アークティカの商人(AP版)

半道海豚

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第2章 帰還

第8話 交易都市エリス

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 エリスの街は、白い海と赤い海のそれぞれの沿岸北端からほぼ等距離にある交易都市だ。
 この地方には三つの大きな内海がある。東から、青い海、赤い海、白い海。
 青い海が一番小さく、他の内海とは隔絶された淡水の湖である。
 赤い海と白い海は海峡で結ばれており、白い海は外海と狭い海峡で接続している。この外海も外洋ではなく、内海らしい。外海を西に進むと外洋への出口があるという。

 白い海の北岸から北方内陸にかけて、西方教会と奴隷商人が統べる領土だ。さらにその北には、遊牧と狩猟を生業にする北方民族が住んでいる。
 バルティカは、青い海と赤い海に挟まれた大穀倉地帯で、東方諸民族との境界にもなっている。

 エリスは東西南北を結ぶ交易の要衝であり、南北にマラン街道が走り、東西に延びるモスル街道とが交差する。さらに、南東に向かうバタ街道があり、終点のバタの街には赤い海を渡りバルティカの沿岸諸都市に向かうフェリーの発着港がある。
 エリスは、周辺の村や街とは桁違いに大きい大都市で、人口は数万に達する。
 都市交通が整備されており、市内には馬車鉄道が、街の外周部には軌道が敷かれ蒸気機関車が走っている。また、街中には蒸気車のタクシーまである。
 人々の様子も様々で、毛皮のコートを着た北方人、一枚の布を巧みに身体に巻き付ける衣を着た南方人、革の胸甲が特徴の東方人、マントを羽織った西方人など、文明の交差点の様相を呈している。
 物資も豊富で、東西南北のあらゆる物資が調達できる。また、文化・文明の交差点でもあり、工業技術力は圧倒的な高さを誇っている。
 軍事的にも強力で、他都市では見ることのなかった移動可能な砲、野砲が蒸気車によって牽引されている様子を何度も見た。
 砲を詳しく検分したわけではないが、前装式青銅製滑腔砲、口径一二〇ミリ、砲弾は球体、榴弾、榴散弾、実体弾があるだろう。
 移動する目標を撃破する能力はないが、砲弾が命中すれば装甲車の装甲では防御できない。
 移動式野砲の存在は、私が最も恐れていたことだった。もし、砲身にライフリング(旋条)が施され、椎の実形の砲弾を撃ち出すライフル砲がこの世界に存在すれば、我々の装甲車は相対的に安全な車輌ではなくなる。
 リシュリンとヴェルンドの話によれば、ライフルのある猟銃があるらしい。一部の街では、狙撃用にライフルのある瞬発式マッチロック銃を装備しているようだ。
 瞬発式マッチロック銃、つまり日本の戦国時代に多用された、引き金を引けばタイムラグなしで銃弾が飛び出す前装銃だ。
 これにライフリングを施して、射程距離と命中精度を上げたものを、狙撃銃として一部の兵に装備させる例があるらしい。ライフル火縄銃兵は、猟兵と呼ばれるそうだ。
 銃にライフルが施せるのならば、砲にも施せるはずだ。
 私は、この可能性を排除したことはなかった。しかし、エリスにはライフル砲はないようだ。

 街は高さ二〇メートルに達する城壁に囲まれていて、その城壁の総延長は三五キロに達する。これは、山手線の距離とほぼ同じだ。
 この城壁の上を単線の外周鉄道が走っている。このような交通システムは、他の街にはない。

 この街に着いたとき、マーリン、リシュリン、ミーナの三人は、大都会の喧噪に圧倒され、そしてその豊かさに驚嘆し、心は舞い上がった。
 ヴェルンドは南方の巨大都市をよく知っているそうで、さほどの驚きはないようだが、それでも鉄の豊富さには感嘆している。
 私は、何となく東京を思い出していた。山手線の内側、東京駅八重洲界隈、豊洲の夜景、神楽坂の街並み、西新宿の思い出横丁、そんなことを思い出す要素がそろったエリスの街であった。

 エリスの街の中心には、議会と行政府が置かれており、半民主的な統治がされている。自治警察が治安を維持し、軍が外敵から街を守る近代的な機構が整っている。
 また、上下水道が完備しており、医療や教育施設も充実している。
 市中では一切の銃器の携帯が許されず、市民が法を破れば裁判を経て有罪となれば監獄に、市民以外は財産を没取した上で追放という処分が行われる。
 城内に入るには厳重な検査がなされ、刀剣以外の武器の持ち込みは不可能だ。

 我々は、所持品検査を免れるために装甲車で街に入城することができなかった。そのため、街の東側、モスル街道沿いの蒸気車ごと泊まれる旅人宿に投宿する。
 宿は、街道沿いでは一般的な造りだが、別棟に温泉の湯船があった。ただし、湯殿は女人専用、男子禁制とかで、温泉に入れないという現実は強烈なストレスになっている。
 マーリン、リシュリン、ミーナの三人は、朝晩に入浴し、「お肌すべすべ」を大いに堪能していた。

