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青い春編
第19話
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それから三日、流生からは連絡が来なかった。メッセージアプリ上には怜史からの言葉だけ溜まっていく。
『どこにいる?』
『なにかあった?』
『心配してる』
『本当は何が起きてるのか知ってる。ごめん』
『力になりたい』
『流生、大好きだよ』
『愛してる』
気持ちが膨らんで言葉もどんどん大きくなる。だが既読すら付かず、それが流生に届いているのかすら分からない。
何度も刹那の言葉を無視して流生の家まで向かおうとした。だができなかった。そこかしこから送られてくる視線が、全部怜史を監視しているような気がして、バス停にも駅にも近付けなかった。
いつだって人目に触れることが多かった。見られているのが当たり前だった。自分の容姿が目を引くことなど分かっていたし、それを愉快とは思わずとも仕方のないことだと理解していた。
そんな怜史にとってすら、この町で受ける視線はひどく具合が悪くなるものだった。
(気持ちが悪い……こんな目に、流生はずっと、ずっと……!)
毎晩一人で布団の中で歯痒さに苦しんだ。奥歯を噛み締め過ぎて、翌朝には顎がずっと痛んでいた。だが痛みなどどうでも良かった。流生のこと以上に気がかりなものはこの世にはなかった。
ただ流生を思って眠れぬ夜を重ねていって、怜史は中学の卒業式の日を迎えた。
目の下に蓄えた隈を両親に心配されながら、何事もなく中学最後の通学路を進む。ここしばらくずっと朝外に出るのも不気味で仕方がなかったが、あの日以来近所の女性たちに声をかけられることはなかった。
「浅賀、」
校門まで辿り着くと刹那が待っていた。手を振っている彼に、怜史は小さく振り返す。刹那の胸には既に卒業生の証である花のコサージュがぶら下がっている。
「おはよ」
「……おはよう」
「なあ、昨日さ」
刹那が静かに怜史に顔を近付ける。周りの喧騒に埋もれかけそうなほどに声を絞ってそっと耳打つ。
「盛谷のところに、流生が来たらしい」
「……」
刹那は自転車置き場の日以来、怜史に近所で見聞きした盛谷の家のことを教えてくれていた。それでも、流生のことを見かけたというのは今日が初めてだった。怜史は信じられないと目を大きく開いて刹那の顔を見る。
「マジ。昨日の夜中、ずっと電気付いてた」
「……俺のせい、なのかな」
「は?」
「流生が……この町にいる俺と関わったから、流生は今辛い思いをさせられてるのかな」
怜史の顔色が曇る。門出を迎えた卒業生とは対極的な、沈み切った表情だった。
刹那は何も答えなかった。刹那にも分かることではないのだと怜史は直感する。
「俺と出会わなかったら、流生は少し寂しくても、今までと変わらない生活ができたのかな」
「……」
深く考えれば考えるほど、涙が溢れ出そうになる。
あたりは学生だけではなく、来賓や保護者の姿も見え始めてくる。通りがかる者皆全てが怜史に視線を向けている。それがどういう理由で向けられるものなのか、今の怜史には判別できない。ただひたすらに居所が悪いことだけを痛感する。
怜史の足が次第に校舎とは正反対を向こうとする。逃げ出したかった。この町を出て、どこか遠くまで走って行きたかった。
だが刹那がそれを制止する。怜史の腕を掴み、体を強引に自分の方に向かせた。
「浅賀!」
刹那の大きな声が怜史の耳を刺激する。怜史は少し目を細める。この期に及んでなんだと、この前忘れた苛立ちが込み上げてくる。
また何か言われるのだろうと予想していた怜史に反して、自分のコサージュを取って怜史の胸元に付け直しただけだった。
「……何?」
「自分の幸せまで、否定しようとすんなよ……流生のことばっかし考えて、自分蔑ろにすんのは間違ってんだろ……」
「……」
「出会ったことまで、否定すんな」
