【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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夏の宵編

第26話

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 何も置かれていない空っぽの部屋を刹那は初めて見た。
 築三十五年。木造1Kの手狭な部屋。ロフトがついているところは気に入った。キッチンと部屋を繋ぐ扉が引き戸ではなくドアノブのついた構造になっているところも。

 家族は説得したが、盛谷の家には一言言うだけで厳密には片はついていない。そのことを頭の隅に置いて、今日は引っ越し作業に勤しまなければならなかった。
 荷物の搬入を手伝ってくれるのは付いて行くと言って聞かなかった茅雪と、

「見晴らしすごく良いね。俺気に入った」

「……お前が気に入ってどうするんだよ。怜史」

 同じく部屋をいち早く見たいと言って聞かなかった怜史だった。

「お兄ちゃん早く掃除しないと荷物来ちゃうよ。怜史さんも手伝って」

「はーいちーちゃんの仰せのままに」

 怜史が茅雪の差し出すドライシートを貼り付けたフロアワイプを受け取ると、茅雪は頬を赤く染めながら恥ずかしそうに怜史を見た。

(血は争えないってか)

 怜史に釘付けになる妹を眺めて、鏡越しに自分を見ているような気になって苦笑する。

 親友と妹。その両方が揃っている光景を刹那は不思議に思いながら眺める。

 怜史と茅雪が会うのは今日が初めてだった。だが出会って一時間ほど経過した今では、ずっと昔からの知り合いだったかのように打ち解けている。特に怜史の方が顕著で、怜史は親友の面影を持つ茅雪が珍しい様子だった。ここに来る道中も、刹那をよそにずっと茅雪に話しかけていた。
 親友を妹に奪われて少し面白くない気持ちになりつつ、あの顔で親しげに話してくる年上など末恐ろしいだろうと、少しだけ妹の身を案じてやった。

「どうしたの、刹那」

「手止めないでよもう」

「わりわり。そういや怜史はうちに来たことなかったなってふと思っただけ」

「そういえばそうだね」

「怜史さん。うち広いからいつ遊びに来てもいいよ! お兄ちゃんが出てっちゃったら余計にお部屋余っちゃうもん。怜史さんの別荘にしてもいいよ」

「あはは、考えておくね」

 怜史がこぼした笑顔に茅雪がぱっと明るくなる。怜史のその言葉がとんでもない社交辞令だということを、刹那は茅雪には話さないようにした。

「まずはこの家を別荘にしたいんだけどなあ」

「すんな。学校終わったらまっすぐ家さ帰れ」

「ちーちゃん、お兄ちゃんケチだよ?」

「お兄ちゃんもっと怜史さんに優しくしてー」

「んだよ寄ってたかってぇ」

 刹那が威嚇するように両腕を上げると、怜史と茅雪はふざけてきゃーと悲鳴をあげる。こんな風に茅雪が混ざると怜史も自分の弟のように見えてくる。二人の無邪気さがここしばらく波打っていた刹那の心に、凪いだ時間を与えてくれた。

 三人だけの時間は穏やかだった。だがそれがそう長くはないことを刹那は知っている。スマートフォンの時計が刻々と進むのを見て、自分にずっと張り付いている緊張感が蘇ってくる。

 しばらくすると新品の家電を運ぶ業者が次々にやってきて、三人は搬入作業に追われた。実家から段ボールを積んだトラックも遅れて到着する。運転席からは刹那の母が現れた。

 到着した刹那の母は怜史の顔を見るなりはっとして、

「あんた……駅前の浅賀さんのところの子だね?」

 と、一瞬何かを濁す間を作ってから他所行きの笑顔を浮かべた。

 怜史は自分の肩肘を掴みながらこくりと小さく頷く。怜史が母と目を合わせない。その状況を見て、刹那は慌てて二人の間に入った。

「高校一緒だしさ、すげー仲良くて……今日も手伝ってくれるって言ってさ! 良い奴なんだよほんと!」

 刹那は母親に必死になって怜史の善良性をアピールする自分を馬鹿馬鹿しいと思った。

 流生と噂が流れた町の学生のことを、母親は当然知っている。流生と関わりのあった人間を、よく思わないだろうことは今日会う前から分かっていた。
 だがそれ以前から刹那と怜史が交流していたことも知っている。息子を思っての母親の優しさ由来の他人行儀さが、刹那にはかえって気持ちが悪かった。

「悪いねえお休みの日なのに」

「いえ、親友なんで」

 きっぱりと言い切る怜史の目が鋭く、刹那の母の顔を捉える。隠しもしない敵対感情に刹那の母が一瞬狼狽えるも、辛うじて同じ笑顔を保っていた。

「そう、ありがとうねえ。それじゃあ、これよろしくね」

 持っていた段ボールを怜史に押し付けると、刹那の母はまたトラックの方へ次の段ボールを運びにせかせかと去って行った。その背中が少しやけを起こしているように見える。

 重たい箱を抱えながらよろよろ歩く怜史に、刹那が手を貸そうとするも「いい」と断られてしまう。

 怜史は何か別のものを必死に抱えているかのようで、刹那とは目線を合わせずに部屋の奥へと段ボールを持ち去った。

 その後ろ姿を茅雪も心配そうに見つめている。茅雪は訴えかけるように刹那に振り返る。刹那は唇に人差し指を置いて何も言わないように茅雪にサインを送り、自分も口を開かないようにした。今はまだ、どうすればいいのか分からなかった。