 エリスの街には数日の滞在の予定だったが、
どうしても入手したいものがある。
 地図だ。
 マーリン、リシュリン、ヴェルンドの三人の距離単位は同じではなく、かなり異なることがわかっていた。
 また、三人の距離の換算は、基準が不明で実距離の割り出しはほぼ不可能だ。
 正確な地図があれば、おおよその距離が割り出せ、燃料や食料の調達に不安がなくなる。
 今まで見てきた地図は、絵地図のようなものばかりで、方向と地形がそれとなくわかる程度の代物だった。
 地図の重要性は、マーリンとヴェルンドはよく理解しており、マーリンによれば正確な地形図を含む道路地図は、長距離を移動する交易商人たちが使っているという。
 ヴェルンドによれば、南方には正確な道路地図に加えて、見所や名物・名産を紹介する旅行ガイドブック的なものまであるらしい。
 一方、リシュリンは、そういった地図を全く知らず、見たことはもちろん、聞いたこともないという。想像すらできないようだ。
 東方や南方と西方の文化・文明の差なのだろうか?
 地図探しは、私とマーリンの二人で進めたが、簡単には見つからなかった。すべてが絵地図で、正確な地図は見つけられない。
 マーリンが彼女の父から聞いた話だと、正確に測量されて作られた地図はイノー図と呼ばれ、その原著は失われた文明が残した地形図に都市や道路を書き加えたものだという。
 ただ、イノー図は禁忌に触れる悪書とされ、西方教会の勢力圏では所持を禁止されているそうだ。
 バルティカは西方教会の勢力圏外だが、バルティカの神聖教会でも、旧文明の痕跡は悪とされ、所持は神への反逆とみなされているそうだ。
 ただ、バルティカは世俗主義の土地なので、神聖教会がそれを強要することはないという。せいぜい、教会施設内には持ち込まない、程度の規則らしい。
 マーリンの父親もアークティカとその南部地域一帯のイノー図を持っていたと言う。
 エリスの街は、西方教会の影響から完全に脱してはいなかった。そのため、イノー図の探索は困難を極めた。しかも、マーリンによれば、エリスで探し出せなければ、他では入手できないという。

 三日目の朝、エリスの街に入ると、すぐに尾行されていることに気付いた。尾行しているのは、頭巾を被り黒の僧衣のような衣装を纏った男だ。
 男は気付かれぬように尾行しているのではなく、意図的に気付かれるように振る舞っている。
 私とマーリンが人混みを避け、人気のない路地に入ると、後方からその男が急速に近付いてきた。
 私が刀の柄に手をかけると、男は立ち止まり右手をかざして制止させようとするような行動をとった。男が低い小声で言った。
「イノー図をお探しか?」
「探している」
 私が答えると、男は踵を返し、立ち去ろうとする。マーリンが「ついて行こう」と、私を促し、その男の後に従った。
 三〇分ほど歩くと、小さいが瀟洒な聖堂に男が入る。
 マーリンが「西方教会ではない。東方正教会ヤクト派の聖堂だ」と説明する。
 マーリンが先頭に立ち、私はマーリンに従った。
 男は聖堂を抜け、回廊を進み、一室に入る。我々もそれに続いた。
 部屋には、帯剣した若い尼僧がいた。
「なにゆえにイノー図をお探しか?」
 尼僧は唐突に問うてきた。
 マーリンが答える。
「我が故郷に帰るため」
「故郷に帰るだけならば、イノー図は必要なかろう」
 尼僧の問いかけに、マーリンが即座に反応する。
「我が故郷は外敵に蹂躙され、民の多くは捕らえられたか、殺された。簡単には帰れない。帰るには覚悟と正確な地図がいる」
「貴女は、やはり、予言の娘か」
「予言の娘?」
「バルティカの南部、アークティカの占い師が予言をしたそうだ。
 奴隷商人に捕らえられた商家の娘が、神の力を得て帰還すると。
 アークティカに残された民は、獣のように逃げ惑いながら、その占い師の予言を一縷の望みとして生き延びているそうだ」
「なぜ、私がアークティカの出とわかった」
「帽子に隠れた赤い髪が証拠であろう?」
「……」
「東方正教会ヤクト派は、太古からイノー図を引き継いできた。我々はイノー図を悪しきものとは考えていない。
 できれば、この貴重な知り事を人々の暮らしに役立てたいと思っている。
 しかし、多くの権力者はイノー図を独占し、支配に役立てたいと考える。西方教会がいい例だ。
 我々は、西方教会との表だっての対立は好まぬ。だが、西方教会と対立する方々は、我々の敵ではない」
「敵の敵は味方、というわけか?」
 時折、私がマーリンに使うフレーズを、マーリンが尼僧に告げた。
「ほう、予言の娘は面白い言を使うのだな。確かに西方教会は我らにとって、好ましい宗派ではない。その西方教会と対立する貴女たちは、我らの味方ともいえる」
「我々は西方教会と争っているのではない。奴隷商人に遺恨があるだけだ」
「知っておろう? 西方教会の世俗の顔は奴隷商人だ。二者は表裏一体の関係にある。
 情報によれば、奴隷商人の長、ターラント殿は出家して、西方教会の大僧正に就任なさるそうだ。
 これで、西方は表と裏の顔が同じになった。新たな国名は、神聖マムルーク帝国と呼ぶそうだ」
「なぜ、私に教える?」
「敵の敵は味方。であろう?」
 尼僧はそう言うと、後ろに控えていた従者を促し、テーブルに地図を広げた。
 その地図は、私が住んでいた二一世紀の日本でも十分に通用する精度を有している。
 地図の範囲は、東は青い海の東岸から、東は白い海の出口の海峡までが描かれている。
 尼僧が言う。
「複製には多額の費用がかかる。寄進いただけるとありがたい」
「いかほどか?」とマーリンが尋ねる。
「お心の内でよい」
「この金貨を五〇枚」
 マーリンは、そういってテーブルに一〇枚ずつ重ねた金貨を五つ作った。
 尼僧は金貨を一枚取り、金の含有量を確かめるように観察した。
「予言の娘は、財もあるようだ。頼もしい限りだ」
「金貨の価値と弾丸の威力は、万人に対して平等だ。王といえど一枚の金貨で得られるものは民と同じ。王といえど銃弾は兵と同様に容赦なく身体を貫く。
 だが、真の価値と威力は、その使い方によって決まる」
 このフレーズは、私が今朝マーリンに言ったばかりだ。盗まれた。
「信じてはいなかったが、予言の娘は実在するようだ。
 貴女の故郷への帰還を、心より願っている」