ボタンの無くなった怜史の胸の中心に拳を置く。どん、と胸を叩く音が怜史の身体中に響く。
その瞬間に、怜史の涙が後ろに引っ込んだ。ほんの少し、安堵にも似た気持ちが浮かんでくる。
「柏葉、」
「ん?」
「柏葉はやっぱり……正直でいい奴だね」
「……普通にありがとうって言えし」
「うん。ありがと、柏葉」
「……んで、卒業式には出る気あんの」
「出るよ……てかこれ返す。なんで付けたの」
「いらねー! またもらってくるから!」
刹那はそれで言いたいことを言い終えたのか、足早に怜史の前を立ち去った。
刹那が向かったのと同じ方向に、コサージュのリボンがゆらめく。
怜史は刹那の背中を見ながら、おもむろにスマホを開く。少し期待があった。この町に流生がいることに胸が高鳴っていた。
そして開いたスマートフォンの画面には新着メッセージのアラートが表示されていた。
***
卒業式のすぐ後、怜史は刹那の教室へ駆け込んだ。人だかりの中心になっている刹那のところに割って入り込み、息咳切らしたまま自分のスマートフォンの画面を見せる。
「式の前に……来てた……っ」
「おまっ……ちょっと来い! わり、すぐ戻る!」
慌てる怜史の腕を掴んで、刹那は即座に教室を飛び出す。階段の踊り場を駆け上がって肩がぶつかる距離になりながらスマートフォンの画面を二人で食い入るように見つめる。
『今日、引っ越しをします。卒業おめでとう』
用件だけを並べた文章に流生の感情は一つも滲み出ていない。引っ越しという大事な報告と、怜史の門出を一緒くたに済ませているところに怜史は不安に駆られた。
「お前、これ見ながら式出てたのかよ」
「うん」
「なんで……すぐ行かなかったんだ?」
先日の衝動性を指して、刹那は疑問を抱いているらしい。怜史はスマートフォンを強く握りしめた。
「柏葉に何も言わずに、出ていけなかった」
「……! んなの、ほっときゃいいのに……ッ」
刹那が悔しげに唇を噛み締める。両手の拳を硬く結んで、天井に向かって雄叫びを上げた。
「――行けよ!」
「えっ」
「盛谷に見つかったから家を変えるんだよ、あいつは! 早く行かないと足掛かりがなくなるかもしんねえ。盛谷は今日は動けねえ。町で卒業式なんてでかいことやってる時に、余計なことする連中じゃねえから、絶対に今日がチャンスだ」
「でも、柏葉行くなって……」
「……行って、欲しくなかっただけだ」
刹那は怜史の身体を自分から昇降口がある方向へと反転させ、そして静かに言葉を漏らす。
「流生に取られたのが、嫌だっただけなんだよ……っ」
「な、に、柏葉、」
「ほら、良いから!」
力強く怜史の背中を押す。怜史は刹那を振り返った。
刹那はいつもと変わらない笑顔を、ほんの一瞬にして取り戻す。
「また、高校でな!」
きっと自分を鼓舞してくれているのだ。怜史は簡単に気付くことができた。刹那はそういう、良い奴だと怜史が一番知っている。
後ろ髪を引かれる思いだった。だが、今の怜史には他にもっと大切な人がいた。
刹那が吐露した言葉を振り切るように、階段を一段飛ばしに駆け降りる。今日が卒業式ということも忘れて、怜史はこの町を飛び出した。
***
たった一度やってきた流生の家に、怜史は迷い一つなくたどり着くことができた。バスで行く道もドラッグストアからの道も、怜史にとって痛烈な思い出の一部だった。
流生の家の前は静かで、部屋のカーテンはすでに取り外されていた。もぬけの殻、という言葉が怜史の頭をよぎる。それでも部屋に入るまでは分からない。そう思いながら一歩を踏み出したその時、
「――怜史」
怜史の背後から、その名前を呼ぶ声があった。耳に馴染んだばかりの音に引き寄せられるがままに振り返る。
流生がいた。大きなキャリーケースとショルダーバッグを持っていた。
「流生!」
「……来るとは思ってなかった」
流生は驚いた顔で、耳からイヤホンを取り外す。そこへ駆け寄ろうとする怜史を腕一本で制止させ、自ら怜史に近付いた。
「ごめんね。沢山連絡くれてたのに」
