【完結】僕らにはもう辿り着けない場所がある

松莉あげみ

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夏の宵編

第34話

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 怜史と刹那は流生の車に乗り込んだ。二人並んで後部座席につきシートベルトを閉めると、流生は車を発進させる。そのすぐ隣ではまだ蔦江と恵がうずくまっていた。

 車は山を下り町の中心部へと向かっていく。車に乗ってからも怜史は顔を青くしながら、刹那が渡してきたハンカチ越しに息を吸っていた。

 頭の中では様々なことが巡っていた。流生に聞きたいことが山ほどあった。だがそれを言葉にするにはまだこの状況を受け入れられていない。
 そんな怜史に代わって、刹那がゆっくりとフロントミラーを見据えた。

「……なあ、あの人たちに渡したんだ? ……なんであんたこの町にいるんだ?」

 刹那の声も少し震えている。怜史の右手を左手で掴みながら、右手は固く結んで膝の上に乗せていた。

 流生が鏡越しに刹那を見つめ返す。

「イズの新盆くらいは良いだろ。血筋としては兄貴なんだ……渡したものは、本当に出琉のスマホ」

「それを見てなんであんな風に……」

「イズが僕に送ってた本音を見せただけだよ」

「本音……?」

 流生は助手席に置いたバッグから自分のスマートフォンを後手に差し出してくる。刹那が恐る恐る手を伸ばして受け取る。

「……パスワード」

「……0607」

 怜史は肩をぴくりと震わせた。偶然か、それとも本当に意図してやっているのか、四桁のパスワードは怜史の誕生日と一致していた。

「ちっ……なんだそりゃ」

 同じことに気付いた刹那が、眉を顰めながら無理やり笑顔を浮かべる。乱雑にボタンをタップすると黒背景の味気ないホーム画面が現れた。
 メッセージアプリを開いて出琉の名前を探す。去年の十一月で止まったトーク画面が刹那の目を照らす。

『家出たい』

『母ちゃんとばあちゃんと暮らすのもう無理だ』

『なんで兄ちゃんにあそこまでしないといけないんだ?』

『連れてってくれよ兄ちゃん。俺は兄ちゃんの味方だよ。母ちゃんもばあちゃんも、盛谷の家も無くなったっていいよ』

『助けられなくてごめん』

『助けて』

 その悲痛な叫びに刹那は息を呑む。怜史は画面を見たがって刹那に目配せを送るが、刹那はすぐに画面を伏せてしまう。

「それくらい見たら、あの人たちもいい加減分かるだろと思ってね。本当はただ花を手向けたら帰るつもりだったんだけどね。君達に迷惑が及んでいるのを見て、みすみす逃げるほど人間性は終わってないつもりだったから」

「……よく持ってたな、今日。あのスマホ」

「いつも持ってたよ。いつかは復讐するつもりだったから……」

 穏やかな顔が不穏な声を漏らす。刹那は唇を噛み締めた。
 そのうちに雨が降り出した。フロントガラスを雨粒が叩いていく。重い空気を乾かそうとしてか、流生が冷房を強める。

「もう一ついいか」

「もちろん」

「……あんた今まで、どこにいたんだよ」

「……東京。よその大学に編入したんだ」

「なんで……それを怜史に言ってやらねえんだ? こいつが春からどんな思いで……っ」

「……それを、刹那が聞いてくる必要がある?」

「怜史に聞かせるために聞いてるんだろ」

 刹那は冷静に振る舞おうとしているが、言葉の端々に怒りが滲んでいる。怜史と繋ぐ手も強い力がかけられて、怜史の指先を窮屈に締め付けた。

 怜史ははっとしてようやく顔を上げる。肩で息をしながら刹那を見据えて、首を横に振った。

「せつな、いいから……」

「……良くねえって。怜史だって知りたいはずだ」

「……」

 刹那の言葉を否定しきれず、怜史は運転席の流生の背中を見つめる。フロントミラーが視界に映った一瞬、同じく怜史を見ていた流生と目線があった。

 流生は静かにため息をつく。その音が怜史の心臓まで響いてくる。

「……怜史に言わなきゃいけなかったのは、最後に会って話した時に全部伝えてある。それ以上は言えなかった。盛谷の家のことを考えたら、怜史を自分に近寄らせるのは良くない。離れたほうがいい……刹那、君だって同じように考えるだろう?」

「……」

「……だから、もう僕に縋らないほうがいい。一方的にいなくなったことは、悪かったと思ってる」

「……うん。分かってる」

 怜史は喉を振り絞って、掠れた声で流生に相槌を打った。

「俺に迷惑かけたくないって、俺に傷ついてほしくないって……思ってくれてたんだって分かってる。流生は、優しい人だから、俺ちゃんと分かってる」

「……」

 油断すれば泣いてしまいそうだった。だが今は泣いてはいけないと自分を奮い立たせる。あの日泣き崩れて言えなかったことを言わなければならない。これが最後で、決別だからと、怜史は刹那の手を離して真っ直ぐ流生と向き合った。

「ずっと心配してたよ……本当に大丈夫かなって。二度と会えないんじゃないかって。でも今日会えた。そうしたら俺やっと分かったんだ。俺流生がどこか遠い場所でも元気にしてくれてたらそれで良いんだって。……俺、流生に幸せになってほしいんだ」