 その後、聖堂の裏口に案内され、どこにも立ち寄らず蒸気タクシーに乗って宿に戻った。

 その地図は、我々に衝撃的な事実を突きつけた。
 エリスからアークティカに帰還するには、バタ街道を南下して、バタまで進み、そこからフェリーに乗れば、総距離九五〇キロほど。そのうち海上は二七〇キロ。
 これが最短ルートだが、バタの街は奴隷商人が攻略し、彼らの拠点になっている。
 バタへ向かうことは、赤い海西岸方面の奴隷商人部隊すべてと戦うことになる。
 モスル街道を東進し、ハストラを経由してアティに至るルートを選択すれば、バルティカの国境まで六〇〇キロ。だが、バルティカの赤い海東岸の一部が奴隷商人に占拠されており、アークティカとの境界まで六七〇キロを戦いながら進まなければならない。
 最後がルム山脈越えで、奴隷商人と表だって接触せずにアークティカに至る唯一の経路だ。ただ、区間距離で一二〇〇キロ、実走は少なく見積もっても一四〇〇キロを超えるだろう。
 南部の商都カフカまでは平坦で走りやすい内陸の道が続くが、カフカの南にはルム山脈が横たわる。
 ルム山脈を越えるには、西路と東路があり、南下する車輌が通れるのは東路だけ。西路は北上する車輌の専用路だ。峠の最高点は四〇〇〇メートルに達する。
 山脈を越えても、さらに南に進むには、赤い海と白い海をつなぐドビ海峡を渡らなくてはならず、ここも大きな障害となる。
 海峡を渡ってドビの街に至っても、そこからは起伏の激しい海岸線に沿ったルートを東に進まなくてはならない。
 この三つの選択肢から、全員がルム山脈越えのルートを選んだ。その理由は無駄な戦いを避けた方が、旅の日数を要しないという判断だ。
 それと、ルム山脈を蒸気車で越える場合、蒸気牽引車を一台多く連結しなければ登坂できないが、ガソリン車の装甲車ならば楽々と登り切れる。
 また、ルム山脈越えのルートはあまり使われておらず、人目を避けるにも都合がいい。
 地図を入手する前から、リシュリンとヴェルンドは同宿の隊商から情報を得ており、安全なルートを探っていた。
 その情報によれば、真夏のルム山脈は高地特有の冷涼な気候だが、雪が降ることはなく、道がぬかるむこともないという。
 ただ、道はよく整備されているが、蒸気車に必要な水と燃料の補給拠点がないので、自前で水と燃料を運べる大商隊だけのルートになっているという。

 総走行距離を一六〇〇キロと想定するならば、燃料は最低でも一・五トンが必要になる。ガソリン車の燃料はどこでも補給できるわけではない。車体燃料タンクの容量が二三〇リットルしかないのだから、燃料を携行していく必要がある。
 そのための準備をするならば、このエリスの街は都合のよい場所であることは確かだ。

 翌日、ヴェルンドの提案で、南方からの隊商が集まる街の南にあるマラン街道沿いの宿に拠点を移した。
 リシュリンからの提案で、路銀の節約のために小型貨車専用の宿にした。部屋は狭いが清潔だ。

 リシュリンとヴェルンドは、翌日からマラン街道の情報収集に全力をあげ、私とマーリンは物資の補給計画を立てた。

 最大の問題は燃料の補給で、エリスを出発するとコルスクとカフカ以外は、補給が難しいことがわかった。しかも、コルスクでの補給は可能だが、カフカは量的な確保に確実性がないことも確認できていた。
 現在の燃料の携行状況は、車体タンクに二三〇リットル、一二〇リットルタンクが二個、四〇リットルタンクが一個、五ガロン缶が七個で、総計六三六リットル。一リットルあたりの走行距離を一・二キロとすれば、理論上は七六三キロ走れることになる。
 ただ、路外走行や戦闘を考えれば、五〇〇キロとするのが現実的だろう。計算上はエリスを発ってから二回補給すれば、アークティカにたどり着けることになる。

 東西に横たわるルム山脈の北側の街カフカは、かつてはルム山脈越えの拠点として栄えていた。しかし、最近では海運に押され、年々寂れていっている、という情報もある。
 また、カフカまでの距離は、三五〇キロほどの平坦な道のりなので、燃料消費を過度に気にする必要はない。
 エリスで燃料を満載すれば、無給油でルム山脈を越えてドビまで行ける。しかし、それでは余裕がまったくない。
 コルスクはエリスとカフカの中間に位置する大都市で、交通の要衝でもある。
 ここで燃料を補給するとしても、エリスからの距離は二〇〇キロ、燃料の消費量は最大でも二〇〇リットルと推計できる。
 コルスクの街で二〇〇リットルの燃料を補給できれば、全燃料搭載量の五〇パーセントで、ルム山脈を越え、ドビ海峡を渡り、ドビの街に達することができる。
 ドビはエリスに匹敵する大都市と聞く。ドビまで行けば燃料の補給はできるだろう。
 燃料タンクの増載が不要なことは、積載量の観点からは僥倖だが、粗製ガソリン性質のソラトとオクタン価向上剤としてのエタノール性質のオクテルを混載する方法をとることから、いろいろと考えなければならないことがある。
 装甲車には、兵員室前部の装甲板と座席背もたれとの間に、左右各一一五リットルの燃料タンクがある。
 この一一五リットルのタンクが空だとすると、一八リットルのオクテルと九六リットルのソラトを入れれば、混合率はほぼ一六・五パーセントになる。
 つまり、五ガロン缶(実質一八リットル)のオクテル一缶をまるまる入れれば、あとはソラトを満タンまで継ぎ足すだけで、無計量で混合燃料を作れる。
 これは実運用上、きわめて有利だ。
 また、オクテルはアルコールに準じた性質の液体なので、ガソリンのように爆発する心配がない。だから、車外搭載でも危険はない。ボンネットの左右と車体後部の起倒ラックに搭載すれば、車内やトレーラーに積む必要がなくなる。もし戦闘で漏れたとしても、オクテルは入手が容易だ。
 燃料満載で必要なオクテルは、一一〇リットルなので、五ガロン缶六缶あればいい。七缶あれば一缶は予備になる。

