【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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青い春編

第8話

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 翌る日、怜史は普段の登下校の道に逆らって駅へと向かった。いつも見る同じ制服の黒い人の群れとは逆流し、スーツを纏った人間が流れていく道に怜史も混ざっていく。

 怜史はスーツでも制服でもない、パーカーの上からキャメルのダッフルコートを羽織っている。周囲と比べて特段幼い格好に見えた。なんとなくマスクを装着して、人の目から自分の情報を減らしている。

 休んで引きこもるよりも一歩悪いことをしているようで胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。それでも「自分が行く道はこっちの方向であってます」という顔をしながら足を進めた。

「――浅賀?」

 名前が聞こえて思わず足を止める。雑踏に紛れた怜史に気付いたのは刹那だった。自転車に乗っている刹那はいよいよ冬だというのにコートも制服のジャケットも脱いだワイシャツ姿だった。

 怜史はしまったと思った。メッセージを無視していた罪悪感と今学校から離れようとしている後ろめたさで刹那に合わせる顔がなかった。

 だから、刹那を無視して横切ろうと思った。

「! 浅賀っ!?」

 刹那はすぐにハンドルの向きを変えて怜史と並ぼうとする。怜史は拒んだ。刹那からなんとしてでも遠ざかろうと思った。

「ちょ、ちょっと待てよ!」
「ッ!」

 けれども真っ直ぐに伸ばしてくる手を振り払うほど刹那を邪険にはできななかった。怜史は精一杯の拒絶を含んだ目で刹那を見た。いつの間にか滲んだ瞼の涙が風で振り落とされる。

「――あさ、が」

 その気迫を刹那はどう見ただろうか。圧倒されたわけではない。ただ刹那には怜史のその顔が何か別のものに見えた。そのせいで刹那は怜史に伸ばした手を力無く下げていく。

 目を見開いている刹那の様子がおかしいと思いつつ、怜史は刹那を振り切って駅へとまっすぐ走り出す。まだ刹那が後ろで立ち尽くしているような気がしたが、足は止まらなかった。

(……ごめん、柏葉) 

 胸の中でなら刹那に言葉を向けられる。だが刹那という自分の現実に一番近い存在からは、今はどうしても向き合うことができなかった。
 
***
 
 遠ざかっていく背中を刹那はただ見つめていることしかできなかった。通行人に邪魔だと言われてもまだその場から動けないでいる。刹那の手は震えていた。既にワイシャツ姿にも関わらず、体の奥が熱くてたまらない。

 刹那はシャツをひしゃげさせて自分の胸ぐらを掴んだ。

「……何が、特別扱いしない、だよ」

 刹那は見えなくなってなお、怜史の背中を真っ直ぐに見据えていた。他の全てを遮断した視界は蜃気楼を見ているかのように、熱く揺らいでいた。

***

 怜史は人混みを全速力で駆け抜け、あっという間に駅前に辿り着いた。人生で走った経験の中で最速記録だ、と怜史は自ら感動を覚えた。観光案内所のガラス扉には膝に手を置いて息咳切らしているところが写っている。なんだか情けないと思って怜史は少し背筋を伸ばした。息はまだ完全に整っていない。

 そこに流生からショートメッセージが届いた。画面にその名前が表示されるのはまだ少し妙な感覚があった。

『交番の前まで来れる?』

 交番の一言を見つけて怜史はぐるりと辺りを見渡す。バスのロータリーを跨いだ向こう側に、一般車用の乗降場所がありその向かいに交番が見えた。

『向かいます』

 その一言の後ろに絵文字を添えるかどうかで一瞬フリックする指先が止まる。だが考えているより駆け出したほうが早いと思い至るや否や、怜史はその一言も送り忘れて交番を目掛けて走り出した。怜史が自ら評価するほどにその足は速くはないが、飛び跳ねているかのようにつま先が軽やかだった。

***

「おまたせ、しました」
「待ってないよ。助手席、どうぞ」

 乗降場所には流生の白いワゴンカーがすでに停まっていた。開かれた助手席の扉から怜史が乗り込む。社内はミントの香りが優しく漂っていた。雑多に物は置かれておらず、隙間に塵一つ見えない清潔な空間だった。

 怜史の両親はファミリーカーをそれぞれ一台ずつ持っているが、それ以外の車に乗った経験はほとんどなかった。この小さな空間にどぎまぎしながらシートベルトを引っ張った。

 ふと、何をこんなに落ち着かないでいるのかと怜史は自分に疑問をぶつける。一緒に出かける流生のことをまだよく知らないせいなのか、軽車両ゆえに運転席と距離が近いせいなのか、先程刹那に冷たく当たったことをまだ引きずっているからなのか。悩んでも明確な答えは出なかった。

 怜史がシートの背もたれに寄りかかると、流生は車を走り出させた。エンジン音はごく静かだ。

「……どこ、行くんすか?」
「そうだなあ。実はノープランなんだ。浅賀君は行きたいところある? 動物園とか水族館とか」
「……」
「……もしかしてそれじゃ子供っぽ過ぎる?」
「あ、いやそういうつもりじゃ……」

 流生の提案に怜史は拍子抜けする。自分の期待するものとは違ったような気がした。その一方で怜史自身が期待していたものとは何かはよく分かっていなかった。

「……もし良ければ、動物園とかじゃなくても良かったらなんだけど」
「……はい」
「僕とイズが生まれた街に行ってもいいかな」

 目を細めてどこか寂しそうに笑う流生を見て、怜史は目を見開いた。何も考えずにこくりと頷いた。

「……よし。少し長旅になるけど、行こうか」

 もう一度怜史が頷くのを見つめると、流生は進行方向に視線を移す。右手でハンドルを握りながら、左手の指先でカーステレオの再生ボタンを押した。静寂の中で二十年ほど前にヒットしたバンドのナンバーが流れ出した。怜史も知っていた。かつて出琉が好きだと言ってカラオケで披露してくれたこともある曲だった。

「好きだったんだ。出琉も僕も」

 怜史は息を呑んだ。CDと重なって出琉の声が聞こえてくるような気がした。

 出琉への強い思いを背負いながら車は国道に出た。ここから始まる長い旅の行く末を知らぬままに。
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