【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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青い春編

第9話

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 怜史が連れてこられたのは県境のトンネルの向こう、湖のある街だった。昼前の、それも平日の田舎町に人気はほとんどなかった。湖の目の前の駐車場に車を停めると、すぐそばの定食屋の老店主が暖簾をかけて開店準備をしている。その姿を横目に見ながら、怜史は「降りようか」と提案した流生の言葉に応じた。車のドアを開くと冬の冷たい空気が足元を漂った。

「向こう、行ってもいい?」
「はい」

 二時間かけてのドライブだったがそれはあっという間に過ぎた。怜史がインタビュアーの如く流生に質問し続けていたからだ。流生は嫌な顔ひとつせず、人前で話すことに慣れた様子で怜史の問いに答えていった。

 一番最初に怜史が知り得たのは、流生が大学一年生で理工学部ということだった。深掘りし続けた結果、今は航空会社に見学に行ってタイムマシン研究に関するレポートを書くのに苦労しているという話題にまで漕ぎ着けた。

 怜史は車を降りてなお、流生に質問を続ける。

「さっきの話の続きなんすけど」
「うん」
「タイムマシンって本当に過去とか未来に行けるんですか」
「確かに疑わしいよね。人類が時間を跳躍するには一旦身体をバラバラにして量子テレポーテーション…しなくちゃいけないなんて言われてたこともあるし……でもそれはSF映画の世界のことで、人類は過去や未来に行く術を獲得した。これは紛れもない事実だよ」
「流生さんはもうタイムマシンに乗ったんですか?」
「まさか! 授業で行ったのだってただの企業見学で、一学生にはそこまでの権利は与えてもらえないよ……そもそも」

 あり得ないと笑いながら答えていた流生の顔が次の瞬間にたちまち曇った。曇天の空と流生の表情の色が混ざる。それが怜史の胸の奥を僅かに震わせた。

「僕は過去にも未来にも行きたいとは思ったことがない」
「……過去、にも」
「浅賀君は? タイムマシンに乗ってみたい?」

 広大な水面が風に煽られて揺らぐ。その上にぽつぽつと粒の小さな雨が降り始める。

 少し前まで怜史も同じ気持ちだった。過去に戻ってもいいことがあまりない。未来に向かってもネタバレをされるようで面白くない。タイムマシンの話が世間で頻繁にされるようになったのはまだ怜史が小学生の頃だったが、そこからずっと怜史の考えは一貫していた。

 だが今は。出琉を失った今は。

「浅賀君が今考えていること、当ててあげようか」

 流生は折り畳み傘を開いて怜史の頭を覆う。黒い傘に区切られた境界線の中で流生の声が囁くような音で響いた。

「……」
「もしもタイムマシンに乗れたなら、イズに会いに行く?」
「……」

 怜史は息を呑んでから真っ直ぐに頷いた。怜史の視線が外れて頭を下に向けた瞬間、流生の大きな手のひらが怜史の旋毛の上を覆うように置かれた。突然のことに戸惑いながら自分を撫でようとするその手をありのまま受け入れる。

「浅賀君は素直ないい子だね」
「……そう、っすかね」
「うん……ごめん。いやな聞き方しちゃったね。忘れて」

 流生は何事もなかったように怜史の頭から手を離した。傘を怜史に差し出したままにゆっくりと歩き出す。

 胸がざわついたままだった。流生のことをよく知らなくても様子がおかしいのは分かった。優しくて凪いだ海のように穏やかな人だと思っているのに、流生は時折恐怖にも似た感情を抱かせる。怜史はその一面の剥がしてみたくなった。流生の本性に何があるのか知りたくてたまらなかった。

 怜史は差し出された傘を流生の手の上から握った。怜史の方がずっと背が低く柄の部分は怜史が普段差す時よりも高い位置にある。それでも頑なに手を離さず、怜史はちょうど二人の中央が雨から守られるようにその均衡を保とうとした。互いの肩が半分ずつ雨粒に濡らされていく。

 流生は驚きながらいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。

***

 湖をしばらく歩いていると巨大な鳥居の前に差し掛かった。流生の顔ばかり見て歩いていた怜史はそれが突然目の前に現れたかのように錯覚して驚く。

 鳥居と立ち並ぶように金色の女性像が湖の辺に佇んでいた。

「この神社のすぐ裏に昔家があったんだ。今はもう取り壊されているけど……だから僕もイズもしょっちゅうこの辺りで遊んでいたんだ」
「へぇ……」
「晴れていたら湖ももう少し綺麗なんだけどね。僕雨男なんだ」

 流生は自分のスマートフォンで一枚の画像を怜史に見せた。そこには今怜史がいる場所と同じ景色で、女性像の前に出琉が両手でピースを作るポーズで立っていた。今よりも酷い土砂降りの雨で、写真の中の出琉は上下半袖姿でずぶ濡れで写っていた。

「これ去年二人だけで旅行した時の写真」
「酷い雨ですね」
「だろう? 二泊三日で三日とも雨。イズには散々文句を言われた……でも、楽しかったんだ」
「兄弟二人だけってなんか楽しそう」
「うん。良いものだよ。他に誰もいないっていうのは」

 流生は写真の奥の出琉を深く見つめている。その横顔が含む懐古の色で滲む澱みを、怜史は追求していいのかどうか分からなかった。

 やがてスマートフォンのバックライトが消え、出琉の姿は闇へと消えていく。怜史には画面に反射した流生の顔しか見えなくなった。

「……お腹すいたね。昔の行きつけあるんだ。そこでお昼にしよっか」
「……はい。お腹、空きました」

 怜史は笑顔で流生に賛同する。唇の先端が吊り上げられているようで痛かった。だが笑顔を絶やさなかった。そんな風に人を気遣って笑みを浮かべるのは初めてのような気がした。
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