「そんなことどうでも良いっそれより、引っ越すって何……? どこに……?」
「さあ……どこに行ったら良いんだろうね」
流生の顔は笑っている。だが心では笑っていない。
「盛谷はずっと僕が邪魔だったんだ。僕がどこかで噂になれば、必ず捕まえて、僕を不自由にする」
「そんなの、おかしいって」
「おかしいんだ。おかしいんだけど、それが罷り通っている。僕は、あの街が嫌いで仕方ない」
「ねえ、俺、流生の居場所になるよ……まだこれから高校生で、何の力もないけど」
「そうだよ。怜史は何の力もない。一人で僕の手を引いてどこか遠くに行けるわけじゃないだろ?」
「!」
刹那に聞いたことを思い出す。流生が盛谷の家で居所を無くしたのは怜史と同じ歳の頃だった。
何もできないことを、流生はよく知っていた。
「……なんて、君にこんなこと聞くのは間違ってるよね」
「やる、」
「……え、」
「手、引く。俺が引く。流生の居場所、絶対になるから」
怜史の視界が揺らぐ。その瞬間に流生の顔が和らいだ。泣いてはだめだと怜史は自分に訴える。自分が今慰められたって意味がない。泣いてしまっては流生に向けた決意などなし崩しになってしまう。
「……それだけで、僕は十分愛された」
「流生、」
「だけどだめだよ。君には愛してくれる家族も友人もいる。僕のために大切な人達を蔑ろにしちゃいけない……だから、終わりにしよう」
「やだ、」
「僕といたらきっと、怜史もあの町で居場所を失ってしまうから」
これ以上は耐えられなかった。無数の涙が頬を伝う。誤魔化し切ることは到底不可能だった。流生の姿をしっかりと目に留めることすら今はままならない。
「最後に、もう一回だけ、抱きしめたいんだけど……いいかな」
「……やだ、絶対嫌だっ! 最後なんて言うなら、もう一生、流生に触れなくて良い……ッ」
「……ごめんね」
怜史の拒絶も虚しく、流生は怜史を自分の胸の中に収めてしまう。少し離れたところでキャリーケースが倒れる音がした。
「ううっ、うあぁ……ッ」
「忘れない。僕の居場所になってくれようとした人がいたこと。君だけが、怜史だけが……僕にとって生涯の特別だから……」
「…っ、る、るい、ぃっ」
頭を撫でて、頬を撫でて、それから鼻先同士を触れ合わせて、最後に唇を重ねる。そのまま静かに怜史から手を離す。
「……それじゃあ」
呆気なく流生は背を向けた。一度も振り返ることなく、遠くへ向かっていった。
それを追いかけることはできなかった。最後に見た流生があまりにも晴々としていて、町というしがらみから離れられることに喜んでいたように見えたからだった。
自分もあの町の、流生にとっての楔に過ぎなかったのかもしれない。出琉が死んで、流生に縋ったのは間違いだった。日竹のことも自分で対処すれば良かった。あの日、電話に出なければ良かった。
いつしか別離を悲しむ涙は、後悔を吐き出すものに変わっていった。
青々としている空は雲ひとつない。卒業生という怜史の門出を祝っている。だがそれはあの雨男の不在を、同時に痛いほどに実感させるような、憎らしい春の晴天だった。
『どこにいる?』
『なにかあった?』
『心配してる』
『本当は何が起きてるのか知ってる。ごめん』
『力になりたい』
『流生、大好きだよ』
『愛してる』
気持ちが膨らんで言葉もどんどん大きくなる。だが既読すら付かず、それが流生に届いているのかすら分からない。
何度も刹那の言葉を無視して流生の家まで向かおうとした。だができなかった。そこかしこから送られてくる視線が、全部怜史を監視しているような気がして、バス停にも駅にも近付けなかった。
いつだって人目に触れることが多かった。見られているのが当たり前だった。自分の容姿が目を引くことなど分かっていたし、それを愉快とは思わずとも仕方のないことだと理解していた。
そんな怜史にとってすら、この町で受ける視線はひどく具合が悪くなるものだった。
(気持ちが悪い……こんな目に、流生はずっと、ずっと……!)
