【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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夏の宵編

第29話

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 蔦江は刹那の正面に座る。自分を見据えてまだ口を開かない刹那を鼻で笑った。

「隣町の学校はどうだい。何か珍しいものでもあったな?」

「……新しい環境はいつも刺激的で、とても勉強になります。友達も増えました」

「ふん。どうせその程度だろうと思っていたよ。わざわざ下宿までして勿体無い。隣町程度にあるものはうちの町にもあるんだからね。物珍しい環境なんてすぐ退屈になるのさ。そうすれば子供の時から一緒にいた気心知れた子達が恋しくなる」

「……今はまだ、向こうに通い続けたいと思ってます。そのための下宿なので」

「まあ勝手にするんだね」

 蔦江は絶対に刹那の言葉に賛同も共感もしなかった。自分の主張こそが最も正しく、刹那のことを愚かだと考えていることが刹那本人にも伝わってくる。

「それよりもおらが頭さ来てらのが何が分がるのがい」

「……それは、仁奈さんのことでしょうか」

「当だり前だべ。おめには期待してらったんだがね。仁奈も今頃落ぢ込んでらに違いねぁーよ。可哀想なごどして」

 刹那は仁奈のことを思い浮かべた。最後に会ったのは去年の暮れ、法事で九州を訪れた時についでに仁奈の家に顔を出した時だった。
 仁奈は当時小学六年生で、茅雪と同じ歳にあたる。ませた性格の茅雪とは異なり、引っ込み思案で親に甘えた癖がまだまだ抜けていなかった。刹那のことは覚えていたものの、近寄ってすらこない。むしろブリーチで色を抜いた刹那の髪の毛に怯えて、ビニールボールで攻撃を仕掛けてくるほどにはどちらかというと嫌われている。

 仁奈の頭には刹那以上に婚約という意識は恐らくない。すなわち蔦江の言い分は単なる彼女の妄想に過ぎない。

「……うちが長年蔦江さんにお世話になっていることは分かります。仁奈さんと手を取り合って将来を築くことが両家にとってのより良い未来に繋がることも、分かります。けど、俺」

「あったら良い子だった刹那がそったな風さ考えるようになったのは、誰ががおめに悪ぃごど吹ぎ込んでらがらだべ」

 啖呵を切るような強い言葉が刹那の発言を遮る。刹那は両足の腿につく拳を今一度強く握り直す。

「この間変な噂が立っただろ? 名前も正直出したぐはねぁーが、流生どうぢの町の人間が一緒にいだっていうね」

「……」

「噂になったのは、おめの同級生なんだべ? 今は高校も同じだってね」

 刹那の胸の内の恐怖が一気に膨れ上がる。怜史のことを引き合いに出されるのは予想外だった。否、怜史まで槍玉には上がらないだろうとたかを括っていた。そんな自分の甘い考えを恥じる。勘当した流生の居所を突き止めて、隣町からすら追い払ったこの老婆が、彼と変わりあった存在を見逃すはずがない。

「そいづは元々この町の人間じゃあねぁー。他所者が金払ってこの町さ住んでらだげならどうだってえがった。んだどもね、おめと関わりがあるっていうんだら見過ごすわげには行がねぁーのさ」

「……」

「これ以上、盛谷脅がす人間を増やしちゃわがね。言ってらごどは分がるね?」

「……はい」

 頷きながら刹那の額から汗が落ちる。このままでは怜史に何らかの危害が及ぶと察するのは容易かった。
 なんとかしてそれを免れなければならない。自分の何かを投げ打ってでも、最優先事項たる怜史を守らなければと刹那は頭を働かせた。

「……怜史には、何もしないでいただけませんか」

「なしてだい」

 蔦江の目つきが変わる。途端にニヤリとほくそ笑む。揺らぐ刹那を見て自分の方に追い風が吹くのが分かったのだ。

「あいつは……彼は、俺の本当に大切な親友です。抜けているところはありますが、決して悪い奴じゃありません。人を思いやれる人です」

「わざわざ温情かげでけで、おらに何が利点があるのがい?」

 刹那はもう生唾を何度飲んだか分からなかった。今自分の中で大きな天秤が揺れているような気がする。

――自由でいようね、刹那。お互いに

 怜史の言葉が胸をよぎる。刹那は自分にとっての自由が何かを考えた。盛谷から解放されることが自由か、自分の意思を貫くことが自由か。
 辿り着いた先で、刹那は怜史の言う意味合いと自分のそれは同じになり得ないと至ってしまった。

