【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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青い春編

第13話

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 一月。受験が間近に迫ってきた生徒達は余裕のなさからぴりぴりとした空気に包まれていた。

 山は白く染まり、街も降雪によって道路機能を鈍らせている。行動がままならなくなるほどの冷たい空気が、彼らの緊張感を冗長させていた。会話も自然と模試の評定やら誰が推薦に受かったやらの話で持ちきりになる。

 そんな中で唯一、気の抜けた話題があった。浅賀怜史が変わったと、怜史だけが預かり知らぬ場所で囁かれている噂だ。

「あいつあんなだっけ?」

「もっと孤高の王子様って感じだったじゃん。俺はみんなと違うオーラっていうかさ」

「俺この前の模試の前にシャー芯貰った」

「俺なんか昼飯買いに行く前に話しかけられたぞ」

「あんなに付き合いやすいなら、なあ……」

 誰か一人の意味深な言葉に会話の渦中にいた人間達が皆揃って息を呑む。

 次に彼への願望が漏れ出るという瞬間、その輪に怜史本人が土足で踏み込むように、口を動かしていた生徒の肩をポンと叩いた。

「ねぇ」

「!?」

 一斉に怜史に視線が集まる。丸三年間ずっと無表情を貫いていたその顔は、今は穏やかな微笑みを浮かべている。学ランは来ておらず、見慣れないベージュのカーディガンは怜史の体格に対して極端に大きい。身体のラインが一切現れないがために、怜史の中性さに拍車がかかっている。

 目の前の彼らがその風貌に見惚れているとは知らず、怜史は一人ひとりと目線を合わせると小首を傾げた。

「壮行式、始まっちゃうよ」

 そう一言告げると、怜史はもう一度笑みを浮かべてぱたぱたと音を立てながら、彼らより一足早く教室を出て行った。

「……」

 彼らは顔を見合わせて、もう一度怜史の方を振り返った。もうそこにはいない小さな背中を見ようと愚かにも必死になり、やがて追いかけるように教室を飛び出して行った。

***

 怜史が体育館の前に着くと、壁を背にして待ち構えるように日竹が立っていた。怜史は歩く足を緩めて日竹の前に立つ。

「よぅ人気者」

「日竹」

 日竹が何か嫌味を言いたげなのは伝わってきた。だが気にすることなく怜史は先ほどのように首を傾げる。

「それやめろよ気持ち悪ぃ」

「何が?」

「ぶりっ子だよぶりっ子。何。受験で頭いかれたの?」

「いかれてない」

「みんな言ってんぞ。浅賀怜史は姫力をいよいよ発揮し出したってな。調子乗んなブス」

「なんだとー」

 怜史は少しだけ眉を吊り上げて日竹を睨む。相変わらず覇気のない睨みだが、その顔通り今は少しも苛立っていなかった。

 ほんの少し前まではこの顔が怖かったと思いながら、まじまじと日竹の顔を見つめる。だが今は一ミリもそんなことを考え付かなかった。

「ほんとはこの顔好きなくせに」

「なっ……」

 日竹の煽りにむっとなって、怜史は背伸びをして日竹に顔を近づけた。日竹は驚いて退こうとし、自分の背中にある壁に後頭部をぶつけた。

「ば……っかじゃねえの!? 自意識過剰! 好きなわけあるかよ、信じらんねえブス!」

「いじわる」

「お前なぁ……ッ」

「はーいはいはい。おめーら何やってんだ」

 手を打つ音と呆れた声を聞いて振り返るといつの間にか刹那がいた。怜史は味方の登場にこれみよがしに日竹に向かって勝利の笑みを浮かべる。

「柏葉!」

「日竹ぇ、推薦消えんぞ?」

「俺じゃねえよっ、そいつが元凶だ」

「日竹が先にブスって言った」

「あーそういう小学生みたいなのやめろ……早く行くぞ」

 刹那は呆れ顔のまま怜史に肩を組む。親指で体育館の方を示し、怜史と日竹にそれぞれ促す。

 怜史を連れて刹那が歩き出そうとした時、日竹がその背中に言葉を投げ打ってくる。

「なあ、そいつが変わったのって、柏葉とデキてるから?」
 刹那が振り返る。心底不機嫌な顔で、軽蔑の目を向けながら。

「……んなわけねぇべさ」

 怜史の首にかけていた腕を下ろして、怜史の背中を押す。大きな手はしばらく怜史の背に貼り付いていて、やがてゆっくりと離された。それを見ていた日竹はもう何も聞いてこなかった。

***

 怜史の噂にはいつの間にか尾鰭がついて『恋人ができて変わった』という話に膨れ上がっていた。

 刹那だけはその話題に触れることはなかった。刹那は唯一、その噂が奇跡的に真実であることを知っていた。

 怜史が流生と付き合うようになって程なく、刹那は怜史からそのことを報告された。

「……ま、めでたいんじゃね?」

 刹那からの祝福の言葉はそれだけだった。それきり刹那がその件を触れてくることはなかった。怜史が少し流生の話をしても、大きな反応を見せることはなかった。

 それが少し寂しくはあれど、きっと刹那はそれほど興味がないのだとして、怜史も自分の惚気話を無闇に聞かせようとはしないように努めた。

 大抵の放課後、怜史は刹那と図書室で受験勉強をして過ごしていた。金曜の夜はそのあとで流生と約束をしている。

 今日はちょうど金曜日だ。時計の針が約束の時間になるのが待ち遠しくて仕方がない。今日解こうと思っていた数学の大問はまだ半分も終わっていなかった。

「おめさ」

「ん?」

 一時間以上絶え間なくシャーペンを動かしていた刹那が初めて顔を上げる。

「あいつに勉強教えてもらわねーの?」

「あいつって、流生さん?」

「ん」

 刹那は小さく頷いてから、机に置いていた水筒を開けて水を飲んだ。中身がほとんどないのか、天井に向かってボトルをほぼ垂直に傾けている。

「……理工学部だぞ。浅賀の絶望的な数学の点を救うのにはうってつけの人材だ」

「流生さんといる時は、勉強の話は全然……」

「流生と会って何してんの?」

 刹那の問いにどきりとする。流生とのことを聞かれるのは初めてだった。刹那の顔は夕暮れを背負ったせいでよく見えない。

 流生とは会えばドライブをして軽く食事をしてお互いの話をして、手を繋いでキスをする。いつもそれが決まった流れだ。怜史にとってそれが平坦な日常の中の唯一の刺激であり、一方で最も穏やかにいられる時間だった。何にも変え難いその特別な時間をあけすけに語るのは気恥ずかしく、刹那相手にさえ勿体無いと思ってしまう。怜史の口からは簡単に刹那はの答えが出て来ず、代わりに頬が赤く染まった。

「えと、その……」

 口篭った瞬間、突然刹那ががたんと音を立てて立ち上がった。背後で椅子がけたたましい音を立てながら倒れ込む。
 怜史が驚いて見上げている目の前で、刹那はしばらく黙っていた。

「……わり」

 刹那が起こした騒音に対して、その謝罪は雨粒が落ちる音と同じくらい静かだった。刹那は椅子を起こして机の下に収めると、広げていたノートや教科書を乱雑にまとめて自分のバッグに詰め込んだ。

「俺帰るな」

「柏葉、」

 怜史の声に反応せず、刹那は逃げるように図書室を出て行った。刹那がいなくなって怜史のノートが直接西日に晒される。

 眩しい空の向こうには陽の光を覆い隠そうとする雲が迫っていた。
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