向きに座らせる。
埃を一切払わず、放置された3輪スクーターにしか見えない。
「明け方、ここを出る」
「陽人、どうして?」
「アラックは、俺たちを邪魔だと思っている」
「そんなことは、知ってるよ。
でも、ここにいれば安全だよ」
「それは、違うんだ。
七美、アラックはもっとひどいことを考えている」
七美が小首をかしげる。
陽人は、少し考える。だが、もう時間がない。
「赤ちゃんが生まれたら、すぐに殺せと言われている」
七美が絶句する。
「どうして?」
泣き声だ。
「赤ちゃんは泣くだろ。ゾンビを呼ぶ。
だからだ」
「陽人は平気なの?」
「平気なわけじゃない。
だから逃げるんだ」
「どこに?」
陽人は答えなかった。
アジトは小さなビルの地下駐車場にあった。ここにトイレはない。
早朝、七美はトイレに行く素振りで、1階に上がった。裏口の鉄扉を開け、外に出る。凍えるほど寒くはないが、すでに秋の気配だ。
陽人に指示された場所まで歩く。
陽人は待っていた。
「これを着て」
陽人が七美にダッフルコートを渡す。七美が驚く、こんな厚手のコートを着る気候じゃない。
だが、肌寒いので着る。
いくつかの路地を曲がる。
道路脇のアスファルトに置かれている、3輪バイクのトランクを開ける。
「スニーカーとジャージ。
早く着るんだ」
七美は、ゾンビが現れないか心配している。
「荷台に横向きに座って」
陽人が荷台に座布団を取り付け、七美が座る。七美の不安げな目が、陽人の心を痛めつける。
スタンドが跳ね上がるとき、嫌な音がする。こういう音はゾンビを呼ぶ。
陽人は痛む右脚を庇わずに、3輪バイクを押す。ここでエンジンをかければ、アラックたちに気付かれるかもしれないし、ゾンビにも知られることになる。
陽人は南に向かってバイクを1キロ押し、キックでエンジンを始動する。キックは2度失敗するが、3度目でかかる。
陽人の横に立つ七美は不安そうだ。スタンドを倒し、陽人が七美に「乗って」と促す。
「この支柱を握っていて、飛ばさないから」
陽人がキャノピー後端の支柱を七美に握らせる。
七美が「どこに行くの?」と尋ね、陽人は「高原だ。高原には真琴先生や千晶先生がいる。七美を助けてくれる」と断言する。
七美は、その2人の名を初めて聞いた。遠征隊は全員が無事に戻ってきたが、遠征中に見聞きしたことは一切話さなかった。
理由は、高原、空港、合流点のスパイだと疑われたら、アラックに何をされるかわからないからだ。
七美が「その人は誰なの?」と尋ねると、陽人はウソをついた。
「お医者さんだ」
七美が驚く。
「お医者さんがいるの?」
陽人は曖昧に「あぁ」と答えた。あまり突っ込まれるとばれるかもしれない、と少し焦る。七美の両親は医師だったからだ。
西に向かって4キロ走り、市街から抜ける。周囲は放棄された田畑。所々に民家がある。
さらに西へ4キロ進み、進路を南に変える。西の山地に沿って15キロ進み、ここでガソリンの調達をする。
七美は驚いていた。陽人の汚れたデイパックには、必要な道具・工具がすべて入っているからだ。足踏み式の空気入れまで持っている。
クルマのタンクからガソリンを抜くためのホースもある。路上放置車からガソリンを抜き取り、直接3輪バイクに移す。口の中にガソリンが入ったので気持ち悪い。
ペットボトルの水で、口をすすぐ。
「こんなところにもゾンビはいる。
早く離れよう」
そう言った矢先に、進行方向南側の民家からゾンビ4体が姿を現す。
陽人は大胆な行動に出る。南に向かってやや傾斜している道路を利用して、エンジンを切ったまま惰性でゾンビのほうに向かったのだ。
彼の経験則では、ゾンビはより近くにある振動を好む。
バイクを走らせながら、空き缶を路上に投げ捨てる。ゾンビが空き缶とアスファルトが接触する音、正確には空気の震動に一瞬だけ注意を向け、その隙間を縫うように南へ向かう。
ゾンビをかわすと、修理したスターターでエンジンをかける。
6キロ南下し、2.5キロ西進。3.5キロの丘陵を縫う道を選んで、3.5キロ南下する。
陽人は琢磨の最側近である自分が姿を消せば、アラックが追跡を仕掛けると確信していた。だが、高原に向かうとは思っていないはず。逃げ込むなら、一番近い空港だと考えていると予想している。
アラックの仲間は知恵者がほとんどいない。粗暴ではないが、観察力や洞察力に欠ける。
しかも、妊婦を連れているのだ。高原に向かうとは考えていないはず。
合流点は暴力的ではないので、アラックは脅しやすい。空港は凶暴な大人が多いので、逃げ込むなら空港だろう。
陽人でもそう考える。
だから、裏をかいた。一番遠くて、場所さえ判然としない高原を選ぶとはアラックの側近たちは考えない。
それと、陽人はゾンビ事変前のことだが、父親と馬乳峠から高原に向かったことがある。うろ覚えではあるが、道を覚えている。
一本道の林道だった。林道の入口を見失わなければ、ダートを3キロほど走れば高原にたどり着ける。
「寒い?」
「うん、少し……」
緊張からか七美は疲れていた。ダム湖の湖面は穏やかで、ゾンビの姿はない。
だが、七美が恐れているのはゾンビではなく、アラックと彼女の側近たちだ。
