【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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夏の宵編

第25話

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「茅雪」

 家に着いてすぐ刹那は茅雪の部屋を訪ねる。茅雪は椅子のキャスターを転がした勢いのままに襖から顔を出した。兄の帰宅を茅雪は笑顔で出迎える。

「なに?」

「母ちゃんたちまだ帰ってねえ?」

「うん」

「ならちょっとこっちさ来て」

「? うん」

 声を潜めて手招きする刹那を見て茅雪は何かを勘付いたらしい。音を立てないように椅子から立ち上がると、さらに忍足で刹那に着いていく。

 キッチンに二人で立つと以前のようにアイスをそれぞれ手に極秘の会話を始める。

「やっぱ行くわ……松永のおばちゃんのところ」

「下宿?」

「おう。今日父ちゃんと母ちゃんに話す。盛谷んところは俺一人で言いにいく。進学先の件も婚約しねえって言った件もブチギレてるんだろうけど、なんとかしてみる」

 刹那の顔に迷いはなかった。それを見て茅雪は目を輝かせる。だがその頭の中には、今までとは違う不安が生まれていた。
 茅雪は手を自分の前で組み、刹那の顔を見上げた。

「お、お父さんに一緒に行ってもらったほうが……」

「それで家族丸ごと盛谷の信用失うほうがやべえだろ。バカ息子の勝手って体の方がずっと穏便に済む」

「……流生さんみたいに、お兄ちゃんもなるの?」

 茅雪の声が震えている。
 二人のいる向かいの窓で風鈴がちりんと鳴った。風が一斉に吹き込んで、刹那の髪を揺らした。

「ならねえよ。俺、あいつより要領いいもん。あのばあさまの扱いだって心得てる」

「……うん」

 頷く茅雪の頭を撫でる。まだ小さな妹を愛おしく思った。自分のことで面倒をかけることを申し訳ないと、それを伝えるように何度も髪を梳く。

 茅雪はすっかり黙り込んで、兄の手に呼応するように繰り返し頷いた。刹那が思うようにすればいいと、茅雪は一番に願っている。
 それはひとえに刹那の自己犠牲をその目で追い続けてきたせいだった。

***

 柏葉の家では忙しい両親に変わって刹那が五人の弟妹の面倒を見ていた。料理も洗濯も名前のつかないものもの含めて家事をこなしており、学校に持っていく弁当すらも刹那自ら用意している。

 それは刹那が中学で生徒会に入って忙しくなった後も、ずっと変わらなかった。

 だが茅雪は兄が家の外で忙しくするのを不満に思っている時期があった。何も分かっていなかった茅雪は生徒会で帰宅が遅くなった刹那に家族を蔑ろにするなと訴えたことがあった。

――ごめんな。兄ちゃん家族のこと大好きだけど、学校のことも大好きだから、両方頑張りたいんだ

 茅雪にとってはそれが衝撃的だった。家族よりも大切なものはないと、大人の意見を茅雪は間に受けていた。

 だが兄はそうではなかった、自分たちと同等かそれ以上に大切にしているものがあると知ったのは、ついこの前の冬だった。

 受験目前になって刹那が家事を終えた後に自室に篭るようになったころ、茅雪は寂しさから刹那の部屋の扉で聞き耳を立てていた。

「……っ」

「……お兄ちゃん?」

 物音に気付きそっと耳を扉に近付ける。だがすぐに後悔した。向こうから聞こえてきたのは、刹那が泣いている音だった。食卓でよく話題に聞く親友の名前を涙ぐんだ声で呼んでいる声だった。

 刹那が進路を変えたのはそれからすぐのことだった。兄に本当に何があったのか茅雪に知る術はない。ただ漠然と刹那が辛い現状に置かれていることだけは理解してしまった。

「私は、お兄ちゃんが辛い思いをしないことを選んでほしいよ……」

 気持ちを吐露するのと同時に茅雪は泣き出す。自分が泣いている場合ではないと奮い立たせても、刹那に涙を掬い取られてしまう。それが茅雪を何より悔しくさせた。

***

「決めたわ俺、下宿する」

 夏休み前最後の昼休みの時間、刹那はいつもの四人の前でそう宣言した。

「どこ? 寮に入んの?」

「いや親戚がアパートやっててさ。部屋余ってんだって。ここから歩いて二十分くらいんとこ」

「山男からいきなり都会っ子じゃんね」

「……俺だけ遠くなっちゃうなぁ」

 刹那はハッとして怜史を見る。

 怜史の登下校が一人きりになってしまうことは、刹那の中で数少ない懸念点だった。中学の奴らに駅で出くわして絡まれたりしないか、通学路の途中で具合が悪くなったら誰が面倒を見てくれるのか。考えだせば自分の決意が揺らぐくらいには怜史への心配が尽きなくなる。

 けれども当の本人はけろっとした様子で、口に咥えたストローでミルクティーをちゅ、と吸い上げている。

 そして机に伏せるような姿勢になって、下から刹那をじっと見つめた。

「俺も刹那のところに住んじゃおっかなー」

 隠しきれていないにやけた顔はその言葉が冗談だと物語っている。

 それなのに刹那の脳裏をよぎったのは怜史と朝も昼も晩も、一緒に過ごす絵空事だった。あの町を離れてなんのしがらみもなくなった場所で二人だけで過ごせたら。

 この下宿にその下心がないと言えば嘘になる。元を辿れば怜史がいなければ刹那は町の外になど出ようととも思わなかった。そういう意味で言えば下心由来と言っても過言ではない。

 だが、

(浮かれてんなよ。これは、あの人達と戦うための一歩に過ぎねえんだ)

 見つめてくる怜史の額にデコピンを打ち、声を張って「ばか」と言った。

「お前も自立したかったらまずは親を交渉するんだな」

「えー俺の親過保護なんだもん。絶対許してくれない。刹那が一緒なら許してくれる気がする」

「……当てにすんなっての」

 肩を揺さぶってわがままを言われることに満更でもない刹那は少し笑ってしまう。

(もっと大人になって本当に自立できるようになった時に、同じこと言ってくれりゃあ良いのにな)

 切に願う気持ちをそっと閉じ込めて、今は親友としての立場でやり過ごした。
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