【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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青い春編

第10話

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 定食屋にやってきた流生は先ほどの翳りが嘘であったかのように普通だった。

 大盛りの親子丼を大口開けて頬張る姿は、流生の大人しい気質とは裏腹にごく一般的な青年のそれに見えた。怜史はそれを見て流生を初めて「大きな人だな」という関心を抱いた。背丈もあり肩幅もしっかりあるにも関わらず、その性格ゆえにどこか自分とあまり変わらない体格だと思い込んでいた。

「どうかした?」

 怜史の視線を不思議に思った流生が顔を上げる。怜史はあまり不審に思われないようにすぐに首を振った。

「なんでもない、です」
「そう? 美味しい?」
「ん、んまいっす」

 出汁の染みた米を一口、大きく切られた鶏肉を半分に切って一口食べて怜史は頷く。怜史の口は不思議と流生のようには開かなかった。流生の真似をしようにも、口からこぼれたらはしたないと思って止めた。怜史は自分がなりたい『青年』らしい姿をしている流生が羨ましく感じられてきた。耳にかけてもすぐに元の位置に戻ってくる横髪を鬱陶しく思いながら無心で箸を進めた。

***

 食後二人は車に戻って次の目的地を考えることにした。流生はスマートフォンで情報を探し、怜史は周囲を見ながら模索する。

 ふと怜史の目にバッティングセンターの看板が飛び込んできた。

『何かに打ちのめされて、疲れた時は……バットを振るんだ』

 出琉との最後の会話の時の言葉がフラッシュバックする。あの時は話の腰を急に折る出琉さんは天然だな、くらいに思っていたはずなのに、今の怜史にはやけに重たく胸に残っていた。

 もうあんな他愛もない話もできない。油断をすると出琉を思い出して泣きそうになる。

 唇をかみしめて堪えると、怜史は流生の肩を叩いた。

「流生さん、あれ」
「あれ?」
「あれ行ってみたい。バッティングセンター」

 いつもの怜史ならそんな提案はしない。野球少年ではないし、授業のキャッチボールは嫌いではなかったが、意欲的に運動をするタイプではない。

 だが今の怜史は出琉が遺した言葉に突き動かされていた。彼と共有しえなかった景色を今手に入れるとしたら、それは流生と共にするのが一番良いような気がした。

 だが、

「えっ……!?」

 流生の笑顔が途端に凍りつく。流生の反応は怜史の目論みとは逆行するものだった。

***

「ほんとに、ほんっとに……僕できないからね」
「もう聞きましたよ」

 流生は手に持ったバットを重たげに下ろしながら、怜史に念を押すように繰り返した。怜史は半ば呆れながら何とか流生を嗜める。

「本当に、運動だけは……」

 本当に苦手らしい。怜史にはこの数分で嫌というほど理解した。既に空振り三振では済んでいない回数、流生は空を切り続けている。掠る気配すらない。

 それでも意地があるのかよろよろとバッターボックスに立った。怜史はその姿を見守る。大きな背中はやっぱり少し小さく見えて、怜史は密かに勿体無いなと思った。

「……よし」

 流生は観念したように大きなため息をついてからバットを持ち上げた。真正面を見据える目は本気だった。怜史が見ている背中は肩に思い切り力を入れていた。

 ボールが流生の正面へと弾き出される。その瞬間に流生が反射的に目を瞑った。怜史にはそれが見えていない。だが怯えているように見えた。

「流生さん打って!」
「!」

 頭で考えるよりも先に怜史は声を張り上げていた。たちまち流生の目が見開かれる。それと共に流生は思い切り腕を振っていた。

「あ……」

 軽快な音と共に跳ね上がったボールを見上げて、怜史は自然と声を漏らしていた。

 白いボールが飛び上がって、二人の頭上を遠ざかると今までにない距離まで弧を描き落ちた。ホームランには届かない。それでも目を見張るほどの奇跡であることは目の前で自分のことを誰よりも驚いている流生を見れば一目瞭然だった。