 リシュリンとヴェルンドが得た情報では、エリスからコルスクまでの道はよく整備されていて、また街道筋に野党が出ることは希だという。
 エリスを早朝に発てば、二日後の夕方にはコルスク城外に到着できるそうだ。
 ただ、カフカが寂れ始めてからは、コルスクとカフカ間の治安は悪く、物盗りや野盗が出没するという。さらに、道路の整備状況が悪化していて、定速での巡航が難しいそうだ。
 また、ルム山脈とグアニカ峠の詳細な情報も得ていた。
 ルム山脈を越えるルートは五つあり、そのうち三ルートが馬や牛での荷運び用で、二ルートが蒸気車用だそうだ。蒸気車用には東路と西路があるが、西路は南から北に向かう蒸気車専用道路で、東路はその逆、北から南に向かう蒸気車のための道だという。
 カフカでは東路と西路が厳しく管理されているので、カフカ側から西路に侵入することはできない。また、東路に入る場合は通行料が必要。

 グアニカ峠は九十九折りの続く急勾配の山岳路で、山脈の北側の方が険しい。東路のカフカ側の周辺は高木の森林に囲まれているが、途中から低木林に変わり、頂上付近は樹木がまったくない荒れ地だという。
 頂上は真夏でも冷涼で、夜間はもちろん昼間でも暖房がなければ過ごせない。
 かつては五〇キロごとに燃料と水を補給する駅があったが、現在は廃墟になっている。
 カフカを発ったら、燃料、水、食料の補給はドビまでできないそうだ。
 ただ、ドビ海峡を渡るフェリーは活況で、一日に二〇本の発着があるという。

 リシュリンは、本人が言うには、それとなく、西方教会や奴隷商人の動向を探っていた。
 マーリンが東方正教会ヤクト派の施設で聞いた、神聖マムルーク帝国の話をした。
 リシュリンによれば、マムルーク軍は白い海の北岸から西岸にかけての広大な地域を支配下に入れ、西岸を南下して外海への出口である海峡を攻略する勢いだという。
 さらに、北岸から北の内陸部にも侵攻し、北方諸民族を駆逐しつつあるそうだ。
 現在は東方への露骨な侵攻意図は見せていないが、バタを攻略し、バルティカの東岸に拠点をいくつか作ったことから、いずれは大規模な派兵をするものと、住民の間では噂されているらしい。
 マムルーク軍に対抗できる勢力は現れておらず、白い海南岸の有力都市国家は相互に連携を欠いており、海峡防衛はほぼ不可能なようだ。
 神聖マムルーク帝国は、占領地に代官を置き、占領地の領民を奴隷化し、厳しい管理の下で使役していた。
 ただ、教会と世俗領主の二重支配に苦しんでいた西方住民は、帝国の単一支配の方が生活が楽になったとして、受け入れる傾向が強い。
 その意味では、帝国の統治は成功しつつある。
 だが、西方教会の権威を減じたことから、教会の武装組織である僧兵の一部が反帝国を唱えて、北方に拠点を移して抵抗の構えを見せている。
 さらに、奴隷商人の簒奪に苦しんだ外海沿岸の都市国家が遅まきながら団結に成功しており、西方のさらに西の極西域と南方には帝国が手出しできない情勢が生まれつつある。
 そのため、帝国の矛先は東に向いており、そう遠くない時期に赤い海と白い海に挟まれた穀倉地帯と、赤い海西岸一帯に本格的に侵攻してくると見られている。
 これらの地域は食料の生産能力が高く、多くの都市国家は自治が発達しており、住民の生活水準が高く、政治意識も強い。そのため、帝国の侵攻は完全な侵略と見なされており、徹底抗戦が予想される。
 確かに赤い海の西岸に突出した半島先端の街バタは奴隷商人=帝国に攻略されたが、その直前に住民は組織的に海路脱出をなし遂げて、奴隷商人の手に落ちたのは無人の廃墟となった街だけだった。
 実際、バタは孤立状態で、本国から民間貨物に偽装して送られてくる物資で、かろうじて占領を維持をしている状態だ。

 国際情勢は混沌としている。この混沌の世界で、我々がどのように生き、行動すべきかを考えなくてはならない。何事もない日々であっても、現実は生存をかけた戦いなのである。
 
 我々が物資や情報を集めている間、幼いミーナはロロと留守番だった。夜はミーナを中心に話題を作っていたが、それでも情勢分析など大人の話に向かいやすい。
 ミーナは寂しかったと思う。だが、ミーナとロロは、二人なりにできる役割を担っていたようだ。
 ミーナは、宿の敷地内から出ないように、蒸気車には近寄らないように、言いつけられていた。敷地から出れば奴隷商人に捕らえられる危険が高まり、蒸気車に近付けば事故の原因になるからだ。
 我々が泊まっていた宿屋は、小型貨物車専用の安宿だが、乗用車の利用も多く、かつ五〇棟を超える大型施設だ。
 家族連れも多く、宿の敷地には子供の声が絶えない。
 ミーナは、子供たちをおびき寄せる餌にロロを使った。子供たちはロロを見ると怯えるが、ミーナがロロを仰向けにし、お腹をさすってやると、子供たちは恐る恐る近付いてくる。
 やがて、ロロが危害を加えないとわかると、尻尾を引っ張ったり、鼻をつまんだりとやりたい放題を始める。
 そうやって遊びながら、ミーナは子供の視点の情報を集めていた。そのことを、我々大人たちが知ったのは、かなり後になってのことだった。