陽人がタオルケットを出す。季節外れだが寒さしのぎにはなる。
「コートの下で、身体に巻くんだ」
七美はコートを脱ぎ、バスタオルのように身体に巻き付ける。そして、再びコートを着る。
湖畔に沿って5キロ進み、馬乳峠に向かうため右折する。
小さな集落の中を突っ切るが、こういう場所は危険だ。ゾンビが不意に出てくることがあり、油断できない。早く抜けたいが、用心して速度を落とす。
馬乳峠までは順調だった。
林道の入口はわかりにくいが、馬乳峠からであることははっきりしている。注意深く観察する。
道は擬装されていた。高原の人たちがやったことだ。
それと、道は意外なほど整備されている。頻繁に使われている証拠だ。
七美が心配そうな顔をする。
「舗装してないよ」
「林道だからね。
3キロくらい走れば、高原だ。
もうすぐだよ」
七美は疲れていた。極度の緊張から、気分が悪かった。だが、陽人にそれを言ってはいけない気がした。
「うん」
道の擬装を元に戻し、3輪スクーターが走り出す。
「金堂峠よりはマシだな」
健太の嫌味を良平が受け流す。確かに馬乳峠経由のほうが、総距離は短いし、林道区間は大幅に短い。
だが、長大なトレーラーが通れる道ではない。ちょっとしたカーブで立ち往生してしまう。
修理のために持ち込まれたと思われる、自動車整備工場の裏手にあったフルクローラーの農業トラクターは強引にハウストレーラーを牽引しようと足掻いている。
左後輪が雨で削れた路面の溝に落ち込んでいるのだ。
移動中のハウストレーラーは2棟。先頭がスタックしている。
路面整備の手間を省いたツケが回ってきたのだ。
「七美、どうしよう。
家が道を塞いでいる!」
七美は、左向き横座りしていた。このほうが落ち着くからだ。首を動かせば、陽人の背中と前方が見える。
「どうして、家が道にあるの?」
このとき、七美の疲労は極に達していた。
陽人は何をどう理解していいのかわからず、警戒を怠ってしまい、衝動的にハウストレーラーに近付く。
「おう、陽人じゃないか!
何してるんだ?
うしろのぐったりしたお姉ちゃんは誰だ?」
陽人が振り返ると、七美が荒い息をしている。
「七美どうしたの?」
「陽人……」
良平がトラクターを降りて、最後尾にやって来た。陽人と七美を見て驚く。
「健太、この子たち誰!」
健太が説明。
「街の陽人だ。
で、おまえ、ここで何をしているんだ?」
「高原に七美を連れて行こうと思って」
陽人は泣き出しそうだった。
美保が来た。
「あなた、お腹が大きいの?」
健太が「失礼だろう!」と美保を非難すると、美保は「バカじゃないの。赤ちゃんよ」と健太をなじる。
その後はパニックだ。気分の悪そうな妊婦を前に、誰もがオロオロするばかり。
七美に手を貸して、歩いて最前部まで行き、軽バンに乗せて高原に連れて行く。
陽人は期待を裏切られていた。
真琴と千晶が何とかしてくれるはずが、2人は呆然としている。
七美を介抱しているのは会ったことのない女性。
「ベッドの用意をして!
部屋を暖かくするの!」
陽人もどうしたらいいかわからない。
自然と意識が遠くなる。
陽人の手足は拘束されていた。服は脱がされている。
会ったことのないおじさんが「いつ噛まれた」と尋ねる。
「一昨日の夕方……」
「40時間から44時間か……」
千晶が「先生、どいてください」と益子則之をベッドの脇からどかす。
「発症前だから、効くかもしれない」
陽人はおとなしく注射される。
「千晶先生、俺、死ぬと思う。そのときは、ゾンビになる前に殺して」
陽人は過去数カ月、自分の食べる量を減らして、七美に与えていた。もともと量が十分ではない食料は、陽人を徐々に衰弱させていた。
七美は妊娠に怯え、自分のことだけで一杯いっぱいだった。陽人の衰弱には気付いていなかった。
遠征前は極端に減らし、七美に「余分な食料だ」と残してきた。
もし、ふんだんに食べられる遠征がなければ、陽人は明確に栄養失調状態に陥っていた。
容体は、七美よりも陽人のほうが深刻だ。高原に到着した夜には38度の熱を出し、4日間に渡って38.5度前後の発熱に苦しむ。
これが凶暴化への変容の前段階なのか、狂犬病ワクチンの副反応なのかがわからなかった。
益子真琴と加納千晶は常時拳銃を携帯して、陽人を治療・看護した。
2人の回復を待つしか高原の面々にはすることがないのだが、則之が「ベビー用品はどうする?」と尋ねると、良平が「ベビーベッドとベビーカーがいるよね」と言い、鬼丸莉子が「それよりも紙おむつだよ」と応じた。
すると、次々と名案・珍案が飛び出し、物資調達の手段に話題が移る。
羽月美保が「赤ちゃんが生まれるなんて、あり得ないよね」と言うと、畠山洋介が「希望だよ。俺たちの」と答える。
真田沙耶が「赤ちゃん、いつ生まれるの?」と尋ね、神崎百花が「来月だよ」と教える。
深刻な状況だが、全員があえて前向きな会話を心がけていた。
良平は想定外の物資補給をどうするか、思いを巡らせていた。
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