毎晩一人で布団の中で歯痒さに苦しんだ。奥歯を噛み締め過ぎて、翌朝には顎がずっと痛んでいた。だが痛みなどどうでも良かった。流生のこと以上に気がかりなものはこの世にはなかった。
ただ流生を思って眠れぬ夜を重ねていって、怜史は中学の卒業式の日を迎えた。
目の下に蓄えた隈を両親に心配されながら、何事もなく中学最後の通学路を進む。ここしばらくずっと朝外に出るのも不気味で仕方がなかったが、あの日以来近所の女性たちに声をかけられることはなかった。
「浅賀、」
校門まで辿り着くと刹那が待っていた。手を振っている彼に、怜史は小さく振り返す。刹那の胸には既に卒業生の証である花のコサージュがぶら下がっている。
「おはよ」
「……おはよう」
「なあ、昨日さ」
刹那が静かに怜史に顔を近付ける。周りの喧騒に埋もれかけそうなほどに声を絞ってそっと耳打つ。
「盛谷のところに、流生が来たらしい」
「……」
刹那は自転車置き場の日以来、怜史に近所で見聞きした盛谷の家のことを教えてくれていた。それでも、流生のことを見かけたというのは今日が初めてだった。怜史は信じられないと目を大きく開いて刹那の顔を見る。
「マジ。昨日の夜中、ずっと電気付いてた」
「……俺のせい、なのかな」
「は?」
「流生が……この町にいる俺と関わったから、流生は今辛い思いをさせられてるのかな」
怜史の顔色が曇る。門出を迎えた卒業生とは対極的な、沈み切った表情だった。
刹那は何も答えなかった。刹那にも分かることではないのだと怜史は直感する。
「俺と出会わなかったら、流生は少し寂しくても、今までと変わらない生活ができたのかな」
「……」
深く考えれば考えるほど、涙が溢れ出そうになる。
あたりは学生だけではなく、来賓や保護者の姿も見え始めてくる。通りがかる者皆全てが怜史に視線を向けている。それがどういう理由で向けられるものなのか、今の怜史には判別できない。ただひたすらに居所が悪いことだけを痛感する。
怜史の足が次第に校舎とは正反対を向こうとする。逃げ出したかった。この町を出て、どこか遠くまで走って行きたかった。
だが刹那がそれを制止する。怜史の腕を掴み、体を強引に自分の方に向かせた。
「浅賀!」
刹那の大きな声が怜史の耳を刺激する。怜史は少し目を細める。この期に及んでなんだと、この前忘れた苛立ちが込み上げてくる。
また何か言われるのだろうと予想していた怜史に反して、自分のコサージュを取って怜史の胸元に付け直しただけだった。
「……何?」
「自分の幸せまで、否定しようとすんなよ……流生のことばっかし考えて、自分蔑ろにすんのは間違ってんだろ……」
「……」
「出会ったことまで、否定すんな」
ボタンの無くなった怜史の胸の中心に拳を置く。どん、と胸を叩く音が怜史の身体中に響く。
その瞬間に、怜史の涙が後ろに引っ込んだ。ほんの少し、安堵にも似た気持ちが浮かんでくる。
「柏葉、」
「ん?」
「柏葉はやっぱり……正直でいい奴だね」
「……普通にありがとうって言えし」
「うん。ありがと、柏葉」
「……んで、卒業式には出る気あんの」
「出るよ……てかこれ返す。なんで付けたの」
「いらねー! またもらってくるから!」
刹那はそれで言いたいことを言い終えたのか、足早に怜史の前を立ち去った。
刹那が向かったのと同じ方向に、コサージュのリボンがゆらめく。
怜史は刹那の背中を見ながら、おもむろにスマホを開く。少し期待があった。この町に流生がいることに胸が高鳴っていた。
そして開いたスマートフォンの画面には新着メッセージのアラートが表示されていた。
***
卒業式のすぐ後、怜史は刹那の教室へ駆け込んだ。人だかりの中心になっている刹那のところに割って入り込み、息咳切らしたまま自分のスマートフォンの画面を見せる。
「式の前に……来てた……っ」
「おまっ……ちょっと来い! わり、すぐ戻る!」
慌てる怜史の腕を掴んで、刹那は即座に教室を飛び出す。階段の踊り場を駆け上がって肩がぶつかる距離になりながらスマートフォンの画面を二人で食い入るように見つめる。
『今日、引っ越しをします。卒業おめでとう』
用件だけを並べた文章に流生の感情は一つも滲み出ていない。引っ越しという大事な報告と、怜史の門出を一緒くたに済ませているところに怜史は不安に駆られた。
「お前、これ見ながら式出てたのかよ」
「うん」
「なんで……すぐ行かなかったんだ?」
先日の衝動性を指して、刹那は疑問を抱いているらしい。怜史はスマートフォンを強く握りしめた。
「柏葉に何も言わずに、出ていけなかった」
「……! んなの、ほっときゃいいのに……ッ」
刹那が悔しげに唇を噛み締める。両手の拳を硬く結んで、天井に向かって雄叫びを上げた。
「――行けよ!」
「えっ」