 ある晩、コルスク以南の道の状況に話題が集中していた。
 ミーナがおもむろに「コルスクからカフカまでは、雨が降るとドロドロになっちゃうんだって!」と言った。
 マーリンとヴェルンドは、子供の言うことと見なしたようだが、リシュリンは違っていた。
 リシュリンが「何がドロドロになるの?」と尋ねると、ミーナは「あのね、カフカから来た子が言ってたけど、雨が降ると道が泥んこになって、蒸気車が動けなくなるんだって。
 それでね、泥んこになちゃった蒸気車は、お日様が出て、泥んこじゃなくなると、もう絶対に動けないんだって!」
 このとき我々は、コルスク以南の路面状況の悪さを正確に知った。いままでは、単に悪路としかとらえていなかったが、晴天と雨天では決定的に違うことを知る。
 リシュリンがミーナをさらに促す。
「その子は、ほかにも何か言っていた?」
「ううん、その子のお母さんが来て、連れて行っちゃったから。
 でもね、ほかの子が、峠は寒いって。今年は夏でもお水が凍るって言ってた。
 その子のお父さんが、今年はいつもより寒くて、夏なのに死んじゃう人もいるんだって。 それから、峠は雲の中に入っちゃうことがあって、雲の中はゴロゴロなんだって」
 リシュリンが「ゴロゴロ?」と尋ねると、「ゴロゴロ、ピカー!」と手振りを交えて、ミーナが説明してくれる。
 ヴェルンドが、「コルスクより南は天候次第、ですか?」
 マーリンが「天候が安定する今月下旬から来月上旬を逃せば、カフカまで難渋するかもしれない」

 翌日、リシュリンはミーナを連れて、エリスの城内に入った。出発の支度を急いでいたが、ミーナに楽しい思い出を作ってあげたかった。
 ミーナはリシュリンが好きだった。優しいから、そして強いから。ヴェルンドは近所のおじさん、マーリンはちょっと意地悪なお姉さんだ。
 リシュリンはミーナの衣類を買い、菓子を一緒に食べた。屋台の果物屋で、二人とも見たことがない赤い果実を買う際、屋台のおばちゃんがミーナに「お母さんと一緒でいいね」と言った。ミーナは、リシュリンの顔を見て、うなずいた。
 リシュリンはミーナの母親になるには若すぎたが、母親以上にミーナを守る決意は固かった。そして、それだけの剣技を体得している。
 この日から、リシュリンはミーナの話をよく聞き、ミーナとよく話し、ミーナに自分の教えられることを少しずつ伝えていく。彼女は、少しずつミーナの保護者になろうと努力していた。
 ミーナの両親は、理不尽な理由で僧兵に殺された。
 リシュリンは僧兵だった。
 ミーナに対して罪の意識があるが、それ以上にミーナを愛しく思っている。誰もがミーナを愛しく思っているが、他者の感情とは少し違うものだ。
 リシュリンは一二歳で保護者を失い、ミーナは三歳で寄る辺を失う。二人は、どこか似ていたのかもしれない。

 私はミーナの情報を基に、防寒装備を調える必要を感じていた。ただ、マーリン、リシュリン、ヴェルンドは極寒という状況が想像できないらしく、寒ければマントを羽織ればいい、程度にしか考えていない。
 この件だけは、一人で処理する以外に方策はなさそうだ。

 ミーナの四歳の誕生日は、蜂蜜ケーキを焼いてみた。宿の近くに鋳物の鍋工房があり、そこでダッチオーブンを作ってもらった。
 それを使った最初の作品が蜂蜜ケーキで、ベーキングパウダーが手に入ったので、貴重なバターと鶏卵、そして牛乳を使って、焼いた。
 砂糖が手に入らないので、蜂蜜をたっぷり使った。
 意外なほど上手にでき、ミーナは大喜びだ。甘い菓子など、滅多に口にできない世界だから、マーリンとリシュリンも子供のように喜んでいた。いや、彼女たちは、まだ子供と呼んでいい年齢なのだ。

 燃料が満載となり、食糧の補給を済ませ、衣類や寝具も充実させて、出発の準備がほぼ整う。
 装甲車の増設した屋根が無塗装で、錆が出始めていたので、全員で塗装することにする。
 私とヴェルンドが屋根に上って塗装し、マーリンとリシュリンが天井と支柱を塗る。
 外装の塗色は明るいサンディブラウンで、内装天井は白色にした。
 丸一日で完全に乾き、コルスクに向けての出発の準備が完全に整う。
 兵員室の装甲板上端から屋根までは五〇センチあり開放的なのだが、床から装甲板上端までの高さが一一三センチしかないので、狙撃される危険があり、左右側面を厚さ三センチ、幅五〇センチの木板で塞ぐ。
 これは応急的な処置で、不都合があればすぐに外せるようになっている。また、運転席の天井にも木板の屋根を被せられるようにしている。ここに土嚢を載せ、軽機関銃を据えれば銃座になる。

 できるだけ多くの弾薬を兵員室座席の下に入れ、常用している武器は兵員室の木箱に収めた。
 水は車内に金属缶で四〇リットル、後部起倒式ラックに木樽で一二〇リットルを確保する。
 調達した食料の多くは木箱に入れて屋根に載せる。増加燃料のソラトと弾薬は、すべてトレーラーに納めることができた。
 唯一、欲しかったが入手できななったものがある。
 タイヤチェーンだ。
 もし、コルスクより南が泥濘の悪路ならば、チェーンは役に立つし、グアニカ峠越えでも必要になる可能性がある。
 もし、どうしても必要ならば、コルスクでヴェルンドに作ってもらうしかない。