 怜史は心の弾むままに地面を蹴って跳ね上がると、そのまま流生の方へ飛んでいき、飛びつくようにその両肩を叩いた。

「わっ!?」
「流生さん、やるじゃん!」

 怜史の勢いに驚いた流生が振り返る。自分事のように喜ぶ怜史の満面の笑みがその視界に飛び込んでくる。流生の目がより一層目を丸みを帯びる。それを見て怜史は背中を何度も叩いて、今度こそ流生の背中に向かって飛びついた。

「ちょ、ちょっと……っ!? よ、喜びすぎじゃない……?」
「流生さん、自分でできたら奇跡って言ってた。だから、喜んでるのっ」

 敬語も忘れて無邪気に語る怜史に流生は何も言い返せない。ただ照れくさそうに目を逸らして落ちたボールに視線を向けていた。

***

 日が落ち二人は車に戻ってきた。田舎道は街灯が少なく駐車場にすらほとんどない。二人の顔をカーナビの明かりが薄く照らす。

「あーはしゃいだはしゃいだ」
「流生さんあのあと一球も打ててなかったっすよね」
「もう、言うなよそれ」

 戯れて二人の声に笑顔が混じる。ふとした瞬間に静寂が訪れて、流生はどこか戸惑ったように目線を逸らす。

「あっという間に一日が終わっていくね」
「……そう、ですね」
「……出琉と二人で来た時みたいに、楽しくてあっという間だった」

 流生は唇を丸めて一人で大きく頷く。眩いライトに照らされた横顔のラインに怜史は釘付けになった。

「流生さん」

 意味もなく名前を呼んだ。そんなに寂しい顔でよそを向いていてほしくなかった。流生がそれに応えて振り向く。少し強張った顔を無理やり笑顔に見せてくれる。

「……また、どっか行きましょう」
「……」
「……俺で良ければ、っすけど」
「……もちろん。すごく嬉しい」
「流生さん」
「うん?」

 怜史は流生の頬に手を伸ばす。泣いているように見えたが涙は流れずに乾いていた。拭うもののない指先が柔らかい頬に着地する。流生の瞳が揺らぐ。

「……さみしいですね、やっぱり」
「……ああ」
「少しだけ、本音言ってもいいですか」
「もちろん、いくらでも」
「……俺もっと……出琉さんと、一緒にいたかった」
「ああ、本当に……浅賀君?」
「……っ」

 涙の気配を感じていたのは怜史の方だった。言葉を口にした途端、溢れ出そうとする瞼を抑えようと流生から手を離す。だがその手を掴まれた。

 腰に手を回され怜史は運転席の方へ引き寄せられる。そっと近付いたその先で流生は怜史の目尻に浮かんだ涙を見つめている。やがて顔を傾けると、流生は怜史の落ちる前の涙に口付けた。

「え、」

 突然のことに怜史は身体を硬直させる。何が起きたのかを頭の中で精一杯考えた。考えて、流生を跳ね除けようという気は起きなかった。

 涙一粒に濡らされた流生の唇が間も無く怜史の唇へと重ねられる。

「んぅ、」

 キスの経験は怜史になかった。だから現実に起きたことを咄嗟に理解し得なかった。重ねたままの時間に怜史は心臓を跳ね上がらせながら、ゆっくりと目の前で起きていることを噛み砕いていく。

 それが心地良いものだと気付くと今度はもっと全身で実感したいと思い、自分も流生の背中に腕を回した。

 今、誰よりも一番近くに流生を感じている。そうしていれば胸の中で溶けずに残っている悲しみのことを忘れられるような気がした。同じ苦しみを抱いている流生が相手だからこそだと怜史は願わずにいられなかった。

 だがいつまでもそうしていることは叶わない。息が続かなくなって唸る怜史から流生はそっと唇を離す。名残惜しくて口を僅かに開いたままの怜史を見つめて、流生は目を閉じた。

「……帰ろうか」
「……はい」

 本音では帰りたいとは思っていなかった。ずっとこのまま出琉のいない世界を忘れる魔法を流生と唱え続けていたかった。

 怜史の胸の内の願いとは裏腹に流生の車は発進した。住み慣れた現実の街に向かって進んでいく。いつもの日常に帰っていく。

 だが二人の間には朝までは持ち合わせた熱が尾を引いたままここにいる。もう、昨日までの二人ではいられなくなった。
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