「盛谷に見つかったから家を変えるんだよ、あいつは! 早く行かないと足掛かりがなくなるかもしんねえ。盛谷は今日は動けねえ。町で卒業式なんてでかいことやってる時に、余計なことする連中じゃねえから、絶対に今日がチャンスだ」
「でも、柏葉行くなって……」
「……行って、欲しくなかっただけだ」
刹那は怜史の身体を自分から昇降口がある方向へと反転させ、そして静かに言葉を漏らす。
「流生に取られたのが、嫌だっただけなんだよ……っ」
「な、に、柏葉、」
「ほら、良いから!」
力強く怜史の背中を押す。怜史は刹那を振り返った。
刹那はいつもと変わらない笑顔を、ほんの一瞬にして取り戻す。
「また、高校でな!」
きっと自分を鼓舞してくれているのだ。怜史は簡単に気付くことができた。刹那はそういう、良い奴だと怜史が一番知っている。
後ろ髪を引かれる思いだった。だが、今の怜史には他にもっと大切な人がいた。
刹那が吐露した言葉を振り切るように、階段を一段飛ばしに駆け降りる。今日が卒業式ということも忘れて、怜史はこの町を飛び出した。
***
たった一度やってきた流生の家に、怜史は迷い一つなくたどり着くことができた。バスで行く道もドラッグストアからの道も、怜史にとって痛烈な思い出の一部だった。
流生の家の前は静かで、部屋のカーテンはすでに取り外されていた。もぬけの殻、という言葉が怜史の頭をよぎる。それでも部屋に入るまでは分からない。そう思いながら一歩を踏み出したその時、
「――怜史」
怜史の背後から、その名前を呼ぶ声があった。耳に馴染んだばかりの音に引き寄せられるがままに振り返る。
流生がいた。大きなキャリーケースとショルダーバッグを持っていた。
「流生!」
「……来るとは思ってなかった」
流生は驚いた顔で、耳からイヤホンを取り外す。そこへ駆け寄ろうとする怜史を腕一本で制止させ、自ら怜史に近付いた。
「ごめんね。沢山連絡くれてたのに」
「そんなことどうでも良いっそれより、引っ越すって何……? どこに……?」
「さあ……どこに行ったら良いんだろうね」
流生の顔は笑っている。だが心では笑っていない。
「盛谷はずっと僕が邪魔だったんだ。僕がどこかで噂になれば、必ず捕まえて、僕を不自由にする」
「そんなの、おかしいって」
「おかしいんだ。おかしいんだけど、それが罷り通っている。僕は、あの街が嫌いで仕方ない」
「ねえ、俺、流生の居場所になるよ……まだこれから高校生で、何の力もないけど」
「そうだよ。怜史は何の力もない。一人で僕の手を引いてどこか遠くに行けるわけじゃないだろ?」
「!」
刹那に聞いたことを思い出す。流生が盛谷の家で居所を無くしたのは怜史と同じ歳の頃だった。
何もできないことを、流生はよく知っていた。
「……なんて、君にこんなこと聞くのは間違ってるよね」
「やる、」
「……え、」
「手、引く。俺が引く。流生の居場所、絶対になるから」
怜史の視界が揺らぐ。その瞬間に流生の顔が和らいだ。泣いてはだめだと怜史は自分に訴える。自分が今慰められたって意味がない。泣いてしまっては流生に向けた決意などなし崩しになってしまう。
「……それだけで、僕は十分愛された」
「流生、」
「だけどだめだよ。君には愛してくれる家族も友人もいる。僕のために大切な人達を蔑ろにしちゃいけない……だから、終わりにしよう」
「やだ、」
「僕といたらきっと、怜史もあの町で居場所を失ってしまうから」
これ以上は耐えられなかった。無数の涙が頬を伝う。誤魔化し切ることは到底不可能だった。流生の姿をしっかりと目に留めることすら今はままならない。
「最後に、もう一回だけ、抱きしめたいんだけど……いいかな」
「……やだ、絶対嫌だっ! 最後なんて言うなら、もう一生、流生に触れなくて良い……ッ」
「……ごめんね」
怜史の拒絶も虚しく、流生は怜史を自分の胸の中に収めてしまう。少し離れたところでキャリーケースが倒れる音がした。
「ううっ、うあぁ……ッ」
「忘れない。僕の居場所になってくれようとした人がいたこと。君だけが、怜史だけが……僕にとって生涯の特別だから……」
「…っ、る、るい、ぃっ」
頭を撫でて、頬を撫でて、それから鼻先同士を触れ合わせて、最後に唇を重ねる。そのまま静かに怜史から手を離す。
「……それじゃあ」
呆気なく流生は背を向けた。一度も振り返ることなく、遠くへ向かっていった。
それを追いかけることはできなかった。最後に見た流生があまりにも晴々としていて、町というしがらみから離れられることに喜んでいたように見えたからだった。
自分もあの町の、流生にとっての楔に過ぎなかったのかもしれない。出琉が死んで、流生に縋ったのは間違いだった。日竹のことも自分で対処すれば良かった。あの日、電話に出なければ良かった。
いつしか別離を悲しむ涙は、後悔を吐き出すものに変わっていった。
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