 リシュリンは、刀身の根元で幅が四センチほどの両刃の剣を使っている。
 刃渡りが約一メートルあり、狭い車内での取り回しは不便だ。また、鹵獲した僧兵や奴隷商人の剣も長剣・長刀で、リシュリンが気に入るものはない。
 それらの鹵獲武器は、マスケット銃二挺を除いて、すべて城外の武具屋に買い取ってもらい、リシュリンは刃渡り七〇センチほどの両刃の剣を購入する。
 鹵獲した刀剣と銃器はかなりの高級品らしく、リシュリンの新しい剣の代金を差し引いても、当地の金貨二〇枚、金一四〇グラムにもなった。結局、滞在費と物資補給の半分が、これで賄えた。
 マーリンが「連中が襲ってきたら、身包み剥げば結構な金になるな」と言うと、リシュリンが「まるで追い剥ぎだな」と笑った。
 ミーナにも小さなナイフを買った。子供用の刃引きで、貴人の幼い子弟が身につける飾りらしい。
 しかし、それを身につけていれば、一定の扱いを受ける。この世界では決して、不要なものではない。

 私は、鋳物の鍋工房に刀の鍔を作ってもらえないか尋ねた。
 軍刀の鍔は直径が小さく、防御力が低い。そこで、江戸期の日本刀の一般的な様式である打ち刀の鍔と同じ程度の直径、八センチから一〇センチのものに交換したかった。
 鍔の中心にある三角錐の穴(なかごあな)の大きさと、鍔の厚さを軍刀のものと同じにしてもらうように頼み、装飾の依頼はしなかった。
 仕上がってきた鍔は立派なもので、天使と薔薇の浮き彫りが施されている。
 その場で、鍔を付け替えると、正確無比な加工で、その技術の高さに驚かされる。
 代金を支払おうとすると、老いた店主は固持した。
 そして、「私は若い頃、アークティカに住んでおりました。
 実りの豊かな、心穏やかな人たちが住む土地でした。
 いま、彼の地が大変なことは存じております。もし、予言の娘が本当にいるのなら、彼の地の住民を救って欲しいと思います。
 老いた鋳物職人の私には何もできませんが、この程度のことはさせてください。
 代金は、あのオーブンになる鍋で十分にいただいております。また、あの鍋を作り、売らせていただきます。
 それで、十分でございます」
 目立たないように行動しているつもりだが、一つの街に長く留まれば、正体を知られてしまうのだ。

 ヴェルンドが奇妙な棒をあつらえた。
  先端に鉄の金具がついていて、その先端の金具は木製部より一回り細くなった短い鉄棒だ。
 もう一方の先端には、鉄製のやや尖った石突きがある。槍のようではあるが、穂先がない。長さは一・五メートルほど。
 マーリンが「ヴェルンドは杖が必要になったのか」と笑った。
 ヴェルンドが答えて「街はどこも銃の携帯ができないでしょう。銃剣だけでは、いざというときどうにもできないので……。
 まぁ、剣を持っていても、私には使えませんが……」
 そういって、M1銃剣を抜くと、その棒の先に取り付けた。
「これだと、長剣よりも長いし、長槍を振り回すほどの膂力がない私でも、使えるかなぁ、と思って……。
 それと、槍や剣は目を引きますが、ナイフと棒を持っているだけなら、目立ちませんからね」
 確かにヴェルンドの言うとおりだ。私もヴェルンドも白兵戦になれば、マーリンとリシュリンの足手まといになる。
 そうならないためにも、自分の身だけは守れるようにする必要がある。私が軍刀の鍔を変えたのも、同じような気持ちからだ。

 私、ヴェルンド、マーリン、リシュリンの四人は、それぞれが別々に鍛錬していた。そして、互いにその姿を見たことはない。
 その理由は、私とヴェルンドの場合、技量ではリシュリンの足下にも及ばず、恥ずかしかったからなのだが……。