「……仁奈さんとの件、先日俺が言ってしまったことを撤回させてください。盛谷の『存続』は俺が責任を持って担います」

 刹那は座布団を降りて深々と頭を床まで下げた。藺草の匂いが直接鼻の奥に届く。ぱた、と汗が落ちてすぐに見えなくなる。

「仁奈の婿になって、この家を継ごうって事がい」

「……はい」

 盛谷の、街の手の届かないところで自由に生きる決意をしたはずが、怜史を引き合いに出されれば慌てて撤回する。
 そんな自分の必死さに気付いて、蔦江の見えないところで自嘲した。怜史にだけは見せられないと思う。

 きっとこんなことをしてまで町にある自分の居場所を守られたいとは彼は思わない。これは刹那のエゴだ。報われずとも怜史を自分の身近な場所に留めておきたいという、怜史に向けた刹那からの唯一のしがらみ。

(良いんだ。どうせあいつが気付く日なんて来ねえ)

 刹那が頭を下げてからしばらくして、蔦江は腰を上げた。刹那の頭のすぐ先までやってきて、立ったままに上から声を振りかける。

「その言葉、ゆめゆめお忘れなんねぁーように」

 刹那はゆっくりと顔を上げる。蔦江の笑みは勝ち誇ったものに変わっていた。たった一人の少年を征服できたことに心底満足している、悪魔か魔女か、人ならざる者の微笑みだった。

 刹那は初めて蔦江に対して畏怖以外の、嫌悪という感情を抱いた。

***

 一つ奥の踏切が鳴り始めている。傾く陽射しを背中に刹那は自転車で走った。下宿を始めてから久しくなった道を走るのも迷いはなかった。向かった先には怜史が待っている。

「刹那!」

 怜史の姿が見えて声が聞こえた。ペダルを漕ぐ力が更に増す。

「チャリ止めっから! 走れ!」

 次の電車を逃せば次は一時間後だった。刹那が大声で指示すると怜史はすぐに応えて駅の入り口に向かって走りだす。その後ろへ続くようにカーブして、駐輪場の中に入り込む。降りてすぐに鍵をかけ一目散に走り出す。

「遅い!」

「わり!」

 駅前の階段で足踏みする怜史の元に辿り着くと、足を止めることなくその手を掴んで階段を駆け上がる。
 ホームまでの長い道を二人連なって全速力で走った。

 発射ベルと同時に乗り込むことに成功し、刹那は電車の中で尻餅をついて転んだ。
 祭りに行く人が多いのか、いつもより少し多い乗客たちが刹那達の方を見た。

「大丈夫?」

 怜史がすぐさま繋いだままの手で刹那の身体を起き上がらせようとと引っ張ってくる。自分を見つめる怜史の目があまりにも丸く見開かれているのを見て、刹那は吹き出した。首を傾げる怜史の手をそのまま借りて立ち上がる。

「へーき。勢い良すぎたわ」

「ならいいけど」

「……」

「俺お腹空かせてきたよ。なんと昼から」

「早すぎんだろ……んじゃたらふく食うべ」

「焼きそばとチョコバナナと箸巻きマストなー。あとトルネードポテトも」

「はいはい。全部食おうな」

 気の抜けた怜史との会話が刹那をゆっくりと平常心に戻していく。心臓はまだ少し痛い。蔦江との会話がどれほど自分に圧迫感を与えていたかを思い知らされる。いつもと変わらない怜史の顔に安心して、刹那は少し泣きそうだった。それを悟られないように窓に視線を移して動き出す風景を眺める。

「……刹那?」

「……なんでもね、」

 さっきまでは悪夢だったと考える。全て忘れて祭りに心を寄せよう。握った怜史の手を離すことができないままに決心をする。

 これから刹那は本物の夢を見る。未来永劫手の届かない、けれどもこの瞬間だけは自分のものだということができる、この親友との忘れ難い時間を。
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