***

 時折張り詰める怜史と母親の空気を刹那が何とか宥めつつ、日が暮れる前に引っ越し作業は終わった。

 開けた段ボールを重ねて束ねると、刹那の母はどんどんトラックに積み込んでいく。

「それじゃ、茅雪と……怜史君も送って行こうか?」

「いや母ちゃん、トラック助手席しか乗るところないだろ。茅雪乗せたら終わりだべ」

「……それもそうか。男の子だし、一人で帰れるもんね」

「平気っす」

 端から乗る気など毛頭ないと、怜史はそんな冷たい顔をしていた。母は怜史から目を背けるように背中を向ける。

「そんじゃ、刹那。ちゃんと食べるもん食べなさいよ? 学校も遅れないでね?」

「分かってるよ。ありがと」

「連絡は朝行く前と帰ってきた時すること。土日は迎えに行くから」

「うん」

 息子である自分の姿をを怜史に見られているのが刹那が気恥ずかし句手仕方がなかった。それでも今下手に母親を刺激する方が恐ろしくて、良い子を演じて笑顔を作る。

 ふと胸の内で思う。自分は家族のことが好きなはずなのに、怜史の前だとどうしてこうもぎこちなくなってしまうのかと。

 どちらにも良い顔をしたい。嫌われたくない。どちらも本心だからこそ、この空間で息をするのが苦しかった。

「じゃ、行くからね」

「父ちゃんにもよろしくな」

 刹那の母は最後に一瞬刹那の方を振り返り、我が子を見るふりをして怜史を見た。怜史も静かに会釈をする。それで気が済んだのか、刹那の母はそれ以上何も言わずに、家を出て行った。

「怜史さん」

「……ん?」

 母を追いかけて出て行こうとした茅雪が怜史を呼ぶ。そして深々と頭を下げて見せた。

「お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」

 純粋でまっすぐな幼心を前に怜史は思わず刹那を見た。そしてその小さな頭に近付いて、自分の手をぽんと置く。

「どっちかっていうと俺が刹那の世話になってるんだけどね……でも、ちーちゃんの頼み、俺ちゃんと聞くね」

「っ、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます……っ」

「あはは……もう、ちーちゃん大袈裟」

 茅雪が必死に自分に刹那を託そうとする理由を知らない怜史は、目の前にいる親友の妹がただ単に愛くるしいものに思えていた。

「……それじゃ、失礼します!」

 茅雪は顔を上げてから、さらにもう一度怜史に頭を下げると、飛び出すように玄関を出た。

 刹那はキッチンの窓を開け、その奥に見える母の車を見つめて手を振った。助手席の茅雪の姿だけが見えた。茅雪は眉を下げた顔で小さく手を振り返した。

 トラックが遠のいていき、何も見えなくなったところで刹那は大きく息を吐いた。力を無くしたようにその場に座り込む。そのはずみでキッチンに置いていたチラシの山に手を引っ掛けて、一斉にどさ、と床に落ちる。

「刹那ー……大丈夫?」

「おー。平気平気」

 怜史が駆け寄ってくる間も無く、刹那は膝を立たせて起き上がる。怜史は刹那の肘を掴んで、立ち上がるのをそっと支えた。

「疲れた?」

「まあな。でも俺ん家だし。怜史こそ疲れたんじゃねえか? 手伝いに来てくれてサンキューな」

「まあね。でも刹那の家だから」

「……真似すんなっての。俺の家だからなんだよ」

 脇腹を小突くと、ひゃ、と小さな悲鳴を上げながら怜史が笑う。そしてその笑顔をゆっくりと崩して、刹那の腕を掴んだままに怜史はポツリと呟いた。

「……刹那のお母さん。怖い人?」

「……怖かねえよ。ちょっとめんどくさいだけ」

「俺嫌われてるかなあ……多分噂になったせいだよね」

「あんなの一過性だろ。一年経ったら忘れら」

「……ちーちゃんいい子だったな。刹那に似てた」

「……そーかあ?」

 刹那は今になって気付いた。怜史が自分の服や手を引くのは心細いせいだと。言葉でははっきりと言えず、けれども確かに救いを求めてくる。刹那に助けて欲しいと、怜史はいつも思っている。

「ね、刹那」

「ん?」

「もうちょっと、ここにいても良い?」

「当たり前だろ。ここは俺の城なんだからさ、のんびりしていけよ」

 自分もこの家も使って、怜史の心からの叫びに全力で応える。刹那はそんな存在でありたいと、心の底から強く思った。
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