 ヴェルンドの提案で、トレーラーの木箱をもう一度チェックし、弾薬別に整理することにする。
 装甲車の整備用予備パーツが入った木箱二つと銃器が入った四箱を除いた一八箱すべての中身をチェックし直す。
 弾薬は、すべて弾薬缶に入っているが、中身と缶の表記は一致していない。
 その理由は、おそらく、いったん将兵に配布された弾薬を回収し、あり合わせの空き缶に放り込んだからなのだろう。弾薬缶のほとんどは、七・六二×六三ミリスプリングフィールド弾のものだが、一二・七×九九ミリキャリバー五〇弾のものや、他の弾薬缶もある。
 通常、一木箱に七・六二ミリ弾薬缶は二〇缶入っているので、そのすべての蓋を開けてみる。
 すべてをチェックしたら、木箱換算で七・六二ミリ弾が一〇箱、缶の数では二〇〇缶、銃弾数にして約四万発ある!
 M1カービン用の七・六二×三三ミリカービン弾は、木箱換算で七箱、缶の数で一四〇缶、銃弾数にすれば約四万二〇〇〇発にもなる。
 問題は最後の一箱で、布製弾帯の七・六二ミリ×六三弾が約六〇〇発、一二・七×九九ミリ弾が二〇〇発見つかった。
 前者はM1919中機関銃用、後者はM2重機関銃用の弾薬だ。
 そのほか、トミーガンやガバメント用の拳銃弾も見つけた。概算で五〇〇〇発という法外な量だ。
 さらに、アメリカ製の三二ACP弾も概算で七五〇発も出てきた。
 第二次大戦期のアメリカ軍は、航空兵や高級将校などには三二口径の自動拳銃を配布したようだが、陸軍の正式拳銃弾は四五ACP弾なので、この量には驚いた。
 全長が七〇センチもある大きな弾薬缶が一つあり、その中身にも驚かされる。だが、缶の蓋を開ける前はバズーカ砲でも入っていたら、と期待したのだが、その願いは裏切られた。
 その缶の中には、刃渡りが四〇センチにも達する大型のハンティングナイフ、コルトM1903自動拳銃(コルト・ポケット)、モーゼルC96大型軍用拳銃が入っていた。
 ハンティングナイフの刃には油が引かれ、油紙が巻かれて革製の鞘に収まっていた。
 油紙を外し、その刀身にはわずかな傷しかなく、実にきれいだ。刃の形は一般的な狩猟用ナイフ、あるいはサバイバルナイフと同じで、柄には握った手を守る護拳が付いている。護拳は、鍔から柄の端まで延びる半円状の金属製防具だ。サーベルではよく使われる。
 コルト・ポケットは、リシュリンが使うブローニングM1910自動拳銃と同じ三二ACP弾を発射する自動拳銃で、大きさはM1910とコルトM1911ガバメントの中間くらい。装弾数はブローニングよりも一発多い。
 モーゼル拳銃は、ドイツ製の軍用拳銃で、中国軍が多用していた。おそらく日本兵が中国兵から鹵獲し、それをアメリカ兵が鹵獲したのだろう。銃弾は一発もなかったが、使用弾種はすぐにわかった。
 グリップに大きく9と彫られ、赤く塗られている。
 いわゆるレッド・ナインだ。この銃はドイツ軍正式拳銃弾である、九ミリパラベラム弾を使う。
 平面形は非常に大きい銃だが、断面は薄く、拳銃としては極端に重いわけではない。また、通常の自動拳銃はグリップに弾倉を差し込むが、この銃は小銃のように引き金の前に固定弾倉があり、やはり小銃のようにクリップで留めた一〇発を装填する。
 非常に強力な銃だが、残念だが弾は一発もない。
 大型ナイフとコルト・ポケットに興味を持ったのは、マーリンだ。
 コルト・ポケットは、傷一つないきれいな銃で、また大きくもなく、小さくもない、バランスのいいサイズだ。
 マーリンはしばらくすると、ゴチャゴチャと言い始め、私から使うように命じさせようとし始める。
 私はマーリンの意図を察してはいたが、ちょっと意地悪したくなり、聞き流していた。
 そのうち、マーリンが怒り出し、「いつも、リシュリンばっかり」という、意味不明の文句を言い始めた。とばっちりを受けたリシュリンが私に対して怒り出し、ミーナが「マーリンとリシュリンがかわいそう」と言い出して、私が全面降伏し、事態の収拾を図った。
 結局、大型ナイフとコルト・ポケットは、マーリンの使用となり、私がマーリンに最初に与えたM1905銃剣は返却となった。

 トレーラーの積み荷は、一個分隊分の火器弾薬ではなく、大量の弾薬が主たる荷で、たまたま一個分隊相当の火器があっただけなのかもしれない。
 だが、擲弾筒の存在を考えると、単純にそうとも思えない。それを詮索してみても、何の益にはならないのだが、なぜか気になることだった。

 エリスからコルスクまでの距離は、約二〇〇キロ。途中、ノタスク、ゴルスという二つの街を通過する。その他にも燃料や水が補給できる村がある。
 その間、日の出から日没まで、小休止を除いてコルスクまで走り通すつもりだ。

 アークティカに近付くに従い、予言の娘の噂が濃くなっている。予言の娘の噂の出所は不明だが、西方教会と奴隷商人=神聖マムルーク帝国を刺激していることは確かだ。
 いまは小さな棘だが、棘が刺さればうっとうしい。傷口が化膿すれば、死に至ることもある。連中が排除しようと躍起になり始める前に、アークティカにたどり着きたい。
 この早旅の影響は、ミーナに強く現れる。誰もがミーナを心配している。

 出立の前日の朝、ミーナが珍しく「リシュリンと食べた、真っ赤な果物をもう一度食べたい」と言った。それも、遠慮がちにボソッと。
 リシュリンと食べたからなのか、純粋に美味しかったからなのか、その両方か。
 どちらにしても、ミーナの願いを叶えてあげたい。
 リシュリンとミーナは、その果物の名を知らない。絵の上手いリシュリンが描いたのだが、マーリンとヴェルンドも知らない果物だ。
 だが、私にはわかった。リンゴだ。
「リンゴだね。寒い地方の果物だ」
「りんごぉ?」とミーナが聞き返した。
「甘酸っぱくて、シャキシャキだった?」
「うん!」
「お砂糖と煮てジャムにしたり、オーブンで焼いたりしても美味しいんだよ。ケーキに入れても美味しいし……」
 ここまで聞かされたら、ミーナは我慢できなかった。リシュリンの袖を引っ張って、無言で「食べたい!」と言った。

 結局、私とリシュリンが城外市場に買いに行く。
 リシュリンのイラストを頼りに探したが、見つからない。
 リンゴは、城外で売られるような果物ではなく、かなり珍しいものらしい。

 乗り合い蒸気車に乗って城内に入ると、リシュリンがリンゴを買った市場で、すぐに見つけることができた。
 真っ赤なリンゴと青いリンゴが、店の一角で売られていた。赤いリンゴは五個しかなく、青いリンゴは八個ある。
 そのすべてを購入し、ボンサックに入れて私が肩にかけた。

 この日は、これだけが買い物だった。装甲車では、マーリンとヴェルンドが最後の点検をしている。明日の日の出とともに南に向けて出発する。
 城外に出る乗り合い蒸気車の停車場に向かう際、リシュリンが近道をしようと言い出す。
 エリスの城内は入り組んでいて、枝道に入ってしまうと迷うことがある。また、城壁の近くには、古い建物を取り壊した跡地のような場所があり、ここに露店市場ができていたりすることもある。
 城内は日々様相を異にするので、枝道には入りたくなかった。
 リシュリンは何となくはしゃいでいた。ミーナが欲しがったリンゴが手に入ったからだろうか?
 善し悪しは別にして、リシュリンの心持ちは常とは異なっていた。
 私は少しリシュリンに付き合うことにした。それもまた、油断だったのかもしれない。