 自分が隣にいられなくても、と一番本音を乗せた部分だけ伏せる。車が赤信号で止まると流生が一瞬振り返った。少し目を見開いて、そして曖昧な笑みを浮かべる。

「……俺はもう、大丈夫だから」

「……そう、か」

 流生の瞳が一瞬揺らぐ。それに怜史が気付くより早く、流生は進行方向を向き直した。信号が青に変わり車は再び発進する。

 怜史はもうそれ以上何も言わず、離した刹那の手を握り直す。戸惑う刹那に怜史は静かに微笑みかけた。

***

「ここで良い?」

「うん」

 流生は駅前に車を停車させ、怜史と刹那を下ろした。二人が運転席前のドアに並ぶと、流生は困った顔で窓を開けてきた。

「……あんた、もう東京戻んの」

「うん。この後ごたつくと思うけどよろしく」

「まあ予想の範疇だわ……けど、そう悪くはなんねえだろ。大好きな孫にあそこまで言われれば、流石に頭冷やすんじゃねえかな」

「どうかな? まあ祈ってるよ」

「……ありがとな、助けられた」

「お礼を言われることじゃないよ。僕が助けたかったのは刹那じゃないし」

 その微笑みには似つかない冷たく突き放す声に、刹那は面食らった。

「……ほんとそういうところだぞ、あんた」

「お互い様だよ……怜史」

 流生に名前を呼ばれて、怜史は思わず背筋を伸ばした。緊張を全面に出したその姿に、流生は静かに微笑む。

「――元気で」

 怜史の足元が揺らぐ。それでもなんとか堪えた。もう流生のことで動揺したりしない。渦を巻いていた頭の中はいつの間にかぴんと張り詰めた水のように整っていた。怜史はただまっすぐに立って、流生の言葉に頷いた。

 流生は満足そうに笑うと窓を閉めた。スモークガラスで流生の姿が曖昧なシルエットだけになる。
 刹那に手を引かれ、怜史は流生の車から一歩下がった。そのまま前方に進んで、駅の外へと旅立っていく。
 車が完全に視界から消えるまで、怜史は視線を送り続けた。

「……良かったのか、本当に」

「……どうして?」

「まだ、好きな気持ちあったんだろ」

「……」

「いいよ別に、遠慮しなくたって」

「違うよ、刹那」

 刹那が首をすくめて笑うのを、怜史は懸命に首を横に振った。

「俺、刹那に言うことあるんだ」

「何だ?」

「……こっち」

 怜史は辺りを見回した。人気のないこじんまりした駅の中でも、もっと静かな場所を探した。
 そして目星をつけた駐輪場の奥の木陰へと、刹那の手を引いて歩いた。

 いくつもの木が林のように連なり、木の葉を下り重ねた下に刹那と二人で立つ。その時、木々の隙間を抜けて雨粒が降りてきた。肝心なところで雨が降る、流生の雨男が映ったのかと一瞬思い付いてはすぐに忘れた。

「……どうした?」

 刹那の表情が曇っている。このままではいけないと、怜史はそっと自分の両手を左右に広げた。

 そのままただ黙って、刹那を抱きしめにいく。

「――怜、史?」

 名前を呼ばれて一層、回した腕に力を込める。刹那の肩に顎を乗せて、今触れられる限りを尽くして懸命に自分の体温を伝えようとした。

「――好き、」

「……は?」

「俺、刹那が好きだ。出琉さんでも流生でもなく、刹那のことが好き……夏祭りの日に言えなくてごめん」

「……」

 刹那は呆然として口を閉ざす。そしてゆっくりと両手を持ち上げて、怜史の背中へと回してきた。

「本気、で……言ってんのか……?」

「本気。嘘じゃない……刹那が信じてくれるまで何回でも言うよ。俺は刹那のことが好き」

「……」

 刹那の震える息が怜史の耳に届く。その顔を見ようと顔を上げる。刹那は奥歯を噛み締めて、何かを堪えるように怜史を見下ろした。
 何とか笑みを作ろうとしているが、同時に今にも泣き出しそうなほどに眉を寄せている。まさに今、長い緊張から解き放たれて安堵を噛み締めようとするその顔が、怜史の胸に強く突き刺さった。

「ごめんね、刹那……今までごめんね……」

「……何謝ってんだ」

「これから刹那がくれた分、俺も返すよ。だって刹那が本当に好きだから……っ」

「あーもう、何回も言うな……恥ずい……」

「だって、」

「いいから」

 刹那はまだ『好き』を言い足りない怜史の顎を掴む。刹那がどうしたいのかが分かって、怜史はすぐに目を瞑る。耳には刹那が困ったように笑う声が聞こえてきた。

「ほんっと、お前さ……、そういうところも、全部好きだよ」

 次の瞬間には、刹那はもう怜史の唇に触れていた。甘美なあの夜とは違う、誓いを込めたようなキスを、怜史も静かに受け入れる。

 ぱらぱらと降る雨が二人の頬を濡らす。その雨が降ったのはほんの一時のことで、二人が口付けを終えるよりも早く、この町を去っていった。
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