 路地を抜け、やや広い枝道に入ると、私とリシュリンの中間に男が飛び降りた。
 私は、後方に飛ぶ。リシュリンとの間が開く。
 道幅は約二メートル、両側は建物の外壁で四階建て、八メートルほどの高さがある。左右両壁とも煉瓦造りで、柱の部分が凸、壁が凹になっている。
 男は二階の外階段の踊り場から飛び降りたらしい。私とリシュリンを分断し、それと同時に枝道の進行方向から三人の男が入ってくる。
 これで私とリシュリンは、互いの敵に向き合うことになる。
 枝道に入ってきた男の一人が言った。
「リシュリン、久しぶりだな。仲間のよしみで、たっぷりといたぶってやる」といってニヤついた。リシュリンは無言だ。
 その男は続けた。
「そこの小男はたいした腕じゃない。逃がさないようにしろ」
 私とリシュリンを分断した男が答える。
「承知」
 そして、刃渡り一メートルにも達する無反りの長剣を抜く。続いて、三人の男たちも同等の長剣の鞘を払う。
 リシュリンも剣を抜く。三対一。リシュリンに勝ち目はない。
 リシュリンは壁を背にして、敵を後ろに回り込ませないようにしたが、それでも不利は明白だ。
 私がリシュリンに声をかけた。
「リシュリン。ブローニングは抜くな。後が面倒になる」
 銃という言葉は使わなかった。ブローニングと言えば、リシュリンには何であるかがわかり、敵には悟られない。
 リシュリンは、壁を背に三人に囲まれた。追い詰められている。
 リシュリンの目は不安に満ちている。私を案じている。
「主殿、剣を抜いて! 抜かぬなら逃げて!」
 リシュリンの声は絶叫に近かった。
 私はリシュリンとは反対側の壁際にやや後退しながら身体を寄せ、右肩のボンサックを壁際に降ろす。
 その瞬間、分断した男が突いてきた。
 こちらの、注文通りだ。道幅は二メートルしかない。そこで、刃渡り一メートルもの長剣を使うのだから、横に薙ぐことはできない。上段から振り下ろすか、刺突しかない。
 リシュリンの剣筋を見ていて、攻撃は突くが基本で、叩くが次にあり、斬るはほとんどないことはわかっていた。
 防御は敵の剣を自分の剣で払う。
 男は当然のように突いてきて、おそらく当然のように私が刀で受けると思っていた。
 いや、私はまだ刀を抜いていない。簡単に串刺しにできると、思っていたかもしれない。
 その瞬間、私は鯉口に左手を添え、親指で鍔を押し出すと同時に、鞘ごと刀を左に絞る。
 右手を柄に載せ、敵の切っ先が私の左肩の上を通り過ぎる瞬間、刀を抜き、敵の胴を払う。
 男は左脇腹から大量に出血し、うめきながら地面に転がる。
 リシュリンを襲う三人が状況を理解する前に、一番右側の男の背中を袈裟懸けに斬る。
 リシュリンが、その間隙を見逃すはずはなかった。中央の男の太ももを刺し貫き、もう一人の男の頬を切り裂く。
 頬を斬られた男は脱兎のごとく逃げだし、他の三人は地面を転がるか、呆然としている。
 私は、ボンサックを拾い、血などがついていないかを確かめ、リシュリンに連中の剣を回収するように指示する。
 腿を刺し貫かれた男は、剣を振るって抵抗したが、リシュリンが拳銃を突き付けて、「撃ち殺されたいのか!」と一括すると、恐怖の形相で剣を捨てた。

 抜き身の三振りの長剣を乗り合い馬車に持ち込むと、他の乗客から不審に思われたが、リシュリンが私の腕をとって甘える姿の方が、顰蹙ものだ。
 抜き身の長剣を三振りも持った女が、男の腕にすがってスリスリしている。
 乗客は見て見ぬ振りをしていた。

 宿に三振りの長剣を持ち帰ると、マーリンとヴェルンドが、すぐに何かがあったことを悟る。
 ヴェルンドが「どうされたのですか?」
 私は「たいしたことではない。教会の刺客に襲われただけだ」と答え、「これはその土産だ」と三振りの剣を指さす。
 リシュリンがわざとらしい泣き声で「四人に襲われ、死ぬところであった。主殿が、見たことも聞いたこともない剣技で追い払ってくれたのだ」
 マーリンが「その逆はありそうだけど、わが主が僧兵に剣で勝つことはないぞ」
「本当だ。マーリンは主殿の真の強さを知らぬのだ」
「リシュリン、お前は自分がやったことをわが主がしたことのように言っているのだ」
「違う!」
 しばらく、二人の言い合いが続いた。

 その間に、ミーナにリンゴを見せた。ミーナは「わぁ」と言って目を輝かせ、「赤くないのはなぁに」と尋ねるので、種類の違うリンゴだと教える。
「あとで、みんなと食べよう」と言うと、コクリと頷き、「一つだけもっていてもいい?」と言う。
 一つをミーナの手に載せると、両手でしっかりと握っていた。

 すでに正午を過ぎていたが、ヴェルンドに「すぐに発とう」と言うと、「その方がよろしいと思います」と応じる。

 緊急の出発は慌ただしかったが、準備自体は整っていたので、宿代の精算を済ませると、すぐに南に向かう。
 戦利品の長剣は、トレーラーに放り込んだ。コルスクで売るつもりだ。
 久々の休息は、全員の心身を休めることができた。

 私は、この過酷な世界に適応し始めている。火とを斬っても、取り立てて何も感じない。
 それが、どうにも恐ろしい。
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